内乱を終結させたオクタウィアヌスは、アウグストゥスの称号を与えられ、帝政ローマの基礎を築きました。
約200年にわたる「ローマの平和」のもとで空前の繁栄と平和が続いた帝国は、やがて内外の危機に直面します。
この記事では、元首政の成立からパクス=ロマーナ、ローマ文化、3世紀の危機、専制君主政への転換、そして西ローマ帝国の滅亡までを学びます。
前27年、オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥス(「尊厳者」)の称号を与えられました。ここから帝政時代が始まりました。しかし彼は、「皇帝」として君臨したわけではありません。
アウグストゥスの政治体制は元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれます。彼は元老院など共和政の制度を尊重し、市民のなかの第一人者(プリンケプス)と自称しました。しかし、実際にはほとんどすべての要職を兼任して全権力を手中におさめており、事実上の皇帝独裁でした。
カエサルが元老院を無視して独裁を露骨に示し暗殺された教訓から、アウグストゥスは共和政の形式をあくまで維持することで、元老院や市民との衝突を避ける巧みな統治方式をとったのです。アウグストゥスは兵士たちを入植させ、首都の食料供給を整備して市民たちの生活を立て直すとともに、属州に対する搾取にも一定の歯止めをかけ、帝国を安定させました。
①アウグストゥス(オクタウィアヌス)が前27年に元老院から称号を与えられて成立
②「市民のなかの第一人者(プリンケプス)」を自称し、共和政の制度を尊重
③実質的にはほとんどすべての要職を兼任した事実上の皇帝独裁
④カエサルの暗殺の教訓から、独裁を前面に出さない巧みな統治方式
アウグストゥスの治世から約200年間の時代はパクス=ロマーナ(「ローマの平和」)と呼ばれ、空前の繁栄と平和が続きました。とくに五賢帝の時代はローマの最盛期でした。
五賢帝とは、ネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人の皇帝です。
なかでもトラヤヌス帝のときに、ローマ帝国の領土は最大となりました。ローマ風の都市が国境近辺にまで建設され、そのなかにはロンドン・パリ・ウィーンなど、のちに近代都市となったものも多くあります。ローマは都市を通して属州を支配し、都市の上層市民はローマ市民権を与えられるかわりに帝国支配に貢献しました。やがてローマ市民権の拡大は徹底し、212年、カラカラ帝のときには帝国の全自由人にローマ市民権が与えられました。商業活動も盛んとなり、季節風(モンスーン)貿易によって中国・東南アジア・南インドからは絹や香辛料がもたらされました。
また、最後の五賢帝であるマルクス=アウレリウス=アントニヌスは哲人皇帝といわれ、『自省録』を著しました。
①ネルウァ:五賢帝時代の開始(養子相続の慣行を確立)
②トラヤヌス:帝国の最大領土を実現(ダキア・メソポタミアまで拡大)
③ハドリアヌス:帝国各地を巡察、ブリタニアに長城を建設
④アントニヌス=ピウス:安定した平和の治世
⑤マルクス=アウレリウス=アントニヌス:「哲人皇帝」、ストア哲学、『自省録』を著す
ローマ人は、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する実用的文化において、すぐれた能力をみせました。ローマ帝国の文化的意義は、その支配を通して地中海世界のすみずみにギリシア・ローマの文化を広めたことにあります。
文芸においてはヘレニズム文化の影響を強く受けながら、ラテン語による文学作品を発展させました。『アエネイス』を著したウェルギリウス、叙情詩人ホラティウス、恋愛や神話を題材とした詩人オウィディウスなどがあらわれ、黄金時代とよばれます。歴史家では、リウィウスが「ローマ史」を記し、タキトゥスは「ゲルマニア」や「年代記」を著しました。また、百科全書ともいうべき『博物誌』がプリニウスによって書かれています。ラテン語はローマ字とともに帝国の西半に普及し、後世まで西ヨーロッパの学問や教会で使われる言語として重視されました。
