第12章 産業革命と環大西洋革命

フランス革命とナポレオンの支配

ルイ14世期以来ヨーロッパを代表する絶対王政の国だったフランスでは、あいつぐ戦争による財政危機を背景にフランス革命が始まりました。革命は身分・特権といった格差を解消し、均質的な国民を主体とする国民国家をめざしましたが、恐怖政治を経て、軍人ナポレオンの台頭を招きました。
この記事では、三部会の召集からナポレオンの没落までの激動の時代を学びます。

この記事のポイント
  • 財政危機を背景に三部会が召集され、第三身分らが国民議会を自称して革命が始まった
  • バスティーユ牢獄の攻撃を契機に封建的特権が廃止され、人権宣言が採択された
  • 国民公会のもとで共和政が成立し、ロベスピエールによる恐怖政治が行われた
  • ナポレオンがクーデタで権力を握り、民法典(ナポレオン法典)で人権宣言の理想を法制化したが、ロシア遠征の大敗を機に没落した

1革命の背景と三部会

アンシャン=レジームの矛盾

革命前のフランス社会は、革命後にアンシャン=レジーム(旧体制)と呼ばれました。社会は身分集団によって分断され、地域ごとに行政・裁判制度や税制が異なるなど、1つの国としての均質性は低い状態でした。聖職者の第一身分と貴族の第二身分が土地と公職をほぼ独占し免税などの特権を持っていましたが、税の大半は人口の約9割を占める平民の第三身分が担っていました。第三身分の内部にも格差があり、都市と農村の民衆は生活苦に追われた一方で、ブルジョワは富を蓄えていましたが、どちらも第一・第二身分に対する不満を強めていました。

18世紀のフランスは、あいつぐ戦争で慢性的な財政赤字の状態にあり、とくにアメリカ独立戦争の戦費が財政破綻をまねいたため、ルイ16世は第一・第二身分への課税を強化しようとしましたが、特権身分の抵抗に遭いました。

三部会の召集

課税強化のため、17世紀初め以来休止状態にあった三部会1789年にヴェルサイユで召集・開催されました。それに向けて言論が自由化されたことを背景に、シェイエスが『第三身分とは何か』を発行して第三身分こそが国民を代表していると主張するなど、特権身分を批判する世論が高揚しました。特権身分の一部と第三身分の議員は三部会を離脱して、自分たちが真の国民代表であると国民議会と自称し、憲法の制定を目的に掲げました(球戯場の誓い、1789年6月)。

フランス革命はなぜ起こったのか
アンシャン=レジームのもとで第三身分が重い税負担を担う一方、特権身分は免税だった
あいつぐ戦争、とくにアメリカ独立戦争への参戦で財政危機が深刻化
特権身分への課税を試みるが貴族が抵抗 → 17世紀初め以来の三部会を召集
特権身分への批判が高揚 → 第三身分らが国民議会を自称し、革命の幕が開いた

2革命の勃発と人権宣言

バスティーユ牢獄の攻撃

国王側が軍事力で国民議会を圧しようとすると、パリの民衆は自衛のため1789年7月14日バスティーユ牢獄を攻撃して武器を奪いました。さらにパリでは市長が独自に選出され、民兵部隊も組織されました。国王は国民議会やパリ市の改革を承認し、ほかの都市でも同様の市政改革がおこなわれました。

一方、政治的混乱のなかで農民が各地で蜂起し、貴族の屋敷を襲撃しました。農民の蜂起を受けて、国民議会は封建的特権の廃止を決定し、税負担の平等化や公職の開放などを定めました。

人権宣言

さらに議会は、ラファイエットらの起草による人権宣言(人間と市民の権利の宣言)を採択し、すべての人間の自由と権利における平等国民主権私有財産の不可侵などの理想を公示しました。国王にも圧力を加えてこれを認めさせました。

