11世紀末、ローマ教皇の呼びかけにより十字軍が始まりました。約200年にわたる遠征は聖地の奪還には失敗しましたが、東方との接触を通じてヨーロッパの経済と社会を大きく変えました。
商業が復活し、都市が成長し、封建社会は揺らぎ始めます。14世紀にはペストの大流行や百年戦争が追い打ちをかけ、教皇権が衰退する一方で、イギリスやフランスでは中央集権化が進みました。
この記事では、十字軍から中世末期の社会変動までを通して、西ヨーロッパ世界の変容を学びます。
11世紀に東地中海沿岸に進出し、聖地イェルサレムを支配下においたセルジューク朝は、ビザンツ帝国をもおびやかしました。
窮地に陥ったビザンツ皇帝は、ローマ教皇に救援を要請しました。これを受けて、1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で聖地回復のための遠征を呼びかけました。こうして始まったのが十字軍です。
第1回十字軍(1096〜99年)は、各地の諸侯や騎士が参加し、1099年にイェルサレム王国を建設しました。十字軍のなかで唯一、聖地の確保に成功した遠征です。
しかし、イスラーム側の反撃が強まるなかで、第2回・第3回の十字軍は聖地を奪還できませんでした。第3回十字軍(1189〜92年)には、イギリスのリチャード1世(獅子心王)、フランスのフィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の三大国王が参加しましたが、イスラーム側のサラディン(サラーフ=アッディーン)に阻まれ、イェルサレムの奪還はなりませんでした。
第4回十字軍(1202〜04年)は、十字軍の変質を象徴する遠征です。資金を出したヴェネツィア商人の思惑に加え、ビザンツ皇帝家の内紛にまきこまれる形で聖地回復の目的を捨て、同じキリスト教国であるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃・占領し、ラテン帝国を建てました。この出来事は、東西キリスト教世界の関係を決定的に悪化させました。
十字軍は、その後も13世紀末まで数次にわたり行われましたが、1291年に十字軍国家最後の拠点アッコンが陥落し、十字軍の時代は幕を閉じました。
| 回 | 年代 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 第1回 | 1096〜99年 | イェルサレムを占領し、イェルサレム王国をはじめとする十字軍国家を建設 |
| 第2回 | 1147〜49年 | 失敗に終わる |
| 第3回 | 1189〜92年 | 神聖ローマ皇帝・フランス国王・イギリス国王が参加。サラディンに阻まれ聖地奪還ならず |
| 第4回 | 1202〜04年 | ヴェネツィア商人の思惑とビザンツ皇帝家の内紛から、コンスタンティノープルを占領しラテン帝国を建設 |
| 第5〜7回 | 13世紀 | いずれも聖地回復の目的を達成できず。1291年に最後の拠点アッコンが陥落 |
約200年にわたる十字軍の最大の影響は、ヨーロッパの社会と経済に大きな変化をもたらしたことです。
①1095年:ウルバヌス2世がクレルモン宗教会議で十字軍を提唱
②第1回十字軍(1096〜99年):イェルサレム王国を建設(唯一の成功)
③第3回十字軍:三大国王が参加するもサラディンに阻まれる
④第4回十字軍:ヴェネツィア商人の思惑とビザンツの内紛からコンスタンティノープルを占領 → ラテン帝国建設
⑤1291年:最後の拠点アッコンが陥落し十字軍の時代が終わる
十字軍による東方との接触や農業技術の発達を背景に、11世紀頃からヨーロッパでは商業の復活が起こりました。交通の要衝や城壁のそばに商人や手工業者が集まり、中世都市が各地に成長していきました。
