ルイ14世期以来ヨーロッパを代表する絶対王政の国だったフランスでは、あいつぐ戦争による財政危機を背景にフランス革命が始まりました。革命は身分・特権といった格差を解消し、均質的な国民を主体とする国民国家をめざしましたが、恐怖政治を経て、軍人ナポレオンの台頭を招きました。
この記事では、三部会の召集からナポレオンの没落までの激動の時代を学びます。
革命前のフランス社会は、革命後にアンシャン=レジーム(旧体制)と呼ばれました。社会は身分集団によって分断され、地域ごとに行政・裁判制度や税制が異なるなど、1つの国としての均質性は低い状態でした。聖職者の第一身分と貴族の第二身分が土地と公職をほぼ独占し免税などの特権を持っていましたが、税の大半は人口の約9割を占める平民の第三身分が担っていました。第三身分の内部にも格差があり、都市と農村の民衆は生活苦に追われた一方で、ブルジョワは富を蓄えていましたが、どちらも第一・第二身分に対する不満を強めていました。
18世紀のフランスは、あいつぐ戦争で慢性的な財政赤字の状態にあり、とくにアメリカ独立戦争の戦費が財政破綻をまねいたため、ルイ16世は第一・第二身分への課税を強化しようとしましたが、特権身分の抵抗に遭いました。
課税強化のため、17世紀初め以来休止状態にあった三部会が1789年にヴェルサイユで召集・開催されました。それに向けて言論が自由化されたことを背景に、シェイエスが『第三身分とは何か』を発行して第三身分こそが国民を代表していると主張するなど、特権身分を批判する世論が高揚しました。特権身分の一部と第三身分の議員は三部会を離脱して、自分たちが真の国民代表であると国民議会と自称し、憲法の制定を目的に掲げました(球戯場の誓い、1789年6月)。
国王側が軍事力で国民議会を圧しようとすると、パリの民衆は自衛のため1789年7月14日にバスティーユ牢獄を攻撃して武器を奪いました。さらにパリでは市長が独自に選出され、民兵部隊も組織されました。国王は国民議会やパリ市の改革を承認し、ほかの都市でも同様の市政改革がおこなわれました。
一方、政治的混乱のなかで農民が各地で蜂起し、貴族の屋敷を襲撃しました。農民の蜂起を受けて、国民議会は封建的特権の廃止を決定し、税負担の平等化や公職の開放などを定めました。
さらに議会は、ラファイエットらの起草による人権宣言(人間と市民の権利の宣言)を採択し、すべての人間の自由と権利における平等、国民主権、私有財産の不可侵などの理想を公示しました。国王にも圧力を加えてこれを認めさせました。
1789年10月、女性を中心とするパリの民衆がヴェルサイユにおもむき、国王と議会をパリに移動させました(ヴェルサイユ行進)。
人間は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、かつ生存する。
①三部会召集(1789年)→ 第三身分らが国民議会を自称
②球戯場の誓い(1789年6月):憲法制定までの不解散を誓う
③バスティーユ牢獄の攻撃(1789年7月14日)→ 革命の勃発
④封建的特権の廃止を決定
⑤人権宣言採択:自由・平等・国民主権・私有財産の不可侵を宣言
国民議会はギルドを廃止して国民の経済活動を自由化しつつ、全国に画一的な県制度をしき、全国統一の度量衡の導入も決定しました。また、カトリック教会の聖職者を国家の管理下におき、主権者である国民への忠誠を要求しました。1791年にフランス史上最初の1791年憲法が制定され、議会(立法議会)と国王を柱とする立憲君主政が発足しました。選挙権には財産資格が課せられていました(制限選挙制)。
一方で、王の弟をはじめ有力貴族の多くが周辺諸国に亡命して、革命への干渉を働きかけていました。また国王一家も王妃の実家オーストリアに亡命を試みて失敗し、国民の信頼を失いました(ヴァレンヌ逃亡事件)。
こうした動きを受けてオーストリアがプロイセンと共同で介入姿勢をみせると、立法議会で優勢となったブルジョワ階層を基盤とするジロンド派の主導により、1792年にフランスはオーストリアに宣戦布告しました。これ以降、フランス革命の動向は周辺諸国との戦争の状況から影響を受けることとなります。
