1960年代から70年代にかけて、米ソ両陣営の結束にゆらぎが生じます。アメリカはベトナム戦争の泥沼に苦しみ、中国では文化大革命の混乱が広がりました。中ソ対立が深まるなか、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問するという劇的な転換が起こります。米ソ間ではデタント(緊張緩和)が進みましたが、石油危機やイラン革命、ソ連のアフガニスタン侵攻によって、冷戦体制は新たな局面を迎えます。
この記事では、冷戦の二極構造がゆらぎ始めた1960年代から1980年代初頭までの激動を学びます。
1954年のジュネーヴ休戦協定でベトナムは南北に分かれました。ベトナム共和国(南ベトナム)では、ゴ=ディン=ジエム政権が独裁体制を固めるなか、1960年に南ベトナムの解放をめざす南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と連携してゲリラ戦を展開しました。
1963年にジエム政権が軍のクーデタによって倒れたのち、アメリカ合衆国のケネディ政権は南ベトナムへの軍事援助を本格化させました。北ベトナム正規軍が南ベトナムへ派遣されると、1965年に合衆国のジョンソン政権は北ベトナムへの爆撃(北爆)と大規模な軍事介入に踏みきりました。
ソ連と中国の軍事援助に支えられた北ベトナムと解放戦線は、ゲリラ戦を展開し、近代兵器で武装した米軍に粘り強く対抗しました。1968年までに合衆国は約50万人の地上兵力を南ベトナムに派遣しましたが、戦局は泥沼化する一方でした。ベトナム戦争に対して国際世論は批判を高め、合衆国の世論も二分されました。1968年、合衆国は北爆を停止し、北ベトナム側とパリで和平交渉に入りました。
1973年にベトナム(パリ)和平協定が実現し、ニクソン大統領は米軍を南ベトナムから撤退させました。1975年、北ベトナム軍と解放戦線はサイゴン(現ホーチミン)を占領し、翌1976年に南北を統一したベトナム社会主義共和国が成立しました。
カンボジアでは、1975年にポル=ポトの指導する急進左派が勝利し、農業を基盤とした共産主義社会の建設を強行して、知識人をはじめ多数の人々を処刑しました。しかし78年末にベトナムが軍事介入しこの政権を倒しました。ラオスでも1975年に左派のラオス愛国戦線が勝利し、ラオス人民民主共和国が成立しました。
ベトナム戦争は、超大国アメリカが軍事力だけでは戦争に勝てないことを示し、アメリカの威信を大きく傷つけました。
① 1964年 トンキン湾事件→アメリカの本格介入の口実
② 1965年 北爆開始・地上部隊の大量派遣
③ 1968年 テト攻勢→反戦運動の激化
④ 1973年 パリ和平協定→アメリカ軍撤退
⑤ 1976年 南北統一→ベトナム社会主義共和国成立
1956年6月、ポーランドのポズナニで生活改善と民主化を要求する市民が軍と衝突しました(ポズナニ暴動)。同国の共産党は、党内改革派のゴムウカを指導者に選出して経済改革により事態を収拾し、ソ連の軍事介入を防ぎました。
同年10月、ハンガリーでも民主化とソ連軍からの離脱を求める大規模な運動がおこり、首相のナジもこれを支持しました。しかし、ソ連は軍事介入によってこの動きを鎮圧し、のちにナジを処刑しました(ハンガリー事件)。ポーランドでは改革派の指導者交代と経済改革により事態を収拾して軍事介入を免れましたが、ハンガリーではソ連軍からの離脱を求めたために武力鎮圧を招いたのです。
チェコスロヴァキアでは1968年、ドプチェクを指導者とする改革派が「人間の顔をした社会主義」を掲げ、報道の自由や経済の自由化など幅広い民主化改革(プラハの春)を推進しました。しかし同年8月、ソ連はチェコスロヴァキアへの改革が社会主義陣営全体への脅威になると判断し、ワルシャワ条約機構の5か国の軍を投入してチェコスロヴァキアに侵攻し、改革を武力で鎮圧しました。
