第8章 東アジア世界の展開とモンゴル帝国

モンゴルの大帝国
─ ユーラシアを結んだ遊牧国家

13世紀、モンゴル高原から一人の英雄が現れ、またたく間にユーラシア大陸の大半を支配する空前の大帝国を築きました。
チンギス=カンに始まるモンゴル帝国は、ユーラシア東西の統合を実現し、ヒト・モノ・情報の移動・流通が活発化した時代を生み出します。
この記事では、モンゴル帝国の成立から元の衰退・明の建国までの流れを学びます。

1チンギス=カンの統一とモンゴル帝国の建設

モンゴル高原の統一

12世紀初め、中央ユーラシア東部でキタイ(契丹、遼)が滅亡し、その一族が西方の中央アジアに逃れてカラキタイ(西遼)を建国すると、モンゴル高原では諸勢力のあいだに再編の動きが強まりました。やがてモンゴル高原東北部で頭角を現したテムジンは、1206年のクリルタイチンギス=カン(ハン)として即位し、モンゴル系・トルコ系の諸部族を統合して大モンゴル国を建てました。

チンギス=カンは、軍事・行政組織として、配下の遊牧民を1000戸単位に編制した千戸制をしき、みずからの親衛隊を含めて強力な騎馬軍団を整えました。

周辺諸国への征服

チンギス=カンは、この軍団を率いて東方のを圧倒したのち、ムスリム商人らの協力を得て西方遠征に出発し、中央アジア・イラン方面のトルコ系国家ホラズム=シャー朝を滅ぼしました。

チンギス=カンは遠征帰還後に西夏を滅ぼすと、まもなく死去しました。しかし、彼の子や孫たちは相互に権力を争いながらも征服戦争を継続しました。

チンギス=カンはなぜ短期間でモンゴル高原を統一できたのか
モンゴル高原では遊牧諸部族が分裂・抗争を繰り返していた
テムジンは敵対部族の有能な人材を能力主義で登用し、味方を増やした
千戸制で配下の遊牧民を1000戸単位に編制し、親衛隊を含む強力な騎馬軍団を編成
1206年のクリルタイでチンギス=カンとして即位、大モンゴル国が成立
ポイント:千戸制
  • 配下の遊牧民を1000戸単位に編制する軍事・行政組織
  • チンギス=カンの親衛隊を含めて強力な騎馬軍団を編成
  • 戦時には軍事組織として、平時には行政・徴税組織として機能
ここが問われる: チンギス=カンとモンゴル帝国の成立 出来事の流れ

1206年:クリルタイでチンギス=カンとして即位、大モンゴル国成立
千戸制で遊牧民を1000戸単位に編制、親衛隊を含む騎馬軍団を編成
ホラズム=シャー朝を滅ぼす(ムスリム商人の協力を得て西方遠征)
西夏を滅ぼしたのち死去

2モンゴルの軍事・行政システム

騎馬軍団の機動力

モンゴル軍の最大の強みは、遊牧民ならではの騎馬戦術でした。幼少期から馬に乗り弓を射る訓練を受けたモンゴルの戦士たちは、一人で数頭の馬を連れて遠征し、馬を乗り換えながら驚異的な速度で移動しました。偽装退却で敵をおびき出してから包囲する戦術は、定住民の軍隊にとって対応が極めて困難でした。

ジャムチ(駅伝制)

モンゴル帝国全土をおおう駅伝制(モンゴル語でジャムチ)は、帝国の広大な領土を統治するための通信・交通網です。幹線道路に沿って駅を設け、周辺の住民から馬・食料などを提供させました。

モンゴルの王族や官庁から許可を得て牌子(パイザ、通行証)を受けた者は、各駅で宿泊・食事・馬の交換などの便宜を与えられました。この制度は、のちの元代にも継承され、東西交通の基盤となりました。

発展:ジャムチはなぜ「帝国の神経」と呼ばれるのか

ジャムチは単なる郵便制度ではなく、帝国統治の要でした。ハンの勅令や各地の情報がこのネットワークを通じて集まり、帝国の中枢が各地の状況を把握できたのです。この仕組みがなければ、モンゴル高原から中国・中央アジア・イランにまたがる広大な帝国を一つの政権として維持することは不可能だったでしょう。

