第13章 イギリスの優位と欧米国民国家の形成

ウィーン体制とヨーロッパの政治・社会の変動
─ 復古と革命が交差した時代

ナポレオン戦争後のヨーロッパでは、ウィーン会議を通じてフランス革命以前の秩序を取り戻す試みが始まりました。しかし自由と国民の権利を求める動きは止まらず、七月革命二月革命がヨーロッパ各地に波及しました。
この記事では、ウィーン体制の成立から崩壊までの流れと、イギリスにおける独自の改革の道のりを学びます。

この記事のポイント
  • ウィーン会議(1814〜15年)では正統主義勢力均衡を原則に、革命前の秩序が再建された
  • 神聖同盟四国同盟によって自由主義・国民主義の運動が抑圧された
  • フランスの七月革命(1830年)と二月革命(1848年)がヨーロッパ各地に波及し、ウィーン体制は崩壊した
  • イギリスでは革命ではなく選挙法改正穀物法廃止チャーティスト運動を通じて段階的に改革が進んだ

1ウィーン会議 ─ ナポレオン後の秩序づくり

会議の開催と主導者

1814年から15年にかけて、フランス革命・ナポレオンの大陸支配による激動の事後処理と新しい国際秩序の協議のため、オーストリアの首都ウィーンで国際会議が開かれました。これがウィーン会議です。会議にはオスマン帝国を除く全ヨーロッパの支配者が参加しましたが、それは過去四半世紀間におこった変動の大きさを反映していました。会議の議長となったのはオーストリア外相(のち宰相)メッテルニヒで、ナポレオン支配の打倒に決定的役割を果たした列強間の意向のもとに協議を進めました。

しかし各国の利害が複雑に絡み合い、会議はなかなか進みませんでした。各国代表が舞踏会や晩餐会に明け暮れたため、「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られたほどです。それでも1815年のナポレオンの再挙兵を機に議定書が調印されました。会議の結果はウィーン議定書にまとめられました。

正統主義と勢力均衡

フランスの外相タレーランは、フランス革命以前の政治秩序を正統のものとし、それを回復させようという正統主義をとなえ、ブルボン王家の復帰を認めさせました。

しかし、ほかの列強は激動後の現実に立って、正統主義よりもヨーロッパ世界の安定と自国領土の拡大を重視しました。大国の勢力均衡による国際秩序の平和的維持が追求され、列強のなかでは海軍力・工業力にまさるイギリスと、強大な陸軍を保有するロシアが大きな影響力をもちました。

ウィーン議定書の主な領土決定
  • ロシア:ロシア皇帝がポーランド国王を兼ねて支配領域を西方にのばし、ベッサラビアとフィンランドを確保
  • プロイセン:東西に領土を拡大(ラインラント、ザクセン北部など)
  • オーストリア:オーストリア領ネーデルラントをオランダにゆずったが、イタリア北部地域を統合して自国領域の統合を果たした
  • イギリス:大陸での勢力均衡を実現させて本国の安全を確保し、旧オランダ領のセイロン島やケープ植民地、マルタ島などを得て世界帝国への基礎を固めた
  • オランダ:南ネーデルラント(現ベルギー)と統合して立憲王国を形成
  • スイス:永世中立国として承認された
  • ドイツ:神聖ローマ帝国は復活せず、35の君主国と4自由市からなるドイツ連邦が成立
ウィーン会議はなぜ「正統主義」を掲げたのか
フランス革命とナポレオン戦争でヨーロッパの秩序が根底から揺らいだ
各国の君主にとって、革命思想(自由・平等・国民主権)は自国の体制を脅かすものだった
敗戦国フランスの外相タレーランが「正統な王朝の復活」を主張し、フランスの国際的地位を守ろうとした
各国の君主もこの原則を支持 → 革命前の秩序に戻すことで合意が成立
ここが問われる: ウィーン会議の原則と領土決定 内容・特徴

①議長:メッテルニヒ(オーストリア外相、のち宰相)
②原則:正統主義(タレーラン提唱)+勢力均衡
③フランスのブルボン王家が復活
ドイツ連邦の成立(35君主国と4自由市。神聖ローマ帝国は復活せず)
スイスの永世中立国承認