ソ連のブレジネフ書記長は、社会主義陣営の国が社会主義の枠組みを逸脱しようとする場合、他の社会主義国が干渉する権利をもつというブレジネフ=ドクトリン(「制限主権論」)を唱えてこの行動を正当化しました。これは東欧の改革運動を大きく抑圧しましたが、一方でソ連の圧倒的支配に対する不満が東欧諸国で根深く残ることにもなりました。
① 1956年 ポズナニ暴動(ポーランド)→ゴムウカが指導者に就任、経済改革で事態を収拾
② 1956年 ハンガリー事件→首相ナジが民主化を支持、ソ連が軍事介入し鎮圧。のちにナジを処刑
③ 1968年 チェコスロヴァキアでプラハの春(ドプチェク政権)
④ ソ連がワルシャワ条約機構5か国軍を投入して武力鎮圧
⑤ ブレジネフ=ドクトリン(「制限主権論」)でソ連の干渉を正当化
中国では、大躍進政策の失敗後に経済の立て直しをおこなっていた劉少奇・鄧小平ら改革派に対抗して、1966年に毛沢東はプロレタリア文化大革命という新たな運動を全国に呼びかけました。若い世代を中心に紅衛兵など全国的な大衆運動が組織され、劉少奇や鄧小平らは「資本主義復活をはかる実権派」として迫害され、失脚に追い込まれました。
文化大革命によって政治・経済・社会の全体にわたって混乱や貧困が広がり、多くの犠牲者が出ました。1971年、毛沢東の後継者とみられた林彪が失脚し、1976年1月には周恩来首相が、また同年9月には毛沢東が死去すると、文化大革命を主導した毛沢東夫人の江青ら「四人組」が逮捕されました。これを受けて1977年、深刻な社会的混乱をもたらした文化大革命の終了が宣言されました。復権した鄧小平を中心とする新指導部は、計画経済から市場経済への転換をはかり、1978年以降、農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」など改革開放路線を推進していきました。
毛沢東はアメリカ合衆国との対決路線をとり、ソ連の平和共存路線を批判しました。これに対してソ連は、1960年に中国への経済援助を停止して技術者を引き揚げましたが、中国は自力で原爆、ついで水爆の開発に成功しました。平和共存の是非をめぐる中ソ論争は、1963年から公開論争となり、両国の対立(中ソ対立)は世界が知るところとなりました。1969年には中ソ国境で軍事衝突もおこりました。
中ソ対立は、社会主義陣営が一枚岩ではないことを世界に示し、冷戦の二極構造を大きくゆるがせました。
① 1966年、毛沢東が党内の実権奪回のために発動
② 紅衛兵を動員し、劉少奇・鄧小平ら「実権派」を打倒
③ 旧思想・旧文化の破壊を掲げ、知識人を迫害・文化財を破壊
④ 1976年の毛沢東死去後、四人組の逮捕で収束
① フルシチョフのスターリン批判・平和共存路線に中国が反発
② ソ連が中国への技術援助を打ち切り
③ イデオロギーをめぐる路線対立が激化
④ 1969年、珍宝島(ダマンスキー島)で武力衝突
中ソ対立の激化のなか、国際的に孤立していた中国は、アメリカ合衆国との関係改善をはかるようになりました。ベトナム戦争で威信がゆらいでいた合衆国も、国際社会での主導権を再確立するために中国への接近をはかり、1972年にニクソンが中国を訪問し、毛沢東とのあいだで関係正常化に合意しました。
突然の米中接近は日本にも衝撃を与え、同年に田中角栄首相が北京を訪問して国交を正常化し、1978年に日中平和友好条約を締結しました。1979年には米中の国交正常化が実現しました。また、国際連合では1971年に台湾にかわって北京政府の代表権が承認されました。
