19世紀末、帝国主義列強はアフリカと太平洋の分割を進め、世界のほぼ全域を植民地・勢力圏として分け合いました。この過程で列強間の対立は深刻化し、ビスマルク外交によって維持されてきたヨーロッパの勢力均衡が崩れていきます。ヴィルヘルム2世の積極的な「世界政策」は列強間の緊張を高め、三国同盟と三国協商という二大陣営の対立構造が形成されました。モロッコ事件やバルカン問題を通じて、ヨーロッパは世界大戦前夜の危機的状況へと突き進みます。
この記事では、列強による世界分割の具体的な展開と、ヨーロッパの同盟体制が二分化していく過程を学びます。
19世紀前半まで、アフリカに関するヨーロッパ人の知識は奴隷貿易の拠点や地中海沿岸、アジア航路上の港などに限られていました。しかし19世紀半ばには中央部の探検が進められ、1880年代になると「アフリカ分割」と呼ばれる領土獲得競争が激しくなりました。
コンゴ地域をめぐってヨーロッパ諸国が対立すると、ドイツのビスマルクは調停のためにベルリン会議(1884〜85年)を開きました。この会議では、ベルギー国王の所有地としてのコンゴ自由国の設立とアフリカの植民地化の原則が合意されました。とりわけ重要なのは「実効支配」の原則で、ある地域を植民地とする場合にその地域を実際に支配していること(ヨーロッパ人の安全や商業活動の保証)が必要とされたことです。この原則が合意されると、列強はアフリカに殺到し、大部分を分割して植民地としました。
イギリスは、1875年にスエズ運河会社の株を買収して「インドへの道」を確保し、1880年代にはエジプトを支配下におきました。スエズ運河(1869年開通)はレセップス(フランス)の主導で建設されましたが、工事には強制的に徴用されたエジプト人労働者が大量に動員され、多大な犠牲者を出しました。運河の利益の多くをエジプトは得られず、財政悪化の一因となりました。
エジプトの財政危機に対してイギリス・フランスが財政管理に介入すると、エジプトではアフマド・ウラービー大佐を中心とする民族運動(ウラービー運動)が1881〜82年に高まりました。「エジプト人のエジプト」を合言葉に外国の支配に反対しましたが、1882年にイギリス軍が軍事介入して鎮圧し、エジプトは事実上のイギリス保護領となりました。
さらにスーダンではマフディー運動が起こりました。これはイスラームの神秘主義教団の指導者ムハンマド=アフマドが自らを「マフディー(救世主)」と宣言し、エジプトを通じたイギリスの支配に対抗した民衆運動です。1880年代に一時スーダンの支配権を握りましたが、1898年に最終的にイギリス軍に鎮圧されました。南下して南アフリカのケープ植民地と結ぶ縦断政策(カイロ〜ケープタウン)を進めました。ケープ植民地首相のセシル=ローズや本国の植民地相ジョゼフ=チェンバレンらがこの拡張政策を推進しました。これによってイギリスは、カイロとケープタウンをつなぎ、インドのカルカッタと結ぶ3C政策を実現しました。
ミドハト憲法(1876年):オスマン帝国では大宰相ミドハト・パシャの主導で、アジア最初の近代的憲法が1876年に制定されました。二院制議会の設置・信仰の自由・法の前の平等などを規定したこの憲法は、ヨーロッパ式の立憲制度を導入しようとするものでした。しかし、露土戦争(1877〜78年)を口実にスルタン・アブデュルハミト2世が1878年に憲法を停止し、以後約30年間専制政治が続きました。
オスマン帝国の綿織物業:ヨーロッパ製品の流入でオスマン帝国の伝統的な綿織物業も打撃を受けましたが、完全には消滅しませんでした。農村向けの粗布生産や特定地域の高品質な手工芸品(絹・金糸刺繍など)は、機械製品が代替しにくいニッチ市場として生き残りを図りました。また、帝国内の関税自主権が制限されていたため産業保護が困難であったことが、衰退を加速させた重要な背景です。
フランスは、1881年にチュニジアを保護国とし、アルジェリアやセネガルを拠点としてサハラ砂漠地域からアフリカを横断し、ジブチ・マダガスカル方面との連結をめざす横断政策を進め、広大な植民地を築きました。
イギリスの縦断政策とフランスの横断政策は、1898年にスーダンのファショダで衝突しました(ファショダ事件)。両国の軍隊が対峙しましたが、フランスが譲歩して解決し、翌年、イギリスがスーダンを、フランスがモロッコを確保することで妥協が成立しました。この事件をきっかけにイギリスとフランスは接近し、のちの英仏協商(1904年)へとつながりました。
