パレスチナの小さなユダヤ教の一派から生まれたキリスト教は、やがてローマ帝国全体に広がり、ヨーロッパ文明の精神的基盤となりました。
この記事では、ユダヤ教を母体としたキリスト教の誕生から、ローマ帝国での迫害と公認、教義の確立、そして教会組織の発展までを学びます。
キリスト教は、ユダヤ教を母体として誕生しました。ユダヤ教はヤハウェを唯一の神とする一神教で、ユダヤ人は神に選ばれた民(選民思想)として律法を守ることを重視しました。
前6世紀のバビロン捕囚以降、ユダヤ人は異民族の支配を受け続けました。前63年にはローマの将軍ポンペイウスがパレスチナを征服し、ユダヤ人はローマの支配下に置かれます。70年のローマによるイェルサレム神殿破壊後、多くのユダヤ人はパレスチナを離れ各地に散在するディアスポラ(離散)の状態となりました。各地のユダヤ人共同体では、神殿に依拠しない信仰の維持のため律法(トーラー)の解釈が集積され、3〜6世紀にかけて口伝律法の集成であるタルムードが編纂されました。こうした苦難のなかで、ユダヤ人の間には救世主(メシア)が現れて自分たちを解放してくれるという期待が高まっていきました。
1世紀の初め、パレスチナのガリラヤ地方にイエスが現れました。イエスは、当時ユダヤ教を指導していた祭司やパリサイ派が律法の形式的な実行を重んじてローマの支配を受け入れ、貧困に苦しむ民衆の声にこたえようとしなかったことを批判し、貧富の区別なくおよぼされる神の愛(絶対愛)と隣人愛を説いて、神の国の到来を約束しました。民衆はイエスを救世主(メシア、ギリシア語でキリスト)と信じて、その教えに従うようになりました。
しかし、祭司やパリサイ派はイエスをローマに対する反逆者として総督ピラトゥスに訴えたため、イエスは十字架にかけられて処刑されました(30年頃)。しかし、その後弟子たちは、イエスが復活し、その死は人間の罪をあがなう行為であったと信じるようになりました。この信仰を中心に、キリスト教が成立しました。
①ユダヤ教を母体として誕生。唯一神ヤハウェへの信仰を引き継ぐ
②イエスの教えの核心:神の愛と隣人愛、神の国の到来
③祭司やパリサイ派がローマ支配を受け入れ民衆を顧みなかったことを批判
④イエスの死は人間の罪をあがなう行為 → 復活信仰が成立の出発点
イエスの死後まもなく、ペテロやパウロらの使徒によって、伝道活動が始まりました。なかでもパウロは、神の愛は異邦人(ユダヤ人以外の民族)にもおよぶとして、ローマ帝国各地に布教し、キリスト教を広げました。
信徒の団体である教会(エクレシア)も、アナトリア・シリア・ギリシア、そして首都ローマにつくられました。その結果、3世紀頃までに、キリスト教はおもに奴隷・女性・下層市民など社会的弱者を中心に帝国全土に広がり、やがて上層市民にも信徒がみられるようになりました。
このあいだに『新約聖書』がギリシア語のコイネーで記され、『旧約聖書』とともにキリスト教の教典となりました。
こうして、キリスト教はユダヤ教の一派から地中海世界全体に広がる世界宗教へと成長しました。
キリスト教が生まれたころのローマでは、皇帝崇拝儀礼がしだいに強化されていました。唯一絶対神を信じるキリスト教徒は皇帝崇拝を拒み、国家祭儀に参加しなかったため、反社会集団とみなされるようになりました。
ネロ帝の迫害(64年)からディオクレティアヌス帝の迫害(303年)まで、民衆や国家から激しく迫害されました。しかし、それにもかかわらずキリスト教は帝国全土に拡大を続けました。この時期、ローマ帝国内ではミトラ教(ペルシア起源の太陽神信仰、特に兵士の間で普及)やイシス教(エジプト起源の女神信仰)など、東方の神秘宗教も広まっており、キリスト教はこれらと信者をめぐって競合しながら拡大しました。キリスト教が最終的に優位に立った要因のひとつは、社会階層や民族差をこえた普遍的な教義にあるとされます。
帝国の統一を維持するために、コンスタンティヌス帝は313年のミラノ勅令でキリスト教を公認しました。さらに324年、彼が全国を統一すると、キリスト教の公認は帝国全土に広がりました。
その後、「背教者」と呼ばれたユリアヌス帝の多神教復興による混乱もみられましたが、392年にテオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教とし、ほかの宗教を禁止しました。かつて迫害されていた宗教が、帝国唯一の公認宗教となったのです。
①ネロ帝の迫害(64年)〜ディオクレティアヌス帝の迫害(303年)
②コンスタンティヌス帝:313年ミラノ勅令でキリスト教を公認