ヴェルサイユ行進

1789年10月、女性を中心とするパリの民衆がヴェルサイユにおもむき、国王と議会をパリに移動させました(ヴェルサイユ行進)。

史料
人間は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、かつ生存する。
フランス人権宣言(1789年)第1条より
ここが問われる: 革命初期の展開 出来事の流れ

三部会召集(1789年)→ 第三身分らが国民議会を自称
球戯場の誓い(1789年6月):憲法制定までの不解散を誓う
バスティーユ牢獄の攻撃(1789年7月14日)→ 革命の勃発
封建的特権の廃止を決定
人権宣言採択:自由・平等・国民主権・私有財産の不可侵を宣言

3立憲君主政から共和政へ

1791年憲法と立憲君主政

国民議会はギルドを廃止して国民の経済活動を自由化しつつ、全国に画一的な県制度をしき、全国統一の度量衡の導入も決定しました。また、カトリック教会の聖職者を国家の管理下におき、主権者である国民への忠誠を要求しました。1791年にフランス史上最初の1791年憲法が制定され、議会(立法議会)と国王を柱とする立憲君主政が発足しました。選挙権には財産資格が課せられていました(制限選挙制)。

ヴァレンヌ逃亡事件

一方で、王の弟をはじめ有力貴族の多くが周辺諸国に亡命して、革命への干渉を働きかけていました。また国王一家も王妃の実家オーストリアに亡命を試みて失敗し、国民の信頼を失いました(ヴァレンヌ逃亡事件)。

立法議会と革命戦争

こうした動きを受けてオーストリアがプロイセンと共同で介入姿勢をみせると、立法議会で優勢となったブルジョワ階層を基盤とするジロンド派の主導により、1792年にフランスはオーストリアに宣戦布告しました。これ以降、フランス革命の動向は周辺諸国との戦争の状況から影響を受けることとなります。

当初フランス軍は劣勢におちいりましたが、各地から義勇兵がパリに集結し、さらに敵との内通が疑われた国王の宮殿を民衆とともに攻撃して王を捕らえました(8月10日事件)。これを受けて立法議会は王権を停止し、みずからも解散しました。

国民公会と共和政の成立

男性普通選挙による国民公会が成立し、共和政を宣言しました(第一共和政)。その後、裁判を経て1793年に国王ルイ16世が処刑されました。

1793年にはイギリス・オランダとも戦争が始まり、イギリスをはじめとする周辺諸国は対仏大同盟を結成してフランスに対抗しました。

革命はなぜ急進化したのか
ヴァレンヌ逃亡事件で国王が国民の信頼を失う
オーストリア・プロイセンとの戦争が始まり、フランス軍は劣勢に
8月10日事件で王権停止 → 国民公会が共和政を宣言
対仏大同盟による外圧+国内の反乱 → 公安委員会に権力集中、恐怖政治
ここが問われる: 立法議会から国民公会へ 出来事の流れ

ヴァレンヌ逃亡事件 → 国王が国民の信頼を失う
②オーストリア・プロイセンとの戦争開始(1792年)
8月10日事件(1792年)→ 王権停止
国民公会成立 → 第一共和政宣言
ルイ16世処刑(1793年)→ 対仏大同盟の形成

4ジャコバン独裁と恐怖政治

ジャコバン派の権力掌握

軍事力を増強するために革命政府が徴兵制を導入すると、これに対する反乱がフランス西部でおこりました。また、カトリック教会や王政を復活させようとする動きも強まると、ロベスピエールらが国民公会内の公安委員会に権力を集中して、革命に抵抗する勢力を弾圧する恐怖政治を展開しました。

恐怖政治

恐怖政治期には、グレゴリウス暦にかわって革命暦が制定され、脱キリスト教化の政策も進められました。しかし、軍事力の増強によって戦況が好転すると、独裁への不満が高まりました。

