18世紀後半、北アメリカのイギリス13植民地は、本国の課税強化に対する反発から独立戦争を起こし、世界初の近代的な共和国を樹立しました。1776年の独立宣言はロックの社会契約説を基盤に、人民の自然権と抵抗権を明確に宣言しています。
独立達成後、ゆるやかな州の連合から合衆国憲法のもとでの連邦共和国へと移行する過程では、連邦派と州権派のあいだに対立が生じました。
この記事では、植民地時代の背景から独立戦争、憲法制定と連邦制の確立までを学びます。
北米大陸では、16世紀からスペインがメキシコ・フロリダを植民地としており、さらに17世紀には、イギリス人が東部沿岸地域に、フランス人がカナダやルイジアナに入植しました。フランス領植民地はヨーロッパ向けの毛皮を主要産業とし、広大な領域をもっていましたが、人口ではイギリス領植民地と比べて劣勢で、七年戦争(北アメリカではフレンチ=インディアン戦争)の敗北によって崩壊しました。イギリスの北アメリカ植民地は17世紀以降に増加し、18世紀半ばには13植民地に達しました。
イギリスの北アメリカ植民地は、さまざまな性格の小植民地からなっていました。北部およびニューヨークを中心とする中部では、当初は自営農民や小規模の商工業者が主体でしたが、18世紀には新たな移民が加わって人口が急増し、林業・漁業のほか海運業が発達して、大西洋での貿易に従事する大商人も現れました。南部では、黒人奴隷を用いたプランテーションが発達し、タバコやのちに綿花がヨーロッパへ、米などが北米大陸の他地域やカリブ海の植民地へ輸出されました。
イギリス領植民地は、本国の重商主義体制に組み込まれ、ほかのヨーロッパ諸国との直接の貿易を禁じられましたが、強力なイギリス海軍の保護を受け、七年戦争後には本国の約3分の1の経済規模をもつまでに成長しました。政治的には、それぞれの植民地は植民地議会をもち、ある程度の自治を認められていました。
①北部(ニューイングランド):商工業・漁業が中心。清教徒の移民が多い
②南部:プランテーション(タバコなどの商品作物)が中心。黒人奴隷の労働力に依存
③各植民地には植民地議会が置かれ、自治の伝統が発達していた
北アメリカ植民地では、七年戦争(1756〜63年)後も植民地人と先住民との土地をめぐる争いが続いたため、イギリス本国は植民地の西方への拡大を制限しました。しかし、フランスの脅威が除かれて本国への依存心を弱めていた植民地側は、この措置に不満をもちました。こうしたなか、七年戦争で巨額の財政赤字を抱えた本国が、植民地への課税強化に乗り出しました。
本国が課税強化のために印紙法を導入すると、植民地側は「代表なくして課税なし」ととなえて反対運動を展開しました。同法は撤回されたものの、ここに本国と植民地との根本的な対立が表面化しました。つづいて本国が茶法によって東インド会社に茶の独占販売権を与えるなど、植民地への統制を再び試みると、植民地側は、この措置を植民地課税の再強化につながるものとみなして反発しました。
植民地側はボストン茶会事件をおこして実力行使に出ました。1773年12月、一部の植民地人が先住民の扮装をして、東インド会社の船を襲って積荷の茶を海に投棄したのです。これに対抗して本国がボストン港を封鎖する強硬策をとったため、かえって植民地側の団結を強めることになりました。
1774年、フィラデルフィアで各植民地の代表からなる第1回大陸会議が開かれ、対応策が協議されました。1775年、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで本国軍と植民地側民兵の武力衝突が発生し、独立戦争(アメリカ独立革命)が始まりました。第2回大陸会議はワシントンを大陸軍の総司令官に任じました。
①七年戦争(1756〜63年)後、巨額の財政赤字→ 植民地への課税強化
②印紙法(1765年)→「代表なくして課税なし」の反対運動 → 撤回
③茶法で東インド会社に茶の独占販売権 → ボストン茶会事件(1773年)→ ボストン港封鎖
④フィラデルフィアで第1回大陸会議(1774年)→ 1775年にレキシントンとコンコードで武力衝突 → 独立戦争開始
⑤第2回大陸会議でワシントンが大陸軍の総司令官に任命される