ここが問われる: モンゴル帝国の統治の仕組み 内容・特徴

千戸制:遊牧民を1000戸単位に編制する軍事・行政組織
駅伝制(ジャムチ):幹線道路に沿って駅を設け、周辺住民から馬・食料を提供させた
牌子(パイザ):王族や官庁の許可を得た者に与えられた通行証。各駅で便宜を受けられた

3西方遠征と4ハン国の成立

オゴデイと帝国の拡大

カアンを称したオゴデイは、1234年にを滅ぼして華北を領有し、カラコルムに都を築きました。

バトゥの西征とワールシュタットの戦い

一方、バトゥは西進してロシアや東ヨーロッパを制圧しました。モンゴル軍は1241年のワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破り、同時にハンガリーにも侵攻しましたが、オゴデイ死去の報告を受けて中央ユーラシアの草原地帯に引き揚げました。バトゥは中央ユーラシア西部にキプチャク=ハン国ジョチ=ウルス)を建てました。

発展:ジョチ=ウルスのトルコ化プロセス

キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)では、支配層のモンゴル人が、配下に組み込んだキプチャクなどトルコ系騎馬遊牧民と融合し、次第にトルコ語を使用しながらもモンゴル人としての意識を保つという独自のトルコ化が進みました。支配者はイスラーム化も受け入れ、中央アジア西部における独自の文化圏を形成しました。

4ハン国の成立

その後、中央アジアにはチャガタイ=ハン国(チャガタイ=ウルス)が成立し、西アジアではフレグがアッバース朝を滅ぼしてイル=ハン国(フレグ=ウルス)を建てました。こうして13世紀後半には、中央ユーラシアとその東西各地に、モンゴル人の政権が並び立ちました。各政権は高い自立性をもちながらもカアンのもとにゆるやかに連合したので、これら空前の規模のまとまりはモンゴル帝国と呼ばれます。

しかし、第4代モンケ=ハンが急死すると、その弟のフビライアリクブケが大ハン位をめぐって争いました。戦いに勝ったフビライが大ハン位につきましたが、オゴデイ系のハイドゥがこれに反対して戦いを挑んだことをきっかけに、ジョチ=ウルス・チャガタイ=ウルス・イル=ハン国はそれぞれ元から離れ、帝国の統合はしだいにゆるやかなものとなりました。

ここが問われる: 4ハン国の比較 比較
ハン国建国者領域特徴
キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)バトゥ中央ユーラシア西部ロシアや東ヨーロッパを制圧
チャガタイ=ハン国(チャガタイ=ウルス)チャガタイの子孫中央アジア東西交易路の要衝を支配
イル=ハン国(フレグ=ウルス)フレグイラン・イラクアッバース朝を滅ぼし建国(1258年)
(大元)クビライ中国・モンゴル高原カアンを称し中国全土を支配

この帝国を構成していたのは民族・宗教ともに多様な人々であり、中央ユーラシアの西部では、モンゴル君主など支配層も含んだイスラーム化トルコ化が進みました。

モンゴル帝国の拡大

チンギス=カン
オゴデイ
モンケ
クビライ(元)
1206年1229年1251年1271年1368年
モンゴル軍はなぜヨーロッパから撤退したのか
ワールシュタットの戦い(1241年)でドイツ・ポーランド連合軍を破り、ハンガリーにも侵攻
オゴデイ死去の報告を受ける
中央ユーラシアの草原地帯に引き揚げる
結果として、西ヨーロッパへの本格的侵攻は行われなかった
ここが問われる: モンゴルの西方遠征 出来事の流れ

オゴデイが1234年に金を滅ぼし、カラコルムに都を築く
バトゥがロシア諸公国を征服。ワールシュタットの戦い(1241年)でポーランド・ドイツ連合軍に圧勝
フレグがアッバース朝を滅ぼし(1258年)、イル=ハン国を建国
モンケ=ハン急死後、フビライアリクブケが大ハン位を争う
ハイドゥの反乱をきっかけに諸ウルスが元から離れ、帝国の統合はゆるやかに