テルミドールの反動

1794年、政敵によるクーデタでロベスピエールらは逮捕・処刑され、恐怖政治は終了しました(テルミドールの反動)。

フランスが1794年に南ネーデルラントを併合すると、翌年オランダでもフランスを手本とする革命政府が成立しました。

発展:革命暦(共和暦)

恐怖政治期に、グレゴリウス暦にかわって革命暦(共和暦)が制定されました。共和政の成立した1792年9月22日を元年とし、月名はヴァンデミエール(ぶどう月)、テルミドール(熱月)など季節にちなんだ名前がつけられました。テルミドールの反動やブリュメールのクーデタなど、革命期の事件名に残っています。

ここが問われる: ジャコバン独裁と恐怖政治 因果関係

徴兵制の導入 → フランス西部で反乱
ロベスピエールらが公安委員会に権力を集中 → 恐怖政治を展開
③軍事力の増強で戦況好転 → 独裁への不満
テルミドールの反動(1794年):ロベスピエール処刑 → 恐怖政治の終焉

5総裁政府とナポレオンの台頭

総裁政府

その後フランスはほとんどの国と休戦し、1795年に国民公会は解散して、新たな政治体制(総裁政府)が発足しました。しかし国内の分裂は根深く、新政府は権力の維持のため軍隊の力に頼りました。

ナポレオンの台頭

イタリア遠征・エジプト遠征などで名声を得たのが将軍ナポレオン=ボナパルトでした。エジプト遠征はイギリスとインドの連絡路を断つ目的でおこなわれましたが、最終的に失敗しました。なお、この遠征の際にロゼッタ=ストーンが発見されました。

ブリュメールのクーデタ

1799年(共和暦ブリュメール18日)、ナポレオンはクーデタをおこして権力を握り、同年に憲法を発布しました(ブリュメールのクーデタ)。この憲法では共和政と議会は存続しましたが、第一統領となったナポレオンに権力が集中されました。まもなく憲法が国民投票で圧倒的多数により承認され、彼が実質的な国家元首として認められたことで、フランス革命は終了しました。

ここが問われる: ナポレオンの台頭 出来事の流れ

総裁政府が発足するが国内の分裂は根深く、軍隊の力に依存
②ナポレオンがイタリア遠征エジプト遠征で名声を獲得
ブリュメールのクーデタ(1799年)→ 第一統領に就任、権力を集中
④国民投票で憲法が承認 → フランス革命の終了

6ナポレオンの支配とヨーロッパ

皇帝即位とナポレオン法典

ナポレオンは1801年にローマ教皇と政教協約(コンコルダート)を結んでカトリック教会と和解し、翌年にはイギリスと講和しました(アミアンの和約)。さらに民法典ナポレオン法典)を制定して人権宣言の理想を法制化し、フランス社会の近代化を進めました。ナポレオン法典は各国の民法典の模範ともなりました。1804年、ナポレオンは皇帝ナポレオン1世として即位しました(第一帝政)。

大陸支配の拡大

1805年にオーストリアとロシアの連合軍に勝利し(アウステルリッツの戦い)、ドイツでは1806年にほとんどの領邦国家を従属的な同盟国に編成して(ライン同盟)、神聖ローマ帝国を崩壊させました。つづいてプロイセンにも勝利し、イベリア半島にも出兵してスペインを従属国としました。

こうしてナポレオンはヨーロッパの主要国を屈服させましたが、残るイギリスに対しては、トラファルガーの海戦で敗れたことから経済戦をしかけました。

大陸封鎖令

ナポレオンはヨーロッパ諸国にイギリスとの貿易を禁じました(大陸封鎖令、1806年)。しかし、豊かなイギリスはこれに耐えた一方で、イギリスへの農産品の輸出を禁じられた各国は苦しみ、経済力でもっとも劣るロシアが貿易を再開しました。

