第7章 ヨーロッパ世界の変容と展開

東ヨーロッパ世界の展開
─ ビザンツ帝国・スラヴ人・ロシアの形成

西ヨーロッパがゲルマン人とローマ=カトリック教会を軸に形成されたのに対し、東ヨーロッパではビザンツ帝国とギリシア正教が文化の基盤となりました。
ビザンツ帝国はユスティニアヌス大帝のもとで地中海帝国の復興をはかりますが、やがて衰退し、プロノイア制による封建化と第4回十字軍の打撃を経て滅亡へと向かいます。一方、スラヴ人の諸国家が東ヨーロッパ各地に成立し、ギリシア正教の受容を通じて独自の文化圏を形成していきます。
この記事では、ビザンツ帝国の盛衰、スラヴ人の世界、キエフ公国からモスクワ大公国へと続くロシアの起源までを学びます。

この記事のポイント
  • ビザンツ帝国はユスティニアヌス大帝の時代に地中海帝国の復興をはかり、テマ制で国防を維持したが、プロノイア制による封建化と第4回十字軍の打撃で衰退した
  • ギリシア正教ビザンツ文化(ハギア=ソフィア聖堂・モザイク壁画・キリル文字)が東ヨーロッパ世界の文化的基盤となった
  • スラヴ人は南・西・東の三方向に展開し、宗教的にはカトリックとギリシア正教に分かれた。非スラヴ系のブルガール人やマジャール人も国家を形成した
  • キエフ公国のウラディミル1世がギリシア正教を受容し、ロシアの文化的基盤が形成された
  • モンゴル支配(「タタールのくびき」)を経て、モスクワ大公国のイヴァン3世がロシアを統一した

1ビザンツ帝国の発展 ─ 千年帝国の繁栄

ユスティニアヌス大帝と地中海帝国の復興

西ローマ帝国が滅びた頃、東ヨーロッパではビザンツ帝国東ローマ帝国)がギリシア正教とギリシア古典文化を融合した独自の文化を築いていました。帝国は首都コンスタンティノープルを拠点に、ゲルマン人の大移動によっても深刻な打撃は受けず、その商業と貨幣経済は繁栄を続けました。

6世紀のユスティニアヌス大帝(在位527〜565年)は、地中海帝国の復興をはかり、北アフリカのヴァンダル王国やイタリアの東ゴート王国を滅ぼして、一時的に地中海のほぼ全域における支配を復活させました。内政面では『ローマ法大全』の編纂やハギア=ソフィア聖堂の建立などの事業に力を注ぎました。また中国から養蚕技術を取り入れ、絹織物産業発展の基礎を築きました。

帝国の縮小とテマ制

ユスティニアヌス大帝の死後、ビザンツ帝国はイタリアをランゴバルド王国やフランク王国に奪われ、7世紀にはイスラーム勢力の進出でシリア・エジプトを失いました。さらに多くのスラヴ人がバルカン半島に移住し、中央ユーラシアからはトルコ系のブルガール人も進出するなど、帝国はしだいに支配圏を縮小させていきました。

7世紀以降、ビザンツ帝国はこうした異民族の侵入に対処するため、帝国領をいくつかの軍管区(テマ)にわけ、その司令官に軍事と行政双方の権限を与えるテマ制軍管区制)をしきました。軍管区では農民に土地を与えるかわりに兵役義務を課す屯田兵制がおこなわれ、小土地所有の自由農民が増え、彼らが帝国を支える基盤となりました。

こうしてビザンツ帝国は外敵の圧力に耐え、7〜9世紀の危機を乗り越えることができました。公用語も当初のラテン語からギリシア語へと変わり、帝国はしだいにギリシア的な性格を強めていきました。

発展 ─ テマ制と西ヨーロッパの封建制度の違い

テマ制は兵士に土地を与える点で西ヨーロッパの封建制度と似ていますが、大きな違いがあります。テマ制では皇帝が軍管区の司令官を任命し、中央集権的な統制を維持しました。一方、西ヨーロッパの封建制度では、主君と家臣が双務的な契約で結ばれ、地方領主の自立性が強まりました。この違いは、ビザンツ帝国の皇帝権力が西ヨーロッパの王権よりもはるかに強力であった背景と関係しています。