当初、植民地側は国王への忠誠を維持し、戦いの目的として、植民地の人間がイギリス人としてもつ権利の確認を掲げていました。しかし、ペインが著した『コモン=センス』が世論を独立に導いたこともあり、植民地側は1776年7月4日、フィラデルフィアでジェファソンらの起草による独立宣言を発しました。翌77年、大陸会議は連合規約を採択し、13植民地は連合してアメリカ合衆国の成立をうたいました。
独立宣言はロックの抵抗権を根拠に反乱を正当化しつつ、新国家建設の目的として、すべて平等な人間が生来もっているはずの権利の実現を定めていました。すべての人間は平等に造られ、生命・自由・幸福の追求という奪うことのできない自然権を持つこと、政府はこれらの権利を守るために被治者の同意によって設立されること、そして政府がこの目的に反する場合には人民が政府を変更する権利を持つことを宣言しました。新たな政治体制のもとでこうした理想を掲げた点で、アメリカ合衆国の独立は革命としての性格ももつことになりました。
われわれは以下の真理を自明のものと信じる。すべての人間は平等に造られ、造物主によって一定の奪うことのできない権利を与えられている。そのなかには生命・自由・幸福の追求が含まれる。これらの権利を確保するために人類のあいだに政府が組織され、その正当な権力は被治者の同意に由来する。
独立宣言はロックの抵抗権を根拠に反乱を正当化しつつ、新国家建設の目的として、すべて平等な人間が生来もっているはずの権利の実現を定めていました。ロックが「生命・自由・財産」とした自然権を、ジェファソンは「生命・自由・幸福の追求」と言い換えています。入試ではロックの思想と独立宣言の対応関係がしばしば問われます。
独立戦争では、当初イギリスが優位に戦いを進めましたが、フランス・スペインがアメリカ側で参戦し、さらにロシアなどが武装中立同盟を結成してイギリス海軍の動きを制約したために戦況がかわり、1781年のヨークタウンの戦いでアメリカ・フランス連合軍が勝利しました。
その結果、イギリスは1783年のパリ条約で、アメリカ合衆国の独立を承認しました。また、イギリスはミシシッピ川以東の広大な地域を合衆国にゆずり、フロリダをスペインに返還しましたが、カナダ地方は維持しました。アメリカ合衆国の独立は、広大な共和国の誕生として、君主国の多かったヨーロッパに衝撃を与えました。
①独立宣言(1776年):ジェファソンが起草。ロックの抵抗権を根拠に反乱を正当化
②自然権(生命・自由・幸福の追求)の実現を掲げる。革命としての性格をもつ
③フランス・スペインがアメリカ側で参戦。武装中立同盟の結成でイギリス海軍が制約される
④ヨークタウンの戦い(1781年)でアメリカ・フランス連合軍が勝利
⑤パリ条約(1783年)でイギリスが独立を承認。ミシシッピ川以東を割譲。カナダは維持
アメリカ合衆国は、当初は旧13植民地が主権をもつ州となって、ゆるやかに連合する国家でした。しかし、独立直後の財政的困難を背景に、強力な中央政府の樹立が求められるようになりました。
このため各州の代表が1787年に憲法制定会議に集められ、ここで制定された合衆国憲法によって、アメリカ合衆国は、自治権をもつ各州を中央の連邦政府が統括する連邦共和国となりました。1789年、ワシントンを初代大統領として新政府が発足しました。
連邦政府の根幹となったのが大統領・連邦議会・最高裁判所であり、それぞれが行政・立法・司法の権限をもつことで、合衆国は史上初の大統領制および三権分立国家として出発しました。
しかし、中央政府の権力を維持しようとする連邦派と州の自立性を重視する州権派とのあいだに対立が生じ、その後のアメリカ政治上の争点となりました。
| 連邦派 | 州権派 | |
|---|---|---|
| 主張 | 中央政府の権力を維持 | 州の自立性を重視 |
| 代表的な人物 | ハミルトン、マディソン | 各州の小農民層を支持基盤とする勢力 |
| 争点 | 強力な連邦政府が国家の安定に必要 | 連邦政府が強すぎると州の自治が損なわれる |
初代大統領ワシントンは、ヨーロッパへの政治的な関与を避けつつ、新生国家の安定化につとめました。
①合衆国憲法(1787年):自治権をもつ各州を連邦政府が統括する連邦共和国
②大統領・連邦議会・最高裁判所で三権分立。史上初の大統領制
