勢力圏の拡大を競う列強間の対立は、第一次世界大戦をもたらしました。この史上初の総力戦の結果、国際秩序と各国の政治・社会は大きな変容をとげました。ロシア革命によって史上初の社会主義政権が誕生し、大戦中の秘密外交は戦後の中東問題の火種を残しました。
この記事では、第一次世界大戦の勃発から休戦までの経過と、ロシア革命の展開を学びます。
20世紀初めのヨーロッパの列強体制は、ドイツの強大化を警戒するイギリス・フランス・ロシアと、ドイツ・オーストリアという2つの陣営の対立に向かっていました。列強の陣営間対立と新興諸国間の競合が複雑にからみあい、緊張が高まったバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれました。
1914年6月28日、サライェヴォ(ボスニア)で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻がセルビア人により暗殺されました(サライェヴォ事件)。
ドイツの支持を受けたオーストリアは、セルビアにきびしい最後通牒を発し、7月末に宣戦しました。同じ正教国としてセルビアを後援するロシアが総動員令を発すると、ドイツはかねてからの計画(シュリーフェン=プラン)に従ってロシアとフランスに宣戦し、中立国ベルギーに侵入してまずフランスをめざしました。イギリスは中立国侵犯を理由にドイツに宣戦し、こうして第一次世界大戦が始まりました。
イギリス・フランス・ロシア側は協商国(連合国)、ドイツ・オーストリア側は同盟国と呼ばれました。日本は1914年8月下旬に日英同盟を口実に協商国側で参戦し、ドイツの租借地膠州湾の青島とドイツ領南洋諸島を占領しました。11月にはオスマン帝国がドイツ・オーストリアの同盟国側で参戦し、戦線は西アジアにも拡大しました。のちブルガリアも同盟国側で参戦しました。
イタリアは三国同盟にもかかわらず当初は中立で、1915年5月にはロンドン条約(ロンドン密約)を秘密裏に締結して三国同盟から離脱し、オーストリアに宣戦しました。また、日本はヨーロッパ勢力の後退のすきをついて1915年に中国の袁世凱政権に二十一か条要求をつきつけ、利権の拡大をはかりました。
一つの暗殺事件がわずか数週間で世界大戦に発展した背景には、列強間の同盟・協商関係が連鎖的に作動したことがあります。各国が軍事動員計画を自動的に発動する仕組みになっていたことも、事態の急速な拡大を招きました。
① 協商国(連合国):イギリス・フランス・ロシア・日本・イタリア(1915年〜)・アメリカ(1917年〜)
② 同盟国:ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリア
③ イタリアは三国同盟にもかかわらず当初は中立で、ロンドン条約を秘密裏に締結して協商国側で参戦
開戦時には、多くの人々が、従来の戦争と同様に第一次世界大戦も短期で決着がつくと考えていましたが、実際には予期せぬ長期戦となりました。大戦は前線での戦闘のみによって勝敗が決するのではなく、一般社会(銃後)も戦争遂行に動員される史上初の総力戦となりました。
開戦直後、ドイツ軍はシュリーフェン=プランに基づきベルギーを通過してフランスに向かいましたが、マルヌの戦い(1914年9月)でフランス・イギリス両軍により阻止され、短期決戦の構想はくずれました。
これ以降、西部戦線は塹壕戦による膠着状態におちいりました。東部戦線では、ドイツ軍が緒戦のタンネンベルクの戦いでロシア軍を大破しましたが、ここでも戦争は長期化しました。1916年には西部戦線でヴェルダンの戦いとソンムの戦いが行われ、双方あわせて約70万人の死者を出しました。
膠着を打開するために、各国は新しい兵器を投入しました。
大戦では、機関銃のほか、戦車・飛行機・毒ガスといった新兵器が本格的に投入されました。
