フランク王国の分裂後、西ヨーロッパには国王の力が弱い分権的な社会が広がりました。
領主と家臣の主従関係、農奴が耕す荘園制度、そして教皇と皇帝の権力闘争がこの時代を特徴づけます。
この記事では、封建社会の仕組みから農業技術の進歩、聖職叙任権闘争、教皇権の絶頂、修道院運動までを学びます。
フランク王国の分裂やノルマン人の侵入を経て、西ヨーロッパでは中央集権的な支配が崩壊し、各地の有力者が自ら土地と人々を守る分権的な社会が生まれました。この社会の骨格となったのが封建的主従関係です。
封建制度(フューダリズム)のもとでは、国王や大領主(主君)が家臣に封土(知行地)を与え、家臣はその見返りに軍役(騎士としての軍事奉仕)と忠誠を誓いました。この関係は双務的契約であり、主君が家臣を保護する義務を怠れば、家臣も忠誠を解除できるとされました。
この主従関係のルーツは、ゲルマン人社会の従士制(コミタトゥス)と、主君が臣下に勤務の代償として土地を与える恩貸地制の二つが結合したものとみなす説が有力です。封建的主従関係は当初は一代限りのものでしたが、やがて世襲されるようになりました。また、1人の家臣が複数の主君と主従関係を結ぶことも可能でした。こうして国王・諸侯・騎士の主従関係は重層化していきました。
封建社会の経済的な基盤は荘園制(マナー制)でした。荘園は8世紀ごろから貴族や教会・修道院を領主として広くみられるようになり、封建社会は11〜12世紀に成立して西ヨーロッパ中世世界の基本的な骨組みとなりました。荘園とは、領主が支配する自給自足的な農業経営の単位です。荘園の土地は、領主が直接経営する領主直営地と、農民に割り当てられた農民保有地、そして共同で利用する共同利用地(入会地:森林・牧草地など)に分かれていました。
荘園で働く農民の多くは農奴と呼ばれる身分でした。農奴は奴隷ではなく、自分の保有地で耕作を行いましたが、領主に対して賦役(領主直営地での無償労働)や貢納(生産物の一部を納めること)の義務を負いました。さらに結婚税・死亡税や、パン焼きかまど・水車の使用料なども領主に取り立てられました。また、教会には十分の一税を納めました。農奴は領主の許可なく荘園を離れることができず、移動の自由が制限されていました。荘園は自給自足的な現物経済が中心で、領主は国王の役人が荘園に立ち入ることや課税を拒否できる不輸不入権(インムニテート)をもち、荘園内の農民に対する裁判権も握っていました。
①封建的主従関係:主君が封土を与え、家臣は軍役と忠誠で応じる双務的契約。やがて世襲化し、重層化した
②ルーツ:ゲルマンの従士制(コミタトゥス)+ローマ帝政期以来の恩貸地制
③荘園の構成:領主直営地・農民保有地・共同利用地(入会地)。領主は不輸不入権(インムニテート)をもった
④農奴の義務:賦役(無償労働)・貢納(生産物の納入)・教会への十分の一税、結婚税・死亡税など。移動の自由なし
中世の西ヨーロッパでは、農業技術にいくつかの重要な進歩がありました。とりわけ三圃制(さんぽせい)の普及は、農業生産力を大きく高めました。
古くは耕地を二つに分けて、一方で作物を栽培し、もう一方を休ませる二圃制が行われていました。これに対し、中世になると耕地を三つに分けて、秋耕地(秋に種をまく冬小麦など)・春耕地(春に種をまく大麦・エンバクなど)・休耕地の三区画を毎年ローテーションする三圃制が広まりました。二圃制では耕地の半分しか使えませんでしたが、三圃制では三分の二を使えるため、生産効率が大きく向上しました。
三圃制の普及とあわせて、鉄製農具や有輪犂(ゆうりんすき)が普及し、牛や馬に犂をひかせて土地を深く耕すことが可能となりました。
さらに、水車も粉ひきにかかせない動力源として普及しました。11〜13世紀の西ヨーロッパはおおむね気候が温暖で、こうした農業技術の進歩により農業生産は増大し、人口も飛躍的に増えました。
| 二圃制 | 三圃制 | |
|---|---|---|
