16世紀以来、中南米はヨーロッパ諸国の植民地でしたが、フランス革命とナポレオンの支配によって本国が動揺した結果、19世紀前半にほとんどの植民地で新国家が独立しました。これらの独立運動はアメリカ独立革命やフランス革命からも影響を受けており、大西洋をまたぐこうした一連の変化を総称して環大西洋革命と呼びます。ハイチ革命を皮切りに、シモン=ボリバルやサン=マルティンらが南米各地の解放を指導し、ブラジルはポルトガルから比較的平穏に独立しました。
この記事では、中南米独立の背景にあるクリオーリョ(白人入植者の子孫)の不満、独立運動の展開、そしてアメリカ合衆国のモンロー宣言がもたらした影響を学びます。
スペイン・ポルトガルの中南米植民地には、厳格な身分制度が存在しました。本国生まれの白人であるペニンスラールが総督や高官などの要職を独占し、白人入植者の子孫であるクリオーリョは、地主として先住民や黒人奴隷を支配した一方で、本国から派遣された植民地官僚に政治権力を握られて不満をつのらせていました。さらにその下に混血のメスティーソやムラート、先住民(インディオ)、黒人奴隷が位置づけられていました。また、クリオーリョの一部は貿易商として、本国商人に有利だった重商主義的な貿易統制に反対していました。
18世紀後半、ヨーロッパの啓蒙思想やアメリカ独立革命(1776年)、フランス革命(1789年)の影響が中南米にも波及しました。とくにクリオーリョの知識人はヨーロッパで教育を受けた者も多く、自由・平等の理念に共鳴して本国の支配に対する不満を強めていきました。のちに独立運動を指導するボリバルもナポレオン期のヨーロッパに滞在し、啓蒙思想を吸収していました。
フランス革命とナポレオンの支配によって本国が動揺したことは、独立運動の決定的な契機となりました。とくにナポレオンのスペイン侵攻(1808年)により本国の権威が崩壊すると、中南米の各地で自治や独立を求める運動が本格化しました。
①クリオーリョ(白人入植者の子孫)が本国から派遣された植民地官僚に政治権力を握られていた
②啓蒙思想・アメリカ独立革命・フランス革命の影響
③フランス革命とナポレオンの支配(特にスペイン侵攻1808年)→ 本国が動揺
④独立運動の担い手は主にクリオーリョ
中南米の独立運動に先駆けて、カリブ海のイスパニョーラ島西部にあるフランス植民地サン=ドマング(現在のハイチ)で独立運動がおこりました。母国フランスの革命から人権宣言の理想が伝わると、奴隷制プランテーションを経営していた白人と、白人・黒人の混血(ムラート)を中心とする自由民とが対立しました。1791年、これに人口の大多数を占めていた黒人奴隷の反乱が加わってハイチ革命が始まり、まもなく黒人が権力を握りました。
こうした動きにイギリス・スペインが干渉しましたが、フランス本国は1794年に世界初となる奴隷制の廃止を決定し、黒人のトゥサン=ルヴェルチュールが指導する自治政府がイギリス・スペイン両国を撃退しました。しかしその後、同地の確保と奴隷制の復活をもくろんだナポレオンが軍を送り、トゥサンは捕らえられて1803年に獄死しました。
トゥサンの死後も抵抗は続き、デサリーヌらがナポレオンの送った軍を退けました。1804年、世界ではじめて植民地支配を脱した黒人国家ハイチとして独立しました。
ハイチ革命はフランス革命が掲げた自由・平等の理念を、植民地の奴隷にまで徹底した運動でした。フランス革命の人権宣言は「人は自由かつ権利において平等に生まれる」と謳いましたが、植民地の奴隷制には適用されていませんでした。ハイチの独立は、この矛盾を暴力的に解決した出来事であり、奴隷制廃止の潮流に大きな影響を与えました。
①1791年:フランス領サン=ドマングで黒人奴隷が蜂起(母国の革命から人権宣言の理想が伝播)
②指導者:トゥサン=ルヴェルチュール → 自治政府がイギリス・スペインを撃退
③ナポレオンが軍を送る → トゥサンは捕らえられ獄死(1803年)