ファショダ事件は英仏の対立を象徴する事件でしたが、結果的には両国が共通の脅威であるドイツに対抗するために協力する契機となりました。
南アフリカでは、ブール人(オランダ系入植者)が建てたトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の領域で金やダイヤモンドの鉱脈が発見され、イギリスはその獲得を狙いました。1899年に南アフリカ戦争(ブール戦争)がおこり、イギリスは激しい抵抗を排して両国を併合しました。1910年にはイギリスの自治領として南アフリカ連邦が成立しました。
アフリカ分割が進むなかで、独立を維持した国は2つだけでした。エチオピアは、皇帝メネリク2世がイタリアの侵攻をアドワの戦い(1896年)で撃退し、独立を守りました。リベリアは、アメリカ合衆国の解放奴隷を入植させて建国した国家であり、独立を維持しました。
列強は現地の住民のつながりや交易網を無視し、経済的利害や戦略的重要性から沿岸部から後背地を含む人為的な境界線を定めました。アフリカの国家に多い直線に引かれた国境はその結果です。また、住民をプランテーションや鉱山の過酷な労働に従事させるなど、その支配はアフリカの発展にはかりしれない被害と障害を残しました。現地の人々は抵抗を続け、こうした運動はやがて民族主義運動に成長して、20世紀の歴史を形成する大きな流れになりました。
| 事項 | 年 | 内容 |
|---|---|---|
| ベルリン会議 | 1884〜85 | コンゴ自由国の設立と実効支配の原則を確認 |
| アドワの戦い | 1896 | エチオピアがイタリアを撃退し独立を維持 |
| ファショダ事件 | 1898 | 英仏の縦断・横断政策が衝突。フランスが譲歩 |
| 南アフリカ戦争 | 1899〜1902 | イギリスがブール人国家を併合 |
| 南アフリカ連邦 | 1910 | イギリス自治領として成立 |
① イギリス:エジプト(カイロ)からケープタウンへの縦断政策。セシル=ローズ、チェンバレン植民地相が推進。カルカッタと結ぶ3C政策を実現
② フランス:アルジェリア・セネガルを拠点にサハラ砂漠からジブチ方面への横断政策
③ 両政策はスーダンのファショダで衝突(1898年)→フランスが譲歩→のちの英仏協商の契機に
アフリカと並んで、太平洋地域も列強の分割の対象となりました。19世紀後半、太平洋の島々は列強によって次々と領有されていきます。
オーストラリアはイギリス領となり、先住民のアボリジニーは奥地に追われました。イギリスはさらにニュージーランドなども領有しましたが、その際も先住民のマオリ人の抵抗を武力でおさえ込みました。アメリカは1898年の米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)でスペインに勝利し、フィリピン・グアムを獲得するとともに、同年ハワイを併合しました。ドイツはビスマルク諸島などメラネシアの一部とミクロネシアの諸島を獲得し、イギリス・フランスもそれぞれ太平洋の島々を植民地化しました。
こうして20世紀初頭までに、列強はアフリカ・太平洋を含む世界のほぼ全域を分割し終え、世界の再分割をめぐる対立へと移行していきます。
ドイツ統一を達成したビスマルクは、1871年以降、ヨーロッパの勢力均衡を維持することに外交の重点を置きました。その最大の目標は、普仏戦争で敗れたフランスの孤立化でした。
ビスマルクはまず、1873年にドイツ・オーストリア・ロシアの三帝同盟を結び、フランスを孤立させようとしました。しかし、バルカン問題をめぐるロシアとオーストリアの対立によって三帝同盟は機能しなくなりました。
そこでビスマルクは1882年に、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟を締結しました。イタリアは、フランスがチュニジアを保護国化したことへの反発から、この同盟に参加しました。
三国同盟を結ぶ一方で、ビスマルクはロシアとの関係も維持しようとしました。1887年にドイツとロシアの間で再保障条約(独露再保障条約)を秘密裏に締結し、両国の中立を約束しました。こうしてビスマルクは、フランスがロシアと結ぶことを防ぎつつ、ヨーロッパの勢力均衡を巧みに維持したのです。
ビスマルク外交の本質は、ドイツ統一後のヨーロッパで新たな戦争を避けることにありました。そのために複雑な同盟網を構築してフランスを孤立させ、列強間のバランスを保ったのです。