当初フランス軍は劣勢におちいりましたが、各地から義勇兵がパリに集結し、さらに敵との内通が疑われた国王の宮殿を民衆とともに攻撃して王を捕らえました(8月10日事件)。これを受けて立法議会は王権を停止し、みずからも解散しました。
男性普通選挙による国民公会が成立し、共和政を宣言しました(第一共和政)。その後、裁判を経て1793年に国王ルイ16世が処刑されました。
1793年にはイギリス・オランダとも戦争が始まり、イギリスをはじめとする周辺諸国は対仏大同盟を結成してフランスに対抗しました。
①ヴァレンヌ逃亡事件 → 国王が国民の信頼を失う
②オーストリア・プロイセンとの戦争開始(1792年)
③8月10日事件(1792年)→ 王権停止
④国民公会成立 → 第一共和政宣言
⑤ルイ16世処刑(1793年)→ 対仏大同盟の形成
軍事力を増強するために革命政府が徴兵制を導入すると、これに対する反乱がフランス西部でおこりました。また、カトリック教会や王政を復活させようとする動きも強まると、ロベスピエールらが国民公会内の公安委員会に権力を集中して、革命に抵抗する勢力を弾圧する恐怖政治を展開しました。
恐怖政治期には、グレゴリウス暦にかわって革命暦が制定され、脱キリスト教化の政策も進められました。しかし、軍事力の増強によって戦況が好転すると、独裁への不満が高まりました。
1794年、政敵によるクーデタでロベスピエールらは逮捕・処刑され、恐怖政治は終了しました(テルミドールの反動)。
フランスが1794年に南ネーデルラントを併合すると、翌年オランダでもフランスを手本とする革命政府が成立しました。
恐怖政治期に、グレゴリウス暦にかわって革命暦(共和暦)が制定されました。共和政の成立した1792年9月22日を元年とし、月名はヴァンデミエール(ぶどう月)、テルミドール(熱月)など季節にちなんだ名前がつけられました。テルミドールの反動やブリュメールのクーデタなど、革命期の事件名に残っています。
①徴兵制の導入 → フランス西部で反乱
②ロベスピエールらが公安委員会に権力を集中 → 恐怖政治を展開
③軍事力の増強で戦況好転 → 独裁への不満
④テルミドールの反動(1794年):ロベスピエール処刑 → 恐怖政治の終焉
その後フランスはほとんどの国と休戦し、1795年に国民公会は解散して、新たな政治体制(総裁政府)が発足しました。しかし国内の分裂は根深く、新政府は権力の維持のため軍隊の力に頼りました。
イタリア遠征・エジプト遠征などで名声を得たのが将軍ナポレオン=ボナパルトでした。エジプト遠征はイギリスとインドの連絡路を断つ目的でおこなわれましたが、最終的に失敗しました。なお、この遠征の際にロゼッタ=ストーンが発見されました。
1799年(共和暦ブリュメール18日)、ナポレオンはクーデタをおこして権力を握り、同年に憲法を発布しました(ブリュメールのクーデタ)。この憲法では共和政と議会は存続しましたが、第一統領となったナポレオンに権力が集中されました。まもなく憲法が国民投票で圧倒的多数により承認され、彼が実質的な国家元首として認められたことで、フランス革命は終了しました。
①総裁政府が発足するが国内の分裂は根深く、軍隊の力に依存
②ナポレオンがイタリア遠征・エジプト遠征で名声を獲得
③ブリュメールのクーデタ(1799年)→ 第一統領に就任、権力を集中
④国民投票で憲法が承認 → フランス革命の終了
ナポレオンは1801年にローマ教皇と政教協約(コンコルダート)を結んでカトリック教会と和解し、翌年にはイギリスと講和しました(アミアンの和約)。さらに民法典(ナポレオン法典)を制定して人権宣言の理想を法制化し、フランス社会の近代化を進めました。ナポレオン法典は各国の民法典の模範ともなりました。1804年、ナポレオンは皇帝ナポレオン1世として即位しました(第一帝政)。