海上では、ドイツが潜水艦(Uボート)を用いた無制限潜水艦作戦を展開し、連合国向けの物資を運ぶ船舶を無差別に攻撃しました。これはのちにアメリカ参戦の一因となります。
総力戦体制のもとで、各国政府は企業の生産活動を管理し、配給制を導入するなど、国民生活を統制しました。国民国家の形成が進んでいた国々で、政府や諸政党がたがいに協力する挙国一致体制がつくられたことも総力戦体制を支えました。各国の社会主義政党も自国の政府を支持し、第2インターナショナルは崩壊しました。消耗戦が続くなか、各国はより強力な戦争指導体制の構築をせまられ、イギリスではロイド=ジョージの戦時内閣が組織され、フランスでは対独強硬論のクレマンソー内閣が成立しました。一方、海上封鎖により物資の欠乏に苦しんだドイツでは、1917年に戦争継続に反対する社会民主党左派が独立社会民主党を結成し、大規模なゼネストがおこるなど、挙国一致体制に亀裂が生じました。
総力戦では、植民地の現地人も兵士や労働者として動員されました。インドからの約140万人をはじめとして、アジア・アフリカから動員された兵士・労働者は300万人を超え、大量の物資が植民地から徴発されました。フランスはセネガルやアルジェリアなどから人々を大量に動員し、イギリスは1914年に戦争を機にエジプトを正式な保護国としました。女性もまた、出征した男性にかわって兵器工場などさまざまな職場に進出しました。
| 新兵器 | 初使用・特徴 | 意義 |
|---|---|---|
| 毒ガス | 1915年、ドイツ軍が使用 | 化学兵器の登場。戦後、使用禁止の条約につながった |
| 戦車 | 1916年、ソンムの戦いでイギリスが初投入 | 塹壕・鉄条網の突破を目的に開発 |
| 飛行機 | 偵察・爆撃に使用 | 制空権の概念が誕生 |
| 潜水艦(Uボート) | ドイツが無制限潜水艦作戦を展開 | 通商破壊戦の手段。アメリカ参戦の一因 |
総力戦体制のもとで各国政府は企業の生産活動を管理し、配給制を導入するなど国民生活を統制しましたが、この経験はのちに社会主義をはじめとする計画経済の源流となりました。各国が第2次産業革命以来発展させていた工業力を最大限に発揮したことも、大戦の長期戦化・消耗戦化の背景にありました。総力戦遂行の一翼を担った女性も、戦時中から戦後にかけて一連の国々で女性参政権を勝ち取りました。
第一次世界大戦中、列強は秘密条約にもとづく戦時外交を繰り広げました。現地住民の意思を無視して領土の分割を取り決め、また、自治や独立を約束して植民地や民族独立運動から支援を得ようとしました。
とくにイギリスは、アラブ人とユダヤ人の双方に、協力の代償としてオスマン帝国領内での国家建設を約束して、パレスチナ問題の原因をつくりました。
イギリスは、オスマン帝国の背後を撹乱するためにアラブ民族運動を利用し、メッカの太守フセインとの間にアラブ地域の独立を約束するフセイン=マクマホン協定を1915年に結びました。
しかしイギリスは翌年にフランス・ロシアとの間でオスマン帝国の領土を分割するサイクス=ピコ協定を秘密裏に結び、結果的にフセイン=マクマホン協定と矛盾する約束を行いました。
さらに1917年には、ユダヤ人の協力を得るため、外相バルフォアがアラブ人の住むパレスチナにユダヤ人の「民族的郷土」を設定することを認めるバルフォア宣言を出しました。
こうしたイギリスの対応が、のちのパレスチナ問題の原因となりました。
| 名称 | 年 | 相手 | 内容 |
|---|---|---|---|
| フセイン=マクマホン協定 | 1915年 | メッカの太守フセイン | アラブ地域の独立を約束 |
| サイクス=ピコ協定 | 1916年 | フランス・ロシア | オスマン帝国の領土を分割 |
| バルフォア宣言 | 1917年 | ユダヤ人 | パレスチナにユダヤ人の「民族的郷土」を設定 |