| 耕地の区分 | 耕作地+休耕地の2区画 | 秋耕地+春耕地+休耕地の3区画 |
| 耕地の利用率 | 50%(半分が休耕) | 約67%(三分の二を利用) |
| 作物の多様性 | 冬作物のみ | 冬作物+春作物(大麦・エンバクなど) |
| 普及地域 | 地中海沿岸が中心 | 北西ヨーロッパを中心に普及 |
三圃制や鉄製農具・有輪犂の導入により食料生産が安定すると、人口が増加し、余った労働力が手工業や商業に向かうようになりました。11世紀以降の大開墾運動(森林や湿地を切り開いて耕地を増やす動き)も、この農業革命の延長線上にあります。結果として、西ヨーロッパは自給自足的な荘園経済から、都市と商業が発展する社会へと変化していきました。
農業生産の増大と人口増加は、11世紀以降の商業復活をうながしました。なかでもフランス北東部のシャンパーニュ地方では、年に複数回の大規模な定期市(シャンパーニュの大市)が開かれ、北海・バルト海沿岸の商人とイタリア商人が毛織物・香辛料・毛皮などを取引しました。大市にはイタリアの両替商が集まり、各地の貨幣の交換や信用取引(為替決済)も行われたため、大市は商品取引の場であるとともに国際金融市場の機能も果たしました。
12〜13世紀には、領主や君主が交易の利益を求めて新たな都市を計画的に建設する動きも広まりました。こうした建設都市(フランス語でバスティード、英語でニュータウン)は、整然とした街路と広場を持ち、入植者に免税・自由・土地などの特権を与えることで住民を集めました。建設都市の増加は、中世ヨーロッパにおける都市化と商業化の進展を示しています。
中世の西ヨーロッパでは、王権が微弱で統一的権力になれなかったのに対し、ローマ=カトリック教会が西ヨーロッパ全体に大きな力をおよぼしました。教皇を頂点とし、大司教・修道院長・司教・司祭など聖職者の序列を定めたピラミッド型の階層制組織がつくられ、大司教や修道院長などは広大な荘園をもつ大領主でもありました。一方、皇帝や国王などの世俗権力は、しばしば俗人を聖職者の地位に任命し、教会に介入するようになりました。こうして教会が世俗権力の影響を受けると、聖職売買(シモニー)や聖職者の妻帯などさまざまな弊害が生じました。
10世紀末からフランスなどでは、領主間の私闘によって教会財産が侵害されるのを防ぐための「神の平和」運動がおこりました。これに対して10世紀以降、フランス中東部のクリュニー修道院(910年設立)を中心に教会改革運動がおこりました。
教皇グレゴリウス7世はこの改革を推し進め、聖職売買や聖職者の妻帯を禁じました。さらに、聖職者を任命する権利(聖職叙任権)を世俗権力から教会の手に移して教皇権を強化しようとしました。
ドイツ国王(のち神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世はこれに反発し、ここから叙任権闘争が始まりました。ハインリヒが改革を無視しようとしたため、ついに教皇は彼を破門しました。さらにドイツ諸侯は破門解除がなければ国王を廃位すると決議したため、1077年、ハインリヒはイタリアのカノッサで教皇に謝罪して許されました。これがカノッサの屈辱です。
その後も対立は続きましたが、1122年のヴォルムス協約で両者の妥協が成立し、ここに叙任権闘争は終結しました。
①教皇グレゴリウス7世が聖職売買・聖職者の妻帯を禁じ、聖職叙任権を教会の手に移そうとした
②ドイツ国王ハインリヒ4世が反発 → 叙任権闘争の開始
③カノッサの屈辱(1077年):破門されたハインリヒが教皇に謝罪
④ヴォルムス協約(1122年):両者の妥協が成立し叙任権闘争が終結
聖職叙任権闘争を経て、ローマ教皇の権威は着実に高まっていきました。十字軍の提唱(1095年、教皇ウルバヌス2世)もまた、教皇が西ヨーロッパのキリスト教世界全体を精神的に指導する立場にあることを示す出来事でした。
