第8章 東アジア世界の展開とモンゴル帝国

アジア諸地域の自立化と宋
─ 五代十国から南宋へ、東アジア世界の再編

唐が滅亡した後、中国では五代十国の分裂時代を経て、宋が再統一を果たしました。
宋は科挙によって選ばれた文人官僚が政治をとりおこなう文治主義のもと、経済的にも大きな発展をとげます。しかし北方には契丹(遼)・女真(金)など自立した勢力が台頭し、宋はその圧力にさらされ続けました。
この記事では、宋代の政治・経済・文化と、周辺諸地域の自立化の動きを学びます。

1五代十国の分裂と宋の統一

唐滅亡後の分裂

907年に唐が滅亡すると、中国は約半世紀にわたる分裂時代に入りました。華北では後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝が次々と交替し(五代)、華南の各地には10余りの地方政権が並立しました(十国)。これを合わせて五代十国時代と呼びます。

この五代十国の時代は社会の一大変動期であり、六朝以来の門閥貴族にかわって、節度使や武将たちが権力をもつようになりました。華北では軍事力がものをいう社会が続き、皇帝の権威は弱体化していました。

趙匡胤による宋の建国

960年、五代の武将から身をおこした趙匡胤(太祖)が皇帝に即位し、(北宋)を建てました。趙匡胤は大運河の物資集散の要地である開封(河南省)に都を置き、中国の主要部を統一しました。

第2代太宗のときまでに国内支配体制を整え、全国をほぼ再統一しました。

文治主義の確立

唐末から五代の時代には武人が権力を握ったことから、宋は節度使の実権を奪って皇帝の親衛軍を強化し、科挙によって選ばれた文人官僚が政治をとりおこなうようにしました(文治主義)。結果として中央政府の力は強まりましたが、多くの官僚や軍隊を維持するための経費は、国家の財政を圧迫しました。

宋代になると官吏への道は科挙にほぼ限定されるようになりました。最終試験は皇帝みずからが試験官となって宮中でおこなわれ(殿試)、皇帝と官僚の結びつきが強化されました。

発展:宋代科挙の特徴 ─ 唐代との比較

宋代の科挙は唐代と比べて大きく変化しました。唐代の合格者数が少数に限られていたのに対し、宋代には合格者数が大幅に増加しました。また、唐代にはなかった殿試(皇帝が最終試験官を務める試験)が導入され、合格者は皇帝の「門生」となって皇帝権力を直接支える官僚となりました。こうして科挙制度は、皇帝独裁体制を支える重要な柱となったのです。

宋はなぜ文治主義を採用したのか
唐末〜五代に節度使や武将が軍事力で政権を左右した
武人の横暴が相次ぎ、王朝が短命に終わる不安定な時代が続いた
宋の太祖(趙匡胤)が節度使の実権を奪い、皇帝の親衛軍を強化
科挙によって選ばれた文人官僚が政治をとりおこなう文治主義を確立
ここが問われる: 宋の文治主義の内容と背景 理由・背景

①背景:唐末〜五代に節度使や武将が軍事力で政権を左右した
②政策:節度使の実権を奪い、皇帝の親衛軍を強化
科挙によって選ばれた文人官僚が政治をとりおこなう体制に
殿試(皇帝みずから試験官となる最終試験)で皇帝と官僚の結びつきが強化

2北方民族の台頭と宋の対外関係

遼(契丹)

10世紀初め、モンゴル高原東部を中心にモンゴル系の契丹(キタイ)が勢力をのばし、耶律阿保機(太祖)が有力な国家をつくりました。のちに国号をと改めます。遼は華北の燕雲十六州を獲得し、狩猟民・遊牧民を部族制によって、農耕民を州県制によっておさめる二重統治体制をしきました。また、漢字をもとにして契丹文字を生み出しました。