2ウィーン体制の維持 ─ 神聖同盟と四国同盟

神聖同盟

ロシア皇帝アレクサンドル1世のよびかけで、キリスト教の精神に立つ神聖同盟(1815年)が結成されました。ヨーロッパのほとんどの君主が参加しましたが、自由主義に立つイギリス、イスラームのオスマン帝国、そしてプロテスタント国との同盟をきらうローマ教皇は参加しませんでした。

神聖同盟は具体的な軍事力を持たない理念的な約束でしたが、ウィーン体制を支える精神的な柱として機能しました。

四国同盟

他方、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアが四国同盟(1815年)を結び、1818年にはフランスも参加して五国同盟となりました。これらの同盟はウィーン体制の強化をねらったものでした。

会議で成立した国際秩序はウィーン体制と呼ばれ、四国同盟の列強がこれを支えました(列強体制)。列強体制は、ナポレオンの大陸支配の経験から、一国だけがヨーロッパの覇権を握ることを阻止し、列強が協調してヨーロッパの国際秩序を維持して国際問題を調停するシステムでした。この体制は19世紀半ばの一時期を除いて20世紀初めまで存続し、ほぼ1世紀のあいだ、ヨーロッパ中心部では比較的平和で安定した国際環境が維持されました。

発展:「神聖同盟」と「四国同盟」の違い

神聖同盟はロシア皇帝の提唱による理念的な約束であり、具体的な軍事行動の取り決めはありませんでした。一方、四国同盟はウィーン体制を武力で維持するための軍事同盟です。入試では両者の性格の違いを問う問題が頻出です。特にイギリスが四国同盟には参加したが神聖同盟には参加しなかった点がポイントです。

ここが問われる: 神聖同盟と四国同盟の比較 比較
神聖同盟四国同盟
提唱者ロシア皇帝アレクサンドル1世イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアの4国
性格キリスト教精神に基づく理念的同盟ウィーン体制維持の軍事同盟
参加国ほぼ全ヨーロッパ君主英・露・墺・普(→仏加入で五国同盟)
不参加イギリス・ローマ教皇・オスマン帝国
実効性具体的な軍事力なし会議外交で革命運動を抑圧

3自由主義・国民主義の運動

ウィーン体制への反発

メッテルニヒらはウィーン体制を守るため、保守主義を掲げ、自由主義的改革運動やナショナリズムの運動を監視し、思想統制や蜂起・革命の武力制圧を実行しました。しかし改革・独立運動はおさまらず、1817年にはドイツの学生団体(ブルシェンシャフト)が憲法制定と国家統一を求める運動をおこし、1820年にはスペインで立憲革命が、イタリアでは秘密結社カルボナリ(炭焼き党)の反乱がおこりました。さらに1825年にはロシアでニコライ1世即位に際して自由主義的な貴族将校によるデカブリスト(十二月党員)の反乱がおきました。これらはいずれも鎮圧されましたが、自由と独立を求める運動は止みませんでした。

ラテンアメリカの独立とモンロー宣言

ウィーン体制への最初の挑戦は、ヨーロッパの外から来ました。スペイン・ポルトガルの植民地だったラテンアメリカでは、ナポレオン戦争の混乱に乗じて独立運動が広がりました。シモン=ボリバルサン=マルティンらの指導のもと、多くの国が独立を達成しました。

メッテルニヒはこの動きも阻止しようとしましたが、イギリスが中南米市場の開発を期待して独立を支持するなど列強の足なみが乱れ、失敗しました。またアメリカ合衆国のモンロー大統領1823年にいわゆるモンロー宣言を発して、南北アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉をとなえました。

ギリシア独立戦争

1821年オスマン帝国支配下のギリシアで独立戦争が始まりました。古代ギリシアへの憧れから、イギリスの詩人バイロンをはじめとするヨーロッパの知識人たちがギリシア支援に動きました。

オーストリアは独立に干渉しようとしましたが、バルカン半島への進出をねらうロシアと、イギリス・フランスはオスマン帝国への対抗からギリシアを支援し、1829年にギリシアの独立が実現しました。ギリシアの独立は1830年のロンドン会議で国際的に承認されました。

ウィーン体制はなぜ各地の独立運動を抑えきれなかったのか
フランス革命で広まった自由主義・国民主義の理念は、もはや力だけでは押さえ込めなかった
イギリスが中南米市場の開発を期待して独立を支持 → 列強の足なみが乱れた
ギリシア独立戦争では列強の利害が一致せず、ロシア・英・仏がギリシアを支援
体制内部の矛盾(列強間の対立)により、革命運動を一致して抑え込む体制が崩れた
ここが問われる: ウィーン体制下の自由主義・国民主義運動 出来事の流れ