教皇権は13世紀の教皇インノケンティウス3世(在位1198〜1216年)の時に絶頂に達しました。インノケンティウス3世は、教皇の権力を「太陽」に、皇帝の権力を「月」にたとえ、教皇が皇帝よりも上位にあると主張しました。
インノケンティウス3世は実際に、イングランド王ジョンをカンタベリ大司教の任命問題で破門し、屈服させました。フランス王フィリップ2世に対しても離婚問題で介入し、王妃の復縁を命じています。さらに第4回十字軍(1202〜04年)を提唱しました(結果としてヴェネツィア商人の要求にせまられて聖地回復の目的を捨て、コンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建てました)。また、アルビジョワ十字軍(1209年〜)では南フランスのアルビジョワ派(カタリ派)を異端として弾圧しました。
また、インノケンティウス3世のもとで第4回ラテラン公会議(1215年)が開かれ、教会の改革や信仰に関する重要な決定がなされました。
①教皇権が絶頂に達した:インノケンティウス3世(在位1198〜1216年)
②「教皇は太陽、皇帝は月」と主張
③イングランド王ジョン・フランス王フィリップ2世に介入
④第4回十字軍・アルビジョワ十字軍の提唱、第4回ラテラン公会議の開催
修道院は、世俗から離れて祈りと労働に捧げる共同生活の場として、西ヨーロッパのキリスト教世界で重要な役割を果たしました。ベネディクトゥスが6世紀に定めた「祈り、かつ働け」の精神に基づくベネディクト修道会の戒律が、多くの修道院の基本となっていました。
10世紀に設立されたフランス中東部のクリュニー修道院(910年)は、教会の堕落を批判し、聖職売買の禁止や戒律の厳格な遵守を訴える改革運動の中心となりました。その影響力はヨーロッパ中に広がりました。
12世紀には、クリュニー修道院の繁栄がかえって世俗化を招いたとして、さらに厳格な生活を求めるシトー修道会(シトー会)が台頭しました。シトー修道会は未開地に修道院を建て、自ら開墾して農業に従事する質素な生活を重んじました。シトー修道会などの修道院は、世俗の領主よりも農業技術の改良に熱心で、労働を信仰と結びつける新しい労働観を生みだしました。シトー修道会を大きく発展させたのがベルナルドゥスです。
13世紀になると、都市の発展を背景に新しいタイプの修道会が誕生しました。托鉢修道会(たくはつしゅうどうかい)と呼ばれるこれらの修道会は、修道院にこもるのではなく、都市の中で人々の間に入り、清貧の生活を送りながら説教や慈善活動を行いました。
フランチェスコ修道会(フランシスコ会)は、イタリアのフランチェスコ(フランシスコ、1181頃〜1226年)が創設しました。フランチェスコは裕福な商人の息子でしたが、すべての財産を捨てて清貧の生活を選び、貧しい人々への奉仕と説教に生涯を捧げました。
ドミニコ修道会は、スペイン出身のドミニコ(ドミニクス、1170頃〜1221年)が創設しました。ドミニコ会は学問と説教を重視し、異端の論破を使命としました。のちにドミニコ会からは大神学者トマス=アクィナスが輩出されています。
| 修道院・修道会 | 時期 | 特徴 |
|---|---|---|
| クリュニー修道院 | 910年設立 | 教会改革の中心。聖職売買の禁止を訴え、教皇に直属 |
| シトー修道会 | 12世紀に発展 | 未開地の開墾・農業に従事する厳格な修道生活。ベルナルドゥスが発展に貢献 |
| フランチェスコ修道会 | 13世紀初頭 | 托鉢修道会。フランチェスコが創設。清貧と奉仕を重視 |
| ドミニコ修道会 | 13世紀初頭 | 托鉢修道会。ドミニコが創設。学問と説教を重視。トマス=アクィナスを輩出 |