燕雲十六州の帰属をめぐって緊張関係にあった契丹とのあいだでは、宋が毎年多額の銀や絹を贈る内容の和議(澶淵の盟)を結びました。これは事実上の歳幣であり、宋の財政を圧迫する一因となりました。

西夏(タングート)

黄河上流域の乾燥地帯では、チベット系の遊牧民族タングートが自立して、1038年李元昊のもとで西夏を建てました。西夏は東西交易の要衝をおさえ、漢字の構造をまねた独自の西夏文字をつくりました。宋は西夏にも毎年銀や絹・茶を贈ることで講和しました。

宋が遼・西夏に歳幣を贈り続けたのはなぜか
宋は文治主義を採用し、軍事力が相対的に弱かった
近隣諸国の成長に対し、軍事的に劣勢だった
戦争よりも歳幣(銀・絹の贈与)で平和を維持するほうが合理的と判断
結果的に財政を圧迫し、王安石の改革が求められる背景となった
発展:西遼(カラキタイ)の建国

金に滅ぼされた遼の王族耶律大石は、1132年に中央アジアで西遼(カラキタイ)を建てました。西遼は仏教・マニ教など多様な宗教を保護した多文化国家で、中央アジアに残存した遊牧国家として1世紀以上存続しました。

王安石の新法

近隣諸国の成長や文治重視の姿勢は、宋の対外関係に影響を与えました。歳幣の費用も財政上の負担となるなか、11世紀後半に宰相となった王安石は、財政再建と富国強兵をめざして、農民や中小商工業者の保護・育成、治安維持や国境防備の民間委託などをおもな内容とする新法を実施しましたが、地主や大商人の反発を受けました。のち官僚たちは新法党と新法に反対する旧法党にわかれて激しく対立し、政治の混乱を引きおこしました。

金(女真)の台頭と靖康の変

12世紀初め、遼の支配下にあった中国東北部のツングース系の女真(ジュシェン)から完顔阿骨打(太祖)が現れ、遼から自立してを建てました(1115年)。金は遼の二重統治体制を受けつぎ、華北を確保したのち燕京(現在の北京)に遷都し、漢字と契丹文字を参考にした独自の女真文字をつくるなど、民族固有の文化の維持をはかりました。金が遼を滅ぼしたのち、宋と金とのあいだで争いがおこり、宋は都の開封を占領されました。

発展:金の猛安・謀克制

金は女真人の軍事・行政組織として猛安・謀克制をしきました。300戸を1謀克(ムウクン)とし、10謀克を1猛安(マンアン)として編制する組織で、モンゴル帝国の千戸制と並び称される独自の軍事・社会制度です。

上皇の徽宗と皇帝の欽宗は捕虜となりました(靖康の変)。北宋はここに滅亡しました。

南宋の成立

宋は江南に逃れた皇帝の弟(高宗)によって存続し(南宋)、臨安(現在の杭州)に都を定めました。その後の主戦派と和平派との対立の末、和平派の宰相秦檜の主導のもとで、金に臣下の礼をとって毎年銀や絹を贈ることを条件に和議を結び、淮河を国境としました。

ここが問われる: 北方民族と宋の関係 比較
国名民族建国者宋との関係
契丹(キタイ)耶律阿保機澶淵の盟で和平。宋が毎年銀や絹を贈る
西夏タングート李元昊宋が毎年銀や絹・茶を贈り講和
女真(ジュシェン)完顔阿骨打靖康の変で北宋を滅ぼす。南宋は臣下の礼

タイムライン:唐滅亡から南宋成立まで

五代十国
北宋
南宋
907 唐滅亡 960 宋建国 1127 靖康の変 1279 南宋滅亡

3宋代の経済発展

農業革命

江南の開発は臨安を本拠とした南宋の時代にさらに進みました。低湿地の干拓や、生長が早くひでりにも強い占城稲(ベトナム方面から伝来)の導入などによって稲の生産量が増大し、長江下流域は穀倉地帯となりました。「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」という言葉は、こうした状況を表現したものです。陶磁器や茶・絹の生産も拡大し、商品を運ぶ手段として水運が大いに発達しました。