ヨーロッパでは、フランスのド=ゴール大統領がアメリカ合衆国に対して自立的な外交政策を追求し、核兵器を保有して中華人民共和国を承認したほか、1966年にはNATOへの軍事協力を拒否しました。こうした動きに続き、1969年に西ドイツで戦後はじめて社会民主党を中心とする連立政権が成立すると、ブラント首相がソ連・東欧諸国との関係改善をはかる東方外交を開始し、1970年にはポーランドと戦後国境(オーデル=ナイセ線)を認め国交正常化条約を締結しました。ヨーロッパで進む緊張緩和(デタント)に米・ソも歩調をあわせ、1969年からは米ソ両国間で第1次戦略兵器制限交渉(SALT I)が始まりました。1972年に米・英・仏・ソ4国がベルリンの現状維持協定を結んだのを受けて、同年末に東西両ドイツが相互に承認し、翌1973年には両国ともに国際連合に加盟しました。1975年、フィンランドのヘルシンキで、アルバニアを除く全ヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国・カナダの首脳が参加して全欧安全保障協力会議(CSCE)が開催され、主権尊重、武力不行使、科学・人間交流の協力などをうたったヘルシンキ宣言が採択されました。
アメリカは1949年の中華人民共和国成立以来、一貫して中華民国(台湾)を「中国の正統な政府」と位置づけ、中華人民共和国とは国交をもっていませんでした。朝鮮戦争では米中が直接戦火を交えてもいます。そのアメリカの大統領が北京を訪問したのですから、世界に大きな衝撃を与えました。日本政府にも事前の通告がなかったため「ニクソン=ショック」と呼ばれました。この米中接近を受け、日本も1972年に日中国交正常化に踏み切りました。
| 年 | 出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 1966年 | フランスがNATOへの軍事協力を拒否 | ド=ゴールの自立外交。核保有・中華人民共和国の承認も |
| 1969年 | SALT開始 | 米ソの戦略兵器制限交渉が始まる |
| 1971年 | 中国の国連代表権移行 | 中華人民共和国が国連の「中国」代表に |
| 1972年 | ニクソン訪中 | 米中接近の実現。対ソ牽制の意味も |
| 1972年 | SALT I 調印 | 米ソが初めて戦略核兵器の数量に上限を設定 |
| 1975年 | ヘルシンキ宣言 | 全欧安全保障協力会議。国境の現状確認と人権尊重 |
| 1979年 | 米中国交正常化 | アメリカが中華人民共和国を正式に承認 |
① 背景:中ソ対立の深刻化+アメリカのベトナム戦争の行き詰まり
② 1972年、ニクソン訪中(キッシンジャーが事前に極秘訪問)
③ 影響:冷戦の二極構造が崩れ、多極化が進む。日中国交正常化にも波及
1967年にアラブ諸国とイスラエルとのあいだで第3次中東戦争が勃発しました。6日間の戦闘でイスラエルは圧勝し、シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、ゴラン高原、東イェルサレムなどを占領し、領土を大幅に拡大しました。この結果、エジプトのナセル大統領の権威は失墜してアラブ民族主義は退潮し、多数のパレスチナ難民が新たに発生して、パレスチナ解放機構(PLO)の抵抗運動が活発化しました。
1973年にエジプト・シリアとイスラエルとのあいだで第4次中東戦争が勃発すると、アラブ諸国を含む石油輸出国機構(OPEC)はイスラエルを支援する西側諸国に圧力をかけるため、原油価格を引き上げました。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)も、イスラエル支援国に対する原油輸出を禁止しました(石油戦略)。
こうしたアラブ諸国による石油戦略の結果、西側諸国では急激な物価高が生じました(第1次石油危機〈オイル=ショック〉)。ドル=ショックとオイル=ショックは世界的な不況を引きおこし、安価な原油を前提としてきた先進国の好景気は終わりました。
さらに1979年のイラン革命をきっかけに原油価格がふたたび高騰し、第2次石油危機がおこりました。石油危機は、中東の産油国が国際政治において大きな発言力をもつようになったことを示す出来事でした。
石油危機は、資源をめぐる国際関係が世界経済を左右する時代が到来したことを示しました。
| 戦争・出来事 | 年 | 内容 |
|---|---|---|
| 第3次中東戦争 | 1967年 | イスラエルが圧勝。シナイ半島・ガザ・ヨルダン川西岸・ゴラン高原・東イェルサレムを占領。ナセルの権威失墜 |