大陸封鎖令はなぜ失敗したのか
トラファルガーの海戦で敗れ、軍事的にイギリスを攻略できなかった
経済戦として大陸封鎖令を発布 → ヨーロッパ諸国にイギリスとの貿易を禁止
豊かなイギリスは耐えたが、農産品の輸出を禁じられた各国が苦しむ
経済力でもっとも劣るロシアが貿易を再開 → ナポレオンのロシア遠征へ
出来事意義
1804年民法典(ナポレオン法典)制定・皇帝即位人権宣言の理想を法制化、第一帝政の開始
1805年アウステルリッツの戦いオーストリア・ロシア連合軍に勝利
1805年トラファルガーの海戦イギリス海軍に敗北
1806年ライン同盟結成・神聖ローマ帝国崩壊・大陸封鎖令ドイツの領邦国家を従属的同盟国に編成、イギリスとの貿易を禁止
ここが問われる: ナポレオン法典と大陸封鎖令 比較

ナポレオン法典(1804年):人権宣言の理想を法制化 → 各国の民法典の模範に
アウステルリッツの戦い(1805年):オーストリア・ロシア連合軍に勝利
トラファルガーの海戦(1805年)で敗れ → 経済戦に転換
大陸封鎖令(1806年):イギリスとの貿易を禁止 → ロシアの離反を招く

7ナポレオンの没落

スペイン反乱

スペインを従属国としたナポレオンに対して、スペイン民衆は激しいゲリラ戦で抵抗しました。プロイセンではシュタインハルデンベルクが行政改革・農民解放などの改革(プロイセン改革)を実施し、フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を通して国民意識の覚醒をうったえるなど、フランス支配に抵抗するナショナリズムがヨーロッパ各地で生まれていきました。

ロシア遠征の失敗

ロシアが貿易を再開したことを封じるため、ナポレオンは1812年に大軍を率いてロシアに遠征しましたが、大敗して権力の基盤である軍事力を失いました(ロシア遠征)。

ライプツィヒの戦いと退位

これに呼応してドイツの同盟諸国では反ナポレオンの民衆蜂起がおこり、各政府もナポレオンから離反しました。プロイセン・オーストリアはロシアとともに大軍を送り、解放戦争(諸国民戦争)が始まりました。1813年のライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンは退位し、エルバ島に追放されました。フランスではルイ16世の弟が即位して(ルイ18世)、立憲君主政を樹立しました(復古王政)。

ワーテルローの戦い

しかしナポレオンは1815年に再び権力を握りました(百日天下)が、まもなくワーテルローの戦いでイギリス・プロイセンなどに敗れて流刑となり、南大西洋のセントヘレナ島に流されました。

ここが問われる: ナポレオンの没落過程 出来事の流れ

①スペイン民衆のゲリラ戦、各地でナショナリズムが台頭
ロシア遠征(1812年):大敗して軍事力を失う
ライプツィヒの戦い(1813年)=解放戦争(諸国民戦争)でナポレオンが敗北
④退位・エルバ島に追放、フランスでは復古王政が成立
ワーテルローの戦い(1815年)で最終的に敗北 → セントヘレナ島に流刑

8フランス革命の政体の変遷

時期政体・機関特徴
1789〜91年国民議会(憲法制定国民議会)封建的特権の廃止、人権宣言、1791年憲法制定
1791〜92年立法議会(立憲君主政)財産資格による制限選挙制、オーストリア・プロイセンとの戦争開始
1792〜95年国民公会(第一共和政)ルイ16世処刑、ジャコバン独裁・恐怖政治
1795〜99年総裁政府5人の総裁による穏健共和政、政治的に不安定
1799〜1804年統領政府ナポレオンが第一統領として独裁
1804〜14/15年第一帝政ナポレオンが皇帝、ナポレオン法典・大陸支配
ここが問われる: 革命期の議会と政体の変遷 変化