4元の統治 ─ クビライの中国支配

クビライの即位と元の建国

華北に拠点をおいたクビライは、カアンを称したのちに南宋を滅ぼし、中国全土を支配しました。クビライは(大元)という中国風の国名を定め(1271年)、モンゴル高原と華北の境に新たな都を築いて大都と称しました。大都はモンゴル帝国全土をおおう駅伝制と連結され、運河により江南経済とも結ばれました。

元が南宋を滅ぼすと、海上交易で繁栄していた杭州・泉州・広州などが元の支配に入り、山東半島を経て大都に向かう海運と、杭州と大都を直接つなぐ新しい運河によって、豊かな江南もモンゴル帝国の商業圏に組み込まれました。

元の統治体制

元の統治は中国的な官僚制度によってなされましたが、中枢はモンゴル人が握りました。色目人と総称される中央アジア・西アジア出身者は、経済面で力をふるいました。金の支配下にあった契丹人・女真人を含む華北の人々は漢人、南宋のもとにいた人々は南人と呼ばれました。

発展:色目人の具体的な出身と役割

色目人とは「さまざまな目の色をもつ人々」の意で、トルコ人・ペルシア人・アラブ人をはじめ、ウイグル人・タングート人・アルメニア人なども含まれます。彼らは主に財務官僚・軍隊指揮官・貿易商人として活躍し、元の税収確保や交易ネットワークの維持に重要な役割を果たしました。モンゴル人が信頼できる人材として重用したため、漢人・南人より高い地位を与えられることが多くありました。

商業に力を入れた元は支配地域の社会や文化をさほど重視せず、儒学や科挙の役割は大きく後退しましたが、暦の改良や大都の水運整備に従事した郭守敬のように、実用的な能力のある者には登用の道が開かれていました。

クビライの対外遠征

クビライが樺太・日本やベトナム・チャンパー・ビルマ・ジャワなどに送った遠征軍は、各地域の政治や経済・文化に大きな影響を与え、商業圏の拡大にも寄与しました。

支配層のモンゴル人にはチベット仏教が重んじられ、都市の庶民のあいだでは『西廂記』『漢宮秋』などの戯曲が流行しました(元曲)。また民間の講談も盛んで、『水滸伝』『西遊記』『三国志演義』の原型がつくられました。

発展:中国の三大小説の原型は元代に誕生した

水滸伝』『西遊記』『三国志演義』という後世に読み継がれる三大古典小説は、その原型が元代の講談・戯曲(元曲)に求められます。科挙が後退して知識人の活躍の場が縮小するなか、大都などの都市で民間の演芸文化が隆盛し、英雄物語・冒険譚が口承・戯曲の形で発展しました。これらの物語は、明代に書物として完成・普及し、東アジア文化に広大な影響を与えました。

ポイント:元の統治構造
  • モンゴル人 ─ 中枢を握る支配階層
  • 色目人 ─ 中央アジア・西アジア出身者の総称。経済面で力をふるう
  • 漢人 ─ 金の支配下にあった契丹人・女真人を含む華北の人々
  • 南人 ─ 南宋のもとにいた人々
  • 儒学や科挙の役割は大きく後退したが、実用的能力のある者には登用の道あり
発展:元の経済政策

モンゴル帝国における陸と海の交易を担ったのはおもにムスリム商人で、ユーラシアで広くおこなわれていた銀経済(銀による決済)が中国にもおよびました。元は塩の専売を実施したほか、取引税などによって莫大な銀を集め、紙幣(交鈔)を発行して銀の流通量の不足をおぎないました。

ここが問われる: 元の統治体制の特徴 内容・特徴

①国号:(大元、1271年〜)、都:大都(現・北京)。駅伝制・運河で帝国全土と連結
②中枢はモンゴル人色目人(トルコ人・ペルシア人・アラブ人ら)は経済面で活躍、漢人南人は儒学・科挙の役割が後退
③塩の専売・取引税で銀を集め、紙幣(交鈔)を発行
④樺太・日本・ベトナム・チャンパー・ビルマ・ジャワなどに遠征軍を派遣