| 第4次中東戦争 | 1973年 | エジプト・シリアがイスラエルに奇襲。石油戦略の発動 |
| 第1次石油危機 | 1973年 | OAPECの石油戦略で原油価格が約4倍に高騰 |
| 第2次石油危機 | 1979年 | イラン革命に伴い原油供給が不安定化、再び価格高騰 |
アラブ世界に属さないイランでは、1960年代に国王パフレヴィー2世が、アメリカ合衆国の後ろ盾のもとで「白色革命」と呼ばれる近代化政策に取り組み、女性参政権の導入や土地改革などを進めました。しかし、保守的な宗教界やそれと結びついた大土地所有者は反発し、さらに強権的な政治手法や対米従属に対する市民の抗議運動も広まりました。
1979年、抗議運動の激化による国王の亡命につづいて、国外に追放されていた反体制派の宗教学者ホメイニが帰還して、イスラームの教えにもとづくイラン=イスラーム共和国を打ちたてました(イラン=イスラーム革命)。
イランの新体制が欧米系石油企業を追放して原油生産を国有化すると、これをきっかけに原油価格が高騰し、第2次石油危機がおこりました。イランと合衆国との関係が悪化するなか、翌1980年には、合衆国の支援を受けたイラクのサダム=フセインがイランを攻撃してイラン=イラク戦争が始まり、決着がつかぬまま1988年まで続きました。
さらに1979年末、ソ連が社会主義政権を支援するためにアフガニスタンへ軍事侵攻しました(アフガニスタン侵攻)。アメリカ合衆国とパキスタンは、アフガニスタン政府とソ連軍に抵抗するイスラーム武装勢力(ムジャーヒディーン)を支援しました。
合衆国をはじめとする西側諸国はソ連の侵攻を強く非難し、1980年のモスクワ=オリンピックを日本や合衆国など西側諸国がボイコットしました。このソ連のアフガニスタン侵攻によって米ソ関係は冷え込み、1970年代に進んでいたデタントは終わりを迎えました(「新冷戦」と呼ばれることもあります)。
ソ連軍は圧倒的な軍事力をもちながらも、山岳地帯でのゲリラ戦に苦しみ、戦局を打開できませんでした。約10年にわたる駐留は、ソ連の経済と国民の士気に大きな負担をかけ、1989年に撤退しました。ベトナム戦争のアメリカと同様に、超大国がゲリラ戦に敗れた事例として「ソ連のベトナム」と呼ばれることがあります。この経験はソ連の弱体化を加速させ、冷戦終結への一因となりました。
① イラン革命→親米のパフレヴィー朝崩壊。イスラーム共和国の成立。第2次石油危機
② ソ連のアフガニスタン侵攻→西側諸国が非難、モスクワ五輪ボイコット
③ 2つの出来事によりデタントが終焉→「新冷戦」の時代へ
1960年代から80年代初頭にかけて、冷戦の二極構造は大きくゆらぎました。ベトナム戦争でのアメリカの挫折、中ソ対立による社会主義陣営の分裂、米中接近とデタント、そして石油危機・イラン革命・アフガニスタン侵攻という一連の出来事は、世界が単純な東西二分ではとらえきれない複雑な多極構造へと変化していったことを示しています。
歴史総合では「グローバル化と私たち」の単元で、石油危機が日本経済や人々の暮らしに与えた影響を学びます。世界史探究で学ぶ中東戦争や石油戦略の背景を理解することで、石油危機がなぜ起きたのか、その構造的な原因を深く理解できます。また、冷戦期の東西対立と日本の立場についても、歴史総合の学習と結びつけて考えると効果的です。
ベトナム戦争でのアメリカの挫折と中ソ対立の深化を背景に、ニクソン訪中やSALTなどデタントが進んだ。しかし石油危機・イラン革命・ソ連のアフガニスタン侵攻により、冷戦体制は動揺し新冷戦に転じた。(95字)
Q1. 1964年、アメリカがベトナム戦争に本格介入するきっかけとなった事件は( )である。
Q2. 1966年に毛沢東が発動し、紅衛兵を動員して「実権派」を打倒した運動は( )である。
Q3. 1972年にアメリカのニクソン大統領が中国を訪問する前に、極秘で北京を訪問した大統領補佐官は( )である。
