近世の北欧・東欧諸国は、民族や宗派の異なる地域が同君連合によって結合した場合が多く、国家として不安定でした。またその多くが植民地をもたず、たがいの領土を奪い合ったので、諸国の興亡は西欧よりも激しいものでした。18世紀のヨーロッパでは、英仏がヨーロッパの内外で争った一方で、プロイセン・オーストリア・ロシアなどの国々が台頭しました。大国スウェーデンがおとろえ、かつて東欧で勢力をふるったポーランドは周辺列強に分割されて消滅しました。
この記事では、これら北欧・東欧における近世の国際秩序の再編を学びます。
プロイセンは、ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯が、ドイツ騎士団領をもとに成立したプロイセン公国を併合して1618年に成立した国家でした。三十年戦争後にはフリードリヒ=ヴィルヘルム(大選帝侯、在位1640〜1688年)が絶対王政化に乗り出し、常備軍を強化しました。その費用として恒常的な課税を議会に認めさせるかわりに、地方の領主貴族(ユンカー)の農奴支配を正式に認めました。
プロイセンは1701年にスペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝を助けたことにより王号を許され、プロイセン王国へと昇格しました。王国はユンカーが農民の賦役労働を用いる農場領主制が支配的な、経済的にはおくれた地域でした。プロイセンは富国強兵策を進める一方、対外戦争を避けて財政の均衡を保ちました。
フリードリヒ2世(大王、在位1740〜1786年)が即位した年、オーストリアではハプスブルク家の相続をめぐって異議の声があがりました。プロイセンはフランスとともにこれに同調し、オーストリア継承戦争が勃発しました。マリア=テレジアはフランスを破ったものの、豊かな鉱工業地帯のシュレジエンをプロイセンに奪われました。
1756年、マリア=テレジアは長年にわたって敵対してきたフランスと同盟して(外交革命)シュレジエンの奪回をはかったため、七年戦争がおこりました。フリードリヒ2世はイギリスの支援を受けて戦い抜き、シュレジエンを確保しました。さらにポーランド分割をおこなって、ヨーロッパの強国としての地位を確立しました。
フリードリヒ2世は啓蒙専制君主の典型とされます。「君主は国家第一の僕」と自称し、重商主義政策によって産業を育成して軍備の充実をはかりました。また、宗教寛容令を出し、思想家ヴォルテールらを宮廷に招き、サンスーシ宮殿を造営するなど、首都ベルリンは文化的にも発展しました。しかし、ユンカーの特権や農奴制には手をつけず、身分制など社会の根幹は変更されませんでした。
啓蒙専制主義は、君主による上からの改革と富国強兵の体制でした。貴族の強力な伝統的特権をおさえるために、旧式なものを批判する啓蒙思想がよりどころとされたのです。
ホーエンツォレルン家のプロイセンは、大選帝侯以来の軍事強化を経て王国へと昇格し、フリードリヒ2世がオーストリアからシュレジエンを奪取して列強の一角となった。重商主義と啓蒙専制のもとで富国強兵を推進した。(100字)
①ホーエンツォレルン家:ブランデンブルク選帝侯+プロイセン公国を併合(1618年)
②大選帝侯(フリードリヒ=ヴィルヘルム)が絶対王政化に着手。ユンカーの農奴支配を認めるかわりに常備軍を強化
③ 1701年にプロイセン王国成立
④フリードリヒ2世(大王):オーストリア継承戦争でシュレジエン獲得→七年戦争で確定→ポーランド分割
⑤ 「君主は国家第一の僕」を自称。重商主義政策、宗教寛容令、サンスーシ宮殿造営、ヴォルテールを招く
オーストリアは、ハプスブルク家の当主(オーストリア大公)が神聖ローマ皇帝を兼ねて帝国の中核をなしてきました。しかし、三十年戦争後の帝国の形骸化により、東欧の一君主国に等しい存在となりました。もっとも、オーストリアは帝国を圧迫してきたオスマン帝国を1683年のウィーン包囲戦(第2次)で撃退し、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーなどを奪回して、威信を増大させました。ただし、チェコ(チェック)人のベーメンに加えてマジャール人のハンガリーなど、非ドイツ系の人々を多数派とする地域を支配下にもったことは、その後の中央集権化を進めるうえでの難題となりました。
18世紀前半にハプスブルク家で男子の継承者がとだえると、皇女マリア=テレジアが大公位を継承しました。ハプスブルク家では、男系がとだえた場合の女性による家門継承を定めていましたが(プラグマティック=サンクション=国事詔書)、プロイセンのフリードリヒ2世らは異議をとなえ、オーストリア継承戦争が勃発しました。