商業と都市の発展

開封に都を定めた北宋は、大規模になった民間の商業活動をおもな財源としました。専売とされた塩・茶のほか、米や絹などを扱う大商人が現れ、(商人の同業組合)・(手工業者の同業組合)も生まれました。商品の売買は、唐代までは都市の内部に設けられたでだけ許されていましたが、宋代にはこの規制がくずれ、城外には定期市場(草市)もあらわれ、地方の交通の要所にはや市とよばれる新興都市も生まれました。

宋代には商業の活性化にともない、銅銭が大量に発行されました。遠距離間の取引に便利な手形は唐代に現れていましたが、宋ではこれが紙幣としても利用されるようになりました(交子会子)。銅銭は日宋貿易を介して日本にももちだされ、日本の貨幣経済の進展をうながしました。

新興地主層と士大夫

唐末以降の経済発展によって富裕になった人々は、農地を買い集めて地主となり、小作人(佃戸)に耕作させました。こうした新興地主層は形勢戸と呼ばれ、儒学を学んで科挙官僚(士大夫)を輩出し、地域社会の指導者となりました。

海上交易と市舶司

中国商人の海上進出も活発化し、絹や陶磁器・銅銭などが輸出されました。宋は市舶司を広州・泉州・明州(現在の寧波)などの港に広くおいて、海上交易の管理につとめました。

発展:開封の都市構造と夜市

北宋の都開封は、外城・内城・宮城の三重城壁をもつ大都市で、人口は60〜70万人とも伝えられます。夜間も商業活動が許され(夜市)、当時の繁栄の様子は北宋の孟元老が著した『東京夢華録』に詳しく記されています。唐代に厳しく区画された「坊・市」の制度とは異なり、街路沿いに商店が立ち並ぶ開放的な都市空間が広がっていました。

発展:交子はなぜ四川で生まれたのか

四川地方は銅の産出が少なく、代わりに鉄銭が流通していました。鉄銭は重くてかさばるため、大量の取引には不便でした。そこで四川の商人たちが手形(預かり証)を発行して取引に用い、それが紙幣(交子)へと発展しました。のちに北宋政府がこれを公認し、官営の交子が発行されるようになりました。

ここが問われる: 宋代の経済発展 内容・特徴

①農業:生長が早くひでりにも強い占城稲の導入で稲の生産量が増大
②社会:新興地主層の形勢戸から科挙官僚(士大夫)が輩出
③商業:唐代の市の規制がくずれ、の同業組合が成立。・市(新興都市)も出現
④紙幣:手形から発展した交子会子が紙幣として流通
⑤海上貿易:市舶司が広州・泉州・明州などに設置
⑥銅銭が日宋貿易で日本に流入し、貨幣経済の進展をうながした

4宋代の文化

朱子学(宋学)

儒学では、万物の生成や人間の本性を論理的に追究する宋学が、北宋の周敦頤らによっておこされました。宋学を大成し、正統としての地位を得た南宋の朱熹(朱子)の学問(朱子学)は、君臣上下の秩序を絶対視する大義名分論を唱え、儒学の経典として四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視しました。また、朱子はきびしい国際情勢に対応して、周辺諸民族に対する中華意識の優位論を展開しました。朱子学はのちに朝鮮や日本にも多大な影響を与えました。

宋学が大きな思想体系を築いた背景には、みずからの内面をきびしくかえりみる禅宗の教えや、道教の宇宙論との関わりがありました。中国独特の仏教である禅宗は、宋代に士大夫の支持を受け、12世紀には日本にも伝えられて武士のあいだに普及しました。また金の支配下の華北では、儒・仏・道の調和を説く全真教が開かれ、道教の革新をとなえました。

客観的な事物の理を追究する朱子に対して、陸九淵(陸象山)は心(主体性)の確立を主張しました。実践を重視するその思想は、のちの明代の王陽明による陽明学に影響を与えました。