国民議会(1789〜91年)→ 立法議会(1791〜92年)→ 国民公会(1792〜95年)
総裁政府(1795〜99年)→ 統領政府(1799〜1804年)→ 第一帝政(1804〜14/15年)
③選挙制度の変遷:制限選挙(1791年憲法)→ 男性普通選挙(国民公会)→ 制限選挙復活(総裁政府)
④「国民議会 → 立法議会 → 国民公会」の順序は頻出

9他の章とのつながり

  • 11-4 オランダ・イギリス・フランスの台頭 ─ ルイ14世以降の対外戦争による財政危機は、フランス革命の遠因です。絶対王政の矛盾が革命へと結びつく流れを理解しましょう。
  • 11-6 科学革命と啓蒙思想 ─ ヴォルテール・モンテスキュー・ルソーらの啓蒙思想は、人権宣言や革命の理念的基盤を提供しました。社会契約論・人民主権の思想との関連が重要です。
  • 12-2 アメリカ独立革命 ─ アメリカ独立宣言の影響がフランス人権宣言に及んでいます。また、とくにアメリカ独立戦争の戦費が財政破綻をまねきました。
  • 12-4 ラテンアメリカの独立 ─ ナポレオンのスペイン征服は、スペイン植民地であったラテンアメリカの独立運動を加速させました。
  • 13章 ウィーン体制 ─ ナポレオンの没落後、ヨーロッパ秩序の再建を図るウィーン会議が開かれ、反動的な保守体制が成立しました。
歴史総合とのつながり

フランス革命は歴史総合の「近代化と私たち」の中核的なテーマです。人権宣言に示された自由・平等の理念は、その後の市民革命・民族運動の原動力となり、現代の人権思想の出発点として位置づけられます。ナポレオン法典がヨーロッパの近代法に与えた影響も歴史総合の重要論点です。

10まとめ

  • アンシャン=レジームの矛盾と財政危機を背景に三部会が召集され、第三身分らが国民議会を自称して革命が始まった。
  • バスティーユ牢獄の攻撃(1789年7月14日)を契機に封建的特権が廃止され、人権宣言が採択された。
  • ヴァレンヌ逃亡事件で国王への信頼が失墜し、革命戦争のなかで国民公会が成立して第一共和政が宣言された。
  • ジャコバン派ロベスピエール恐怖政治を行ったが、テルミドールの反動で打倒された。
  • 不安定な総裁政府を経て、ナポレオンブリュメールのクーデタで権力を握り、フランス革命は終了した。
  • ナポレオンはナポレオン法典を制定し、ヨーロッパの主要国を屈服させたが、大陸封鎖令からロシアが離反し、ロシア遠征に大敗。ワーテルローで最終的に敗北した。
この記事を100字で要約すると

1789年、財政危機を背景に三部会が召集され、フランス革命が始まった。人権宣言が採択され共和政が成立したが、恐怖政治を経てナポレオンが権力を握った。民法典で革命の理想を法制化したが、ロシア遠征に大敗して没落した。

11穴埋め・一問一答

Q1. 1789年7月14日にパリの民衆が自衛のため攻撃して武器を奪った施設は何か。

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バスティーユ牢獄。パリの民衆が自衛のため武器・弾薬を求めて攻撃しました。

Q2. 国民議会が採択した、自由・平等・国民主権・私有財産の不可侵を掲げた宣言は何か。

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人権宣言(人間と市民の権利の宣言)。すべての人間の自由と権利における平等、国民主権、私有財産の不可侵などの理想を公示しました。

Q3. 国王一家が王妃の実家オーストリアに亡命を試みて失敗した事件は何か。

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ヴァレンヌ逃亡事件。この事件により国王への信頼は決定的に失墜し、共和政を求める声が高まりました。

Q4. ジャコバン派の指導者として恐怖政治を行い、テルミドールの反動で処刑された人物は誰か。

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ロベスピエール。公安委員会を中心に恐怖政治を行い、1794年7月のテルミドールの反動で逮捕・処刑されました。

Q5. ナポレオンが制定した、人権宣言の理想を法制化した法典は何か。

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民法典(ナポレオン法典)。人権宣言の理想を法制化し、各国の民法典の模範ともなりました。