③ユリアヌス帝:多神教復興を企てるも失敗(「背教者」)
④テオドシウス帝:392年にアタナシウス派キリスト教を国教とし、ほかの宗教を禁止
キリスト教が公認されると、教義をめぐる論争が大きな問題となりました。とくに「イエス(キリスト)は神と同じ存在なのか、それとも神に創られた被造物なのか」という問いは、教会を二分する大論争を引き起こしました。
コンスタンティヌス帝は教義の統一を図るため、325年にニケーア公会議を招集しました。これが初の公会議(全教会的会議)です。
この公会議では、キリストを神と同一視するアタナシウス派が正統教義とされ、キリストを人間であるとするアリウス派は異端とされました。アタナシウス派の立場は、父なる神・子なるキリスト・聖霊の三者は一体であるとする三位一体説として確立され、正統教義の根本となりました。
異端とされたアリウス派は、北方のゲルマン人のなかに広まりました。
431年のエフェソス公会議では、キリストの神性と人性とを分離して考えるネストリウス派が異端とされました。ネストリウス派はその後、ササン朝ペルシアを経て中国にまで伝わり、唐代には景教と呼ばれました。
451年のカルケドン公会議では、キリストの神性と人間性の合一を信じる単性論派(キリストの本性は神性のみであるとする立場)が異端とされました。単性論派はこれに反発し、エジプトのコプト教会、シリアのシリア正教会、アルメニアのアルメニア使徒教会などとして独自の発展を遂げ、現在に至ります。これらの教会はカルケドン公会議の決定を認めない「非カルケドン派」として、東方キリスト教の重要な一部を構成しています。
| 公会議 | 年 | 正統とされた教義 | 異端とされた派 | 異端派のその後 |
|---|---|---|---|---|
| ニケーア公会議 | 325年 | アタナシウス派(三位一体説) | アリウス派 | ゲルマン人に一時広まる |
| エフェソス公会議 | 431年 | キリストの神性と人性の統一 | ネストリウス派 | ササン朝を経て唐に伝播(景教) |
| カルケドン公会議 | 451年 | キリストに神性と人性の二つの本性が共存(両性論) | 単性論派 | コプト教会・シリア正教会・アルメニア使徒教会として存続 |
ニケーア公会議で異端とされたアリウス派は、ローマ帝国内では衰退しましたが、ゲルマン人のあいだに広まりました。西ゴート族やヴァンダル族などがアリウス派を信仰したのです。また、ネストリウス派はローマ帝国外のササン朝ペルシアに拠点を移し、シルクロードを通じて唐の長安にまで到達しました。正統・異端の区分はローマ帝国の権力構造と結びついていたため、帝国の外では「異端」の教えも自由に広がることができたのです。
キリスト教が国教化されるとともに、一般信徒を指導・監督する司教・司祭などの聖職者身分が成立し、教会の組織化が進みました。ローマ帝国末期には、なかでも重要な5つの都市の司教座が「五本山」として特別な権威を認められました。
このうち、ローマとコンスタンティノープルの二つが特に有力でした。ローマの司教(のちの教皇)は、使徒ペテロの後継者として全教会の首位権を主張しました。一方、コンスタンティノープルの総主教は東ローマ帝国の首都に位置する権威を背景に勢力を拡大します。この対立はのちの東西教会の分裂(1054年)へとつながっていきます。
キリスト教の広まりとともに、のちに教父と呼ばれることになる指導者たちが著作を残しました。『教会史』で知られるエウセビオスは、皇帝位は神の恩恵によって与えられるとしました。
また、北アフリカのヒッポの司教アウグスティヌス(354〜430年)は、若い頃マニ教に傾いたのちキリスト教に回心した人物で、『告白』で自らの回心の過程を記し、『神の国』でキリスト教の神の国が永遠であると主張しました。これらの教父たちは正統教義の確立につとめ、のちの神学の発展に貢献しました。エウセビオスの「皇帝位は神の恩恵によって与えられる」という考え方は、のちのビザンツ皇帝権の正統性や、西ヨーロッパの王権神授説にも根拠を与えることになりました。
キリスト教の国教化にともない、教会の世俗化を嘆き、厳しい修行を通じて信仰を深めようとする動きが生まれました。エジプトで始まった隠修士(隠遁者)の伝統をもとに、共同生活をしながら祈りと労働に励む修道院制度が発展します。
西方では、6世紀にベネディクトゥスが南イタリアのモンテ=カシノに修道院を設立し、「祈り、かつ働け」を基本とするベネディクト修道会(ベネディクト戒律)の規範を定めました。修道院はのちの中世ヨーロッパにおいて、学問の保存と伝達、農地の開墾、布教の拠点として重要な役割を果たすことになります。
