第二次世界大戦後、米ソを中心とする冷戦体制が世界を二分するなか、アジア・アフリカの新興独立国は東西いずれの陣営にも属さない第三世界として独自の存在感を示し始めました。1955年のアジア=アフリカ会議(バンドン会議)や非同盟運動は、植民地支配からの解放と平和共存を訴える新たな国際的潮流を生み出します。一方、スエズ戦争は帝国主義の終焉を象徴する事件となり、アフリカの年(1960年)には17か国が一斉に独立しました。ラテンアメリカではキューバ革命が起こり、キューバ危機は米ソを核戦争の瀬戸際に追い込みました。さらに社会主義陣営内部でも中ソ対立が表面化し、冷戦構造そのものが変容していきます。
この記事では、第三世界の形成からキューバ危機・中ソ対立までの動きを学びます。
第二次世界大戦後、インドはイギリスから独立しましたが、ムスリムが多数を占める地域はパキスタンとして分離独立しました(1947年)。このインド=パキスタン分離独立の際、ヒンドゥー教徒とムスリムの間で大規模な宗教対立と難民の移動が発生し、多数の犠牲者が出ました。この宗教対立の鎮静化に尽力したガンディーは、1948年にヒンドゥー教過激派の青年によって暗殺されました。
1954年、中国の周恩来首相とインドのネルー首相が会談し、平和五原則を発表しました。翌1955年、インドネシアのバンドンで、日本を含む29か国の代表が参加してアジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開催され、平和共存・反植民地主義などをうたった十原則が採択されました。
この会議は、インドのネルー首相、エジプトのナセル、中国の周恩来首相、インドネシアのスカルノ大統領らが中心となって開催されました。バンドン会議は、アジア・アフリカの新興諸国が国際社会で独自の発言力をもつ出発点となりました。
一般的には、「第一世界」は欧米先進諸国を、「第二世界」は社会主義諸国を指すとされ、そのいずれにも含まれない諸国を、フランス革命の「第三身分」になぞらえて「第三世界」と称しました。アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの開発途上国を指す呼称として広まり、非同盟諸国の台頭に対応して使われるようになりました。
1961年にはユーゴスラヴィアなどの呼びかけで、ベオグラードに25か国が参加して第1回非同盟諸国首脳会議が開催され、平和共存、民族解放の支援、植民地主義の打破をめざして共同歩調をとることを誓いました。インドのネルー、エジプトのナセル、ユーゴスラヴィアのティトーが中心的な役割を果たしました。
このような非同盟諸国の台頭に対応して、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの開発途上国を「第三世界」と呼ぶようになりました。
植民地支配から独立した国々にとって、再び大国に従属することは受け入れがたいことでした。非同盟運動は、独立の意義を守りつつ国際社会での発言力を確保しようとする動きだったのです。
① 1955年 アジア=アフリカ会議(バンドン会議)で十原則を採択
② インドのネルー、エジプトのナセル、中国の周恩来らが中心
③ 1961年 ベオグラードで第1回非同盟諸国首脳会議を開催
④ ネルー・ナセル・ティトー(ユーゴスラヴィア)が中心→東西どちらにも属さない立場を宣言
1948年5月、パレスチナでイスラエルが独立を宣言しました。しかし建国の過程でアラブ系住民との間で戦争が起こり、約70万人のパレスチナ難民が故郷を追われて近隣のアラブ諸国に逃れました。イスラエルの建国はアラブ諸国との継続的な紛争の出発点となりました。
エジプトでは、1952年にナセルを中心とする自由将校団が王政を倒し(エジプト革命)、翌53年に共和国を樹立しました。
新政権は近代化推進のために、イギリスとアメリカ合衆国から建設資金を得て、アスワン=ハイダムの建設に着手しました。しかし、合衆国のイスラエル寄りの外交政策に反発したナセルはソ連に接近しました。1956年、英米が援助を撤回すると、ナセルは建設資金を確保するために、英仏が経営権をもつスエズ運河の国有化を宣言しました。
英仏はイスラエルを誘ってエジプトに軍事行動をおこしました(スエズ戦争、第2次中東戦争)。しかし、合衆国のアイゼンハワー政権は、かつての植民地支配を再び引き継ぐようなこの行動に同調せず、国際世論も強く反発したため、3国は撤兵をよぎなくされました。