帝国の東半では依然としてギリシア語が優勢であり、『対比列伝』を書いたプルタルコス、『地理誌』のストラボン、『天文学大全』で天動説の体系を説いたプトレマイオスらが出ました。
ヘレニズム思想はローマ人にも影響を及ぼし、文人政治家キケロは弁論や哲学に関する膨大な著作を残しました。ストア派などの実践哲学は衆目を集め、セネカ、エピクテトス、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝などが出ました。また、キケロやセネカの残した弁論作品や劇作は、ルネサンス以降のヨーロッパ文化に大きな影響を与えました。
ローマ法はローマ市民権者を対象とする市民法でしたが、ローマ市民権の開放にともなって、ヘレニズム思想や各地の慣習法をとりいれて万民法としての性格を強めました。これらの法令や学説は、やがて6世紀のユスティニアヌス帝の命令で『ローマ法大全』にまとめられました。中世のボローニャ大学でローマ法研究が復興し、その成果はフランスの民法典(ナポレオン法典)、ドイツ民法典、そして日本の民法典の基礎にもなっており、ローマ法は近代ヨーロッパ(そして日本を含む各国)の法体系に広く継承されています。
ローマの実用的文化がもっとも典型的に現れるのは、土木・建築技術です。アーチ構造を用いたすぐれた石積み建築法により、都市には浴場・凱旋門・闘技場が建設され、道路や水道橋もつくられました。コロッセウム(円形闘技場)・パンテオン(万神殿)・アッピア街道など今日に残る遺物も多くあります。
カエサルが導入したユリウス暦は、エジプトの暦に範をとった太陽暦で、平年を365日とし、4年に1回の閏年には366日としました。この暦法は、16世紀のグレゴリウス暦によって若干の修正をほどこされながら、今日に及んでいます。
ローマ帝国の拡大にともなって各地に都市がたてられ、公共施設をそなえた都市が地中海沿岸部だけでなく属州の内陸部でも繁栄しました。都市生活における民衆の不満をいやすものとして、富裕な貴族や市民による食料や娯楽の提供があり、「パンとサーカス」とよばれています。有力者は穀物や見世物(戦車競走・剣闘競技・演劇など)を提供する保護者であり、民衆は保護者の権威に従い、その統治を支持しました。
①ラテン語文学:ウェルギリウス(『アエネイス』)、ホラティウス(叙情詩)、リウィウス(「ローマ史」)、タキトゥス(「ゲルマニア」)、プリニウス(『博物誌』)
②ギリシア語文化圏:プルタルコス(『対比列伝』)、ストラボン(『地理誌』)、プトレマイオス(天動説)
③哲学:キケロ(弁論・哲学)、セネカ・エピクテトス(ストア派)
④法学:市民法 → ヘレニズム思想や各地の慣習法をとりいれ万民法へ → ユスティニアヌスの『ローマ法大全』
⑤建築:コロッセウム・パンテオン・水道橋・アッピア街道(アーチ構造)
⑥暦:ユリウス暦(カエサルが導入) → グレゴリウス暦の基礎
五賢帝最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の治世末期ごろから、帝国財政の行き詰まりや経済の不振がしだいにあらわになってきました。3世紀には各属州の軍団が独自に皇帝を立てて元老院と争い、短期間に多数の皇帝が即位する軍人皇帝時代になりました。その半世紀の間に、正統とみなされる皇帝だけでも26人にのぼり、そのうち24人は殺害されるという異常な時代でした。
また、北のゲルマン人や東のササン朝なども国境に侵入し、帝国は分裂の危機におちいりました。軍事力の増強のために都市は重税を課されて衰退し、都市の上層市民のなかには、重税を逃れるため都市を去って田園に大所領を経営する者が現れました。彼らは、都市から逃げ出した下層市民などを小作人(コロヌス)として大所領で働かせました。こうした小作制(コロナートゥス)はしだいに広がり、コンスタンティヌス帝のときにはコロヌスの農地からの移動が禁止されました。
284年に即位したディオクレティアヌス帝は、皇帝を神として礼拝させ、専制君主として支配しました。こうして政治体制は元首政から専制君主政(ドミナトゥス)へと変化しました。
ディオクレティアヌスは、帝国を東と西にわけ、それぞれを正帝と副帝の2人が統治する四分統治(テトラルキア)をしいて政治的秩序を回復しました。また軍の兵員を増やし、徴税の仕組みを新しくするなどの諸改革を断行して、分裂の危機を回避しました。