①エウセビオス:『教会史』を著し、皇帝位は神の恩恵によるとした
②アウグスティヌス:マニ教からキリスト教に回心。『告白』(回心の記録)、『神の国』(神の国は永遠であると主張)
③ベネディクトゥス:モンテ=カシノに修道院を設立
④修道院の戒律:「祈り、かつ働け」(ベネディクト戒律)
キリスト教は、ユダヤ教という西アジアの一神教から生まれ、ローマ帝国という地中海世界の統一国家のなかで拡大しました。帝国の交通網と共通言語がなければ、これほど広範囲に広がることは困難だったでしょう。キリスト教の公認と国教化は、ローマ帝国の末期に帝国を精神面で統合する役割を果たしましたが、同時に教義論争や教会組織の対立という新たな課題も生みました。ローマ帝国の東西分裂と歩調を合わせるように、キリスト教世界もやがて東西に分かれていくことになります。
キリスト教は、歴史総合で学ぶ「帝国主義と植民地化」の時代に、ヨーロッパ列強の海外進出とともに世界各地に伝播しました。宣教師による布教活動は、文化的交流をもたらす一方で、植民地支配と結びつく側面もありました。キリスト教が世界宗教に成長する過程を理解することは、近代以降のヨーロッパと非ヨーロッパ世界の関係を考えるうえでも重要です。
ユダヤ教から生まれたキリスト教は、ペテロやパウロの伝道で地中海世界に拡大した。ローマ帝国で迫害されたのち、313年ミラノ勅令で公認、392年にアタナシウス派キリスト教が国教となった。公会議で三位一体説が正統とされ、五本山体制・修道院制度のもとで教会組織が整備された。
Q1. 313年にキリスト教を公認した勅令の名称と、それを発布した皇帝の名を答えよ。
Q2. 325年のニケーア公会議で正統とされた派の名称と、その教義の中心的な考え方を答えよ。
Q3. ユダヤ人以外の人々(異邦人)への布教を推進し、キリスト教を普遍的な宗教に発展させた使徒は誰か。
Q4. 『神の国』『告白』を著し、中世キリスト教思想に大きな影響を与えた教父の名前を答えよ。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
キリスト教はパレスチナで生まれた( ア )教を母体とし、( イ )の教えに基づく宗教である。使徒( ウ )の活動により異邦人にも広まり、313年に皇帝コンスタンティヌスが( エ )を発布して公認した。さらに392年には( オ )帝がキリスト教を国教とした。
ア:ユダヤ イ:イエス ウ:パウロ エ:ミラノ勅令 オ:テオドシウス
キリスト教の成立から国教化までの基本的な流れを押さえる問題です。ユダヤ教を母体として誕生し、パウロの異邦人伝道で拡大し、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令(313年)で公認、テオドシウス帝(392年)で国教化という流れは、最頻出テーマの一つです。
キリスト教の教義と教会組織に関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ×「アリウス派が正統とされ」→「アタナシウス派が正統とされ」、「アタナシウス派が異端とされた」→「アリウス派が異端とされた」 (2) ○ (3) ○ (4) ×「コンスタンティノープル」→「モンテ=カシノ」
(1)について:ニケーア公会議(325年)で正統とされたのはアタナシウス派(三位一体説)であり、アリウス派が異端とされました。正統と異端の入れ替えは頻出の引っかけパターンです。(4)について:ベネディクトゥスが修道院を設立したのは南イタリアのモンテ=カシノであり、コンスタンティノープルではありません。設立地の正確な把握が求められます。
キリスト教がユダヤ教の一派から地中海世界全体に広がる世界宗教へと発展した過程について、「パウロ」「異邦人」「ミラノ勅令」「国教」の語句を使って120字以内で説明せよ。
使徒パウロが神の愛は異邦人にもおよぶとして帝国各地に布教し、キリスト教は民族の枠を超えた普遍的宗教へと成長した。313年にコンスタンティヌス帝がミラノ勅令で公認し、392年にはテオドシウス帝がアタナシウス派キリスト教を国教としたことで、帝国全体に定着した。
この問題は、キリスト教が「ユダヤ教の一派」から「世界宗教」へと変化した過程を問うています。その過程には二つの段階があります。第一に、パウロの異邦人伝道によってキリスト教がユダヤ人の枠を超えたこと。第二に、ローマ帝国による公認・国教化で制度的な基盤を得たことです。この二つの段階をバランスよく記述することがポイントです。