Q6. 1812年にナポレオンが大軍を率いて遠征し、大敗して軍事力を失った遠征先はどこか。

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ロシア。大敗して権力の基盤である軍事力を失いました。

Q7. 1815年、ナポレオンが最終的に敗北した戦いは何か。また、その後ナポレオンが流された島はどこか。

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戦いはワーテルローの戦い。流された島はセントヘレナ島(南大西洋)。エルバ島を脱出して再び権力を握りましたが(百日天下)、敗れて流刑となりました。

12アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。

A 基礎レベル

12-3-1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。

1789年7月14日、パリの民衆は( ア )を襲撃した。8月には国民議会が( イ )を採択し、自由・平等の原則を宣言した。その後、( ウ )派の( エ )を中心に恐怖政治が行われたが、1794年の( オ )で打倒された。

クリックして解答・解説を表示
解答

ア:バスティーユ牢獄 イ:人権宣言 ウ:ジャコバン エ:ロベスピエール オ:テルミドールの反動

解説

フランス革命の基本的な流れを問う問題です。バスティーユ牢獄の攻撃(7月14日)→ 人権宣言の採択の順序、ジャコバン派とロベスピエールの結びつき、テルミドールの反動(1794年)は頻出です。「テルミドール」は革命暦の月名(熱月)に由来します。

B 標準レベル

12-3-2 B 標準 正誤

次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。

  • (1) 三部会を離脱した議員たちは、球戯場で憲法制定までの不解散を誓った。
  • (2) ナポレオンは1799年のテルミドールのクーデタで総裁政府を倒し、統領政府を樹立した。
  • (3) ナポレオン法典は私有財産の不可侵や法の前の平等を定めた。
  • (4) 1812年のロシア遠征で、ナポレオン軍は大勝してロシアの降伏を勝ち取った。
クリックして解答・解説を表示
解答

(1) ○ (2) ×「テルミドールのクーデタ」→「ブリュメールのクーデタ」 (3) ○ (4) × ナポレオンはロシア遠征で大敗し、権力の基盤である軍事力を失った。

解説

(2)について:テルミドールの反動(1794年)はロベスピエールの打倒、ブリュメールのクーデタ(1799年)はナポレオンが権力を握った事件です。どちらも革命暦の月名に由来するため混同しやすい引っかけです。(4)について:ナポレオンはロシア遠征で大敗し、権力の基盤である軍事力を失いました。これを機に解放戦争が始まり、ナポレオンは没落に向かいました。

C 発展レベル

12-3-3 C 発展 論述

フランス革命の勃発からナポレオンの台頭に至るまでの過程を、「アンシャン=レジーム」「人権宣言」「恐怖政治」「ブリュメールのクーデタ」の語句を用いて150字以内で説明せよ。

クリックして解答・解説を表示
解答例

アンシャン=レジームのもとで特権身分と第三身分の対立が深まり、財政危機を背景に1789年に革命が始まった。国民議会は人権宣言を採択して自由・平等・国民主権の理想を公示した。革命戦争のなかでロベスピエールらが恐怖政治を行ったが打倒され、不安定な総裁政府を経て、1799年にナポレオンがブリュメールのクーデタで権力を握った。(150字)

解説

この問題では、革命の原因(アンシャン=レジームの矛盾)→ 革命の理念(人権宣言)→ 急進化(恐怖政治)→ 帰結(ナポレオンの台頭)という流れを整理する必要があります。4つの指定語句をすべて使いながら、因果関係を示すことがポイントです。

採点ポイント
  • アンシャン=レジームの矛盾が革命の原因であることを述べている
  • 人権宣言の採択と自由・平等の理念に言及している
  • 恐怖政治がジャコバン派による急進化の結果であることを述べている
  • ブリュメールのクーデタでナポレオンが権力を掌握した点に触れている