1905年、日露戦争でヨーロッパの大国ロシアに対して日本が勝利したことは、アジア諸国の民族運動に大きな影響を与えました。欧米列強による支配は絶対的なものではない──この認識は、イラン・オスマン帝国・インド・中国・東南アジアで立憲運動や民族運動を活性化させました。
この記事では、日露戦争がもたらした「アジアの覚醒」と、各地域で展開された変革運動を学びます。
1904年に始まった日露戦争は、日本とロシアが朝鮮半島と満洲(中国東北部)の支配権をめぐって争った戦争です。1905年、日本が大国ロシアに勝利したことは、世界史的に大きな意味をもちました。
ヨーロッパの大国ロシアに対する日本の勝利は、アジア諸国の民族運動に大きな影響を与えました。欧米列強の支配が絶対ではないことが証明され、アジア各地で立憲運動や民族独立運動が活発化しました。これを「アジアの覚醒」と呼びます。
日露戦争の結果は、「近代化=西欧化」ではなく、アジアの国家でも近代的な国づくりによって列強と対等になれることを示しました。これがアジア各地の変革運動の精神的な後押しとなったのです。
カージャール朝が支配するイランでは、イギリスとロシアの進出によって国家の主権が脅かされていました。この状況への抵抗は立憲革命以前からありました。1891〜92年のタバコ・ボイコット運動は、カージャール朝がイギリス資本にタバコの生産・流通の独占権を与えたことに対して、ウラマー(聖職者)や商人・民衆が連携してタバコの使用・販売を拒否した運動です。シーア派最高権威のファトワー(宗教令)にもとづく大規模な不服従の結果、カージャール朝は独占権を取り消しました。この運動は、ウラマー・商人・民衆の三者連携というイラン立憲革命の原型を示す出来事として重要です。
19世紀半ば以降、カージャール朝は近代化のための改革を試みましたが成功せず、1870年代には財政が破綻しました。そのため政府は、電信敷設や鉄道敷設などの利権をイギリスやロシアに譲渡し、20世紀初頭にはイギリスがイランの石油利権を獲得しました。こうした状況のなか、日露戦争での日本の勝利にも刺激を受けて、1905年からイラン立憲革命が起こりました。ヨーロッパの知識を吸収した知識人や改革派のウラマー(聖職者)が商人(バーザール商人)の協力を得て立憲運動を展開し、1905年には大規模な抗議運動が広がり、1906年に国民議会(マジュレス)が開設され、翌年には憲法が公布されました。しかし、憲法制定後にさらなる改革を求める急進派と保守派が対立するなか、英露協商(1907年)でイギリスとロシアがイランを南北の勢力圏に分割することを合意すると、北部を勢力圏としたロシアが軍事介入を行い、1911年に議会は解散に追い込まれました。こうして立憲革命は挫折しました。
オスマン帝国では、1860年代から「新オスマン人」を称する若手官僚らが出版を通じて立憲政をめざす運動を展開し、それを背景に1876年にミドハト憲法が制定されましたが、翌年には露土戦争を口実にアブデュルハミト2世が議会を解散し憲法を停止して、専制政治を復活させました。アブデュルハミト2世は言論を弾圧しつつも、タンジマート以来の改革を継承し、軍隊・司法・教育などの近代化をすすめました。これに対して、「統一と進歩委員会」を結成して専制政治を批判していた知識人や将校(「青年トルコ人」)が、1908年にマケドニア問題への列強の介入が強まるなかで蜂起し、青年トルコ革命を起こしました。
革命の結果、憲法と議会が復活し、立憲政が再開されました。新政権は帝国内のさまざまな宗教・民族からなる人々を「オスマン国民」として統合することをめざしましたが、革命後の政治的不安定に乗じてブルガリアが独立し、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。その後イタリアがリビアに侵攻し(イタリア=トルコ戦争)、つづけてバルカン諸国がオスマン帝国に侵攻して(バルカン戦争)、帝国はバルカン領をほとんど喪失しました。こうした危機のなかで、青年トルコ人の政権はオスマン帝国をトルコ人中心の国家とする政策に転換し、外交的にはドイツに接近しました。こうしたトルコ民族主義の台頭は、帝国内のアラブ民族主義にも刺激を与えることになりました。
| 項目 | イラン立憲革命 | 青年トルコ革命 |
|---|---|---|
| 時期 | 1905〜11年 | 1908年 |