歴史・文学・芸能

歴史学では、北宋の司馬光が歴史のうえから大義名分を説き、編年体の通史『資治通鑑』を著しました。

文学では、散文がさかんとなり、欧陽脩王安石蘇軾(蘇東坡)らの名文家が輩出しました。韻文では、唐代の詩に対して、民謡から発展した叙情的なが流行しました。民間では、一種の歌劇である雑劇がさかんとなりました。

科学技術の発達

科学技術も発達しました。五代以来の木版印刷の技術はさらに発展して普及し、大量の書物が出版されました。また活版印刷術(活字による印刷方法)も発明されました。火薬羅針盤(磁針)も実用化され、これらの技術はムスリム商人を介して西方へ伝えられました。

絵画と陶磁器

絵画では、宮廷の画院を中心に写実的で装飾性の強い院体画(北宗画)が成立し、文人や禅僧の間では水墨画の手法による文人画(南宗画)が発展しました。単色で簡素な造形の白磁や青磁は宋代の精神的・理知的な傾向を代表するものであり、海外でも好まれて重要な輸出品にもなりました。

発展:「陶磁の道」と景徳鎮

宋代から元代にかけて陶磁器は中国最大の輸出品となり、海上交易路は「陶磁の道(セラミック=ロード)」とも呼ばれました。なかでも江西省の景徳鎮は、元代に西方伝来の顔料(コバルト)を使って白地に青色の模様を浮かべる青花磁器(染付)を生産し、その後東南アジア・中東・アフリカから東アジア全域へと大量に輸出されました。

ここが問われる: 宋代の文化 内容・特徴

宋学周敦頤らがおこし、朱熹が大成(朱子学)。大義名分論。四書を重視
禅宗が士大夫の支持を受け日本にも伝播。全真教が金治下の華北で成立
陸九淵:心(主体性)の確立を主張 → 明代の陽明学に影響
④歴史:司馬光が編年体の通史『資治通鑑』を著す
⑤文学:散文で欧陽脩蘇軾ら。韻文では叙情的なが流行。民間では雑劇
⑥技術:火薬羅針盤の実用化、木版印刷の発展、活版印刷術の発明
⑦美術:院体画(北宗画)と文人画(南宗画)、白磁・青磁

5周辺諸地域の動向 ─ 東アジア世界の多極化

朝鮮 ─ 高麗

朝鮮半島では、918年に王建高麗を建て、開城を都とし、936年には朝鮮半島を再統一しました。高麗は五代の各王朝、ついで宋の冊封を受け、科挙を採用するとともに唐・宋の制度を参考に官僚制を整備し、仏教を国教として社会の安定に努めました。大蔵経の刊行高麗青磁の開発など、独自の文化を発展させました。

日本 ─ 平安から鎌倉へ

平安時代の日本では、中国文化の基礎のうえに日本風の特色が加味され、貴族政治のもと、仮名文字や大和絵に代表される国風文化が栄えました。金が宋と争った12世紀は、日本でも武士がその地位を高めて鎌倉幕府を建てるなど、東アジアにおいて武人の影響力が拡大した時期でした。日宋貿易が盛んに行われ、宋銭(銅銭)が日本に大量に流入して貨幣経済の発展を促しました。

ベトナム ─ 大越国

ベトナムでも唐からの自立の動きが強まり、11世紀に入ると、昇竜(ハノイ)を都とする大越李朝)が建国され、宋の軍事介入を撃退しました。大越は仏教や儒学を導入し、科挙も導入するなど、中国の制度を取り入れつつも独自の国家として発展しました。

ここが問われる: 10〜12世紀の東アジア諸地域 比較
地域国名建国者/出来事特徴
朝鮮高麗王建(918年)科挙の採用、仏教を国教、高麗青磁・大蔵経
日本鎌倉幕府12世紀末武人の影響力拡大、日宋貿易で宋銭流入
ベトナム大越国(李朝)11世紀宋の軍事介入を撃退、仏教・儒学を導入