④1804年:世界ではじめて植民地支配を脱した黒人国家ハイチとして独立
ハイチ革命の一方、中南米の独立運動はおもに大陸側で展開され、その担い手はクリオーリョでした。スペインの中南米植民地、とくにその南部では、本国においてフランス支配に抵抗する勢力が憲法を公布し、立憲君主政を宣言した(1812年)ことに刺激されて、各地のクリオーリョが自立への歩みを始めました。フランス支配からの解放後に本国はこれを阻止しようとしましたが、植民地側は民兵隊を組織して独立戦争を開始しました。
シモン=ボリバル(1783〜1830年)は、ベネズエラ出身のクリオーリョで、南米北部の独立運動を指導しました。
ボリバルらの活躍もあって、1819年にベネズエラを含む大コロンビア(のちコロンビア・エクアドル・ベネズエラに分裂)の独立が宣言されました。さらにボリビア、ペルーも1820年前後に独立しました。ボリバル率いる独立軍が1824年にスペイン勢力に大勝し(アヤクーチョの戦い)、旧植民地諸国の独立を確定させました。ボリバルは「解放者」(リベルタドール)と称えられ、ボリビアの国名はボリバルにちなんで名づけられました。
サン=マルティン(1778〜1850年)は、南米南部で独立運動に加わり、1816年のアルゼンチン独立に寄与しました。ついでアンデス山脈を越えてチリ(1818年)、さらにペルーにも進軍して解放しました。
1822年、北から南下したボリバルと南から北上したサン=マルティンは、エクアドルのグアヤキルで会談しました。会談の詳細は不明ですが、サン=マルティンはペルーの解放をボリバルに委ねて自らは引退しました。ボリバルがペルーの独立を完成させ、南米大陸のスペイン支配はほぼ終結しました。
スペイン植民地で最大の人口と富を有したメキシコでは、独立運動は保守的な性格のものとなりました。同地では、1810年に聖職者イダルゴを指導者としてインディオやメスティーソなどの被支配層が抑圧からの解放や独立を掲げて蜂起しましたが、植民地政府軍によって鎮圧されました。他方、本国で停止されていた1812年の憲法が復活すると、本国出身者やクリオーリョの支配層は、これが植民地にも施行されてみずからの地位を失うことを恐れました。このため、彼らは結束して本国と決別し、白人主導のメキシコ帝国を樹立しました(1821年)。
| 地域・国 | 独立年 | 指導者 | 備考 |
|---|---|---|---|
| ハイチ | 1804年 | トゥサン=ルヴェルチュール、デサリーヌ | フランスから独立。黒人奴隷による独立 |
| コロンビア(大コロンビア) | 1819年 | シモン=ボリバル | のちにベネズエラ・エクアドルと分裂 |
| メキシコ | 1821年 | イトゥルビデ | イダルゴの蜂起(1810年)が先駆 |
| ブラジル | 1822年 | ペドロ1世 | ポルトガルから独立。帝政として独立 |
| ペルー | 1821年宣言/1824年確定 | サン=マルティン → ボリバル | アヤクーチョの戦い(1824年)で独立確定 |
| ボリビア | 1825年 | ボリバル | ボリバルの名にちなんで命名 |
①シモン=ボリバル:ベネズエラ出身。北から南へ進軍 → コロンビア・ベネズエラ・エクアドル・ペルー・ボリビアを解放
②サン=マルティン:アルゼンチン出身。南から北へ進軍 → アルゼンチン・チリ・ペルーを解放
③グアヤキル会談(1822年)で両者が合流 → サン=マルティンは引退
④ボリバルは「解放者」(リベルタドール)と称えられた
ポルトガルの植民地であったブラジルは、スペイン領植民地とは異なる経緯をたどりました。ナポレオンの侵攻を受けて本国王室がリオデジャネイロに避難し同地を首都としたのち、イギリスとの貿易が拡大して経済的に発展しました。