1888年に即位したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ビスマルクの慎重な外交路線を転換し、積極的な世界政策(ヴェルトポリティーク)を推進しました。ビスマルクを引退させ、ロシアとの再保障条約を更新せず、「世界政策」を掲げて帝国主義政策を追求しました。その結果、ロシアはフランスに接近することになりました。
ロシアとの再保障条約が失効すると、フランスは直ちにロシアに接近しました。フランスの資本がロシアの工業化に投資される経済的関係も背景となり、1890年代前半に露仏同盟が成立しました。これによってビスマルク体制は崩れ、列強関係は流動化しました。ビスマルクが最も恐れた事態、すなわちフランスとロシアの同盟が実現したのです。
ヴィルヘルム2世は3B政策を掲げました。これはベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium、イスタンブル)・バグダード(Baghdad)を鉄道で結び、西アジアへの進出を図る構想です。バグダード鉄道敷設を推進するとともに、海軍の大拡張によってイギリスの覇権に挑戦しました。市民層のあいだにも、国外のドイツ人を統合して大帝国建設をめざすパン=ゲルマン主義の運動が広がり、世界政策を支援しました。
これに対してイギリスは3C政策を推進しました。カイロ(Cairo)・ケープタウン(Cape Town)・カルカッタ(Calcutta)を結び、アフリカからインドにいたる広大な勢力圏を確保する構想です。3B政策と3C政策は西アジアで衝突し、ドイツとイギリスの対立が深まりました。
| 項目 | 3B政策(ドイツ) | 3C政策(イギリス) |
|---|---|---|
| 3つの拠点 | ベルリン・ビザンティウム・バグダード | カイロ・ケープタウン・カルカッタ |
| 方向 | ヨーロッパから西アジアへ | アフリカ縦断+インドへ |
| 手段 | バグダード鉄道の敷設、海軍の大拡張 | 植民地の連結、海上交通路の確保 |
| 衝突地域 | 西アジア(オスマン帝国領)で衝突 | |
ドイツの「世界政策」に対抗するため、イギリス・フランス・ロシアは相互に接近しました。
イギリスはどの国とも同盟関係をもたない「光栄ある孤立」の立場をとっていましたが、東アジアでのロシアの進出に備えて1902年に日本と日英同盟を結びました。1904年には英仏協商を成立させ、エジプトにおけるイギリスの支配的地位とモロッコでのフランスの優越的地位を認めあいました。ロシアは日露戦争に敗北すると、進出方向を東アジアからバルカン方面に転換し、ドイツ・オーストリアと対立するようになりました。そのため、1907年に英露協商を結んでイギリスと和解しました。
こうして、英仏協商・露仏同盟・英露協商の3つの協定を合わせた三国協商が形成され、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と対峙する構図が形成されました。三国協商はそれぞれの植民地や勢力圏の現状維持をはかるものでしたが、やがてドイツを共通の敵とする連携になりました。
なお、イタリアは三国同盟の一員でしたが、「未回収のイタリア」をめぐってオーストリアとの対立を深め、フランスに接近しました。そのため三国同盟の実態はドイツ・オーストリアの二国同盟となり、ドイツはオーストリアの地位の維持と安定を重視するようになりました。
同盟関係の変化と英独対立によって、列強体制はドイツとイギリスをそれぞれの中心とする2つの陣営に分かれ、1910年以降たがいに軍備拡大を競いあいました。
① 三国同盟(1882年):ドイツ・オーストリア・イタリア。ビスマルクがフランス孤立化のために構築
② 露仏同盟(1890年代前半):再保障条約の失効でロシアがフランスと接近
③ 英仏協商(1904年):エジプトとモロッコの勢力圏を相互承認
④ 英露協商(1907年):日露戦争後にロシアがバルカン方面に転換し英露が和解
⑤ ②③④をあわせて三国協商と呼ぶ(軍事同盟ではなく協商=外交上の協力関係)
⑥ イタリアは「未回収のイタリア」でオーストリアと対立→フランスに接近→三国同盟は実質二国同盟化
ドイツのアフリカ植民地は有力な資源や市場価値に乏しかったため、ドイツは新たな植民地を求めて、フランスのモロッコ支配に挑戦し、2度にわたって介入しました。