アメリカ合衆国は当初、第一次世界大戦に中立でした。
しかし、イギリスの海上封鎖に対してドイツが無制限潜水艦作戦の実施に踏みきると、自国民の保護のために1917年4月に協商国側で参戦しました。
また、ウィルソン大統領は1918年初めに民主的講和の必要を国際社会に呼びかけました(「十四カ条」)。そこでは秘密外交の廃止・民族自決・国際平和機構(のちの国際連盟)の設立などが掲げられました。
① 秘密外交の廃止:公開外交の原則
② 海洋の自由:公海上の航行の自由
③ 関税障壁の撤廃:通商の自由
④ 軍備の縮小
⑤ 植民地問題の公正な解決
⑥ 国際平和機構の設立:のちの国際連盟に結実
第一次世界大戦中の1917年、前線での敗退と食料危機を背景に、ロシアでは帝政が倒れ、史上初の社会主義政権が誕生しました。
1917年3月(ロシア暦2月)、首都ペトログラードで労働者がパンと平和を求めてゼネストをおこすと、兵士もこれに合流し、各地で労働者や兵士のソヴィエト(評議会)が結成されました。国会(ドゥーマ)では立憲民主党を中心に臨時政府が樹立され、ニコライ2世は退位してロマノフ朝は崩壊しました(二月〈三月〉革命)。
臨時政府は、言論の自由などの改革を実行する一方、戦争を継続しました。ソヴィエトと臨時政府が並立する二重権力の状態が生まれました。革命によって農村では土地を求める農民の蜂起が広がり、ウクライナやフィンランドなど周辺地域では自立の動きがおこりました。
4月、ボリシェヴィキの指導者レーニンが亡命先のスイスから帰国して四月テーゼを発表し、戦争の即時終結や臨時政府との対決、労働者と農民の革命の結合を主張しました。臨時政府はメンシェヴィキと社会革命党(エスエル)を入閣させ、7月には社会革命党のケレンスキーを首相につけて態勢の立て直しをはかりましたが、戦争を継続する臨時政府への不満は高まるばかりでした。
11月(ロシア暦10月)、レーニンとトロツキーに指導されたボリシェヴィキは、ペトログラードで武装蜂起をおこし、臨時政府を倒して史上初の社会主義政権を樹立しました(十月〈十一月〉革命)。このソヴィエト政権は、「平和に関する布告」により、無併合・無賠償・民族自決の原則で即時に講和交渉を始めるよう交戦国に呼びかけました。また、「土地に関する布告」により、土地の私的所有を廃止しました。
レーニンはこの布告で和平をよびかけるとともに、帝政時代の秘密協定や秘密条約を暴露して各国に衝撃を与えました。しかし、講和の呼びかけには交戦国は応じず、これに対抗してアメリカのウィルソン大統領は「十四カ条」を発表しました。秘密外交に対して、理念を国際世論にうったえる外交の時代が始まったのです。
憲法制定議会の選挙で農民が伝統的に支持するエスエルが第一党になると、レーニンは翌1918年1月に同会議を解散しました。3月、ソヴィエト政権はブレスト=リトフスク条約を結び、広大な領土の放棄と多額の賠償を条件に同盟国と講和しました。モスクワに首都を移して社会主義政策を断行しましたが、旧ロシア軍の軍人や農民など諸勢力との内戦が始まりました。
革命の波及を恐れる協商国も軍隊を派遣して反ソヴィエト勢力を支援すると(対ソ干渉戦争)、ソヴィエト政権は赤軍を創設して対抗しました。内戦中、レーニンは共産党(1918年にボリシェヴィキから改称)による一党独裁を確立し、戦時共産主義を断行しました。1919年には、社会主義革命を世界に広げる目的でコミンテルン(共産主義インターナショナル、第3インターナショナル)を創設しました。
ロシアで社会主義政権が成立したことは、世界中で労働運動や反植民地運動を活性化させ、支配層に危機感をいだかせました。
前線での敗退と食料危機を背景に帝政が倒れたものの、臨時政府が戦争を継続したことが、ボリシェヴィキの台頭を許しました。レーニンとトロツキーに指導されたボリシェヴィキは、武装蜂起によって臨時政府を倒し、史上初の社会主義政権を樹立しました。