③連邦派= 中央政府の権力維持 / 州権派= 州の自立性を重視
④1789年、初代大統領ワシントンのもとで新政府が発足。ヨーロッパへの関与を避け、新生国家の安定化につとめた
独立宣言における平等と自由の理想は、のちに大西洋世界でおこる革命の指導原理となりました。しかしその一方で、現実のアメリカ合衆国は、黒人奴隷制を存続させたり、先住民から土地を奪うなど、白人中心の国家としての性格を強くもっていました。
独立宣言は「すべての人間は平等に造られ」と宣言しましたが、起草者のジェファソン自身が奴隷所有者でした。この矛盾は建国当初から認識されていましたが、南部の経済がプランテーションと奴隷労働に依存していたため解決されず、のちの南北戦争(1861〜65年)につながる深刻な対立の根源となりました。
歴史総合では「近代化と私たち」のテーマで、市民革命を学びます。アメリカ独立革命は、啓蒙思想がどのように実際の政治制度に結実したかを示す重要な事例です。独立宣言に盛り込まれた自然権・社会契約・抵抗権の概念は、歴史総合でも問われるキーワードです。
七年戦争後の課税強化に13植民地が反発し、1776年にロックの抵抗権に基づく独立宣言を発した。フランス・スペインの参戦を経てパリ条約で独立を達成し、合衆国憲法のもと大統領制と三権分立を備えた連邦共和国を樹立した。
Q1. 1765年にイギリスが制定し、植民地のあらゆる印刷物に課税した法律は何か。
Q2. 1773年、ボストン港で東インド会社の茶箱が海に投棄された事件を何というか。
Q3. 1776年の独立宣言を起草した中心人物は誰か。
Q4. 1783年にイギリスがアメリカの独立を承認した条約は何か。
Q5. 合衆国憲法が取り入れた、モンテスキューの唱えた権力分立の考え方を何というか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。基礎(A)から発展(C)まで段階的に取り組んでみてください。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
1773年、イギリスの( ア )に反発した植民地の急進派が、ボストン港で茶箱を海に投棄する( イ )を起こした。1776年、( ウ )が起草した( エ )が採択され、この文書はイギリスの思想家( オ )の社会契約説を思想的基盤としていた。
ア:茶法 イ:ボストン茶会事件 ウ:(トマス=)ジェファソン エ:独立宣言 オ:ロック
アメリカ独立の基本事項を問う問題です。茶法(1773年)→ ボストン茶会事件 → 独立宣言(1776年、ジェファソン起草)→ ロックの社会契約説、という流れは最重要ポイントです。特にジェファソンとロックの関係(独立宣言の起草者と思想的基盤)は頻出です。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ×「モンテスキューの三権分立」→「ロックの抵抗権」 (2) ○ (3) ×「ロックの社会契約説」→「モンテスキューの三権分立論」 (4) ○
(1)について:独立宣言はロックの抵抗権を根拠に反乱を正当化したものです。モンテスキューの三権分立が反映されたのは合衆国憲法のほうです。(3)について:合衆国憲法の三権分立はモンテスキューの思想に基づいています。ロックとモンテスキューの思想が、それぞれ独立宣言と合衆国憲法のどちらに影響を与えたかを正確に区別することが重要です。
アメリカ独立革命において、啓蒙思想がどのように具体的な政治制度に反映されたか、「社会契約説」「自然権」「三権分立」「権利章典」の語句を用いて150字以内で説明せよ。
独立宣言ではロックの抵抗権を根拠に反乱を正当化し、すべて平等な人間が生来もつ自然権として生命・自由・幸福の追求を掲げた。合衆国憲法では三権分立が定められ、大統領・連邦議会・最高裁判所がそれぞれ行政・立法・司法を担った。連邦派と州権派の対立のなかで権利章典が追加された。(133字)
この問題は、啓蒙思想の理念とアメリカの具体的な政治制度の対応関係を整理する論述問題です。独立宣言(ロック→社会契約説・自然権)と合衆国憲法(モンテスキュー→三権分立)、そして権利章典(個人の権利保障)の三つを段階的に述べるのがポイントです。