中世都市は、司教座都市などが核になってできたもので、はじめ封建領主の保護と支配を受けていましたが、しだいに領主支配からの自由と自治を求めはじめました。11〜12世紀以降、各地の都市はつぎつぎに自治権を獲得し、自治都市になりました。北イタリアの諸都市は、大商人や貴族に指導され、領主である司教権力を倒して自治都市(コムーネ)となり、周辺の農村も併合して一種の都市国家として完全に独立しました。ドイツの諸都市は、諸侯の力をおさえようとする皇帝から特許状を得て皇帝直属の自由都市(帝国都市)として諸侯と同じ地位に立ちました。ドイツでは、農奴が荘園から都市に逃れて1年と1日住めば自由な身分になるとされ、「都市の空気は(人を)自由にする」といわれました。
自治運営の基礎になった組織が、ギルドと呼ばれる同業組合です。はじめ市政を独占していたのは、遠隔地貿易に従事する大商人を中心とした商人ギルドでした。しかしのちには、手工業者が職種別の同職ギルド(ツンフト)をつくって分離し、商人ギルドと争いながら市政への参加を実現していきました。
同職ギルドの組合員は、独立した手工業経営者である親方でした。親方は職人や徒弟を指導して労働させ、彼らのあいだには厳格な身分序列がありました。ギルドは自由競争を禁じ、商品の品質・規格・価格などを規約によって細かく規制し、市場を独占しました。このギルド的規制は、手工業者の経済的地位を安定させましたが、のちに経済の自由な発展をさまたげるようになりました(ツンフト闘争)。
①中世都市は領主支配からの自由と自治を求め、自治都市となった
②「都市の空気は(人を)自由にする」:農奴が都市に1年と1日住めば自由になれた
③商人ギルドが市政を独占 → のちに同職ギルド(ツンフト)が分離し市政参加を実現(ツンフト闘争)
④ギルドの身分序列:親方・職人・徒弟
十字軍をきっかけとして東方貿易が拡大するなかで、中世ヨーロッパには二つの大きな商業圏が形成されました。
一つは地中海商業圏です。ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェ・ミラノなどの北イタリア都市が、東方から香辛料や絹織物を輸入して大きな利益を得ました。これらの都市は共和政の形態をとるものが多く、とくにヴェネツィアとジェノヴァは東地中海の制海権をめぐって激しく競い合いました。
もう一つは北ヨーロッパ商業圏です。バルト海・北海を中心に、毛織物・木材・穀物・魚などの取引が行われました。この商業圏では、リューベックを盟主とするハンザ同盟が結成され、14世紀に北ヨーロッパ商業圏を支配し、共同で武力を用いるなどして大きな政治勢力になりました。
二つの大商業圏を結ぶ内陸の通商路にも都市が発達しました。とくにフランスのシャンパーニュ地方は定期市(大市)で繁栄しました。この大市では、北イタリアの香辛料や絹とフランドル地方の毛織物が取引され、両商業圏をつなぐ重要な役割を果たしました。そのほかにも、イタリアとドイツを結ぶ南ドイツでは、ニュルンベルクやアウクスブルクなどの都市が発展しました。
| 商業圏 | 中心都市 | 主な商品 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| 地中海商業圏 | ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェ | 香辛料、絹織物、宝石 | 東方貿易(レヴァント貿易)の拠点 |
| 北ヨーロッパ商業圏 | リューベック、ブリュージュ | 毛織物、木材、穀物、魚 | ハンザ同盟が商業を主導 |
フィレンツェは毛織物業で繁栄しただけでなく、ヨーロッパの金融の中心地としても成長しました。メディチ家をはじめとする大商人たちは、為替手形や信用取引の技術を発達させ、ヨーロッパ各地の王侯に資金を貸し付けました。フィレンツェが鋳造したフローリン金貨はヨーロッパの国際通貨となりました。
①地中海商業圏:ヴェネツィア・ジェノヴァが東方貿易で繁栄
②北ヨーロッパ商業圏:ハンザ同盟(中心都市:リューベック)がバルト海・北海の商業を支配
③二つの商業圏の接点:シャンパーニュの大市
④フランドル地方の毛織物が北ヨーロッパ商業圏の主要商品