ブルシェンシャフト(1817年)・スペイン立憲革命(1820年)・カルボナリの反乱・デカブリストの反乱(1825年)→いずれも鎮圧
ラテンアメリカ独立運動:シモン=ボリバルサン=マルティンが指導
モンロー宣言(1823年):南北アメリカとヨーロッパの相互不干渉を主張
ギリシア独立戦争(1821〜29年):オスマン帝国から独立(1830年ロンドン会議で承認)
⑤イギリスが中南米市場の開発を期待して独立を支持 → 列強の足なみの乱れがウィーン体制を揺るがした

4七月革命(1830年) ─ ウィーン体制の動揺

フランス七月革命

ブルボン朝が復権したフランスでは、絶対王政への復帰はできず、立憲君主政の統治になりましたが、きびしい制限選挙による反動政治が続いて国民の不満を高めました。ルイ18世を継いだシャルル10世は、1830年アルジェリア遠征によって国民の批判をそらそうとしました。

1830年7月、シャルル10世が選挙権のいっそうの制限強化や言論統制をうちだすと、パリ市民と民衆が蜂起し、国王は亡命しました。これが七月革命です。

後継の王には自由主義的とされたオルレアン家のルイ=フィリップが推され、七月王政が成立しました。

七月革命の波及

フランス七月革命のニュースはヨーロッパ各地に波及しました。

  • ベルギー:産業革命がすすんでいた南ネーデルラントでオランダ支配からの独立革命がおこり、1831年に立憲王政のベルギー王国が成立しました。
  • ポーランド・イタリア:独立をめざす蜂起がおこりましたが、失敗しました。

しかし西欧諸国はメッテルニヒの抑圧的な保守主義に協調しなくなり、ウィーン体制の反動政治はオーストリア・ドイツなどの中欧・東欧地域に後退しました。

七月革命の影響
  • フランスでブルボン朝が再び倒れ、正統主義の原則が崩れた
  • ベルギーがオランダから独立し、ウィーン議定書の領土決定が覆された
  • ウィーン体制の維持はもはや困難であることが明らかになった
ここが問われる: 七月革命とその波及 因果関係

シャルル10世の反動政治・アルジェリア遠征 → 選挙権制限強化・言論統制 → パリ市民蜂起(1830年7月
②自由主義的とされたオルレアン家のルイ=フィリップが推され「七月王政」成立
③波及:ベルギー独立(1831年立憲王政)、ポーランド・イタリアの蜂起(失敗)
④西欧諸国がメッテルニヒの保守主義に協調しなくなり、ウィーン体制の反動政治は中欧・東欧に後退

5二月革命(1848年) ─ ウィーン体制の崩壊

フランス二月革命

七月王政下のフランスでは、銀行家など一部の富裕層に富が集中し、多額納税者だけに選挙権を認める制限選挙による政治がおこなわれていました。1846年からの凶作と1847年の経済恐慌を背景に社会不安が広がるなか、選挙権拡大運動が高揚しました。政府がこれを力でおさえようとすると、1848年2月、パリで二月革命がおこりました。

革命の結果、七月王政は倒れて共和政の臨時政府が樹立されました(第二共和政)。臨時政府には社会主義者のルイ=ブランや労働者の代表も入りましたが、男性普通選挙を実現させた市民層や農民は急進的な社会改革を望まず、選挙の結果、穏健共和派政府が成立しました。パリの労働者はこれに反発して蜂起しましたが、鎮圧されました(六月蜂起)。

同年12月の大統領選挙ではナポレオン1世の甥のルイ=ナポレオンが当選しました。彼は1851年、クーデタによって独裁権を握り、1852年には国民投票で帝政を復活させ、ナポレオン3世を名のりました(第二帝政)。

「諸国民の春」─ ヨーロッパへの波及

二月革命はまもなくオーストリア・ドイツにも波及し、三月革命となりました。こうした自由主義的改革運動と独立・自治を求めるナショナリズムが高揚する状況は「諸国民の春」と呼ばれ、1848年革命とも総称されます。

  • オーストリアメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制は崩壊しました。
  • プロイセン:国王の譲歩で自由主義的政府が成立し、ドイツ諸邦の自由主義者らは統一国家と憲法制定のためフランクフルト国民議会に結集しました。
  • ハンガリー・ベーメン:オーストリア帝国内で独立を求めるナショナリズム運動が広がりました。
  • イタリア:各地で独立・統一運動がおこりました。

1848年革命は全ヨーロッパ的規模でおこりましたが、西欧諸国では国内の自由主義的改革が、東欧地域では民族運動による自治や独立の実現が主要目的で、相互の連携は少なく、以後東・西ヨーロッパがそれぞれ異なる政治・社会的方向に進む分岐点となりました。

しかし革命運動内の分裂や対立をみて、一時後退した王権や保守勢力は反撃に転じました。プロイセンでは国王がフランクフルト国民議会のドイツ皇帝推挙を拒否し、1850年には一方的に欽定憲法を発布しました。ロシアはオーストリアに軍を派遣してコシュートらの率いるハンガリーの民族運動を鎮圧したため、「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれました。

二月革命はなぜヨーロッパ全体に波及したのか
産業革命の進展で都市労働者が増え、政治参加を求める声が高まっていた
各国の支配層は自由主義・国民主義を抑え込んでいたが、不満は蓄積していた
フランスの二月革命の成功が各地の運動に「自分たちにもできる」という勢いを与えた
ウィーン・ベルリン・ブダペスト・イタリア各地で同時多発的に革命が起こった(「諸国民の春」)

ウィーン体制の成立から崩壊まで

ウィーン体制
七月革命
動揺期
二月革命
1815年1830年1848年
ここが問われる: 1848年革命(諸国民の春)の全体像 出来事の流れ

①フランス:二月革命第二共和政 → ルイ=ナポレオン大統領 → 国民投票で第二帝政(1852年〜)
②オーストリア:三月革命メッテルニヒ失脚 → ウィーン体制の崩壊
③プロイセン:三月革命 → フランクフルト国民議会(統一国家と憲法制定をめざす)→ 国王が皇帝推挙を拒否 → 欽定憲法発布(1850年)
④ハンガリー:コシュートらの民族運動 → ロシアの軍事介入で鎮圧(ロシアは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた)
⑤ベーメン・イタリア:独立を求めるナショナリズム運動が広がる

6イギリスの諸改革 ─ 革命なき変革

第1回選挙法改正(1832年)

産業革命によって世界経済の中心となり、ナポレオン戦争でも勝利した19世紀のイギリスでは、国内でさまざまな自由主義的改革が進められました。1824年団結禁止法の廃止は労働組合運動の合法化に道を開き、1828〜29年には審査法の廃止とカトリック教徒解放法によって非国教徒も公職につけるようになりました。1833年には工場法が制定されて児童労働に制限が加えられ、同年の奴隷制廃止法によって植民地を含めた全領土で奴隷制度が禁止されました。

当時のイギリスの選挙制度には大きな問題がありました。産業革命で人口が急増した工業都市には議席がなく、逆に人口がほとんどいなくなった旧い選挙区(腐敗選挙区)が議席を持ち続けていたのです。

1832年第1回選挙法改正によって、名誉革命以来ほぼ変更のなかった選挙区制度が大きく改められ、腐敗選挙区が廃止されました。産業革命で成長していたブルジョワが国政に直接参加する道が開かれましたが、政治の実権は依然として国会議員の大多数を占めた地主階級の手中にありました。

チャーティスト運動

一方で労働者階級は、1837年から男性普通選挙制や議員の財産資格撤廃を要求に掲げてチャーティスト運動を展開しました(1848年まで)。この運動は人民憲章ピープルズ・チャーター)の6か条の実現を求めて議会に請願しましたが、直接の成果を生み出せませんでした。

穀物法の廃止(1846年)

穀物法は、外国産穀物の輸入を制限することで国内の農業生産者を保護する目的がありましたが、パンの値段が下がりにくくなり、工場労働者などの消費者にとっては不利益に働きました。

マンチェスターの実業家コブデンブライト反穀物法同盟を結成して運動をつづけ、1846年に穀物法の撤廃が実現しました。さらに1849年には航海法も廃止されたことにより、イギリスは自由貿易体制のもとで農業よりも工業を優先する国家へと方向を定めました。