6俯瞰する ─ 宋代の東アジアを鳥の目で見る

10〜13世紀の東アジアは、唐の統一的な秩序が崩壊し、宋・遼・西夏・金・高麗・大越・日本など、複数の独立した国家が並立する多極的な世界でした。宋は文治主義のもとで政治的安定を実現し、経済・文化では空前の繁栄をとげましたが、軍事的には北方民族に圧倒される構図が続きました。この時代に発展した交子・火薬・羅針盤・印刷術・朱子学などは、のちの東アジア世界やヨーロッパにまで影響を広げていくことになります。

この記事と他の章のつながり

  • 唐の崩壊 → 2-2「秦・漢と東アジア世界の形成」〜2-4「東アジア文化圏の形成」:唐代に確立した東アジアの国際秩序(冊封体制)が崩壊し、各地域が自立化していく過程が本記事の前提です。
  • モンゴル帝国 → 8-2「モンゴル帝国」:南宋・金・西夏・高麗はいずれもモンゴルに征服されます。宋代の経済・文化の蓄積はモンゴル帝国を通じてユーラシア全体に広がりました。
  • イスラーム世界との交易 → 6-1「イスラーム世界の拡大」:宋代の南海交易はアラビア商人との交易を通じてイスラーム世界と結びつきました。市舶司の設置がその制度的裏付けです。
  • ヨーロッパへの技術伝播 → 7-4「西ヨーロッパの中世文化」:火薬・羅針盤・印刷術は、ムスリム商人を介してヨーロッパに伝わり、大航海時代や宗教改革の原動力となりました。
歴史総合とのつながり

宋代に実用化された火薬・羅針盤や、発展した印刷技術は、ムスリム商人を介してのちにヨーロッパに伝わり、大航海時代・宗教改革・火器の発達といった近代の幕開けを準備しました。「歴史総合」で扱う近代化の前提として、宋代の技術革新が世界史的な意義を持つことを押さえておくとよいでしょう。

7まとめ

  • 唐の滅亡後、五代十国の分裂を経て、960年に趙匡胤を建てた。
  • 宋は節度使の実権を奪い、科挙によって選ばれた文人官僚が政治をとりおこなう文治主義を採用した。殿試で皇帝と官僚の結びつきが強化された。
  • (契丹)との間で澶淵の盟が結ばれ、宋は毎年銀や絹を贈った。西夏(タングート)にも銀や絹・茶を贈って講和した。
  • (女真)が靖康の変(1126〜27年)で北宋を滅ぼし、南宋が臨安を都として成立した。
  • 農業では生長が早くひでりにも強い占城稲の導入で稲の生産量が増大。新興地主層の形勢戸から士大夫が輩出された。手形から発展した紙幣交子会子が流通。市舶司が広州・泉州・明州などに設置された。
  • 周敦頤らがおこした宋学朱熹が大成し(朱子学)、大義名分論を説いた。司馬光は紀年体の通史『資治通鑑』を著した。陸九淵の思想は陽明学の源流となった。
  • 火薬羅針盤が実用化され、木版印刷が発展し活版印刷術も発明された。民間では雑劇がさかんとなった。これらの技術はムスリム商人を介して西方へ伝えられた。
  • 周辺では高麗(朝鮮)が仏教を国教とし、日本では武人の影響力が拡大、大越李朝、ベトナム)は宋の軍事介入を撃退して自立した。
この記事を100字で要約すると

唐滅亡後の分裂を経て宋が中国を再統一し、科挙による文人官僚の文治主義のもと経済・文化が発展した。一方、遼・西夏・金など北方民族が自立し、靖康の変で南宋に後退。周辺では高麗・大越も独自の国家を形成し、東アジアは多極化の時代に入った。