国王はナポレオン戦争後に帰国し、立憲君主政国家を発足させましたが、ブラジルのクリオーリョは、本国からの干渉の復活や奴隷制廃止の強制を恐れて王太子を国家元首として擁立しました。これに応じた王太子ペドロは1822年に独立を宣言して、ブラジル帝国が成立しました。
ブラジルの独立は本格的な戦闘もなく達成され、帝政下で憲法も公布されましたが、奴隷制は維持されました。
スペイン領では長期にわたる戦争を経て共和政が樹立されたのに対し、ブラジルではクリオーリョが王太子を擁立し、王太子自身が独立を宣言して帝政が成立しました。この違いは、ナポレオン戦争時にポルトガル王室がブラジルに避難し、イギリスとの貿易で経済的に発展していたことが背景にあります。
①ナポレオンの侵攻でポルトガル王室がリオデジャネイロに避難 → イギリスとの貿易で経済発展
②クリオーリョが本国からの干渉の復活を恐れて王太子を擁立
③王太子ペドロが1822年に独立宣言 → ブラジル帝国が成立(本格的な戦闘なし)
④独立後も奴隷制が存続(廃止は1888年)
中南米の独立運動が進むなか、ヨーロッパではウィーン体制のもとで保守的な国際秩序の維持が図られていました。神聖同盟を中心とするヨーロッパ列強は、中南米の独立運動を革命とみなして武力干渉の動きを見せました。
1823年、アメリカ合衆国大統領モンローは、議会への年次教書のなかで、のちにモンロー宣言(モンロー教書)と呼ばれる外交方針を表明しました。その内容は、ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸に新たな植民地を建設したり、既に独立した国々に干渉したりすることを認めないというものでした。同時に、南北アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉をとなえました。
大西洋の制海権を握っていたイギリスは、独立国との自由貿易に期待を寄せて独立運動を支援し、イギリス外相カニングもスペインの影響力後退を期待して独立を支持しました。また、ヨーロッパ諸国の関心が中南米に向けられたことを警戒したアメリカ合衆国がこの宣言を発しました。この姿勢はモンロー主義もしくは孤立主義と呼ばれて、第一次世界大戦までヨーロッパに対するアメリカ外交の基本方針となりました。
①1823年:アメリカ大統領モンローが発表
②内容:南北アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉をとなえた
③モンロー主義もしくは孤立主義と呼ばれる
④第一次世界大戦までアメリカ外交の基本方針となった
新独立国の大半は共和国となり、君主制・貴族制および奴隷制を廃止しました。ただし先住民の立場は弱く、また独立後の中南米諸国では、クリオーリョによる支配が独裁政権となる例もあり、不安定な政治が続きました。
経済面では、イギリスとの自由貿易のもとでモノカルチャー経済(単一作物依存型の経済)が固定化し、先進国への原料供給地としての構造が形成されました。ボリバルが構想した南米統一も実現せず、大コロンビアは1830年にコロンビア・ベネズエラ・エクアドルに分裂しました。
| 分野 | スペイン領の独立 | ブラジルの独立 |
|---|---|---|
| 宗主国 | スペイン | ポルトガル |
| 独立の方法 | 長期の独立戦争 | 王子の独立宣言(比較的平穏) |
| 独立後の政体 | 共和政 | 帝政(立憲君主政) |
| 担い手 | クリオーリョの軍人・知識人 | ポルトガル王子(ペドロ) |
| 奴隷制 | 独立時に廃止の方向 | 独立後も存続(1888年廃止) |
①先住民の立場は弱く、クリオーリョによる支配が独裁政権となる例もあった
②不安定な政治が続いた
③モノカルチャー経済が固定化 → 先進国への原料供給地という従属的構造
④ボリバルの南米統一構想は挫折 → 大コロンビアの分裂(1830年)