これ以降、エジプトは台頭するアラブ民族主義の指導的地位につきました。第2次中東戦争の帰結は、インドシナ戦争におけるフランスの敗北とともに、植民地支配体制が終わりを迎えたことを示しました。
合衆国のアイゼンハワー政権がかつての植民地支配を再現するような行動に同調しなかったことは、植民地支配体制が終わりを迎えたことを示しました。
① 1952年 ナセルを中心とする自由将校団が王政を倒す(エジプト革命)
② 英米がアスワン=ハイダム建設の援助を撤回→ナセルがスエズ運河の国有化を宣言(1956年)
③ 英仏・イスラエルがエジプトに軍事行動(スエズ戦争)→アイゼンハワー政権が同調せず、国際世論も反発→撤兵
④ 植民地支配体制の終焉が明白に。ナセルはアラブ民族主義の指導的地位につく
インドシナ戦争の敗北でフランスの国力が衰えると、アフリカのフランス植民地でも独立をめざす動きが勢いを増し、1956年にモロッコ・チュニジアが独立しました。翌57年には、イギリス植民地のガーナが、エンクルマ(ンクルマ)のもとで最初の自力独立の黒人共和国となりました。さらに、植民地の運動におされたド=ゴール政権が譲歩したことなども背景に、1960年には一挙に17の新興独立国が生まれ、この年は「アフリカの年」と呼ばれました。フランスとの行政的な一体化がより進んでいたアルジェリアでは、1954年から民族解放戦線(FLN)がフランスに対して激しい独立戦争を展開し、62年にようやく独立を勝ちとりました。
しかし、新興独立国では、従来、植民地宗主国の利益にそって、輸出向けに限定された種類の農作物栽培や原料生産にかたよった開発がなされてきました(モノカルチャー経済)。そのため経済基盤が弱く、また交通網や電気・水道などの社会的インフラストラクチャー(基本的生活基盤)、教育・医療などの社会制度もほとんど整備されていませんでした。さらに、圧倒的多数の現地住民は、行政運営や政治に参加する機会も奪われてきました。これらを背景に、独立後の政治・経済は不安定で、部族相互の対立による内戦やクーデタが繰り返され、軍事独裁政権がしばしば登場しました。旧ベルギー領コンゴでは、独立直後に銅資源をめぐる紛争に欧米諸国も干渉してコンゴ動乱が発生しました。また、南アフリカでは、少数の白人支配のもとでアパルトヘイト(人種隔離政策)と呼ばれる極端な黒人差別政策がとられました。
1963年には、エチオピアの首都アディスアベバでアフリカ諸国首脳会議が開催され、アフリカ統一機構(OAU)が発足し、アフリカ諸国の連帯や、独立後も残存する植民地宗主国の政治的干渉・経済的支配の克服をめざしました。
豊かな先進国と、アジア・アフリカの開発途上国との経済格差は、南北問題と呼ばれるようになりました。1964年には、77か国の開発途上国が国連貿易開発会議(UNCTAD)を結成し、南北の経済格差の是正がめざされましたが、十分な成果はあがりませんでした。
植民地時代に形成されたモノカルチャー経済のもとで、新興独立国の当初の望みは失われ、慢性的な貧困に苦しみ、国際機関や欧米諸国の援助に依存する例が多くみられました。また開発途上国は独立当初から強力なナショナリズムが特徴でしたが、貧困に苦しむなかでその傾向はより顕著となり、それとともに第三世界全体としての団結も妨げられました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ガーナ独立 | 1957年、エンクルマのもとで最初の自力独立の黒人共和国 |
| アフリカの年 | 1960年に17の新興独立国が誕生 |
| アフリカ統一機構(OAU) | 1963年にアディスアベバで発足。アフリカ諸国の連帯をめざす |
| モノカルチャー経済 | 植民地時代の輸出向け農作物・原料生産にかたよった経済構造 |
| コンゴ動乱 | 旧ベルギー領コンゴで独立直後に銅資源をめぐり欧米も干渉して発生した内戦 |
| アパルトヘイト | 南アフリカの白人支配による極端な人種隔離・黒人差別政策 |
| 南北問題 | 先進国と開発途上国の経済格差。1964年に77か国がUNCTAD結成 |