ここが問われる: ビザンツ帝国の発展 出来事の流れ

ユスティニアヌス大帝:ヴァンダル王国・東ゴート王国を滅ぼし地中海帝国の復興をはかる
②『ローマ法大全』の編纂、ハギア=ソフィア聖堂の建立
③7世紀以降:テマ制(軍管区制)を導入し国防力を維持
④公用語がラテン語からギリシア語に移行

2聖像禁止令とビザンツ帝国の衰退

聖像禁止令と東西教会の対立

726年、ビザンツ皇帝レオン3世聖像禁止令(イコノクラスム)を発布しました。偶像崇拝を禁じたキリスト教の初期の教理に反すると考えられたこと、また偶像をきびしく否定するイスラーム教からの批判にこたえる必要にせまられたことが背景にありました。

ゲルマン人への布教に聖像を必要としたローマ教会はこれに反発し、東西の両教会は対立と分裂を強めることになりました。聖像崇拝は9世紀半ばに復活しましたが、この対立は東西教会の溝を深め、やがて1054年にキリスト教世界は、教皇を首長とするローマ=カトリック教会と、ビザンツ皇帝が支配するギリシア正教会の二つに完全に分裂しました(東西教会の分裂)。

聖像禁止令はなぜ東西教会の分裂につながったのか
ビザンツ皇帝レオン3世聖像禁止令を発布(726年)
聖像崇拝を認めるローマ教皇が反発
ローマ教皇はビザンツ帝国に頼れなくなり、フランク王国に接近
教義・典礼・教会の権限をめぐる東西の対立が深刻化
1054年東西教会の分裂が決定的に

プロノイア制・第4回十字軍と帝国の滅亡

10世紀から11世紀前半にかけて、ビザンツ帝国はいったん勢力を回復しましたが、しだいに貴族が大土地所有者として勢力を拡大し、皇帝の権力は衰えていきました。11世紀ごろからは大土地所有者である貴族が台頭しました。皇帝は軍事奉仕とひきかえに国有地の管理権(プロノイア)を彼らにゆだねましたが、やがてそれらは軍役との関係がうすれて世襲されるようにもなり(プロノイア制)、皇帝権は弱まり、社会の独自な封建化がすすみました。

さらに13世紀前半には、第4回十字軍1204年)が聖地回復の目的を捨て、ヴェネツィア商人の要求にせまられてコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建てました。その後にビザンツ帝国は復活しましたが、もはやかつての勢いは戻りませんでした。バルカン半島の領土もセルビア人やブルガール人の勢力におびやかされました。

ビザンツ帝国もオスマン帝国の攻撃にさらされ、ついに1453年にコンスタンティノープルが陥落し、帝国は滅亡しました。滅亡前後にイタリアに避難したビザンツの知識人は、ルネサンスの学問や思想の発展に少なからぬ寄与をすることになります。

第4回十字軍はなぜコンスタンティノープルを攻撃したのか
十字軍は聖地イェルサレム奪回をめざして出発
ヴェネツィアが輸送費の代わりに軍事協力を要求
ビザンツ帝国の皇位継承争いに介入する口実が生まれる
1204年、十字軍がコンスタンティノープルを占領・略奪
ラテン帝国が建国され、ビザンツ帝国は一時滅亡

ビザンツ帝国の盛衰

ユスティニアヌス大帝
最大版図
テマ制による
国防維持
第4回十字軍
一時滅亡
衰退→
1453年滅亡
6世紀 7〜11世紀 1204年 1453年
ここが問われる: ビザンツ帝国の衰退過程 出来事の流れ

726年聖像禁止令 → ローマ教会との対立 → 東西教会の分裂(1054年)
②11世紀以降:プロノイア制により皇帝権が弱まり、社会の独自な封建化がすすむ
1204年第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領 → ラテン帝国建国
1453年オスマン帝国により滅亡 → ビザンツの知識人がイタリアに避難しルネサンスに寄与

3ギリシア正教文化 ─ ビザンツ様式の輝き

ビザンツ文化は、ギリシア古典文化の遺産とギリシア正教の融合に特色があり、西ヨーロッパのラテン的・ローマ=カトリック的文化とは異なる独自性をもっていました。政治面では、ローマ帝政末期以来の巨大な官僚制による皇帝専制支配が維持され、ビザンツ皇帝はコンスタンティノープル教会を中心に、政治と宗教の両面における最高の権力者でした(皇帝教皇主義)。これは、西ヨーロッパの教皇と皇帝が対立・並立する構造とは大きく異なる体制です。