第1次モロッコ事件(タンジール事件、1905年)では、ヴィルヘルム2世がモロッコのタンジールを訪問し、フランスのモロッコ支配に異議を唱えました。翌年のアルヘシラス会議(1906年)でドイツは孤立し、フランスの優位が認められました。
第2次モロッコ事件(アガディール事件、1911年)では、ドイツがモロッコのアガディールに軍艦を派遣してフランスに圧力をかけました。しかしイギリスがフランスを支持したため、ドイツは再び譲歩を余儀なくされました。
2度のモロッコ事件はいずれもイギリスなどほかの列強の反対にあい、モロッコは1912年にフランスの保護国になりました。これらの事件は三国協商の結束を強め、ドイツの国際的孤立を深める結果となりました。
なお、イタリアは1880年代にソマリランド・エリトリアを植民地とし、エチオピアに侵攻しましたが1896年のアドワの戦いで敗れました。その後、1911〜12年にイタリア=トルコ戦争をおこしてオスマン帝国からリビア(トリポリ・キレナイカ)を奪いました。
バルカン半島は、衰退するオスマン帝国の領土をめぐって列強の利害が複雑に絡み合い、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになりました。
バルカン半島の緊張の背景には、ロシア・セルビアのパン=スラヴ主義と、ドイツ・オーストリアのパン=ゲルマン主義の対立がありました。ロシアはパン=スラヴ主義を掲げ、バルカン半島のスラヴ系民族の独立運動を支援しました。一方、多民族国家オーストリアは、スラヴ系民族の独立運動が自国内の民族問題を刺激することを恐れ、ロシアと対立しました。
1908年、青年トルコ革命がおこってオスマン帝国が混乱すると、オーストリアはベルリン会議で行政権を得ていたボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。同地域のスラヴ系住民の統合を目指すセルビアが強く反発しました。セルビアの背後にはロシアが控えていたため、バルカンの緊張はさらに高まりました。
1912〜13年にはバルカン戦争が2度にわたって起こりました。第1次バルカン戦争(1912年)では、バルカン同盟(セルビア・ブルガリア・ギリシア・モンテネグロ)がオスマン帝国に勝利し、オスマン帝国はバルカン半島のほぼ全域を失いました。しかし第2次バルカン戦争(1913年)では、領土分配に不満をもつブルガリアがセルビア・ギリシアなどと戦って敗北しました。敗れたブルガリアはドイツ側陣営に接近しました。
バルカン戦争の結果、セルビアが勢力を拡大し、オーストリアとの対立がいっそう深刻化しました。バルカン半島は、第一次世界大戦の導火線となっていきます。
バルカン半島の問題は、民族問題・宗教問題・列強の利害が複雑に絡み合い、局地的な衝突が列強全体を巻き込む大戦争に発展する危険をつねにはらんでいました。実際に、1914年のサラエヴォ事件がこの「火薬庫」に火をつけることになります。
ビスマルク外交の核心は「ヨーロッパの現状維持」にありました。ドイツはすでに統一を果たした大国であり、それ以上の領土的野心をもたないことを内外に示すことで、列強のドイツ包囲網を防いでいたのです。三国同盟でフランスを孤立させながらも、再保障条約でロシアとの関係を維持するという二重の保険をかける精緻な外交でした。
ヴィルヘルム2世はこの慎重な外交を「弱腰」とみなし、海軍増強と植民地獲得を柱とする「世界政策」に転換しました。再保障条約を更新しなかったことでロシアはフランスと結び(露仏同盟)、海軍の大増強はイギリスを刺激して英仏協商・英露協商の形成を促しました。つまり、ビスマルクが最も防ごうとしていた「フランス・ロシア・イギリスの三方面からの包囲」を、ヴィルヘルム2世自身が招いてしまったのです。ビスマルク外交からの転換が第一次世界大戦の遠因となったことを理解すると、この時期の国際関係を因果的に把握できます。
19世紀末から20世紀初頭にかけての列強の世界分割は、帝国主義時代の中心的な出来事です。アフリカ・太平洋が分割された結果、列強間に「分割すべき領土」がなくなり、対立の舞台はヨーロッパ内部の同盟・協商関係に移りました。ビスマルク外交の崩壊と三国同盟対三国協商という二大陣営の形成は、第一次世界大戦への直接的な前提条件となりました。