マリア=テレジアはシュレジエンの喪失を認めざるをえませんでしたが、国内では行財政・軍制・教育などの改革を推進しました。シュレジエン奪回をめざして、イタリア戦争以来の宿敵であったフランスと同盟するという外交革命を断行し、七年戦争に臨みましたが、シュレジエンの回復はかないませんでした。
マリア=テレジアの子ヨーゼフ2世(在位1780〜1790年)は、啓蒙専制君主として中央集権化に努めました。ドイツ語の公用語化、信教の自由(宗教寛容令)、農民解放や修道院の解散、さらに貴族の免税特権の廃止などの改革に着手しました。しかし、オーストリアは多民族国家であったため、急激な中央集権化はマジャール人など諸民族の反発をまねき、そのうえ貴族層も改革に強く反対しました。このため、ヨーゼフ2世は晩年にはハンガリー貴族などへの譲歩に追いこまれました。
イタリア戦争以来の宿敵であったハプスブルク家とフランス王家が友好関係を結んだこのできごとは「外交革命」とも呼ばれ、イギリス・プロイセン・ロシアの台頭による諸国の勢力関係の変化を反映していました。
| 君主 | 在位 | 主な政策・出来事 |
|---|---|---|
| マリア=テレジア | 1740〜1780年 | 行財政・軍制・教育の改革。イタリア戦争以来の宿敵フランスとの外交革命。シュレジエン奪回は失敗 |
| ヨーゼフ2世 | 1780〜1790年 | 農民解放・宗教寛容令・修道院の解散・ドイツ語の公用語化。多民族国家のため急進改革はマジャール人や貴族層の反発で頓挫 |
オーストリアはカルロヴィッツ条約でハンガリーを奪回して威信を増し、マリア=テレジアの改革と外交革命で体制を立て直した。ヨーゼフ2世は農民解放・修道院の解散など急進的改革に着手したが、多民族国家ゆえに頓挫した。(104字)
① 1683年ウィーン包囲戦(第2次)でオスマン帝国を撃退→1699年カルロヴィッツ条約でハンガリー奪回
②マリア=テレジア:プラグマティック=サンクションに基づき即位。シュレジエンを失う
③外交革命:イタリア戦争以来の宿敵フランスと同盟→七年戦争へ(シュレジエン奪回は失敗)
④ヨーゼフ2世:農民解放・宗教寛容令・修道院の解散・ドイツ語の公用語化
⑤ 多民族国家のためマジャール人や貴族層の反発で改革は頓挫
ロシアでは16世紀以降、モスクワ大公国のイヴァン4世が、キプチャク=ハン国分裂後の権力の空白を利用して、東方・南方に領土を広げました。彼は大貴族をおさえて中央集権化をすすめ、農民の移動を禁じて農奴制を強化し、ギリシア正教の擁護者として全ロシアの君主を自任し、正式にツァーリの称号を用いました。また、カザン=ハン国などを征服してヴォルガ川流域をおさえ、さらにコサックの隊長イェルマークの協力を得てシベリアにも領土を広げました。イヴァン4世の死後、ロシアは動乱の時代を迎えましたが、1613年にミハイル=ロマノフが中小の領主や商人たちの支持を得て即位し、ロマノフ朝を開いて混乱は終息しました。なお、農奴制が強化されるなか、ステンカ=ラージンに率いられたコサックの大反乱(1670〜1671年)がおこるなど、社会不安もみられました。しかしこの時代のロシアは、バルト海や黒海にまで領土が達しておらず、西欧との結びつきは弱く、独自の世界を形成していました。
17世紀半ばにロシアは、国境地帯のコサックを支援しつつ、ポーランドと争ってウクライナ地方を獲得しました。さらに、同世紀末に即位したピョートル1世(大帝、在位1682〜1725年)は、ロシアを大きく変化させました。彼はみずからオランダやイギリスなど先進国を視察し、多くの専門家を西欧からまねいて軍事改革と先進技術の導入につとめ、工業の育成や官僚制の整備をはかりました。
社会慣習も西欧風に改めさせ、貴族たちにも西欧の風習を強制して長いあごひげを切らせるなど、徹底的な西欧化政策を推し進めました。対外的には不凍港を求めてスウェーデンとの間で北方戦争を戦い、バルト海へ進出して新首都ペテルブルクを建設し、ここに首都を移して西欧との結びつきを強めました。また南方ではアゾフ海へも進出しました。さらに東方でもシベリア経営をつづけ、中国の清とネルチンスク条約(1689年)を結んで国境を定め、通商を開きました。
ピョートル1世は不凍港を求めてバルト海への進出をはかり、北方戦争の戦局が有利になるとバルト海沿岸にペテルブルクを建設し、ここに首都を移して西欧との結びつきを強めました。徹底した西欧化政策を推し進めたピョートル1世は、貴族たちにも西欧の風習を強制し、彼らの長いあごひげを切らせたことでも知られます。