| 王朝 | カージャール朝 | オスマン帝国 |
| きっかけ | 日露戦争の影響、列強への反発、石油利権などの譲渡 | アブデュルハミト2世の専制への不満、マケドニア問題への列強介入 |
| 主な担い手 | 知識人・改革派ウラマー・商人 | 「統一と進歩委員会」(知識人・将校) |
| 成果 | 国民議会(マジュレス)開設、憲法制定 | 憲法と議会の復活、立憲政の再開 |
| 結末 | 急進派と保守派の対立→英露協商→ロシア軍事介入→1911年議会解散で挫折 | バルカン戦争で領土喪失→トルコ民族主義への転換→ドイツ接近→第一次世界大戦へ |
1885年に結成されたインド国民会議(国民会議派)は、もともとイギリス人官僚ヒュームがインド人エリート層に政治参加の場を与えて民族運動を穏健化しようとする意図から結成を呼びかけたものです。当初はインド人の政治参加の拡大を求める穏健な団体でしたが、イギリスが十分な改革を行わなかったため、しだいに急進派が力を増していきました。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、インド国内では民族資本が成長しつつありました。タタ財閥などが綿紡績業や鉄鋼業などを育成し、インド産の綿糸・綿布は国内消費に加えて日本・中国などの東アジアにも輸出されるようになりました。この民族資本の台頭は、スワデーシー運動における「国産品愛用」の経済的基盤となりました。
国民会議では、穏健派にかわってティラクらの急進派が主導権を握り、イギリス支配そのものに対決する姿勢を強めていきました。
1905年、イギリスのカーゾン総督はベンガル分割令を発布しました。これは反英運動の中心であったベンガル州を、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒がそれぞれ多数を占める東西2つの地域に分けるもので、宗教的な対立を利用して民族運動を分断する狙いがありました。
ベンガル分割令に対してインド全土で反対運動が広がり、1906年にカルカッタで開かれた大会では、英貨排斥・スワデーシー(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・民族教育の四綱領を決議して、植民地支配に正面から対抗する姿勢を示しました。これにより国民会議は政治組織の国民会議派へと変貌しました。
一方、イスラーム教徒はベンガル分割令によって多数派の州が誕生する利点を説くインド総督の影響もあって、国民会議とは別に、1906年に親英的な全インド=ムスリム連盟を結成し、独立運動の分裂が始まりました。ベンガル分割令は1911年に撤回され、それとともに首都は反英運動の中心であったカルカッタからデリーに移されました。
イギリスの「分割統治」は植民地支配の常套手段でしたが、ベンガル分割令はかえってインド人の民族意識を高め、より急進的な反英運動を生み出す結果となりました。
① 英貨排斥(ボイコット):イギリス製品の不買運動
② スワデーシー(国産品愛用):インド民族産業の育成
③ スワラージ(自治獲得):イギリスからの自治を要求
④ 民族教育:インド人独自の教育推進
※ ベンガル分割令への反対が背景。ベンガル分割令は1911年に撤回
義和団戦争に敗北した清朝では、光緒新政と呼ばれる立憲君主制への移行をめざす政治改革が進められました。清朝は外務部を設けるなど中央行政を改革し、学校教育制度を創設して1905年に科挙を廃止し、近代化した新軍も創設しました。1908年には憲法大綱を示して国会開設も約束しました。しかし改革の経費をまかなうための増税が民衆の反発を招き、また内閣では満洲人が大半を占めたため漢人知識人の反発が強まり、海外の留学生や華僑のなかには清朝に対する革命運動に参加する者も増えていきました。
その中心人物が孫文(孫中山)です。孫文は1905年に東京で中国同盟会を結成し、三民主義を革命の基本理念として掲げました。
清朝が幹線鉄道を国有化し、外国からの借款で建設しようとすると、民間資本で鉄道を建設していた地方の有力者(郷紳)らが強く反発し、なかでも四川省では反対運動が激化しました(鉄道国有化反対運動)。四川の暴動鎮圧のために湖北の新軍の一部が移動すると、残された新軍のなかの革命派が1911年10月10日に武昌で蜂起し(武昌蜂起)、辛亥革命が始まりました。おもに長江以南の諸省がこれに応じて清朝からの独立を宣言し、革命は全国に広がりました。