5モンゴル帝国時代の東西交流

ヒト・モノ・情報の移動

モンゴル帝国の成立によってユーラシア東西の統合が実現すると、ヒトやモノ、情報の移動・流通が活発化しました。

中央ユーラシアでは、仏教徒のウイグル商人ムスリム商人が富裕なモンゴル王族と手を組み、奢侈品などの盛んな取引をおこなって利益を分け合う仕組みも生まれました。

使節・旅行者の往来

当時十字軍をおこしていたヨーロッパ人は、東方の巨大な帝国に関心をいだいて、ローマ教皇はプラノ=カルピニを、フランス王ルイ9世はルブルックを派遣しました。イタリア商人マルコ=ポーロの見聞をまとめた『世界の記述』(『東方見聞録』)は、ヨーロッパで大きな反響を呼びました。また、13世紀末に教皇の命で大都に派遣された修道士モンテ=コルヴィノは、そこでカトリックの布教にあたりました。モロッコ出身の旅行家イブン=バットゥータは海路を利用して中国にまでいたったとされ、その旅行記(『大旅行記』)を残しました。

学術・技術・文化の交流

モンゴル帝国によるユーラシア東西の統合は、学術や技術、思想面の交流も促進しました。その成果は歴史記述から、地理学、地図作製、多言語からの翻訳、天文学、医薬、工芸、美術に至るまで広い分野におよびました。ラシード=アッディーンはイル=ハン国のガザン=ハン時代の宰相として各地の情報を収集して、モンゴル史をはじめとするユーラシア世界史『集史』をペルシア語で著しました。

一方、中国から西アジアに絵画の技法が伝えられ、イランで発達した写本絵画に大きな影響を与えました。また、元代では西方伝来の顔料を利用して白地に青色の模様を浮かべる陶磁器(染付)が生まれ、これは「海の道」を通して世界各地へ大量に輸出されました。

モンゴル帝国がユーラシアの東西交流を促進した背景
モンゴル帝国がユーラシア東西の統合を実現
駅伝制により交通・通信網が帝国全土に整備
ウイグル商人やムスリム商人がモンゴル王族と手を組み、盛んな取引を展開
ヒトやモノ、情報の移動・流通がかつてない規模で活発化
モンゴル帝国時代の東西交流
  • 商業活動の活発化 ─ ウイグル商人やムスリム商人がモンゴル王族と組んで交易
  • 使節・旅行者の往来 ─ プラノ=カルピニ、ルブルック、マルコ=ポーロ、モンテ=コルヴィノ、イブン=バットゥータ
  • 学術・技術の交流 ─ 天文学、地理学、医薬、絵画技法など広い分野
  • 歴史記述 ─ ラシード=アッディーンが『集史』を著述
  • 陶磁器 ─ 染付が生まれ、海上ルートで世界各地に輸出
  • 負の側面 ─ ペスト(黒死病)の伝播経路ともなった
ここが問われる: モンゴル帝国時代の東西交流 内容・特徴

①ユーラシア東西の統合で、ヒト・モノ・情報の移動・流通が活発化
プラノ=カルピニルブルック(教皇・フランス王の使節)、マルコ=ポーロ(『世界の記述』)
モンテ=コルヴィノ:大都でカトリック布教。イブン=バットゥータ:海路で中国に至り『大旅行記』を残す
ラシード=アッディーンが『集史』を著述。染付が海上ルートで輸出

6元の衰退と明の成立

元の衰退

14世紀には、ユーラシア規模での疫病の流行や気候変動による天災が重なり、各地で反乱や内紛が頻発して、モンゴル諸政権の分裂・衰退が進みました。中国でも、元による塩の専売制度の強化が、黄河の決壊などによる饑饉とあいまって民衆を苦しめました。

紅巾の乱と明の建国

14世紀半ばに紅巾の乱をはじめとする反乱が各地でおこり、元は1368年に明軍に大都を奪われて、モンゴル高原に退きました。

反乱のなかで頭角を現した貧農出身の朱元璋は、儒学の素養をもつ知識人の協力を得て勢力をのばし、1368年に南京で皇帝の座につき(洪武帝)、朝を建てました。明軍に追われた元の皇室は、モンゴル高原で王朝を維持しました(北元)。

