1980年代後半、ソ連のゴルバチョフがペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を掲げて国内改革を進め、新思考外交によって米ソ対立の緩和に踏み出しました。この動きは東欧諸国にも波及し、1989年にはベルリンの壁が開放され、マルタ会談で冷戦の終結が宣言されました。1990年にはドイツ統一が実現し、1991年にソ連が消滅して独立国家共同体(CIS)が成立しました。一方、ユーゴスラヴィアでは民族対立が激化して内戦に発展しました。
この記事では、冷戦がどのように終結し、その後にどのような課題が生まれたのかを学びます。
1970年代以降、ソ連経済は計画経済の硬直化や軍事費の肥大化によって深刻な停滞に陥っていました。1979年に始まったアフガニスタン侵攻は泥沼化し、国際的な孤立と経済的負担を増大させました。
1985年、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、こうした危機を打開するため、大胆な改革に着手しました。
1986年、チョルノービリ(チェルノブイリ)原子力発電所で大規模事故が発生すると、ゴルバチョフはペレストロイカ(建て直し)をスローガンに社会主義体制の改革に着手しました。まず企業に経営上の自主性を与えるなどの経済改革を試みましたが、共産党自体は改革に消極的でした。そこでグラスノスチ(情報公開)をとなえて、世論の力で改革を推進しようとしました。
1989年には複数候補制の選挙にもとづく人民代議員大会が開かれ、さらに1990年にはゴルバチョフが共産党書記長のまま新設のソ連大統領に就任しました。しかし、グラスノスチによって共産党が過去におこなった弾圧や民族問題が表面化し、バルト三国をはじめとする共和国でソ連からの独立の動きがおこるなど、ソ連の求心力は低下していきました。
対外的には、ゴルバチョフは軍拡の負担から逃れるため、新思考外交をとなえてアメリカ合衆国に対話を呼びかけました。軍縮による財政赤字の削減を期待するレーガンもこれにこたえて、1985年11月に米ソ首脳会談が実現し、戦略核兵器の半減などに合意しました。1987年には中距離核戦力(INF)全廃条約が調印され、米ソ間の緊張緩和が進みました。これを受けて1989年、ソ連軍はアフガニスタンから撤退しました。
冷戦下の軍拡競争と計画経済の限界が、ソ連を根本的な改革へと追い込んだのです。
① ペレストロイカ(建て直し)=経済改革。企業に経営上の自主性を付与
② グラスノスチ(情報公開)=世論の力で改革を推進。複数候補制選挙の導入
③ 新思考外交=外交改革。軍拡の負担から逃れるため米国に対話を呼びかけ。INF全廃条約調印、アフガニスタン撤退
① 1987年にゴルバチョフとレーガンのもとで調印
② 米ソ両国が中距離核戦力を全廃することに合意
③ 核兵器の特定カテゴリを完全に撤去する初の条約→冷戦終結への転換点
ゴルバチョフは、ソ連軍駐留経費などの課題を抱える東欧支配の見直しもはかり、1988年には、今後東欧諸国に内政干渉をおこなわないと表明しました。この方針転換が、各国の民主化運動を一気に加速させました。
東欧革命の先駆けとなったのはポーランドです。1980年からワレサを指導者とする自主管理労働組合「連帯」が組織され、政府に改革を求めていました。1989年に複数政党制のもとで選挙がおこなわれ、圧勝した「連帯」を中心とする連立政権が発足しました。
同年、ハンガリーでも複数政党制が導入され、チェコスロヴァキア・ブルガリアでも民主化運動が高まり、共産党独裁体制が終わりを迎えました。
チェコスロヴァキアでは、1989年11月に大規模な民主化要求デモが起こり、共産党政権は崩壊しました。この体制転換は流血を伴わずに実現したため、ビロード革命(「ビロードのように滑らかな革命」の意)と呼ばれます。劇作家のハヴェルが大統領に就任しました。
ソ連が東欧への軍事介入を放棄したことが最大の要因であり、一国の成功が隣国に波及する連鎖反応を生みました。
| 国 | 年 | 特徴 | キーワード |
|---|---|---|---|
| ポーランド | 1989年 | 複数政党制のもとで選挙→「連帯」が圧勝→連立政権が発足 | ワレサ、「連帯」 |
| ハンガリー | 1989年 | 複数政党制が導入され、民主化運動が高まる | 複数政党制 |