| 元首政(プリンキパトゥス) | 専制君主政(ドミナトゥス) | |
|---|---|---|
| 開始 | 前27年(アウグストゥス) | 284年(ディオクレティアヌス) |
| 皇帝の称号 | プリンケプス(市民のなかの第一人者) | ドミヌス(主人) |
| 共和政との関係 | 共和政の形式を尊重(元老院を重視) | 皇帝を神として礼拝させる専制支配 |
| 皇帝の権威 | 万人に優越する権威を主張 | 皇帝を神として礼拝させる |
| 統治方式 | 皇帝が単独で統治 | 四分統治(テトラルキア)の導入 |
ディオクレティアヌス帝の政策を引き継いだコンスタンティヌス帝(在位306〜337年)は、それまで迫害されてきたキリスト教を公認することで帝国の統一をはかるとともに、軍隊をさらに強化して帝国支配を安定させようとしました。とくに異民族を兵士として受けいれ、強力な野戦機動部隊を創設しました。また、ソリドゥス金貨を発行して地中海の国際交易の安定をはかりました。
313年、コンスタンティヌスはミラノ勅令によりキリスト教を公認しました。また、325年にはニケーア公会議を召集し、教義の統一にも関与しました。
さらにコロヌスを土地に縛りつけて税収入を確保し、下層民の身分や職業を世襲化しました。330年、彼はビザンティウムに新たな首都を建設してコンスタンティノープルと改称し、巨大な官僚体制を築きました。
しかし、膨大な数の軍隊と官僚を支えるための重税は、あいつぐ属州の反乱をまねきました。さらに375年に始まるゲルマン人の大移動によって帝国内部は混乱したため、帝国の分裂を防ぐことは困難になりました。
392年、テオドシウス帝はキリスト教を国教とし、異教の祭祀を禁止しました。
395年、テオドシウス帝は帝国を東西に分割して2子にわけ与えました。以後、地中海世界全体が一つの政権によって支配されることはありませんでした。
①キリスト教徒への迫害が断続的に行われる
②313年:コンスタンティヌス帝がミラノ勅令でキリスト教を公認
③325年:ニケーア公会議を召集し教義の統一をはかる(→ 4-6で詳述)
④392年:テオドシウス帝がキリスト教を国教化、異教の祭祀を禁止
⑤395年:テオドシウス帝が帝国を東西に分割して2子にわけ与える
ローマ帝国の北方一帯にいたゲルマン人は、4世紀後半になると、西進してきたフン人におされて移動を開始しました。
ローマを中心とする西ローマ帝国はゲルマン人の侵入で混乱をきわめ、ついに476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって西ローマ皇帝は退位させられ、ここに西ローマ帝国は滅亡しました。
一方、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は首都コンスタンティノープルを中心に商業と貨幣経済が繁栄し、その後1453年まで続きました。コンスタンティヌス帝が発行したソリドゥス金貨はノミスマと呼ばれて東ローマ帝国でも通用し続け、長い間信頼性の高い通貨として広範な地域で流通しました。6世紀のユスティニアヌス帝(在位527〜565年)は、北アフリカ(ヴァンダル王国)、イタリア(東ゴート王国)、イベリア半島南部(西ゴート王国の一部)を奪回し、一時地中海を「内海」として取り戻しました。また彼の治世に『ローマ法大全』が編纂され、東ローマ帝国はローマの法的・文化的遺産の継承者としての地位を示しました。
①4世紀後半:フン人の西進 → ゲルマン人の大移動が開始
②395年:テオドシウス帝が帝国を東西に分割
③476年:ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝を退位させる → 西ローマ帝国の滅亡
④東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は首都コンスタンティノープルを中心に1453年まで存続