モンゴル帝国はなぜ解体したのか
14世紀、ユーラシア規模での疫病の流行気候変動による天災が重なる
各地で反乱や内紛が頻発し、モンゴル諸政権の分裂・衰退が進む
中国では塩の専売制度の強化黄河の決壊などの饑饉とあいまって民衆を苦しめる
紅巾の乱をはじめとする反乱が各地でおこる
元は1368年に明軍に大都を奪われ、モンゴル高原に退く
ここが問われる: 元の滅亡と明の成立 出来事の流れ

①14世紀:疫病の流行・気候変動でモンゴル諸政権が分裂・衰退
紅巾の乱をはじめとする反乱が各地でおこる
朱元璋(洪武帝)がを建国(1368年、南京で即位)
④元は明軍に大都を奪われモンゴル高原に退く(北元

7俯瞰する ─ モンゴル帝国を鳥の目で見る

モンゴル帝国は、遊牧民が築いた史上最大規模の帝国です。千戸制で騎馬軍団を編成し、駅伝制(ジャムチ)で帝国全土の交通・通信網を整備して広大な領土を統治しました。各政権は高い自立性をもちながらもカアンのもとにゆるやかに連合し、ユーラシア東西の統合が実現すると、ヒト・モノ・情報の移動・流通が活発化しました。一方、14世紀には疫病の流行や気候変動により諸政権の分裂・衰退が進みました。モンゴル帝国が生み出した東西の結びつきは、のちの大交易時代の基盤となったのです。

この記事と他の章のつながり

  • 中央ユーラシアの遊牧民 → 2-1「中央ユーラシアの遊牧民」:匈奴・突厥・ウイグルと続く遊牧国家の系譜のなかに、モンゴル帝国は位置づけられます。
  • 宋の時代 → 8-1「アジア諸地域の自立化と宋」:金との対立のなかで弱体化した宋は、モンゴルに滅ぼされて元の支配下に入りました。
  • イスラーム世界 → 6-2「西アジアの動向」:モンゴルの征服はアッバース朝を滅ぼし、西アジアのイスラーム世界に大きな変動をもたらしました。
  • 大交易時代 → 9-1(予定):モンゴル帝国が生んだ東西交流の活発化は、その後のアジア海域の交易圏拡大の前提となりました。
歴史総合とのつながり

モンゴル帝国によるユーラシア東西の統合は、「歴史総合」で扱う「結びつく世界」のテーマに直結します。ヒト・モノ・情報の移動・流通が活発化した時代は、のちの大航海時代に先立つグローバルな交流の原型として理解できます。

8まとめ

  • 1206年、テムジンがクリルタイでチンギス=カンとして即位し、モンゴル系・トルコ系の諸部族を統合して大モンゴル国を建てた。
  • 千戸制で遊牧民を1000戸単位に編制し、親衛隊を含む強力な騎馬軍団を整えた。
  • 駅伝制(ジャムチ)により帝国全土に交通・通信網を整備した。
  • カアンを称したオゴデイが1234年に金を滅ぼしてカラコルムに都を築き、バトゥはロシアや東ヨーロッパを制圧してキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)を建てた。
  • チャガタイ=ハン国が中央アジアに、フレグがアッバース朝を滅ぼしてイル=ハン国を西アジアに建てた。
  • クビライ(大元)を建国(1271年)し、大都を都とした。色目人が経済面で活躍した。
  • ユーラシア東西の統合により、ヒト・モノ・情報の移動・流通が活発化。マルコ=ポーロの『世界の記述』、イブン=バットゥータの『大旅行記』、ラシード=アッディーンの『集史』が著された。
  • 紅巾の乱をはじめとする反乱のなか、朱元璋を建国(1368年)。元は大都を奪われモンゴル高原に退いた。
この記事を100字で要約すると

チンギス=カンが大モンゴル国を建て、千戸制と駅伝制で帝国を組織した。各政権がゆるやかに連合してユーラシア東西の統合が実現し、ヒト・モノ・情報の交流が活発化した。元はクビライのもとで中国を支配したが、紅巾の乱を経て明に取って代わられた。