| チェコスロヴァキア | 1989年 | 民主化運動が高まり、共産党独裁体制が終わりを迎える | ビロード革命 |
| 東ドイツ | 1989年 | ホネカー書記長が失脚し、ベルリンの壁が開放 | ベルリンの壁開放 |
| ルーマニア | 1989年 | チャウシェスクの独裁体制に対し反体制運動が勝利 | チャウシェスク |
東ドイツでも、改革に抵抗するホネカー書記長が失脚し、1989年11月9日にベルリンの壁が開放されました。1961年以来28年にわたって西ベルリンを囲んでいた壁の開放は、冷戦の終結を象徴する歴史的な出来事となりました。
ベルリンの壁開放後、東西ドイツ統一への動きが急速に進みました。1990年10月、米・ソ・英・仏の同意を得て、西ドイツが東ドイツを吸収することで統一ドイツが誕生しました。
① 改革に抵抗するホネカー書記長が失脚
② 1989年11月9日 ベルリンの壁が開放される
③ 米・ソ・英・仏の同意を得て統一の国際的条件を合意
④ 1990年10月 西ドイツが東ドイツを吸収→統一ドイツが誕生
1989年12月、アメリカのブッシュ(父)大統領とゴルバチョフは、地中海のマルタ島沖で首脳会談(マルタ会談)を開催し、冷戦の終結を宣言しました。1945年のヤルタ会談で形作られた東西対立の構図が、約44年を経て終わりを迎えたのです。
1991年には、米・ソのあいだで第1次戦略兵器削減条約(START I)が成立し、さらにコメコンとワルシャワ条約機構も解消されました。しかしソ連国内では、言論の自由が認められたことで、共産党が過去におこなった弾圧や資本主義の優位がさかんに語られるようになりました。バルト三国はソ連からの離脱を求め、ほかの共和国でもナショナリズムが高まり、中央政府からの自立傾向が強まりました。
1991年8月、連邦制の維持と秩序の回復を目的として、政府内の共産党保守派がクーデターをおこしましたが、エリツィンを中心とする市民の抵抗によって失敗しました。これをきっかけにソ連共産党は解散し、バルト三国は独立しました。
1991年12月、エリツィンはウクライナ・ベラルーシの指導者と独立国家共同体(CIS)を結成し、同月末にソ連は消滅しました。冷戦の終結は、東欧革命やマルタ会談などを経て段階的に進行し、ソ連消滅によって完了したといえます。
① グラスノスチにより共産党の過去の弾圧が語られ、各共和国でナショナリズムが高まる
② 1991年8月 保守派のクーデター→エリツィンを中心とする市民の抵抗で失敗
③ ソ連共産党が解散、バルト三国が独立
④ 1991年12月 エリツィンがウクライナ・ベラルーシとCISを結成→ソ連消滅
ユーゴスラヴィアでは、ティトーが死去したのち、冷戦の終結と東欧革命の影響を受けて各民族のナショナリズムが台頭し、一連の内戦が発生しました。まず1991年、クロアチアとスロヴェニアが独立を宣言すると、ユーゴスラヴィアの維持を望むセルビアと衝突しました。スロヴェニアは短期の紛争を経て独立しましたが、クロアチアでは内戦が続きました。
1992年にはボスニア=ヘルツェゴヴィナも独立宣言ののちに内戦に突入しました。これらの内戦は1995年まで続きましたが、クロアチアとボスニア=ヘルツェゴヴィナは独立を達成しました。
さらに1996年、アルバニア系住民の多いコソヴォ地方の分離運動が活発化し、これをセルビア政府が弾圧して紛争が本格化すると、1999年にNATO軍が介入してセルビアを空爆しました。こうした一連の体制転換と民族紛争は、冷戦後の世界が直面する新たな課題を象徴する出来事でした。
冷戦期には、米ソの影響力や共産党の一党支配が民族間の対立を抑え込んでいました。しかし冷戦が終結し、東欧やソ連で共産党体制が崩壊すると、それまで抑えられていた民族主義が一気に噴出しました。ユーゴスラヴィアやソ連では、連邦を構成していた共和国がそれぞれ独立を求め、国境線の画定や少数民族の扱いをめぐって激しい紛争が生じたのです。冷戦の終結は「平和の到来」であると同時に、新たな紛争の引き金でもありました。
① ティトー大統領死去(1980年)後、民族対立が激化
② 1991年 スロヴェニア・クロアチアが独立宣言→内戦勃発
③ ボスニア=ヘルツェゴヴィナで3民族が衝突→民族浄化
④ 1995年 デイトン合意でボスニア内戦終結
⑤ 1998〜99年 コソヴォ問題→NATOがセルビアを空爆