13世紀初めの教皇インノケンティウス3世のもとで、ローマ教皇の権威は最高潮に達しました。インノケンティウス3世は「教皇は太陽、皇帝は月」と称し、イギリス王ジョンやフランス王フィリップ2世を破門するなど、世俗の権力をもしのぐ力を誇りました。
しかし十字軍の失敗が重なるにつれて、教皇の権威は次第に低下していきました。そしてフランス王フィリップ4世との対立が、教皇権の衰退を決定的にしました。
13世紀末に教皇となったボニファティウス8世は教皇権の絶対性を主張し、聖職者への課税をめぐってイギリス・フランス国王と争いました。しかし1303年、フランス王フィリップ4世によって捕らえられ、まもなく釈放されましたが屈辱のうちに死にました(アナーニ事件)。
その後、教皇庁はローマから南フランスの都市アヴィニョンに移され、以後約70年間この地にとどまりました(1309〜77年)。この事態は「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれました。
のちに教皇がローマに戻ると、アヴィニョンにもフランスの後押しを受けて別の教皇が立ち、両教皇がともに正統性を主張して対立しました。これを教会大分裂(大シスマ)と呼びます(1378〜1417年)。教皇と教会の権威の失墜は決定的となりました。それとともに教会の堕落や腐敗を批判する運動が各地でおこりましたが、教会はこれらの動きを異端審問などによって厳しく弾圧しようとしました。大シスマはコンスタンツ公会議(1414〜18年)があらたに教皇を選出することで終わりました。
教会の権威が揺らぐなか、イングランドのウィクリフは聖書を信仰の拠りどころとする原点回帰を説き、教会の改革を訴えました。ウィクリフの思想はベーメン(ボヘミア)のヤン=フスに受け継がれ、フスも教会の腐敗を厳しく批判しました。二人はのちの宗教改革の先駆とされています。
大シスマを終結させたコンスタンツ公会議(1414〜18年)では、フスが異端に問われ、1415年に火刑に処されました。フスの処刑はベーメンの人々の激しい反発を招き、フス戦争(1419〜36年)が10年以上にわたって続きました。フス派の運動はチェコ語への聖書翻訳を推進するなど民族意識の高まりとも結びつき、19世紀のチェコ民族運動の源流の一つとなりました。
①インノケンティウス3世:教皇権の絶頂(「教皇は太陽、皇帝は月」)
②アナーニ事件(1303年):ボニファティウス8世が聖職者課税をめぐり英仏国王と対立 → フィリップ4世に捕らえられる
③教皇のバビロン捕囚(1309〜77年):教皇庁がアヴィニョンに移転
④教会大分裂(大シスマ)(1378〜1417年):教皇が並立。教会批判運動に対し異端審問で弾圧 → コンスタンツ公会議(1414〜18年)で解消
⑤ウィクリフ(イングランド)とフス(ベーメン)が教会改革を訴え → 宗教改革の先駆
フランス国王は、毛織物産地のフランドル地方を直接支配下におこうとしましたが、この地方に羊毛を輸出していたイギリス国王がこれを阻止しようとしました。カペー朝が断絶してヴァロワ朝がたつと、イギリス国王エドワード3世は、母がカペー家出身であることからフランス王位継承権を主張し、これをきっかけに両国のあいだに百年戦争が始まりました(1339〜1453年)。
はじめは長弓を駆使したイギリス軍が、クレシーの戦い(1346年)でフランス騎士軍を破るなど優勢で、エドワード黒太子の活躍によりフランス南西部を奪いました。フランス国内はさらに黒死病の流行やジャックリーの乱などで荒廃しました。
シャルル7世の時にはフランス王国は存亡の危機にありました。この時、神の啓示を信じた農民の娘ジャンヌ=ダルクが現れてフランス軍を率い、オルレアンの包囲を破ってイギリス軍を大敗させました。フランスは勢いを盛り返し、カレーを除く全領土を確保して、ついに戦争はフランスの勝利に終わりました(1453年)。この長期の戦争のため、フランスでは諸侯・騎士が没落しました。その一方でシャルル7世は大商人と結んで財政を立て直し、常備軍を設置したので、以後、中央集権化が急速に進展しました。