9穴埋め・一問一答

Q1. 1206年にモンゴル系・トルコ系の諸部族を統合して大モンゴル国を建てた人物は誰か。

クリックして答えを表示
チンギス=カン(ハン)。クリルタイで即位し、千戸制で遊牧民を1000戸単位に編制して強力な騎馬軍団を整えました。

Q2. モンゴル帝国全土に整備された交通・通信制度を何と呼ぶか。

クリックして答えを表示
駅伝制(ジャムチ)。幹線道路に沿って駅を設け、周辺の住民から馬・食料などを提供させました。

Q3. 元の都で、現在の北京にあたる都市を何と呼ぶか。

クリックして答えを表示
大都(だいと)。クビライが建設した元の首都で、壮大な都城が営まれました。

Q4. クビライに仕えたとされるヴェネツィア出身の商人は誰か。また、彼の口述をまとめた書物の名称は何か。

クリックして答えを表示
マルコ=ポーロ。書物は『世界の記述』(『東方見聞録』)です。ヨーロッパで大きな反響を呼びました。

10アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。

A 基礎レベル

8-2-1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。

1206年、( ア )はモンゴル系・トルコ系の諸部族を統合して大モンゴル国を建てた。配下の遊牧民を1000戸単位に編制する( イ )をしき、強力な騎馬軍団を整えた。帝国全土には( ウ )と呼ばれる駅伝制が整備された。のちに( エ )はカアンを称して南宋を滅ぼし、国号を元と定めて都を( オ )に置いた。

クリックして解答・解説を表示
解答

ア:チンギス=カン イ:千戸制 ウ:ジャムチ エ:クビライ オ:大都

解説

モンゴル帝国の基本事項を確認する問題です。チンギス=カンの千戸制と駅伝制(ジャムチ)は帝国統治の2本柱であり、クビライがカアンを称して国号を「元」と定め大都を都としたことは、モンゴル帝国の中心が中国に移ったことを示す重要な転換点です。

B 標準レベル

8-2-2 B 標準 正誤

次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。

  • (1) 1241年のワールシュタットの戦いでは、フレグ率いるモンゴル軍がドイツ・ポーランド連合軍を破った。
  • (2) イル=ハン国はフレグがアッバース朝を滅ぼして建国した。
  • (3) 元では色目人と総称される中央アジア・西アジア出身者が経済面で力をふるった。
  • (4) マルコ=ポーロの旅行記は『大旅行記』と呼ばれる。
クリックして解答・解説を表示
解答

(1) ×「フレグ」→「バトゥ」。ワールシュタットの戦いの指揮官はバトゥ。フレグはイル=ハン国を建国した人物。 (2) ○ (3) ○ (4) ×『大旅行記』→『世界の記述』(東方見聞録)。『大旅行記』はイブン=バットゥータの旅行記。

解説

(1)について:バトゥとフレグはいずれもチンギス=カンの孫ですが、バトゥは西方遠征(ロシア・東欧方面)を、フレグは西アジア方面の遠征をそれぞれ指揮しました。この二人の活動範囲と建国したハン国を混同しないようにしましょう。(4)について:マルコ=ポーロの著書は『世界の記述』(東方見聞録)、イブン=バットゥータの著書は『大旅行記』です。旅行者と著書名の組み合わせは入試頻出です。

C 発展レベル

8-2-3 C 発展 論述

モンゴル帝国がユーラシアの東西交流に果たした役割について、「駅伝制」「ムスリム商人」「集史」「マルコ=ポーロ」の語句を使って120字以内で説明せよ。

クリックして解答・解説を表示
解答例

モンゴル帝国は駅伝制により帝国全土の交通網を整備し、ユーラシア東西の統合を実現した。ムスリム商人がモンゴル王族と手を組んで交易を展開し、マルコ=ポーロら旅行者も大陸を横断した。ラシード=アッディーンの『集史』に代表される学術交流も広い分野に及んだ。(120字)

解説

この問題のポイントは、モンゴル帝国の駅伝制が東西交流の基盤となったことを述べ、そのうえで交流の具体例として人(マルコ=ポーロ)、商業(ムスリム商人)、学術(『集史』)を挙げ、4つの指定語句をすべて使い切る必要があります。

採点ポイント
  • 駅伝制が交通網の基盤であったことに言及
  • ムスリム商人の交易活動に言及
  • マルコ=ポーロを東西交流の具体例として挙げている
  • 『集史』を学術交流の例として述べている
  • 4つの指定語句がすべて使われている