イギリスはなぜ革命ではなく議会改革で変化を実現できたのか
名誉革命(1688年)以来の議会政治の伝統があり、議会を通じた改革の道筋がすでに確立されていた
産業革命で力をつけた産業資本家が議会内で改革を推進する勢力となった
フランスの七月革命(1830年)の衝撃を受けて、支配層も段階的な改革で革命を防ぐ方が得策と判断
選挙法改正穀物法廃止など、議会を通じた漸進的改革で社会の変化に対応した
発展:「腐敗選挙区」とは何か

中世以来の古い選挙区割りがそのまま残っていたため、かつては町だったが人口がほとんどいなくなった場所にも議席が割り当てられていました。こうした選挙区では有力者がごく少数の有権者を支配して思い通りに議員を送り込むことができたため、「腐敗選挙区」と呼ばれました。1832年の選挙法改正でこれらは廃止され、新興工業都市に議席が再配分されました。

ここが問われる: 19世紀前半のイギリスの改革 出来事の流れ

団結禁止法廃止(1824年):労働組合運動の合法化
審査法廃止カトリック教徒解放法(1828〜29年):信仰の自由化
第1回選挙法改正(1832年):腐敗選挙区廃止、ブルジョワに選挙権拡大(地主階級が実権を維持)
工場法(1833年):児童労働の制限 / 奴隷制廃止法(1833年)
チャーティスト運動(1837〜48年):人民憲章男性普通選挙制など6か条を要求
穀物法廃止(1846年):コブデンブライトの反穀物法同盟 → 自由貿易への転換
航海法廃止(1849年):自由貿易体制の確立

7他の章とのつながり

  • 12章 フランス革命とナポレオン ─ ウィーン会議はナポレオン戦争後の後始末であり、フランス革命が広めた自由主義・国民主義の理念がウィーン体制への挑戦の原動力となりました。12章の内容はこの記事の直接の前提です。
  • 12-4 ラテンアメリカの独立 ─ ラテンアメリカ諸国の独立運動は、ウィーン体制の列強が阻止しようとしたものの、イギリスとアメリカの支持により実現しました。モンロー宣言との関連が重要です。
  • 13-2 列強体制の動揺とヨーロッパの再編成 ─ 1848年革命の挫折後、イタリア統一・ドイツ統一が「鉄と血」の政策で実現される過程は次の記事で扱います。
  • 11-4 オランダ・イギリス・フランスの台頭 ─ イギリスの議会政治の伝統(名誉革命・権利の章典)が、19世紀の議会改革の前提になっています。
歴史総合とのつながり

ウィーン体制と自由主義・国民主義の対立は、歴史総合の「近代化と私たち」で扱う中心的テーマです。七月革命・二月革命を経て国民国家が形成される過程は、現代の民主主義の基盤を理解するうえで欠かせません。また、イギリスの選挙法改正や穀物法廃止は、産業革命がもたらした社会変化への対応として歴史総合でも重要です。

8まとめ

  • ウィーン会議(1814〜15年)では、メッテルニヒの主導のもと、正統主義勢力均衡を原則にナポレオン後の秩序が再建された。
  • 神聖同盟(理念的同盟)と四国同盟(軍事同盟)がウィーン体制を支えたが、イギリスは神聖同盟に参加しなかった。
  • ギリシア独立(1830年)やラテンアメリカ諸国の独立は、ウィーン体制に最初の亀裂を生んだ。
  • 七月革命(1830年)でフランスのブルボン朝が倒れ、ルイ=フィリップの七月王政が成立。ベルギーもオランダから独立した。
  • 二月革命(1848年)でフランスに第二共和政が成立。各地の三月革命でメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制は崩壊した。
  • イギリスでは第1回選挙法改正(1832年)、チャーティスト運動穀物法廃止(1846年)、航海法廃止(1849年)と、議会を通じた自由主義的改革が進んだ。
この記事を100字で要約すると

ナポレオン後のウィーン体制はメッテルニヒ主導で正統主義と勢力均衡を掲げたが、七月革命・二月革命で崩壊した。イギリスは選挙法改正や穀物法廃止など議会を通じた改革で社会変革を実現した。

9穴埋め・一問一答

Q1. ウィーン会議を主導したオーストリアの外相は誰か。また、フランス革命前の王朝・領土を回復すべきだという原則を何というか。

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外相はメッテルニヒ。原則は正統主義(レジティミスム)。正統主義はフランスの外相タレーランが提唱しました。