一方、戦後のイギリスではランカスター家とヨーク家による王位継承の内乱がおこりました。これをバラ戦争といいます(1455〜85年)。イギリスの諸侯・騎士は両派にわかれて激しく戦いましたが、その結果、彼らはともに没落しました。結局、内乱をおさめたランカスター派のヘンリ7世がテューダー朝を開きました。ヘンリ7世は統治制度を整え、星室庁裁判所を設けて反抗する者をおさえ、王権強化への道を開きました。
①百年戦争(1339〜1453年):原因は王位継承問題とフランドル地方の支配権争い
②ジャンヌ=ダルクがオルレアンの包囲を破りイギリス軍を大敗させる → フランスの勝利
③シャルル7世が大商人と結んで財政を立て直し、常備軍を設置 → フランスの中央集権化が急速に進展
④バラ戦争(1455〜85年):ランカスター家 vs ヨーク家の王位争い
⑤テューダー朝のヘンリ7世が即位し星室庁裁判所を設置 → イギリスの中央集権化
全般に低温多湿な時代であった14世紀には、天候不順の年が多く、しばしば凶作や飢饉にみまわれました。このようななかで、1348年から3年あまりでヨーロッパ全域に流行した黒死病(ペスト)は大きな衝撃を与えました。少なくとも全人口の約3分の1が失われたと推定されています。しかもペストはこの大流行ののちもしばしば諸地域を襲い、15世紀末になっても減少した人口が回復することはありませんでした。
ペストは中央アジアで発生したとみられ、黒海と地中海を経由する交易を活発に行っていたジェノヴァの港にこの伝染病が「輸入」されたことで、1347〜48年にかけてイタリアからヨーロッパ全土に拡大しました。ペストは人とものの動きに沿って街道すじを通って広まり、イスラーム世界や中国にも大きな被害を与えました。
ペストの猛威のなか、ユダヤ人が井戸に毒を入れたという根拠のない噂が流れ、各地でユダヤ人迫害が激化しました。ユダヤ人が集団虐殺される事件が相次ぎ、多くのユダヤ人がドイツやポーランドなど東ヨーロッパへの移住を余儀なくされました。この迫害は宗教的少数者への社会的不満の噴出という構造を典型的に示しています。
ペストの大流行は中世ヨーロッパの死生観を大きく変えました。死を擬人化した骸骨が、王侯から農民まであらゆる身分の人々を死の踊りに誘う「死の舞踏(ダンス=マカブル)」と呼ばれる芸術表現が流行しました。これは、死が身分や地位を問わずすべての人に平等に訪れるという観念を反映しています。また、この時代には「メメント=モリ(死を忘れるな)」という標語が広まり、美術・文学・音楽など中世末期の文化全般に影響を与えました。
人口の激減と気候の寒冷化は農業に打撃を与え、経済活動を全体的に収縮させました。しかし、深刻な労働力不足は農民の社会的立場を高め、領主への農奴的従属から解放される農民が増えました。領主は荘園での労働力を確保するために農民の待遇を向上させなければならず、封建的な束縛はますますゆるめられました。こうして荘園にもとづく経済体制は崩れはじめ、農奴身分の束縛から解放された農民が自営農民に成長していきました。とくに貨幣地代が早くから普及したイギリスでは、かつての農奴はヨーマンと呼ばれる独立自営農民になりました。農村や都市の労働者も、賃金高騰の恩恵を受けました。農奴制の衰退が加速したのです。
やがて経済的に困窮した領主が再び農民への束縛を強めようとすると、農民たちはこれに抵抗し、農奴制の廃止などを要求して各地で大規模な農民一揆をおこしました。14世紀後半のフランスのジャックリーの乱(1358年)やイギリスのワット=タイラーの乱(1381年)がそれです。一揆はいずれも鎮圧されましたが、領主層の没落はますます深刻になっていきました。
備兵や火砲の普及など戦法の変化も、騎士である封建貴族の没落を促しました。王権が強化されるなかで宮廷貴族として重用された一部の貴族を除いて、所領の経営を基盤とする封建貴族にとっては困難な時代が始まったのです。