ハギア=ソフィア聖堂とビザンツ様式

美術面では、ドームモザイク壁画を特色とするビザンツ様式の教会建築が有名で、ハギア=ソフィア聖堂やサン=ヴィターレ聖堂がその代表です。また、キリストや聖人を描いたイコン(聖像画)もビザンツ帝国に特徴的な美術です。

ビザンツ帝国では7世紀以降ギリシア語が公用語として用いられ、ギリシアの古典がさかんに研究されました。学問の中心はキリスト教神学でした。9世紀にはギリシア正教の宣教師キュリロスメトディオスの兄弟がスラヴ語圏での伝道のためにグラゴール文字を考案し、これはのちに改良されてキリル文字となり、ロシア語などの表記に用いられるようになりました。

ビザンツ文化の世界史的意義は、スラヴ人をその文化圏に取り込んだことと、古代ギリシアの文化遺産を受け継いでイタリア=ルネサンスに影響を与えたことにあります。

西ヨーロッパ(ローマ=カトリック)東ヨーロッパ(ギリシア正教)
教会の首長ローマ教皇コンスタンティノープル総主教(皇帝が実質管理)
政教関係教皇と皇帝が対立・並立皇帝教皇主義(皇帝が教会も統括)
典礼の言語ラテン語ギリシア語
建築様式ロマネスク・ゴシックビザンツ様式(ドーム・モザイク)
文字ラテン文字ギリシア文字・キリル文字
影響を受けた地域西欧・中欧の一部東欧・ロシア
ここが問われる: ビザンツ文化と東西キリスト教世界の比較 比較

皇帝教皇主義:ビザンツ帝国では皇帝が政治と宗教の両方を支配
ハギア=ソフィア聖堂サン=ヴィターレ聖堂ドームモザイク壁画を特色とするビザンツ様式の代表
キュリロスメトディオスがグラゴール文字を考案 → のちにキリル文字に改良
④ビザンツ文化の意義:スラヴ人を文化圏に取り込み、古代ギリシア文化をルネサンスに伝えた

4スラヴ人の世界 ─ 南スラヴと西スラヴ

インド=ヨーロッパ語系のスラヴ人は、カルパティア山脈の北方を原住地とし、6世紀になると、大移動前にゲルマン人が住んでいたビザンツ帝国北方の広大な地域に急速に広がりました。大きくわけて東スラヴ人・南スラヴ人はビザンツ文化とギリシア正教西スラヴ人は西欧文化とローマ=カトリックの影響を受けつつ、自立と建国の道を歩んでいきました。この宗教の違いは文字の違いにも反映され、正教圏ではキリル文字、カトリック圏ではラテン文字が使われるようになりました。

南スラヴとバルカン半島の諸民族

バルカン半島に南下した南スラヴ人のなかでは、セルビア人がギリシア正教を受容して国家を建て、12世紀に独立しました。14世紀前半にはバルカン半島北部を支配する強国に成長しましたが、やがてオスマン帝国の支配下に組みこまれていきました。一方、クロアチア人は西方のフランク王国の影響下でローマ=カトリックを受け入れました。

東ヨーロッパの非スラヴ系諸民族も自立の道を歩みました。トルコ系のブルガール人は、7世紀にバルカン半島北部でブルガリア王国を建国し、その後スラヴ人の影響を受けてギリシア正教に改宗しました。ブルガリア王国はビザンツ帝国に併合されたのち、12世紀に再び独立しましたが、14世紀にはオスマン帝国に征服されました。また、マジャール人は黒海北岸からドナウ川中流のパンノニア平原に移動し、10世紀末にハンガリー王国を建国してローマ=カトリックを受け入れました。ハンガリー王国は15世紀にもっとも繁栄しましたが、16世紀にはオスマン帝国の支配下に入りました。

また、ラテン系のルーマニア人は、14世紀にワラキア公国モルダヴィア公国を建国しました。

西スラヴ ─ ポーランドとベーメン

西スラヴ人(ポーランド人・チェック人など)は、西ヨーロッパの影響を受けてローマ=カトリックに改宗しました。文字もラテン文字を使用し、文化的には西ヨーロッパ世界に近い性格を持ちます。