Q2. 1830年のフランス七月革命で亡命した国王と、新たに即位した「フランス国民の王」はそれぞれ誰か。

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亡命した国王はシャルル10世。新たに即位したのはルイ=フィリップ(オルレアン家)です。

Q3. 1848年の二月革命後のフランスで大統領に当選し、のちに皇帝ナポレオン3世として第二帝政を開始した人物は誰か。

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ルイ=ナポレオン(ナポレオンの甥)。1852年に皇帝ナポレオン3世として即位し、第二帝政を開始しました。

Q4. 1832年のイギリス第1回選挙法改正で廃止された、人口がほとんどいなくなった旧い選挙区を何というか。

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腐敗選挙区。中世以来の古い選挙区割りが残り、有力者が議員を意のままに選べる状態だったため、こう呼ばれました。

Q5. 1846年に廃止された、安い外国産穀物の輸入を制限していた法律は何か。また、その廃止運動の中心人物を2名答えよ。

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穀物法。廃止運動の中心人物はコブデンブライトで、反穀物法同盟を結成しました。アイルランドのジャガイモ飢饉が廃止を後押ししました。

10アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。

A 基礎レベル

13-1-1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。

ナポレオン戦争後、オーストリア外相( ア )の主導でウィーン会議が開かれた。フランスの外相( イ )が提唱した( ウ )の原則に基づき、フランスでは( エ )朝が復活した。体制維持のために、ロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱した( オ )が結成された。

クリックして解答・解説を表示
解答

ア:メッテルニヒ イ:タレーラン ウ:正統主義 エ:ブルボン オ:神聖同盟

解説

ウィーン会議の基本知識を問う問題です。メッテルニヒ(オーストリア外相)とタレーラン(フランス外相)の役割の違いを整理しましょう。正統主義はタレーランがフランスの立場を守るために提唱した原則であり、メッテルニヒは勢力均衡を重視しました。神聖同盟と四国同盟の違いも頻出です。

B 標準レベル

13-1-2 B 標準 正誤

次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。

  • (1) ウィーン会議の結果、ドイツでは神聖ローマ帝国が復活した。
  • (2) 1830年の七月革命でシャルル10世が亡命し、ルイ=フィリップが「フランス国民の王」として即位した。
  • (3) チャーティスト運動では、人民憲章を掲げて女子参政権が要求された。
  • (4) 1846年のイギリスの穀物法廃止は、自由貿易への転換を象徴する出来事であった。
クリックして解答・解説を表示
解答

(1) × 神聖ローマ帝国は復活せず、35の君主国と4自由市からなる「ドイツ連邦」が結成された。 (2) ○ (3) ×「女子参政権」→「男性普通選挙制」。人民憲章の6か条に女子参政権は含まれていない。 (4) ○

解説

(1)について:1806年にナポレオンによって解体された神聖ローマ帝国は復活しませんでした。代わりに緩やかな「ドイツ連邦」が結成されましたが、これは統一国家ではなく連邦体でした。(3)について:チャーティスト運動の要求は男性普通選挙制であり、女子参政権は20世紀に入ってから実現しました。

C 発展レベル

13-1-3 C 発展 論述

1815年のウィーン体制成立から1848年の崩壊に至るまでの過程を、「正統主義」「七月革命」「二月革命」「メッテルニヒ」の語句を用いて150字以内で説明せよ。

クリックして解答・解説を表示
解答例

ウィーン会議ではメッテルニヒの主導のもと正統主義と勢力均衡を原則とする国際秩序が構築された。しかし自由主義・国民主義の運動は止められず、1830年の七月革命でフランスのブルボン朝が倒れて正統主義が揺らいだ。1848年の二月革命は各国に波及し、メッテルニヒの亡命によりウィーン体制は崩壊した。(141字)

解説

ウィーン体制の成立・動揺・崩壊の三段階を時系列で整理する問題です。正統主義がウィーン体制の原則であること、七月革命でその原則が揺らいだこと、二月革命の波及によりメッテルニヒが亡命して体制が崩壊したこと、の三つの段階を論理的につなげることがポイントです。

採点ポイント
  • ウィーン体制の原則として正統主義に言及している
  • メッテルニヒの役割(体制の主導者)を述べている
  • 七月革命がウィーン体制を動揺させたことに触れている
  • 二月革命の波及とメッテルニヒの亡命による体制崩壊を述べている