1912年1月、南京で中華民国が建国され、孫文が臨時大総統に就任しました。アジアで最初の共和国の誕生です。清朝は、北洋軍を握る袁世凱を起用して革命の鎮圧をはかりましたが、袁世凱は列強の支持を得つつ革命勢力と取引して、清朝皇帝の退位と共和政維持を条件に、孫文から臨時大総統の地位をゆずり受けました。1912年2月に袁世凱は宣統帝(溥儀)を退位させて清朝を滅亡に追い込みました。
袁世凱は北京で臨時大総統となって中国の実権を握りました。中華民国の制度では大総統よりも議会の権限が強く定められていましたが、国会選挙で中国同盟会系の国民党が第一党となると、袁世凱は欧米諸国からの借款を背景に議会を弾圧しました。国民党の指導者宋教仁は暗殺され、袁世凱の独裁は進み、皇帝に即位しようとしましたが国内外からの反発で失敗し、その後は部下の軍人たちが各地に割拠する不安定な状況が続きました。
① 清朝の鉄道国有化に対する反対運動が四川で激化(鉄道国有化反対運動)
② 四川暴動鎮圧のため湖北新軍の一部が移動→残された新軍の革命派が1911年10月10日に武昌で蜂起(武昌蜂起、辛亥革命の開始)
③ 中・南部の諸省が次々と独立を宣言
④ 1912年1月、南京で中華民国が建国、孫文が臨時大総統に就任
⑤ 袁世凱が清朝皇帝の退位と共和政維持を条件に、孫文から臨時大総統の地位をゆずり受ける
⑥ 1912年2月、宣統帝が退位し清朝滅亡。袁世凱は北京で独裁的権力を握る
辛亥革命は、2000年にわたった中国の皇帝政治を終結させた画期的な出来事でした。しかし、袁世凱の独裁や軍人たちの割拠によって共和政は安定せず、孫文が目指した三民主義の実現は後の国民党の課題として引き継がれていきます。辛亥革命の「不十分さ」を理解することが、その後の五・四運動や国共合作を学ぶ前提となります。
帝国主義列強に支配されていた東南アジアでも、日露戦争の影響や知識人の覚醒を背景に、民族運動が展開されました。
スペインの植民地であったフィリピンでは、19世紀後半からホセ=リサールらが民族意識をめざめさせる言論活動を開始しました。1896年にはフィリピン革命が始まり、1898年にアメリカ=スペイン戦争が勃発すると革命軍はスペインの植民地支配からの解放を進め、1899年1月にアギナルドを大統領とするフィリピン共和国が樹立されました。しかし、アメリカ=スペイン戦争後にスペインとの条約によってフィリピンの領有権を得たアメリカ合衆国は、同年2月にフィリピンへ侵攻し(フィリピン=アメリカ戦争)、植民地としました。
フランスの植民地であるベトナムでは、ファン=ボイ=チャウを中心に、1904年にフランスからの独立と立憲君主制の樹立をめざす運動が組織されました(のちに維新会と呼ばれる)。日露戦争後に急速な近代化を果たしつつあった日本に注目し、日本から軍事援助を得ようとする活動や、日本へ留学生を送って新しい学問や技術を学ばせようとする東遊(ドンズー)運動も展開されました。しかし、フランスとの提携を重視した日本政府によってベトナム人留学生は国外退去となり、この運動は挫折しました。その後、辛亥革命の影響を受けて1912年に広州でベトナム光復会が結成され、独立運動は新たな段階に入りました。
オランダの植民地であるインドネシアでは、20世紀初めにオランダが「倫理政策」を開始し、現地人官吏養成のための学校が多く設立されました。こうした教育を受けた知識人のあいだに民族的な自覚が生まれ、1911〜12年にかけて現地のムスリム知識人によりイスラーム同盟(サレカット=イスラーム)が結成されました。同盟は当初、現地人の相互扶助団体でしたが、しだいに政治活動を活発化させ、1918〜20年の民族運動の高揚期には中心的役割を果たしました。
| 地域 | 宗主国 | 指導者・組織 | 運動の内容 |
|---|---|---|---|
| フィリピン | スペイン→アメリカ | ホセ=リサール、アギナルド | フィリピン革命(1896年)、共和国樹立(1899年1月)、フィリピン=アメリカ戦争で植民地化 |
| ベトナム | フランス | ファン=ボイ=チャウ | 維新会結成(1904年)、東遊(ドンズー)運動→挫折後ベトナム光復会(1912年) |
| インドネシア | オランダ | イスラーム同盟(サレカット=イスラーム) | 倫理政策下で民族自覚→相互扶助団体から政治運動へ発展(1911〜12年結成) |