ポーランド人は10世紀に建国し、14世紀前半にはカジミェシュ(カシミール)大王のもとで繁栄しました。バルト語系のリトアニア人は、東方植民を進めたドイツ騎士団に対抗するため、14世紀後半にポーランドと同君連合を結びました。ポーランド女王がリトアニア大公ヤゲウォと結婚してヤゲウォ朝リトアニア=ポーランド王国が成立し、国教にカトリックを採用して広大な地域を支配下に置きました。チェック人は、9世紀にモラヴィア王国を建てたのち、10世紀にベーメン(ボヘミア)公国を建てました。ベーメン公国はドイツとの関係が密接で、神聖ローマ帝国に属することになりました(12世紀末に王国に昇格)。

スカンディナヴィア半島では、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの3国が1397年にカルマル同盟(カルマル連合)を結び、デンマーク女王マルグレーテ1世のもとで同君連合を形成しました。3カ国はそれぞれの独立性を保ちつつ、対外的には一体として行動しました。この連合は内部対立を繰り返しながらも1523年まで続き、やがてスウェーデンが離脱して解体しました。

分類主な民族・国家宗教文字
南スラヴセルビア、クロアチアセルビア:ギリシア正教
クロアチア:ローマ=カトリック
キリル文字/ラテン文字
西スラヴポーランド、ベーメン(チェック人)ローマ=カトリックラテン文字
東スラヴキエフ公国、モスクワ大公国ギリシア正教キリル文字
非スラヴ系ブルガリア(ブルガール人)、ハンガリー(マジャール人)ブルガリア:ギリシア正教
ハンガリー:ローマ=カトリック
キリル文字/ラテン文字
ここが問われる: スラヴ人の三分類と宗教・文字の対応 比較

南スラヴセルビア人 → ギリシア正教 / クロアチア人 → カトリック
西スラヴポーランドベーメンローマ=カトリックラテン文字
東スラヴキエフ公国など → ギリシア正教キリル文字
④非スラヴ系:ブルガール人 → 正教、マジャール人 → カトリック

5キエフ公国とロシアの起源

ノルマン人の進出とキエフ公国の建国

ドニエプル川中流域に展開した東スラヴ人(ロシア人・ウクライナ人など)が住むロシアでは、9世紀に首長リューリックに率いられたスウェーデン系ノルマン人の一派ルーシノヴゴロド国を建て、ついでキエフ公国を建国し、まもなくスラヴ人に同化しました。このルーシの名がのちに「ロシア」の語源となりました。

ウラディミル1世とギリシア正教の受容

10世紀末、ウラディミル1世(在位980頃〜1015年)は領土を広げ、キエフ公国に最盛期をもたらしました。彼はビザンツ皇帝の妹と結婚してギリシア正教に改宗し、これを国教としました。ビザンツ風の専制政治を取り入れ、キエフ公国はビザンツ帝国の文化圏に組み込まれました。ギリシア正教の受容に伴い、キリル文字やビザンツ様式の教会建築もロシアに伝わりました。

その後、農民の農奴化と貴族の大土地所有が進み、大土地所有者である諸侯が分立して国内は分裂しました。

ウラディミル1世はなぜギリシア正教を選んだのか
キエフ公国はコンスタンティノープルと活発に交易
ビザンツ帝国の政治的・文化的影響力が強かった
ウラディミル1世がギリシア正教を受容し、ビザンツ皇帝の妹と結婚
キリル文字やビザンツ様式が伝播し、ロシアの文化的基盤が形成
ここが問われる: キエフ公国とギリシア正教の受容 理由・背景

①首長リューリックに率いられたスウェーデン系ノルマン人の一派ルーシノヴゴロド国、ついでキエフ公国を建国 → まもなくスラヴ人に同化
②「ルーシ」の名が「ロシア」の語源に
ウラディミル1世がビザンツ皇帝の妹と結婚しギリシア正教に改宗、国教とする(10世紀末)
④ビザンツ風の専制政治・キリル文字・ビザンツ様式がロシアに伝播

6モンゴルの支配とモスクワ大公国の台頭

キプチャク=ハン国と「タタールのくびき」

13世紀にバトゥの率いるモンゴル軍が侵入し、南ロシアを含むキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)を建てると、キエフ公以下の諸侯は以後、約240年間にわたってモンゴルの支配に服しました。これをロシアでは「タタールのくびき」と呼びます。