一方、商業が拡大するにつれて、都市の市民たちは市場を統一する中央集権的な政治権力の出現を望みました。そこで国王は彼らと協力して諸侯をおさえ、権力集中をはかるようになりました。力を失った諸侯や騎士は国王の宮廷に仕える廷臣になり、領地では農民から地代を取り立てるだけの地主となりました。このようにして封建社会の政治体制は解体に向かい、西ヨーロッパ各国は中央集権国家に向けてそれぞれの歩みを始めました。
①1348年〜:気候の寒冷化・凶作・飢饉に加え黒死病(ペスト)が大流行。人口の約3分の1が失われ、15世紀末まで回復せず
②領主は農民の待遇を向上させざるを得ず、農奴制の衰退が加速。イギリスではヨーマン(独立自営農民)が出現
③ジャックリーの乱(1358年・フランス)・ワット=タイラーの乱(1381年・イギリス)
④封建社会の政治体制は解体に向かい、各国は中央集権国家への歩みを始めた
イギリスのジョン王は、フランス国王フィリップ2世と争ってフランスにおける領地の大半を喪失し、さらに教皇インノケンティウス3世とも争って破門されました。そのうえ財政困難におちいって重税を課したため、貴族は結束して王に反抗し、1215年にマグナ=カルタ(大憲章)を王に認めさせました。これは、新たな課税には高位聖職者と大貴族の会議の承認を必要とすることなどを定めたもので、ここにイギリス立憲政治の最初の基礎がおかれました。
つぎのヘンリ3世がマグナ=カルタを無視したため、シモン=ド=モンフォールは貴族を率いて反乱をおこし、王を破りました。そして以前からあった高位聖職者・大貴族の会議に州や都市の代表を加えて国政を協議しました(1265年)。これがイギリス議会の起源です。1295年にはいわゆる模範議会が招集され、さらに14世紀半ばには、議会は高位聖職者と大貴族を代表する上院(貴族院)と、州と都市を代表する下院(庶民院)とにわかれ、法律の制定や新課税には下院の承認が必要になりました。
フランスのカペー朝のもとでは、はじめ王権はきわめて弱い状態でした。しかし、12世紀末に即位した国王フィリップ2世はジョン王と戦って国内のイギリス領の大半を奪い、ルイ9世は異端のアルビジョワ派を征服して王権を南フランスにも広げました。さらにフィリップ4世は、ローマ教皇ボニファティウス8世との争いに際して、1302年に聖職者・貴族・平民の代表者が出席する全国三部会を開き、その支持を得て教皇をおさえ、王権をさらに強化しました。ただしフランスの三部会は、イギリスの議会ほど王権を制限する力を持ちませんでした。
| イギリス | フランス | |
|---|---|---|
| 身分制議会 | 模範議会(1295年〜) | 全国三部会(1302年〜) |
| 構成 | 高位聖職者・大貴族・州と都市の代表 | 聖職者・貴族・平民 |
| 王権との関係 | 14世紀半ばに上院・下院に分かれ、法律の制定や新課税に下院の承認が必要に | 王権強化の手段として利用される傾向 |
| 重要文書 | マグナ=カルタ(1215年) | ── |
マグナ=カルタ(大憲章)は、もともと国王と封建貴族の間の権利関係を定めたものであり、近代的な意味での「人権宣言」ではありません。しかし、「国王の課税には同意が必要」「法によらずに自由民を逮捕・拘禁しない」といった原則は、のちのイギリスの権利の章典(1689年)やアメリカ独立宣言にも影響を与え、立憲政治の源流とみなされています。
①マグナ=カルタ(1215年):ジョン王に貴族が認めさせた大憲章。課税に高位聖職者と大貴族の会議の承認が必要
②シモン=ド=モンフォールの議会(1265年):イギリス議会の起源
③模範議会(1295年)→ 14世紀半ばに上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制に発展
④全国三部会(1302年):フィリップ4世が教皇との争いに際し聖職者・貴族・平民の代表を召集