1805年にオーストリアとロシアの連合軍に勝利し(アウステルリッツの戦い)、ドイツでは1806年にほとんどの領邦国家を従属的な同盟国に編成して(ライン同盟)、神聖ローマ帝国を崩壊させました。つづいてプロイセンにも勝利し、イベリア半島にも出兵してスペインを従属国としました。
こうしてナポレオンはヨーロッパの主要国を屈服させましたが、残るイギリスに対しては、トラファルガーの海戦で敗れたことから経済戦をしかけました。
ナポレオンはヨーロッパ諸国にイギリスとの貿易を禁じました(大陸封鎖令、1806年)。しかし、豊かなイギリスはこれに耐えた一方で、イギリスへの農産品の輸出を禁じられた各国は苦しみ、経済力でもっとも劣るロシアが貿易を再開しました。
| 年 | 出来事 | 意義 |
|---|---|---|
| 1804年 | 民法典(ナポレオン法典)制定・皇帝即位 | 人権宣言の理想を法制化、第一帝政の開始 |
| 1805年 | アウステルリッツの戦い | オーストリア・ロシア連合軍に勝利 |
| 1805年 | トラファルガーの海戦 | イギリス海軍に敗北 |
| 1806年 | ライン同盟結成・神聖ローマ帝国崩壊・大陸封鎖令 | ドイツの領邦国家を従属的同盟国に編成、イギリスとの貿易を禁止 |
①ナポレオン法典(1804年):人権宣言の理想を法制化 → 各国の民法典の模範に
②アウステルリッツの戦い(1805年):オーストリア・ロシア連合軍に勝利
③トラファルガーの海戦(1805年)で敗れ → 経済戦に転換
④大陸封鎖令(1806年):イギリスとの貿易を禁止 → ロシアの離反を招く
スペインを従属国としたナポレオンに対して、スペイン民衆は激しいゲリラ戦で抵抗しました。プロイセンではシュタインとハルデンベルクが行政改革・農民解放などの改革(プロイセン改革)を実施し、フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を通して国民意識の覚醒をうったえるなど、フランス支配に抵抗するナショナリズムがヨーロッパ各地で生まれていきました。
ロシアが貿易を再開したことを封じるため、ナポレオンは1812年に大軍を率いてロシアに遠征しましたが、大敗して権力の基盤である軍事力を失いました(ロシア遠征)。
これに呼応してドイツの同盟諸国では反ナポレオンの民衆蜂起がおこり、各政府もナポレオンから離反しました。プロイセン・オーストリアはロシアとともに大軍を送り、解放戦争(諸国民戦争)が始まりました。1813年のライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンは退位し、エルバ島に追放されました。フランスではルイ16世の弟が即位して(ルイ18世)、立憲君主政を樹立しました(復古王政)。
しかしナポレオンは1815年に再び権力を握りました(百日天下)が、まもなくワーテルローの戦いでイギリス・プロイセンなどに敗れて流刑となり、南大西洋のセントヘレナ島に流されました。
①スペイン民衆のゲリラ戦、各地でナショナリズムが台頭
②ロシア遠征(1812年):大敗して軍事力を失う
③ライプツィヒの戦い(1813年)=解放戦争(諸国民戦争)でナポレオンが敗北
④退位・エルバ島に追放、フランスでは復古王政が成立
⑤ワーテルローの戦い(1815年)で最終的に敗北 → セントヘレナ島に流刑
| 時期 | 政体・機関 | 特徴 |
|---|---|---|
| 1789〜91年 | 国民議会(憲法制定国民議会) | 封建的特権の廃止、人権宣言、1791年憲法制定 |
| 1791〜92年 | 立法議会(立憲君主政) | 財産資格による制限選挙制、オーストリア・プロイセンとの戦争開始 |
| 1792〜95年 | 国民公会(第一共和政) | ルイ16世処刑、ジャコバン独裁・恐怖政治 |
| 1795〜99年 | 総裁政府 | 5人の総裁による穏健共和政、政治的に不安定 |
| 1799〜1804年 | 統領政府 | ナポレオンが第一統領として独裁 |
| 1804〜14/15年 | 第一帝政 | ナポレオンが皇帝、ナポレオン法典・大陸支配 |