発展 ─ 「タタールのくびき」がロシアに与えた影響

「タタールのくびき」とは、モンゴル支配がロシアにもたらした重くつらい軛(くびき)を意味するロシア語の表現で、ロシア史の後進性の原因として長く語られてきました。ただし現代の歴史学では、モンゴル支配の実態は間接支配が主であり、その影響を過大評価すべきでないとする研究も有力です。なお、キエフ公国の建国については、スウェーデン系ノルマン人(ルーシ)が主導したとする「ノルマン説」と、スラヴ人が主体であったとする「反ノルマン説」があり、長く学術論争の的となってきました。

モンゴル支配は同時にロシアにいくつかの行政的影響も残しました。徴税制度や駅伝制(ジャムチ)などがロシアに取り入れられ、のちのモスクワ大公国の中央集権的な統治にも影響を与えたと考えられています。一方、西ヨーロッパでは12〜13世紀にかけて都市の自治や商業の発展が進んでいましたが、モンゴル支配下のロシアではこうした動きが遅れることになりました。

モスクワ大公国の台頭とイヴァン3世

15世紀になると、ヴォルガ川流域の交通の要衝にあって繁栄したモスクワ大公国が急速に勢力をのばしました。大公イヴァン3世(在位1462〜1505年)の時代に東北ロシアを統一し、1480年にモンゴルの支配から脱しました。彼は諸侯の力をおさえて強大な権力を握り、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚してローマ帝国の後継者を自任し、はじめてツァーリ(皇帝)の称号を用いました。また彼は農奴制を強化し、その孫イヴァン4世による中央集権化に道を開きました。

イヴァン3世の孫イヴァン4世(在位1533〜84年)は「雷帝」と呼ばれ、ツァーリ制度を確立して強権的な専制政治を推し進めました。農奴制をさらに強化して農民の土地への縛りつけを制度的に進めるとともに、親衛隊(オプリーチニナ)を用いて貴族(ボヤール)層を弾圧し、ロシアの中央集権体制の基礎を固めました。

モスクワ大公国はなぜロシアの統一を成し遂げられたのか
モスクワ大公がキプチャク=ハン国の徴税代行役として権力を蓄積
周辺の諸公国を併合して領域を拡大
イヴァン3世がキプチャク=ハン国の支配から自立
ビザンツ帝国の後継者を自任し、「第三のローマ」を主張
ロシア統一国家の基礎が確立
ここが問われる: モンゴル支配とモスクワ大公国 因果関係

バトゥのモンゴル軍が侵入 → キプチャク=ハン国の支配(「タタールのくびき」、約240年間)
モスクワ大公国が急速に勢力をのばす
イヴァン3世が東北ロシアを統一し、1480年にモンゴルの支配から脱する
④ビザンツ最後の皇帝の姪と結婚しツァーリ(皇帝)を名のる → 農奴制を強化し、孫イヴァン4世の中央集権化に道を開く

7俯瞰する ─ この記事のつながり

東ヨーロッパ世界は、ビザンツ帝国とギリシア正教を基盤として形成されました。ビザンツ帝国がスラヴ人の世界に文化・宗教を伝え、キリル文字やビザンツ様式の建築が東ヨーロッパ各地に広まったのです。しかし西ヨーロッパとは異なり、東ヨーロッパの多くの地域がモンゴルの支配を経験し、これが東西ヨーロッパの歴史的性格の違いを生む一因となりました。ビザンツ帝国の滅亡後、その文化的・宗教的遺産を引き継いだのがモスクワ大公国であり、「第三のローマ」という理念はのちのロシア帝国へとつながっていきます。

この記事と他の章のつながり

  • 5-2 ヨーロッパ世界の形成 ─ ビザンツ帝国の基礎(ユスティニアヌス大帝、東西教会の分裂)はこの記事で初めて学びました。7-2ではビザンツ帝国のその後の展開と衰退を扱っています。
  • 7-1 封建社会の成立と変容 ─ 西ヨーロッパの封建社会と十字軍について学びました。第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落は、東西ヨーロッパの関係を考えるうえで重要な事件です。
  • 2-1 中央ユーラシアの遊牧民 ─ キプチャク=ハン国はモンゴル帝国の分裂によって成立した国家です。モンゴル帝国の世界史的な影響を東ヨーロッパの視点から確認しましょう。
  • 7-3 ヨーロッパ世界の変容 ─ モスクワ大公国のその後の発展や、東ヨーロッパの近世へのつながりを次の記事で学びます。
歴史総合とのつながり