中南米の独立は、環大西洋革命の一環として歴史総合でも取り上げられます。とくにハイチ革命は奴隷制や人権の問題と結びつけて学ぶ重要なテーマです。また、独立後のモノカルチャー経済の構造は、近代の世界経済における「中心と周辺」の関係を理解する上で欠かせない内容です。
フランス革命とナポレオンの支配による本国の動揺を契機に、クリオーリョを中心とする独立運動が中南米各地で展開された。ハイチ革命を皮切りに、ボリバル・サン=マルティンの活躍を経て、モンロー宣言が列強の干渉を牽制した。
Q1. フランス領サン=ドマングで1791年に始まった黒人奴隷の反乱を指導し、「黒いジャコバン」とも称される人物は誰か。
Q2. スペイン領中南米で、植民地生まれの白人を何と呼ぶか。また、本国生まれの白人を何と呼ぶか。
Q3. 南米北部の独立を指導し、「解放者」(リベルタドール)と称えられたベネズエラ出身の人物は誰か。
Q4. 1822年にブラジルの独立を宣言し、ブラジル帝国の初代皇帝となった人物は誰か。
Q5. 1823年にアメリカ大統領モンローが発表した、ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸への干渉を拒否する外交方針を何と呼ぶか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
1791年、フランス領サン=ドマングで( ア )が指導する黒人奴隷の反乱が始まり、1804年に( イ )共和国として独立した。南米では( ウ )がベネズエラ出身の「解放者」として北部の独立を指導し、( エ )はアルゼンチンを拠点に南部からチリ・ペルーの解放を進めた。1823年にはアメリカ大統領モンローが( オ )を発表し、ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸への干渉を牽制した。
ア:トゥサン=ルヴェルチュール イ:ハイチ ウ:シモン=ボリバル エ:サン=マルティン オ:モンロー宣言
中南米独立の基本事項を問う問題です。ハイチ革命(1791〜1804年)はラテンアメリカ最初の独立であること、ボリバルとサン=マルティンがそれぞれ北と南から独立運動を展開したこと、モンロー宣言(1823年)がヨーロッパの干渉を牽制したことを正確に押さえましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
スペイン領中南米では、植民地生まれの白人である( ア )が独立運動の中心的な担い手となった。その背景には、本国生まれの白人である( イ )が政治の要職を独占していたことへの不満がある。ブラジルでは、ナポレオン戦争時にポルトガル王室がブラジルに渡り、戦後に王子( ウ )が1822年に独立を宣言して( エ )帝国の初代皇帝となった。
ア:クリオーリョ イ:ペニンスラール ウ:ペドロ(1世) エ:ブラジル
植民地社会の身分構造(クリオーリョが本国派遣の官僚に政治権力を握られていたこと)は中南米独立を理解する上での前提知識です。ブラジルの独立がスペイン領と異なり、クリオーリョが王太子を擁立して帝政が成立した点は、比較問題として出題されやすい重要ポイントです。
中南米における独立運動が19世紀初頭に相次いで起こった背景を、「クリオーリョ」「啓蒙思想」「ナポレオン」の語句を用いて120字以内で説明せよ。
白人入植者の子孫であるクリオーリョは、本国から派遣された植民地官僚に政治権力を握られて不満をつのらせていた。啓蒙思想やアメリカ・フランス革命に触発されるなか、ナポレオンのスペイン侵攻で本国が動揺し、各地で独立運動が本格化した。(113字)
中南米独立の背景を「構造的要因」と「直接的契機」に分けて整理できるかがポイントです。構造的要因としてクリオーリョの不満と啓蒙思想の影響を述べ、直接的契機としてナポレオンのスペイン侵攻を位置づけましょう。