① 二月〈三月〉革命(1917年3月):労働者と兵士の反乱→ニコライ2世退位→臨時政府が成立
② 十月〈十一月〉革命(1917年11月):レーニンとトロツキーに指導されたボリシェヴィキの武装蜂起→臨時政府を打倒→史上初の社会主義政権を樹立
③ ブレスト=リトフスク条約(1918年3月):広大な領土の放棄と多額の賠償を条件に同盟国と講和
ブレスト=リトフスク条約により同盟国は東部戦線の兵力の多くを西部戦線に振り向けましたが、アメリカ合衆国が加わった協商国側の優位を崩せませんでした。
1918年9月にブルガリアが降伏し、10月にオスマン帝国、11月にはオーストリアが降伏しました。11月、ドイツではキール軍港の水兵反乱をきっかけにドイツ革命がおこり、各地に労兵レーテ(評議会)が結成されました。11月10日にヴィルヘルム2世が退位してオランダに亡命し、ドイツ共和国が成立しました。翌11日に連合国との休戦条約が結ばれ、こうして人類初の総力戦は終わりました。
開戦前、ヨーロッパは自他ともに文明の頂点と認識されていましたが、大戦によりヨーロッパ人同士が凄惨な戦いを繰り広げたことで、その認識は大きく後退しました。主戦場となったヨーロッパは、戦勝国と敗戦国の区別なく疲弊しました。こうして、国際秩序におけるヨーロッパ中心主義は過去のものとなり、かわりにアメリカ合衆国や日本、社会主義政権のロシアが新たに台頭しました。
戦争に動員された植民地の人々は権利意識を高め、独立運動を活発化させました。総力戦遂行の一翼を担った女性も、戦時中から戦後にかけて一連の国々で女性参政権を勝ち取りました。
大戦末期の1918年春から終戦後の1919年春にかけて、スペイン風邪(インフルエンザ)が世界的にまん延し、第一次世界大戦における戦死者(約1000万人)をはるかに超える犠牲者を若者層中心にもたらしました。日本でも約40万人が死亡したといわれます。世界大戦というはげしい移動をともなう出来事が、このインフルエンザをパンデミックにしたといえます。
① アメリカの参戦(1917年4月)→協商国側の優勢
② ロシアの離脱(ブレスト=リトフスク条約、1918年3月)
③ 同盟国側がつぎつぎと降伏(1918年9月ブルガリア、10月オスマン帝国、11月オーストリア)
④ キール軍港の水兵反乱→ドイツ革命→11月10日ヴィルヘルム2世退位・亡命→ドイツ共和国成立
⑤ 翌11月11日に連合国と休戦条約締結
第一次世界大戦と総力戦は、「歴史総合」の「国際秩序の変化や大衆化と私たち」で中核テーマとして扱われます。総力戦が人々の生活をどう変えたか、戦争が女性の社会進出や大衆社会の形成とどう結びついたかを、世界史探究の知識と合わせて理解しましょう。
1914年、サライェヴォ事件を機に第一次世界大戦が勃発した。戦争は史上初の総力戦となり、秘密外交がパレスチナ問題の原因をつくった。ロシアでは二月革命で帝政が倒れ、十月革命でレーニンとトロツキーに指導されたボリシェヴィキが史上初の社会主義政権を樹立した。1918年、ドイツ革命を経て休戦が成立し、ヨーロッパ中心主義は過去のものとなった。
Q1. 1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者がボスニアの( )で暗殺された事件を( )という。
Q2. 第一次世界大戦で、ドイツ・オーストリア=ハンガリー側の陣営を( )、イギリス・フランス・ロシア側の陣営を( )という。
Q3. 1915年、イギリスがアラブ人に独立国家の建設を約束した書簡のやりとりを( )という。
Q4. 1916年、イギリス・フランス・ロシアがオスマン帝国領の分割を取り決めた秘密協定を( )という。
Q5. 1917年、イギリス外相がパレスチナにおけるユダヤ人の「民族的郷土」の建設を支持すると表明したことを( )という。