ロシアの成り立ちを知ることは、歴史総合で学ぶ近代のロシア帝国やソ連の理解に直結します。「第三のローマ」という理念は、ロシアが正教世界の盟主として東欧・中央アジアに影響力を拡大していく背景にあたります。また、東西ヨーロッパの文化的分断(カトリック vs 正教、ラテン文字 vs キリル文字)は、冷戦期の東西対立の歴史的前提として意識されるようになりました。

8まとめ

  • ビザンツ帝国ユスティニアヌス大帝のもとで地中海帝国の復興をはかり、『ローマ法大全』の編纂とハギア=ソフィア聖堂の建立を行った。
  • 7世紀以降はテマ制(軍管区制)で国防を維持し、公用語がギリシア語に移行した。
  • 726年聖像禁止令をめぐりローマ教会と対立が深まり、1054年東西教会の分裂が決定的となった。
  • 11世紀ごろからプロノイア制のもとで皇帝権が弱まり、第4回十字軍1204年)がコンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建てた。帝国は復活したが衰退し、1453年にオスマン帝国に滅ぼされた。
  • スラヴ人は南・西・東の三方向に展開。南スラヴ(セルビアなど)と東スラヴはギリシア正教、西スラヴ(ポーランドベーメン)はローマ=カトリックを受容した。非スラヴ系のブルガール人もギリシア正教に改宗し、マジャール人はカトリックを受容した。
  • 首長リューリックに率いられたスウェーデン系ノルマン人の一派ルーシがノヴゴロド国、ついでキエフ公国を建国。ウラディミル1世ギリシア正教に改宗し国教とした。
  • 13世紀にバトゥのモンゴル軍が侵入し、キプチャク=ハン国が約240年間ロシアを支配した(「タタールのくびき」)。
  • ヴォルガ川流域の交通の要衝にあったモスクワ大公国イヴァン3世がモンゴルの支配から自立し、東北ロシアを統一。ビザンツ帝国の後継者を自任しツァーリ(皇帝)の称号を用いた。
この記事を100字で要約すると

ビザンツ帝国はギリシア正教文化を軸に東ヨーロッパ世界を形成した。スラヴ人が正教を受容して諸国家を建て、キエフ公国がロシアの基盤となった。モンゴル支配を経て、モスクワ大公国のイヴァン3世がロシアを統一し、ビザンツの後継者を自任した。

9穴埋め・一問一答

Q1. ビザンツ帝国で最大版図を実現し、『ローマ法大全』の編纂やハギア=ソフィア聖堂の建立を行った皇帝は誰か。

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ユスティニアヌス大帝。在位527〜565年。ヴァンダル王国・東ゴート王国を滅ぼし、地中海帝国の復興をはかりました。

Q2. ビザンツ帝国が7世紀以降に採用した、帝国を軍管区に分けて屯田兵を配置する軍事・行政制度を何というか。

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テマ制(軍管区制)。各軍管区の司令官が軍事と行政を兼務し、屯田兵に土地を与えて国防力を維持しました。

Q3. 726年にビザンツ皇帝レオン3世が発布した、聖像(イコン)の崇拝を禁止する命令を何というか。

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聖像禁止令。この命令はローマ教皇の反発を招き、東西教会の分裂(1054年)の一因となりました。

Q4. 1204年にコンスタンティノープルを占領した十字軍は第何回十字軍か。また、占領後に建てられた国を何というか。

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第4回十字軍。占領後に建てられたのはラテン帝国です。本来は聖地奪回が目的でしたが、ヴェネツィアの誘導などで方向が変わりました。

Q5. スラヴ人のうち、ポーランドやベーメンが属するグループを何と呼び、彼らはどの宗派を受容したか。

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西スラヴローマ=カトリックを受容しました。文字もラテン文字を使用し、文化的に西ヨーロッパに近い性格を持ちます。

Q6. キエフ公国でギリシア正教を国教として受容した君主は誰か。

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ウラディミル1世(在位980頃〜1015年)。ビザンツ皇帝の妹と結婚してギリシア正教に改宗し、これを国教としました。ビザンツ風の専制政治も取り入れました。