8穴埋め・一問一答

Q1. 960年に宋を建国した人物は誰か。

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趙匡胤(太祖)。五代の武将から身をおこして皇帝に即位し、文治主義を採用しました。

Q2. 1005年に宋と遼の間で結ばれた和平の盟約を何と呼ぶか。

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澶淵の盟。宋が遼に毎年銀10万両・絹20万匹の歳幣を贈ることで和平が成立しました。

Q3. 唐代の手形から発展し、宋代に紙幣として利用されるようになったものを何と呼ぶか。

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交子会子。遠距離間の取引に便利な手形は唐代に現れていましたが、宋ではこれが紙幣としても利用されるようになりました。

Q4. 南宋の朱熹が大成した、大義名分論を説く儒学の学派を何と呼ぶか。

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朱子学。朱熹は宋学を大成し、君臣上下の秩序を絶対視する大義名分論を唱えました。四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視し、のちに朝鮮や日本にも多大な影響を与えました。

9アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。

A 基礎レベル

8-1-1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。

唐の滅亡後、約半世紀にわたる( ア )の分裂時代を経て、960年に( イ )が宋を建てた。宋は節度使の兵権を回収し、( ウ )を整備して文官による統治を優先する文治主義を採用した。宋と契丹の遼は( エ )(1005年)で和平を結んだ。1126〜27年に女真の金が北宋を滅ぼした事件を( オ )と呼ぶ。

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解答

ア:五代十国 イ:趙匡胤 ウ:科挙 エ:澶淵の盟 オ:靖康の変

解説

宋の建国から北宋滅亡までの基本事項を問う問題です。唐滅亡(907年)→五代十国→宋の建国(960年)→澶淵の盟→靖康の変→南宋成立(1127年)という流れを時系列で整理しておきましょう。文治主義の具体的な内容として、節度使の実権を奪い、科挙によって選ばれた文人官僚が政治をとりおこなうようにしたことをセットで覚えることが重要です。

B 標準レベル

8-1-2 B 標準 正誤

次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。

  • (1) 宋代にベトナムから導入された占城稲は、長江流域での二期作を可能にした。
  • (2) 宋代に紙幣として利用されるようになった会子は、北宋の時代に生まれた。
  • (3) 朱子学を大成した朱熹は、北宋の人物である。
  • (4) 遼は遊牧民と農耕民を統治するために、北面官・南面官の二重統治体制をとった。
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解答

(1) ○ (2) ×「会子」→「交子」。会子は南宋の紙幣。 (3) ×「北宋」→「南宋」 (4) ○

解説

(2)について:交子は北宋で、会子はおもに南宋で紙幣として流通しました。両者を混同しないことが重要です。(3)について:朱熹は南宋の人物です。朱子学が宋学を大成し、のちに儒学の正統とされたことを押さえましょう。

C 発展レベル

8-1-3 C 発展 論述

宋が文治主義を採用した背景とその結果について、「節度使」「科挙」「歳幣」の語句を用いて120字以内で説明せよ。

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解答例

唐末から五代にかけて節度使が強大な軍事力で政権を左右したため、宋は節度使の実権を奪い、科挙によって選ばれた文人官僚が政治をとりおこなう文治主義を確立した。しかし軍事力の弱体化を招き、遼や西夏に歳幣を贈って和平を維持せざるをえなかった。(117字)

解説

この問題は、文治主義の「原因→内容→結果」を一つの因果関係として整理するものです。背景として五代の節度使の横暴を述べ、内容として兵権回収と科挙整備を挙げ、結果として軍事力の弱体化と歳幣外交に触れる必要があります。3つの指定語句を因果の流れのなかに自然に組み込みましょう。

採点ポイント
  • 五代に節度使や武将が権力を握ったことが文治主義採用の背景であることに言及
  • 科挙によって選ばれた文人官僚の登用が文治主義の柱であることを述べている
  • 文治主義の結果として軍事力が弱体化し、歳幣外交に至ったことに触れている
  • 3つの指定語句がすべて使われている