18世紀後半のエカチェリーナ2世は啓蒙専制君主として知られ、文芸の保護や社会福祉・地方行政制度の充実などの改革を進めました。しかし、1773年からおこったプガチョフの農民反乱(1773〜1775年)の後は、貴族の特権を認め、農奴制を強化しました。
対外的には、領土の拡大にも努め、ポーランド分割に参加したほか、オスマン帝国と戦ってクリミア半島を奪い、黒海へ進出しました。さらに東方ではアラスカ・千島方面にも進出し、日本にもラクスマンを派遣して通商を求めました。こうしてロシアはヨーロッパ有数の大国としての地位を確固たるものにしました。
「南下政策」と呼ばれるロシアの不凍港獲得への執念は、ピョートル1世からエカチェリーナ2世、さらに19世紀のクリミア戦争へと一貫して続くロシア外交の基本方針です。
イヴァン4世がギリシア正教の擁護者としてツァーリの称号を用い領土を拡大し、ミハイル=ロマノフがロマノフ朝を開いた。ピョートル1世は西欧化政策と北方戦争でバルト海へ進出した。エカチェリーナ2世はプガチョフの乱後に農奴制を強化しつつ、ポーランド分割やクリミア半島の併合で大国の地位を確立した。(146字)
①イヴァン4世:ギリシア正教の擁護者としてツァーリの称号を使用。カザン=ハン国征服、コサックの協力でシベリアにも拡大
② ステンカ=ラージンの反乱(1670〜71年)。動乱の時代→1613年ミハイル=ロマノフが即位しロマノフ朝成立。ポーランドと争いウクライナ獲得
③ピョートル1世:西欧化政策(軍事改革・官僚制整備・工業育成)。北方戦争→ペテルブルク建設。アゾフ海へも進出。ネルチンスク条約で清と国境画定
④エカチェリーナ2世:プガチョフの農民反乱後に貴族の特権を認め農奴制を強化
⑤ ポーランド分割に参加。オスマン帝国と戦いクリミア半島を奪い黒海へ進出。日本にもラクスマンを派遣
16世紀前半にデンマークの支配を脱して独立王国となったスウェーデンは、絶対王政化を開始し、三十年戦争ではドイツの要所にも領土を広げて、デンマークにかわってバルト海地域の覇権を握りました。経済的には製鉄が盛んでしたが、ほかの北欧諸国と同様に人口が少なく、17世紀後半にはバルト海一帯を支配する強国となっていました。
しかし、国王カール12世(在位1697〜1718年)が若くして即位すると、ロシアがポーランドやデンマークと結んで北方戦争(1700〜1721年)をおこし、バルト海の覇権を奪いました。1709年のポルタヴァの戦いでロシアがスウェーデンを決定的に破り、戦争は1721年のニスタット条約で終結してバルト海沿岸の広い地域がロシアに割譲されました。18世紀初めにバルト海への進出をはかるロシアとの北方戦争に敗北して、スウェーデンは急速にその地位を低下させていきました。
三十年戦争以来バルト海地域の覇権を握っていたスウェーデンは、18世紀初めにロシアとの北方戦争に敗北して急速にその地位を低下させた。ロシアはバルト海の新たな大国となった。(83字)
① スウェーデンは三十年戦争で領土を広げ、デンマークにかわってバルト海地域の覇権を握った
②カール12世(在位1697〜1718年)が若くして即位→ロシアがポーランド・デンマークと結んで北方戦争をおこす
③ ロシアが勝利し、バルト海の覇権を奪った
④ スウェーデンは急速にその地位を低下させた
近世の北欧・東欧諸国は、民族や宗派の異なる地域が同君連合によって結合した場合が多く、国家として不安定でした。ポーランドはリトアニアと同君連合を形成し、近世初頭の東欧の大国でした。しかし、16世紀後半に王朝(ヤゲウォ朝)がとだえると、貴族主体の選挙王政に移行し、西欧の絶対王政とは異なる政治体制をとりました。
経済的に見ると、ポーランドは16〜17世紀に西欧への穀物輸出国として重要な役割を果たしていました。バルト海を経由してアムステルダムやアントウェルペンへ運ばれたポーランドの穀物は、西欧の食糧需要を支えました。しかしこの農業輸出経済は、農村では貴族が農民を農奴として搾取する農場領主制(グーツヘルシャフト)を強化し、農民の移動の自由が奪われました。また、農業に依存した経済構造では都市や手工業が発達しにくく、西欧と比べて都市の発展が著しく遅れていました。この経済的な後進性が、ポーランドの近代化を難しくした一因でもあります。