Q7. モンゴルのロシア支配を何と呼ぶか。また、ロシアを支配したモンゴル系の国家を何というか。

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タタールのくびき」と呼ばれます。支配したのはキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)で、約240年間にわたりロシアの諸公国を支配しました。

Q8. モンゴルの支配から自立してロシアを統一し、ビザンツ帝国の後継者を自任したモスクワ大公は誰か。

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イヴァン3世。ビザンツ最後の皇帝の姪と結婚し、双頭の鷲の紋章を採用して、モスクワを「第三のローマ」と位置づけました。

10アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。

A 基礎レベル

7-2-1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。

ビザンツ帝国では6世紀の( ア )大帝のもとで地中海帝国の復興がはかられ、『( イ )』の編纂や( ウ )聖堂の建立が行われた。7世紀以降は( エ )制を導入して国防を維持した。726年には( オ )が発布され、ローマ教会との対立が深まった。

クリックして解答・解説を表示
解答

ア:ユスティニアヌス イ:ローマ法大全 ウ:ハギア=ソフィア エ:テマ オ:聖像禁止令

解説

ビザンツ帝国の基本事項を確認する問題です。ユスティニアヌス大帝は地中海帝国の復興をはかり、ヴァンダル王国や東ゴート王国を滅ぼしました。『ローマ法大全』はローマ法の集大成です。ハギア=ソフィア聖堂はドームとモザイク壁画を特色とするビザンツ様式の代表的建築です。テマ制は軍管区制とも呼ばれ、農民に土地を与えるかわりに兵役義務を課す屯田兵制がおこなわれました。聖像禁止令はレオン3世が発布し、東西教会の分裂の一因となりました。

B 標準レベル

7-2-2 B 標準 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( カ )に入る適切な語句を答えよ。

9世紀、スウェーデン系ノルマン人の一派である( ア )が東スラヴ人の地域に入り、( イ )国を建てた。ついで( ウ )公国を建国し、10世紀末には( エ )世がギリシア正教に改宗して国教とした。13世紀にモンゴルが侵入すると、ロシアの地は( オ )に支配され、この時代は「( カ )」と呼ばれる。

クリックして解答・解説を表示
解答

ア:ルーシ イ:ノヴゴロド ウ:キエフ エ:ウラディミル1 オ:キプチャク=ハン国 カ:タタールのくびき

解説

ロシアの起源からモンゴル支配までの流れを問う問題です。スウェーデン系ノルマン人の一派であるルーシがノヴゴロド国を建て、「ロシア」の語源となりました。さらにキエフ公国を建国し、まもなくスラヴ人に同化しました。ウラディミル1世がビザンツ皇帝の妹と結婚してギリシア正教に改宗し、これを国教としました。13世紀にバトゥの率いるモンゴル軍が侵入し、キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)を建てると、諸侯は約240年間モンゴルの支配に服しました。これが「タタールのくびき」です。

C 発展レベル

7-2-3 C 発展 論述

ビザンツ帝国の文化がロシアに与えた影響について、「ウラディミル1世」「ギリシア正教」「キリル文字」「第三のローマ」の語句を使って120字以内で説明せよ。

クリックして解答・解説を表示
解答例

キエフ公国のウラディミル1世がギリシア正教を受容し、キリル文字やビザンツ様式の建築がロシアに伝わった。ビザンツ帝国滅亡後、モスクワ大公国のイヴァン3世はビザンツの後継者を自任し、モスクワを第三のローマと位置づけた。(107字)

解説

この問題は、ビザンツ帝国からロシアへの文化的継承を時系列に整理するものです。ポイントは三つの段階を述べることです。第一に、ウラディミル1世によるギリシア正教の受容がロシアの文化的基盤を決定づけたこと。第二に、ギリシア正教の受容に伴いキリル文字やビザンツ様式がロシアに伝わったこと。第三に、ビザンツ帝国の滅亡後にモスクワ大公国がその文化的・宗教的遺産を引き継ぎ、「第三のローマ」を主張したこと。この流れを通じて、ビザンツ文化がロシアの国家理念にまで深く影響を与えたことを述べます。

採点ポイント
  • ウラディミル1世によるギリシア正教の受容に言及している
  • キリル文字の伝播に触れている
  • 「第三のローマ」の主張に言及し、ビザンツ帝国の文化的後継であることを述べている