列強の世界分割と国際対立の激化は、「歴史総合」の「国際秩序の変化や大衆化と私たち」で中心的に扱われるテーマです。帝国主義がアフリカやアジアの人々の生活にどのような影響を与えたのか、そして列強間の対立がなぜ世界大戦へと発展したのかを、世界史探究の具体的な知識と結びつけて考えましょう。
ベルリン会議を契機にアフリカ分割が本格化し、列強は太平洋も含め世界を分割した。ビスマルク外交の崩壊後、ヴィルヘルム2世の世界政策が列強を三国同盟と三国協商に二分し、モロッコ事件やバルカン問題が対立を激化させて第一次世界大戦前夜の緊張を生んだ。(118字)
Q1. 1884〜85年にビスマルクが主催し、アフリカ分割の原則(実効支配の原則)を定めた国際会議を( )という。
Q2. 1898年にスーダンでイギリスの縦断政策とフランスの横断政策が衝突した事件を( )という。
Q3. アフリカ分割のなかで独立を維持した2か国は( )と( )である。
Q4. ビスマルクがフランス孤立化のために1882年に結んだ、ドイツ・オーストリア・イタリアの同盟を( )という。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) 1887年にビスマルクがロシアとの間で秘密裏に締結し、両国の中立を約束した条約を( ア )という。
(2) ヴィルヘルム2世が掲げた、ベルリン・ビザンティウム・バグダードを結ぶ政策を( イ )という。
(3) イギリスのカイロ・ケープタウン・カルカッタを結ぶ政策を( ウ )という。
(4) 1904年に成立した、イギリスとフランスの協力関係を( エ )という。
ア:再保障条約(独露再保障条約) イ:3B政策 ウ:3C政策 エ:英仏協商
(1)について:再保障条約はビスマルクがロシアとの関係を維持するために結んだ秘密条約です。ヴィルヘルム2世がこれを更新しなかったことで、ロシアはフランスと結びました。(2)(3)について:3B政策の「B」はBerlin・Byzantium・Baghdad、3C政策の「C」はCairo・Cape Town・Calcuttaの頭文字です。両政策は西アジアで衝突しました。(4)について:英仏協商はエジプトとモロッコの勢力圏を相互承認する取り決めでした。
次の問いに答えよ。
(1) ベルリン会議で定められた、沿岸部を占領した国がその内陸部も支配できるとする原則を何というか。
(2) 1896年にイタリアの侵攻を撃退してエチオピアの独立を守った皇帝の名を答えよ。
(3) バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた理由を、ロシアとオーストリアの対立に触れながら簡潔に説明せよ。
(1) 実効支配の原則
(2) メネリク2世
(3) オスマン帝国の衰退に伴いバルカン半島の諸民族が独立を求め、ロシアがパン=スラヴ主義でこれを支援する一方、多民族国家オーストリアは自国への波及を恐れて対立したため、小さな紛争が大国間の戦争に拡大する危険をはらんでいた。
(1)について:実効支配の原則はアフリカ分割を加速させた重要な取り決めです。先に沿岸部を確保した国が有利になるため、列強は競って沿岸部の占領を急ぎました。(2)について:メネリク2世はアドワの戦い(1896年)でイタリア軍を撃退しました。エチオピアはアフリカで唯一、ヨーロッパ列強の侵略を軍事的に撃退して独立を守った国です。(3)について:バルカン問題の核心は、パン=スラヴ主義を掲げるロシアと、スラヴ系民族の独立運動を恐れるオーストリアの対立にあります。
ビスマルク外交からヴィルヘルム2世の世界政策への転換が、ヨーロッパの国際関係をどのように変化させたか。「再保障条約」「露仏同盟」「三国協商」の語句を用いて150字以内で説明せよ。
ビスマルクは再保障条約でロシアとの関係を維持しフランスを孤立させていたが、ヴィルヘルム2世がこの条約を更新せず積極的な世界政策に転じた結果、ロシアはフランスと結んで露仏同盟が成立した。さらにドイツの海軍増強がイギリスを刺激し、英仏協商・英露協商を経て三国協商が形成され、ヨーロッパは二大陣営に分裂した。(149字)
この論述では、ビスマルク外交の特徴(フランス孤立化、再保障条約によるロシアとの関係維持)が、ヴィルヘルム2世の世界政策への転換によってどのように崩壊したかを因果的に説明する必要があります。再保障条約の不更新→露仏同盟→英仏協商・英露協商→三国協商という流れを押さえましょう。