①国民議会(1789〜91年)→ 立法議会(1791〜92年)→ 国民公会(1792〜95年)
②総裁政府(1795〜99年)→ 統領政府(1799〜1804年)→ 第一帝政(1804〜14/15年)
③選挙制度の変遷:制限選挙(1791年憲法)→ 男性普通選挙(国民公会)→ 制限選挙復活(総裁政府)
④「国民議会 → 立法議会 → 国民公会」の順序は頻出
フランス革命は歴史総合の「近代化と私たち」の中核的なテーマです。人権宣言に示された自由・平等の理念は、その後の市民革命・民族運動の原動力となり、現代の人権思想の出発点として位置づけられます。ナポレオン法典がヨーロッパの近代法に与えた影響も歴史総合の重要論点です。
1789年、財政危機を背景に三部会が召集され、フランス革命が始まった。人権宣言が採択され共和政が成立したが、恐怖政治を経てナポレオンが権力を握った。民法典で革命の理想を法制化したが、ロシア遠征に大敗して没落した。
Q1. 1789年7月14日にパリの民衆が自衛のため攻撃して武器を奪った施設は何か。
Q2. 国民議会が採択した、自由・平等・国民主権・私有財産の不可侵を掲げた宣言は何か。
Q3. 国王一家が王妃の実家オーストリアに亡命を試みて失敗した事件は何か。
Q4. ジャコバン派の指導者として恐怖政治を行い、テルミドールの反動で処刑された人物は誰か。
Q5. ナポレオンが制定した、人権宣言の理想を法制化した法典は何か。
Q6. 1812年にナポレオンが大軍を率いて遠征し、大敗して軍事力を失った遠征先はどこか。
Q7. 1815年、ナポレオンが最終的に敗北した戦いは何か。また、その後ナポレオンが流された島はどこか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
1789年7月14日、パリの民衆は( ア )を襲撃した。8月には国民議会が( イ )を採択し、自由・平等の原則を宣言した。その後、( ウ )派の( エ )を中心に恐怖政治が行われたが、1794年の( オ )で打倒された。
ア:バスティーユ牢獄 イ:人権宣言 ウ:ジャコバン エ:ロベスピエール オ:テルミドールの反動
フランス革命の基本的な流れを問う問題です。バスティーユ牢獄の攻撃(7月14日)→ 人権宣言の採択の順序、ジャコバン派とロベスピエールの結びつき、テルミドールの反動(1794年)は頻出です。「テルミドール」は革命暦の月名(熱月)に由来します。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ○ (2) ×「テルミドールのクーデタ」→「ブリュメールのクーデタ」 (3) ○ (4) × ナポレオンはロシア遠征で大敗し、権力の基盤である軍事力を失った。
(2)について:テルミドールの反動(1794年)はロベスピエールの打倒、ブリュメールのクーデタ(1799年)はナポレオンが権力を握った事件です。どちらも革命暦の月名に由来するため混同しやすい引っかけです。(4)について:ナポレオンはロシア遠征で大敗し、権力の基盤である軍事力を失いました。これを機に解放戦争が始まり、ナポレオンは没落に向かいました。
フランス革命の勃発からナポレオンの台頭に至るまでの過程を、「アンシャン=レジーム」「人権宣言」「恐怖政治」「ブリュメールのクーデタ」の語句を用いて150字以内で説明せよ。
アンシャン=レジームのもとで特権身分と第三身分の対立が深まり、財政危機を背景に1789年に革命が始まった。国民議会は人権宣言を採択して自由・平等・国民主権の理想を公示した。革命戦争のなかでロベスピエールらが恐怖政治を行ったが打倒され、不安定な総裁政府を経て、1799年にナポレオンがブリュメールのクーデタで権力を握った。(150字)
この問題では、革命の原因(アンシャン=レジームの矛盾)→ 革命の理念(人権宣言)→ 急進化(恐怖政治)→ 帰結(ナポレオンの台頭)という流れを整理する必要があります。4つの指定語句をすべて使いながら、因果関係を示すことがポイントです。