十字軍に始まる西ヨーロッパ世界の変容は、封建社会の動揺と中央集権国家の形成という大きな流れのなかにあります。十字軍は東方との交易を活発化させ、商業の復活と都市の成長を促しました。これにより封建領主に依存しない市民層が台頭し、貨幣経済が浸透していきます。14世紀のペストはこの変化を加速させ、農奴制の解体と封建社会の終焉を早めました。教皇権の衰退と王権の伸長は表裏一体であり、身分制議会の成立を経て、ヨーロッパは近世の主権国家体制へと向かっていくのです。
ペストの大流行は、歴史総合で学ぶ「感染症と人類の歴史」のテーマに直結します。14世紀のペストは社会構造を変えただけでなく、その後の公衆衛生の考え方にも影響を与えました。また、百年戦争を通じて形成されたイギリスとフランスの国民意識は、近代ナショナリズムの源流の一つとして歴史総合でも重要なテーマです。
十字軍は聖地回復に失敗したが東方貿易を活発化させ、都市の成長と商業の復活をもたらした。14世紀にはペスト・百年戦争・教皇権の衰退が封建社会を揺るがし、英仏では身分制議会を通じて中央集権化が進んだ。
Q1. 1095年、聖地回復のための遠征を呼びかけたローマ教皇は誰か。また、その呼びかけが行われた宗教会議の名称を答えよ。
Q2. 第4回十字軍が聖地ではなく攻撃・占領した都市はどこか。また、そこに建てられた国の名を答えよ。
Q3. バルト海・北海を中心に商業を支配した、北ドイツの商業都市リューベックを中心とする都市同盟を何というか。
Q4. 1303年にフランス王フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世を捕らえた事件を何というか。
Q5. 1215年にイギリスの貴族がジョン王に認めさせた、新たな課税には高位聖職者と大貴族の会議の承認を必要とすることなどを定めた文書を何というか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
1095年、ローマ教皇( ア )は( イ )宗教会議で聖地回復のための遠征を呼びかけた。第1回十字軍は1099年に聖地を占領し、( ウ )を建設した。第4回十字軍はビザンツ帝国の首都( エ )を攻撃・占領し、( オ )を建てた。
ア:ウルバヌス2世 イ:クレルモン ウ:イェルサレム王国 エ:コンスタンティノープル オ:ラテン帝国
十字軍の提唱から第4回十字軍までの基本事項を問う問題です。1095年のクレルモン宗教会議でウルバヌス2世が聖地回復を訴えたことが十字軍の始まりです。第1回十字軍が建設したイェルサレム王国は十字軍国家の代表例です。第4回十字軍がコンスタンティノープルを攻撃したことは十字軍の変質を象徴する出来事であり、ラテン帝国の建設は東西キリスト教世界の対立を深めました。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ○ (2) ×「ドイツの」→「南フランスの」 (3) ○ (4) ○
(1)について:サラディン(サラーフ=アッディーン)はアイユーブ朝の建国者で、1187年にイェルサレムを奪還しています。第3回十字軍(1189〜92年)ではリチャード1世らと戦い、イェルサレムの引き渡しを拒みました。(2)について:アヴィニョンは南フランスの都市です。ドイツではありません。1309年から1377年まで教皇庁がアヴィニョンに置かれた時期を「教皇のバビロン捕囚」と呼びます。アヴィニョンの位置(南フランス)は頻出です。
十字軍が西ヨーロッパの社会と経済に与えた影響について、「東方貿易」「封建領主」「北イタリア都市」の語句を用いて120字以内で説明せよ。
十字軍の輸送によりイタリアの諸都市は大いに繁栄し、東方貿易による東方との交易が盛んになった。ヴェネツィアやジェノヴァなどの北イタリア都市が成長する一方、あいつぐ遠征で諸侯や騎士など封建領主が没落し、逆に遠征を指揮した国王の権威が高まった。(118字)
この問題では十字軍の影響を経済面と社会面の両方から整理する必要があります。経済面では、東方貿易の拡大と北イタリア都市の繁栄をセットで述べます。社会面では、遠征費用による封建領主の没落と、その結果としての王権強化に触れます。三つの指定語句をすべて因果関係のなかに位置づけることがポイントです。