ラテンアメリカ諸国は、第二次世界大戦後もアメリカ合衆国の強い影響下におかれていましたが、合衆国への反発の動きもみられました。キューバでは、親米のバティスタ独裁政権のもとで、アメリカ系企業が広大な土地を所有して砂糖栽培に特化した農業生産をおこない、大多数の島民は貧困と土地不足に苦しんでいました。1959年、カストロらがバティスタ政権を打倒して革命政権を樹立し、農地改革のためにアメリカ系企業からの土地の接収に踏みきりました(キューバ革命)。この革命は、ラテンアメリカ諸国の革命運動や民族運動に多大な影響を与えました。
合衆国のアイゼンハワー政権は61年にキューバと断交し、つづくケネディ政権もカストロ政権の武力転覆を企てましたが、失敗に終わりました。アメリカ合衆国との関係が悪化したキューバは、社会主義化をおこない、ソ連に接近しました。
1962年、カストロの要請にこたえて、ソ連がキューバでのミサイル基地建設に着手すると、ケネディ政権はソ連船の機材搬入を海上封鎖によって阻止し、米ソ間の緊張が一気に高まりました(キューバ危機)。
しかし、核戦争の可能性を前に両国首脳は妥協に転じ、合衆国のキューバ内政への不干渉と引きかえに、ソ連がミサイル基地を撤去する合意が成立しました。これ以後、米ソ両国は緊張緩和に転換して、両国首脳間を結ぶ直通通信回線(ホットライン)も敷設されました。
キューバ危機をきっかけに、米・ソをはじめとする国際社会は、核兵器制限に取り組みはじめました。1963年には米・英・ソが部分的核実験禁止条約(地下を除く核実験禁止条約)に調印し、さらに68年には核拡散防止条約(NPT)が62か国により調印されました。核拡散防止条約は、すでに核保有国となっていた米・ソ・英・仏・中以外の国が新たに核を保有することを禁じたもので、五大国による核独占と引きかえに核の拡散を防止するねらいがありました。69年からは、米ソ両国間で第1次戦略兵器制限交渉(SALT I)が始まりました。
核戦争の一歩手前まで行った経験が、米ソ双方に「対立を管理する仕組み」の必要性を痛感させ、冷戦の緊張緩和への転換点となりました。
① 1959年 カストロがキューバ革命を達成→社会主義化
② 1961年 アメリカがキューバと国交断絶→キューバはソ連に接近
③ 1962年 ソ連がキューバに核ミサイル基地建設→ケネディが海上封鎖
④ ソ連がミサイル撤去→危機回避
⑤ 1963年 ホットライン設置・部分的核実験禁止条約→緊張緩和へ
⑥ 1968年 核拡散防止条約(NPT)調印→69年 SALT I開始
冷戦は米ソの対立として語られがちですが、社会主義陣営の内部にも深刻な対立が生まれていました。1950年代後半から、中国とソ連の関係が急速に悪化していきます。
1956年にスターリン批判がおこなわれると、毛沢東は反発しました。毛沢東はアメリカ合衆国との対決路線をとり、ソ連の平和共存路線を批判しました。
これに対してソ連は、1960年に中国への経済援助を停止して技術者を引き揚げました。平和共存の是非をめぐる中ソ論争は、63年から公開論争となり、両国の対立(中ソ対立)は世界が知るところとなりました。69年には中ソ国境で軍事衝突もおこりました。
中ソ対立は、社会主義陣営がソ連を頂点とする一枚岩ではないことを明らかにしました。冷戦の構造は、米ソ二極から、より複雑な多極的構造へと変容していきました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 路線対立 | ソ連のフルシチョフが平和共存路線→中国の毛沢東が反発 |
| スターリン批判 | フルシチョフのスターリン批判を中国が問題視 |
| 経済援助の停止 | ソ連が中国への経済援助を停止、技術者を引き揚げ(1960年) |
| 結果 | 社会主義陣営の分裂。冷戦が二極構造から多極化へ |
第三世界の台頭とキューバ危機は、「歴史総合」の「グローバル化と私たち」で扱われる冷戦と脱植民地化に直結するテーマです。冷戦が単なる米ソの対立ではなく、アジア・アフリカ・ラテンアメリカを巻き込んだグローバルな構造であったことを理解することが重要です。また、核兵器の問題は現代においても国際政治の最重要課題であり続けています。
1955年のバンドン会議で第三世界の連帯が始まり、非同盟運動へと発展した。スエズ戦争で帝国主義の終焉が明白となり、1960年のアフリカの年には17か国が独立した。キューバ革命後のキューバ危機は核戦争の瀬戸際をもたらしたが、危機回避が緊張緩和の転換点となった。中ソ対立は社会主義陣営を分裂させ、冷戦の多極化を促した。(160字)