Q6. 1917年3月(ロシア暦2月)、ロシアで労働者と兵士が反乱をおこし帝政が倒れた革命を( )という。
Q7. 1917年11月(ロシア暦10月)、( )とトロツキーに指導されたボリシェヴィキが武装蜂起をおこし、史上初の社会主義政権を樹立した。
Q8. 1918年3月、ソヴィエト政権がドイツとの間で結んだ単独講和条約を( )という。
Q9. 1918年11月、ドイツの( )軍港で水兵が反乱を起こし、ドイツ革命のきっかけとなった。
Q10. 1918年初め、アメリカのウィルソン大統領が民主的講和の必要を国際社会に呼びかけた原則を( )という。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) 第一次世界大戦で、国家の人員・経済・技術など全資源を動員する戦争のあり方を( ア )という。
(2) 1917年、ドイツが中立国の船舶をも攻撃する( イ )を再開したことが、アメリカ参戦の一因となった。
(3) レーニンが十月革命後に発した「( ウ )に関する布告」は、無併合・無賠償の即時講和を全交戦国に呼びかけた。
(4) ドイツ革命の結果、皇帝( エ )が退位し、ドイツ共和国が成立した。
ア:総力戦 イ:無制限潜水艦作戦 ウ:平和 エ:ヴィルヘルム2世
(1)について:総力戦とは、軍事力だけでなく経済力・科学技術・国民生活のすべてを戦争に動員する近代的な戦争形態です。(2)について:ドイツは連合国への物資補給を断つために潜水艦(Uボート)を用い、中立国の船舶も攻撃しました。(3)について:「平和に関する布告」と「土地に関する布告」はレーニンが十月革命直後に発した2つの重要な布告です。(4)について:ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、ホーエンツォレルン朝は終焉を迎えました。
次の問いに答えよ。
(1) 第一次世界大戦中にイギリスが行った中東に関する三つの外交的約束の名称を、年代順に答えよ。
(2) 二月革命後に成立した臨時政府が国民の支持を失った最大の理由を述べよ。
(3) ロシアのソヴィエト政権がドイツとの間で結んだブレスト=リトフスク条約の内容と、レーニンがこの条件を受け入れた理由を簡潔に述べよ。
(1) フセイン=マクマホン協定(1915年)→サイクス=ピコ協定(1916年)→バルフォア宣言(1917年)
(2) 自由主義者が主導する臨時政府が戦争を継続し、国民が求めていた即時講和に応えなかったため。
(3) 広大な領土の放棄と多額の賠償を条件に同盟国と講和した。ソヴィエト政権は革命の存続を最優先し、不利な条件でも戦争からの離脱を選んだ。
(1)について:三つの約束はそれぞれ異なる相手に行われ、互いに矛盾していたことが重要です。(2)について:戦争に疲弊した兵士や民衆は平和を求めていましたが、臨時政府は連合国との約束を重視して参戦を続けました。これがボリシェヴィキの台頭を許す結果となりました。(3)について:革命直後のロシアは軍事的に戦争を続ける力がなく、国内の反革命勢力への対処も必要でした。
第一次世界大戦がそれ以前の戦争と質的に異なっていた点を、「総力戦」「塹壕戦」「秘密外交」の語句を使って150字以内で説明せよ。
第一次世界大戦は、機関銃・戦車・毒ガスなどの新兵器が投入され、西部戦線では塹壕戦により膠着して長期戦となった。大戦は前線だけでなく銃後も動員される史上初の総力戦となり、政府が経済を管理し配給制を導入した。また列強は秘密外交により矛盾する約束を行い、パレスチナ問題など戦後の国際紛争の原因をつくった。(141字)
この問題では、第一次世界大戦の質的な新しさを3つの指定語句を使って論理的に説明する必要があります。軍事面(塹壕戦と新兵器)、社会面(総力戦による国家総動員)、外交面(秘密外交の問題点)の三つの観点を盛り込みましょう。