西ヨーロッパの封建社会は、フランク王国の分裂後に成立した分権的な社会でした。領主と農奴による荘園制を経済基盤とし、教皇と皇帝の権力闘争が政治を動かしました。農業技術の革新は人口増加をもたらし、やがて商業の復活や都市の成長、十字軍の遠征へとつながっていきます。聖職叙任権闘争に象徴される教皇権の伸長は、のちの十字軍や教皇権の衰退(アナーニ事件、教皇のバビロン捕囚)の前提として理解することが重要です。
中世ヨーロッパの封建社会は、歴史総合で学ぶ近代ヨーロッパの「国民国家」の対極にある分権的な社会です。封建社会の解体過程で中央集権的な国王権力が強まり、やがて絶対王政を経て近代国家が形成されていきます。また、教皇と皇帝の権力関係は、政教分離という近代国家の原則を考えるうえでの出発点になります。
フランク王国分裂後、封土と軍役で結ばれた封建制と荘園制が成立した。三圃制の普及で生産力が向上し、聖職叙任権闘争を経て教皇権がインノケンティウス3世のもとで絶頂に達した。修道院運動はクリュニーから托鉢修道会へと展開した。
Q1. 封建的主従関係において、主君が家臣に与える土地を何というか。
Q2. 1077年、破門されたドイツ国王ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に謝罪した出来事を何というか。
Q3. 教皇権が絶頂に達したとされる、13世紀初頭の教皇は誰か。
Q4. 13世紀にイタリアで清貧の生活を実践し、托鉢修道会の一つを創設した人物は誰か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
中世西ヨーロッパの封建社会では、主君が家臣に( ア )を与え、家臣は( イ )と忠誠で応じた。荘園では( ウ )と呼ばれる農民が耕作を行い、領主に対して( エ )(無償労働)や貢納の義務を負った。農業面では、耕地を三区画に分けてローテーションする( オ )が普及し、生産力が向上した。
ア:封土 イ:軍役 ウ:農奴 エ:賦役 オ:三圃制
封建的主従関係の基本構造と荘園制・農業制度に関する基本問題です。封土と軍役の双務的契約、農奴の賦役・貢納の義務、三圃制の仕組みは、中世西ヨーロッパの封建社会を理解するための土台となります。二圃制との違い(耕地の利用率が50%から約67%に向上)もあわせて押さえておきましょう。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ○ (2) ×「ヴェルダン条約」→「ヴォルムス協約」(1122年) (3) ○ (4) ×「フランチェスコ修道会」→「ドミニコ修道会」(フランチェスコ会は清貧と奉仕を重視)
(2)について:ヴェルダン条約(843年)はフランク王国を三分割した条約であり、聖職叙任権闘争とは無関係です。叙任権問題を解決したのはヴォルムス協約(1122年)で、両者の妥協が成立し叙任権闘争は終結しました。「ヴェルダン」と「ヴォルムス」の混同は頻出の引っかけです。(4)について:学問と異端の論破を重視したのはドミニコ修道会です。フランチェスコ修道会は清貧の生活と貧者への奉仕を中心としました。両修道会の特徴の違いを正確に区別しましょう。
10世紀から13世紀にかけて、西ヨーロッパにおけるローマ教皇の権威がどのように高まったかを、「クリュニー修道院」「カノッサの屈辱」「インノケンティウス3世」の語句を使って120字以内で説明せよ。
10世紀のクリュニー修道院に始まる教会改革を背景に、教皇グレゴリウス7世は聖職売買を禁じ聖職叙任権を主張した。カノッサの屈辱で教皇の権威が示され、13世紀のインノケンティウス3世の時に教皇権は絶頂に達した。(100字)
教皇権の伸長を時系列に沿って整理する問題です。第一段階としてクリュニー修道院の改革運動が教会の自立を促したこと、第二段階として聖職叙任権闘争でカノッサの屈辱に象徴される教皇の優位が示されたこと、第三段階としてインノケンティウス3世のもとで教皇権が絶頂に達したことを述べましょう。三つの語句を時代順に因果関係でつなぐことがポイントです。