Q1. 1955年にインドネシアで開催された、アジア・アフリカ29か国が参加した会議を( )という。
Q2. バンドン会議で採択された、主権尊重・内政不干渉・平和共存などを掲げた原則を( )という。
Q3. 1961年の第1回非同盟諸国首脳会議を主導した3人の指導者は、インドの( ア )、エジプトの( イ )、ユーゴスラヴィアの( ウ )である。
Q4. 1956年にエジプトのナセルが国有化を宣言し、英仏・イスラエルが軍事介入した事件を( )という。
Q5. 1960年にアフリカで17か国が一斉に独立したことから、この年は( )と呼ばれる。
Q6. 1959年にキューバでバティスタ独裁政権を打倒した革命の指導者は( )である。
Q7. 1962年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設したことで発生した危機を( )という。
Q8. キューバ危機の際にアメリカ大統領としてキューバの海上封鎖を実施したのは( )である。
Q9. キューバ危機後の1963年に米ソ間に敷設された直通通信回線を( )という。
Q10. 1950年代後半から表面化した、社会主義の路線をめぐる中国とソ連の対立を( )という。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) 1955年にインドネシアのバンドンで開催された会議を( ア )といい、( イ )が採択された。
(2) 1956年にエジプトのナセルが国有化を宣言したのは( ウ )である。
(3) 1960年にアフリカで17か国が独立したことから、この年は( エ )と呼ばれる。
(4) 1959年にキューバ革命を指導し、バティスタ政権を打倒した人物は( オ )である。
ア:アジア=アフリカ会議(バンドン会議) イ:十原則 ウ:スエズ運河 エ:アフリカの年 オ:カストロ
(1)について:バンドン会議は旧植民地の独立国が初めて結集した歴史的な会合で、反植民地主義・民族自決・平和共存などを盛り込んだ十原則が採択されました。(2)について:スエズ運河はイギリス・フランスの資本で運営されていましたが、ナセルがこれを国有化し、英仏の軍事介入を招きました(第2次中東戦争)。(3)について:1960年はフランス領を中心に17か国が一斉に独立し、アフリカの脱植民地化が加速しました。(4)について:カストロはチェ=ゲバラとともにゲリラ戦を展開し、1959年に革命を達成しました。
次の問いに答えよ。
(1) 1961年の第1回非同盟諸国首脳会議が開催された都市名と、中心となった3人の指導者の名を答えよ。
(2) スエズ戦争(第2次中東戦争)でエジプトに軍事介入した3か国を答えよ。
(3) キューバ危機後の1963年に米ソ間で調印された、大気圏内・水中・宇宙空間での核実験を禁止する条約の名称を答えよ。
(1) 開催都市:ベオグラード(ユーゴスラヴィア)。指導者:ネルー(インド)・ナセル(エジプト)・ティトー(ユーゴスラヴィア)
(2) イギリス・フランス・イスラエル
(3) 部分的核実験禁止条約(PTBT)
(1)について:非同盟運動はバンドン会議の精神を受け継ぎ、東西どちらの軍事同盟にも属さない立場を宣言しました。ネルー・ナセル・ティトーの3者がこの運動の中心です。(2)について:英仏はスエズ運河の権益を守るため、イスラエルは安全保障上の理由から軍事介入しましたが、米ソ双方の批判を受けて撤退しました。(3)について:キューバ危機で核戦争の危機を経験した米ソは、核軍備管理に乗り出しました。部分的核実験禁止条約は地下核実験を除く核実験を禁止するものです。
1950年代後半から1960年代にかけて、冷戦の二極構造が揺らいでいった過程を、「非同盟運動」「キューバ危機」「中ソ対立」の語句を使って150字以内で説明せよ。
アジア・アフリカの新興独立国は非同盟運動を通じて東西どちらにも属さない「第三の勢力」となり、二極構造を相対化した。1962年のキューバ危機は核戦争の瀬戸際をもたらし、米ソに緊張緩和の必要性を認識させた。さらに中ソ対立が社会主義陣営を分裂させ、冷戦は二極から多極的な構造へと変容した。(140字)
この問題では、冷戦の二極構造を揺るがした3つの要因をそれぞれ説明し、全体として冷戦構造がどう変容したかを示すことが求められます。