ローマ帝国は、地中海世界を一つの政治秩序のもとに統合した、古代世界最大級の帝国でした。元首政から専制君主政への移行は、広大な領域を統治するための苦闘の歴史でもあります。キリスト教の公認と国教化は、西洋世界の精神的基盤を形づくりました。そして476年の西ローマ帝国の滅亡は、「古代」から「中世」への大きな転換点とされます。しかし東ローマ帝国は首都コンスタンティノープルを中心に存続し、ローマの遺産はかたちを変えながらも受け継がれていきました。
ローマ帝国の法体系は、歴史総合で学ぶ近代ヨーロッパの法制度の基礎になっています。ナポレオン法典(1804年)はローマ法の影響を強く受けており、近代市民社会の法的枠組みはローマにまで遡ることができます。また、ローマの道路網や都市計画は、近代のインフラ整備の先駆けともいえるでしょう。
前27年にアウグストゥスが元首政を始め、約200年のパクス=ロマーナが続いた。3世紀の軍人皇帝時代を経てディオクレティアヌスが専制君主政に移行。コンスタンティヌスがキリスト教を公認し、テオドシウスが国教化。395年に帝国は東西に分割され、476年に西ローマ帝国が滅亡した。
Q1. 前27年に元老院からアウグストゥス(「尊厳者」)の称号を与えられ、元首政(プリンキパトゥス)を始めたローマの初代皇帝は誰か。
Q2. 五賢帝のうち、ローマ帝国の領土を最大にした皇帝は誰か。
Q3. 284年に即位し、皇帝を神として礼拝させる専制君主政(ドミナトゥス)を始め、四分統治(テトラルキア)を導入した皇帝は誰か。
Q4. 313年にキリスト教を公認する勅令を発し、コンスタンティノープルに遷都した皇帝は誰か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
前27年、オクタウィアヌスは元老院から( ア )の称号を受け、( イ )(プリンキパトゥス)と呼ばれる政治体制を開始した。1〜2世紀の( ウ )時代には約200年にわたる平和が実現し、なかでも( エ )帝のときに帝国の領土は最大となった。この安定した時代を( オ )と呼ぶ。
ア:アウグストゥス イ:元首政 ウ:五賢帝 エ:トラヤヌス オ:パクス=ロマーナ
ローマ帝政の基本的な流れを問う問題です。アウグストゥスが「市民のなかの第一人者(プリンケプス)」を自称して始めた元首政は、共和政の制度を尊重しながらも事実上の皇帝独裁でした。五賢帝(ネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の名前と順番は頻出です。トラヤヌスのときに領土が最大になった点を押さえましょう。
ローマ帝国に関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) × 「ドミヌス」→「プリンケプス(市民のなかの第一人者)」 (2) ○ (3) × 「コンスタンティヌス帝は392年にキリスト教を国教とした」→「テオドシウス帝が392年にキリスト教を国教とした」(コンスタンティヌスは313年のミラノ勅令で公認) (4) ○
(1)について:アウグストゥスは「市民のなかの第一人者(プリンケプス)」を自称しました。皇帝を神として礼拝させる専制君主政を始めたのはディオクレティアヌスです。この違いが元首政と専制君主政の性格の違いを象徴しているので、セットで覚えましょう。(3)について:キリスト教の「公認」(313年ミラノ勅令、コンスタンティヌス)と「国教化」(392年、テオドシウス)の混同は頻出の誤りです。段階を区別して押さえましょう。
ローマ帝国が元首政から専制君主政へ移行した背景と、その政治体制の変化の内容について、「軍人皇帝」「ディオクレティアヌス」「四分統治」の語句を使って120字以内で説明せよ。
3世紀に各属州の軍団が独自に皇帝を立てる軍人皇帝時代の混乱が生じ、ゲルマン人やササン朝の侵入も加わった。ディオクレティアヌスは皇帝を神として礼拝させる専制君主政を導入し、帝国を東西に分けて正帝と副帝が統治する四分統治をしいた。(113字)
この問題では、(1)元首政が行き詰まった背景(各属州の軍団が独自に皇帝を立てる軍人皇帝時代の混乱と3世紀の危機)、(2)専制君主政への転換の内容(皇帝を神として礼拝させる専制支配と四分統治の導入)という2つの要素を盛り込む必要があります。元首政は共和政の制度を尊重する統治でしたが、広大な帝国を維持するには不十分になり、より強力な皇帝権力が必要とされました。