Q4. 1973年の第4次中東戦争を機に、OAPECが石油戦略を発動したことで起きた経済的混乱を( )という。
Q5. 1975年に採択された、ヨーロッパの安全保障と人権尊重を定めた文書は( )である。
Q6. 1979年にイスラーム革命を指導し、イラン=イスラーム共和国を樹立した宗教指導者は( )である。
Q7. 1979年のソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、西側諸国がボイコットしたのは1980年の( )オリンピックである。
Q8. 1969年に中ソ国境で武力衝突が発生した島の名称は( )である。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) 1964年、北ベトナム沖で起きた( ア )事件を口実に、アメリカはベトナムへの本格的な軍事介入を開始した。
(2) 1968年の旧正月に南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍が行った一斉攻撃を( イ )攻勢という。
(3) 1972年のニクソン訪中に先立ち、極秘で北京を訪問したアメリカの大統領補佐官は( ウ )である。
(4) 1972年に調印された、米ソが初めて戦略核兵器の数量に上限を設けた条約を( エ )という。
ア:トンキン湾 イ:テト ウ:キッシンジャー エ:SALT I(第1次戦略兵器制限条約)
(1)について:トンキン湾事件でジョンソン大統領は議会から軍事行動の権限を得て、翌年から北爆を開始しました。(2)について:テト攻勢は軍事的にはアメリカ側が撃退しましたが、テレビ報道を通じて反戦運動が激化するきっかけとなりました。(3)について:キッシンジャーの極秘訪問は、中ソ対立を利用してソ連を牽制するというニクソン政権の戦略に基づいていました。(4)について:SALT Iは冷戦下で初めて米ソ間の核軍拡に歯止めをかけた条約として重要です。
次の問いに答えよ。
(1) 1972年のニクソン訪中が実現した国際的背景を、「中ソ対立」「ベトナム戦争」の語句を使って簡潔に説明せよ。
(2) 1973年の第1次石油危機が発生した直接のきっかけとなった戦争の名称と、石油価格を引き上げた組織の名称を答えよ。
(3) 1979年のイラン革命で倒された国王の名称と、革命を指導した宗教指導者の名称を答えよ。
(1) 中ソ対立が深刻化するなか、アメリカはベトナム戦争の行き詰まりを打開し、ソ連を牽制するために中国に接近した。
(2) 戦争:第4次中東戦争 組織:OAPEC(アラブ石油輸出国機構)
(3) 国王:パフレヴィー2世 宗教指導者:ホメイニ
(1)について:中ソ対立でソ連と敵対していた中国にとっても、アメリカとの接近はソ連への牽制になるという利害の一致がありました。(2)について:OAPECはOPEC(石油輸出国機構)のアラブ産油国版で、イスラエル支援国への石油禁輸という「石油戦略」を行いました。(3)について:パフレヴィー2世はアメリカの支援を受けて近代化政策を進めましたが、強権的な統治と急速な西洋化への反発が革命につながりました。
1960年代後半から1970年代にかけて、冷戦の二極構造が動揺した過程を、「中ソ対立」「ニクソン訪中」「デタント」「石油危機」の語句を使って180字以内で説明せよ。
社会主義陣営内で中ソ対立が深刻化し、1969年には国境で武力衝突が起きた。アメリカはベトナム戦争の行き詰まりのなか、1972年にニクソン訪中を実現して中国に接近した。米ソ間ではデタントが進みSALTが成立したが、第4次中東戦争を機に起きた石油危機は先進国経済に打撃を与え、やがてイラン革命やソ連のアフガニスタン侵攻でデタントは終焉した。(163字)
この問題では、冷戦の二極構造が崩れていく複数の要因を因果関係でつなぐことが求められます。中ソ対立による社会主義陣営の分裂、米中接近、デタント、石油危機という流れを時系列に沿って整理しましょう。