冷戦の終結は、「歴史総合」の「グローバル化と私たち」で扱われる重要テーマです。冷戦構造がなぜ約半世紀にわたって維持され、どのように終結したのかという過程を理解することは、現代の国際秩序を考えるうえで不可欠です。また、冷戦後の民族紛争や地域紛争は、今日まで続くグローバルな課題の出発点です。
ゴルバチョフはペレストロイカ・グラスノスチ・新思考外交でソ連の改革を進め、INF全廃条約で核軍縮を実現した。1989年に東欧革命とベルリンの壁開放が起こり、マルタ会談で冷戦終結が宣言された。1990年にドイツが統一され、1991年にソ連が消滅しCISが成立した。一方、ユーゴスラヴィアでは民族紛争が激化した。(149字)
Q1. 1985年にソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカやグラスノスチを推進した指導者は( )である。
Q2. 1987年に米ソ間で締結され、中距離核戦力の全廃を定めた条約を( )という。
Q3. ポーランドでワレサが指導した、東欧で初の非共産党政権誕生のきっかけとなった自主管理労働組合の名称は( )である。
Q4. チェコスロヴァキアで1989年に起きた、流血を伴わない体制転換を( )と呼ぶ。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) ゴルバチョフが推進した経済改革を( ア )、情報公開を( イ )という。
(2) 1989年11月9日に開放された、東西分断の象徴は( ウ )である。
(3) 1989年12月、ブッシュ大統領とゴルバチョフが冷戦終結を宣言した会談を( エ )という。
(4) 1991年にソ連解体後に成立した、旧ソ連諸国による国家間の枠組みを( オ )という。
ア:ペレストロイカ イ:グラスノスチ ウ:ベルリンの壁 エ:マルタ会談 オ:独立国家共同体(CIS)
(1)について:ペレストロイカは「建て直し」、グラスノスチは「情報公開」を意味するロシア語です。(2)について:ベルリンの壁は1961年以来28年にわたって西ベルリンを囲んでいた壁で、1989年11月9日に開放されました。冷戦終結を象徴する出来事として頻出です。(3)について:マルタ会談は地中海のマルタ島沖で行われました。「ヤルタからマルタへ」と表現されることもあります。(4)について:CIS(Commonwealth of Independent States)はロシア・ウクライナ・ベラルーシの3か国が創設に合意し、旧ソ連の多くの共和国が参加しました。
次の問いに答えよ。
(1) 1989年に東欧で最初に非共産党政権が誕生した国名と、その中心となった組織の名称を答えよ。
(2) 東西ドイツ統一の国際的条件を取り決めた交渉の通称を答えよ。
(3) ユーゴスラヴィア内戦のうち、ボスニア内戦を終結させた1995年の合意の名称を答えよ。
(1) ポーランド、「連帯」(自主管理労働組合「連帯」)
(2) 「2+4」交渉
(3) デイトン合意
(1)について:ポーランドでは1989年の円卓会議を経て自由選挙が実施され、ワレサが率いる「連帯」が圧勝して東欧初の非共産党政権が成立しました。(2)について:「2+4」の「2」は東西ドイツ、「4」は米英仏ソの4大国を指します。統一ドイツのNATO加盟をソ連が承認したことが重要です。(3)について:アメリカの仲介により、オハイオ州デイトンで合意が成立しました。ボスニア=ヘルツェゴヴィナを2つの構成体(ムスリム・クロアチア連邦とセルビア人共和国)に分ける枠組みが定められました。
1985年から1991年にかけて、冷戦が終結しソ連が解体に至った過程を、「ペレストロイカ」「ベルリンの壁」「マルタ会談」の語句を使って150字以内で説明せよ。
1985年に就任したゴルバチョフはペレストロイカを進め、新思考外交で米ソ関係を改善した。ソ連が東欧への介入を放棄したことで1989年に東欧革命が起こり、ベルリンの壁が開放された。同年のマルタ会談で冷戦終結が宣言され、翌年ドイツが統一された。しかしソ連国内では民族独立運動が加速し、1991年にソ連は消滅した。(148字)
この問題では、ゴルバチョフの改革→東欧革命とベルリンの壁開放→マルタ会談による冷戦終結宣言→ソ連消滅という因果の連鎖を論理的に記述することが求められます。改革が東欧に波及した点と、改革がソ連自体の解体にもつながった点の両面に触れることが重要です。