日露戦争がアジア諸国の民族運動に与えた影響は、「歴史総合」の「国際秩序の変化や大衆化と私たち」の中心テーマの一つです。帝国主義に対する被支配民族の抵抗という視点は、20世紀の脱植民地化を理解するための重要な基盤となります。
日露戦争での日本の勝利はアジア諸民族に衝撃を与え、イラン立憲革命・青年トルコ革命・インドのカルカッタ大会四綱領・辛亥革命による中華民国成立・東南アジアの民族運動を促した。列強の支配に対するアジアの抵抗が本格化した時代である。(108字)
Q1. 1904〜05年の日露戦争での日本の勝利がアジア各地の民族運動を刺激した現象を「アジアの( )」という。
Q2. 1905年から始まったイランの立憲運動で開設された国民議会を( )という。
Q3. 1908年、オスマン帝国で「統一と進歩委員会」が蜂起して起こした革命を( )革命という。
Q4. 青年トルコ革命によって復活した憲法を( )憲法という。
Q5. 1905年にイギリスが発布した、ベンガル州をヒンドゥー教徒地域とイスラーム教徒地域に分割する法令を( )という。
Q6. 1906年のカルカッタ大会で採択された四綱領のうち、「自治・独立」を意味するものを( )という。
Q7. カルカッタ大会四綱領のうち、「国産品愛用」を意味するものを( )という。
Q8. 孫文が掲げた三民主義とは、民族主義・( )主義・( )主義である。
Q9. 1911年10月に( )で軍隊が蜂起したことをきっかけに辛亥革命が始まった。
Q10. 辛亥革命後、孫文に代わって中華民国の臨時大総統に就任した人物は( )である。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) イラン立憲革命で開設された国民議会を( ア )という。
(2) 1908年にオスマン帝国で「統一と進歩委員会」が起こした革命を( イ )革命という。
(3) 1906年のインド国民会議カルカッタ大会で採択された四綱領は、( ウ )・スワデーシー・スワラージ・民族教育である。
(4) 孫文が1905年に東京で結成した革命組織を( エ )という。
ア:マジュレス イ:青年トルコ ウ:英貨排斥 エ:中国同盟会
(1)について:マジュレスは1906年に開設されました。イラン立憲革命は日露戦争の影響を受けています。(2)について:この革命でミドハト憲法が復活しました。(3)について:四綱領はベンガル分割令への反対から生まれました。英貨排斥・スワデーシー(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・民族教育の4つをセットで覚えましょう。(4)について:中国同盟会は三民主義を掲げ、辛亥革命の母体となりました。
次の問いに答えよ。
(1) イギリスがベンガル分割令を発布した政治的な目的を簡潔に答えよ。
(2) 辛亥革命のきっかけとなった清朝の政策は何か。
(3) ベトナムでファン=ボイ=チャウが展開した、日本への留学運動を何というか。
(1) ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒を分断し、インドの民族運動を弱体化させること。
(2) 鉄道の国有化
(3) 東遊(ドンズー)運動
(1)について:ベンガルは反英民族運動の中心地でした。宗教の違いを利用して分断する「分割統治」はイギリスの植民地支配の常套手段です。(2)について:民間資本で建設された鉄道を国有化し、外国からの借款の担保にしようとしたことが反発を招きました。(3)について:ファン=ボイ=チャウは日露戦争での日本の勝利に刺激を受け、日本の近代化に学ぼうとしました。
日露戦争がアジア諸国の政治変革に与えた影響について、「イラン立憲革命」「青年トルコ革命」「辛亥革命」の語句を使って150字以内で説明せよ。
日露戦争で立憲国家の日本が専制国家ロシアに勝利したことは、アジア諸民族に立憲政治への期待を高めた。イランではイラン立憲革命が起こり国民議会が開設され、オスマン帝国では青年トルコ革命によりミドハト憲法が復活した。中国では革命運動が加速し、辛亥革命で清朝が倒れ中華民国が成立した。(139字)
日露戦争の影響を軸に、指定された3つの革命を因果関係でつなぐことが求められています。いずれも「立憲政治の実現」や「専制からの脱却」をめざした運動であるという共通点を押さえましょう。