また、同世紀末に即位した国王はイエズス会の支持者であり、周辺地域のカトリック化に乗り出しましたが、スウェーデンでルター派の、ロシアではロシア正教徒の反発にあって失敗しました。こうしたあいつぐ戦争でポーランドの財政は破綻し、中央集権化の試みも挫折しました。議会ではリベルム=ヴェト(自由拒否権)により、議員が1人でも反対すれば全議決が無効となり、貴族間の争いなどで政治は混乱しました。
衰体化したポーランドに対し、ロシア・プロイセン・オーストリアの三国は、1772年にポーランドの国土を奪いました(第1回分割)。これに危機感を抱いた改革派は、1791年にヨーロッパで最初の近代的成文憲法の一つである五月三日憲法を制定し、選挙王政やリベルム=ヴェトの廃止による中央集権化を試みました。しかし、この改革をポーランドへの支配力の弱体化とみなしたロシアとプロイセンが介入し、1793年に第2回の分割をおこないました。
この危機に際して、1794年に愛国者コシューシコ(タデウシュ・コシチュシュコ、1746〜1817年)が蜂起して独立運動を試みましたが、ロシアに鎮圧されました。コシューシコはアメリカ独立戦争に義勇兵として参加した軍人でもあり、啓蒙思想と市民的自由の理念を信奉していました。彼は農奴制の廃止を宣言して農民の支持を得ようとしましたが、貴族の抵抗もあって十分な兵力を集めることができず、ロシア軍に敗北しました。1795年には残った領土もこの三国によって分割され(第3回分割)、ポーランドは消滅しました。ポーランドが独立を回復したのは、第一次世界大戦後のことです。
ポーランドの分割は、内政の混乱が周辺の列強による介入と領土喪失を招いた典型例です。選挙王政と貴族間の争い、リベルム=ヴェトによる議会の機能不全が、国家を外部の脅威に対して無防備にしたことが最大の原因でした。
| 分割 | 年 | 分割国 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 第1回 | 1772年 | ロシア・プロイセン・オーストリア | 衰体化したポーランドの国土を三国が奪った |
| 第2回 | 1793年 | プロイセン・ロシア | 五月三日憲法(1791年)による改革の試みに対し、ロシアとプロイセンが介入して分割 |
| 第3回 | 1795年 | ロシア・プロイセン・オーストリア | コシューシコの蜂起を鎮圧後、残った領土を分割しポーランド消滅 |
ポーランドはヤゲウォ朝断絶後の選挙王政と貴族間の争いにより政治が混乱し、衰体化したところをロシア・プロイセン・オーストリアの三国に第1回分割された。五月三日憲法による改革の試みもロシアとプロイセンの介入で挫折し、3度の分割を経て1795年に消滅した。(124字)
① 16世紀後半にヤゲウォ朝がとだえ選挙王政に移行→貴族間の争い・カトリック化の失敗で政治混乱
②リベルム=ヴェト(自由拒否権):議員1人の反対で議決無効→国政機能不全
③ 第1回分割(1772年):ロシア・プロイセン・オーストリアが領土を奪う
④五月三日憲法(1791年):選挙王政・リベルム=ヴェトの廃止を試みるが、ロシアとプロイセンが介入→第2回分割(1793年)
⑤コシューシコ(1746〜1817年)の蜂起(1794年)→鎮圧→第3回分割(1795年)でポーランド消滅
プロイセン・オーストリア・ロシアのように東欧・北欧で勢力を広げた諸国は、啓蒙専制主義と呼ばれる体制のもとでさまざまな改革を導入しました。この体制では、啓蒙思想の影響を受けた君主が、農業・商工業の奨励、死刑・拷問の廃止、初等教育の拡充、宗教的寛容の実現などの改革をおこない、臣民の幸福の増大も目的の一つに掲げられました。
| 君主 | 国 | 主な改革 | 限界 |
|---|---|---|---|
| フリードリヒ2世 | プロイセン | 「君主は国家第一の僕」を自称。重商主義政策による産業育成、宗教寛容令。サンスーシ宮殿を造営しヴォルテールらを招く | ユンカーの特権・農奴制は温存。身分制は変更されず |
| マリア=テレジア ヨーゼフ2世 | オーストリア | 行財政・軍制・教育の改革(テレジア)。農民解放・宗教寛容令・修道院の解散・ドイツ語の公用語化(ヨーゼフ2世) | 多民族国家のため急激な中央集権化がマジャール人らの反発をまねく |
| エカチェリーナ2世 | ロシア | 文芸の保護、社会福祉・地方行政制度の充実 | プガチョフの農民反乱後に貴族の特権を認め、農奴制を強化 |
こうした改革を通して、プロイセン・オーストリア・ロシアはヨーロッパ国際政治における地位を向上させました。しかし、その統治体制は、イギリス・フランスなど西欧の先進国に対抗し、東欧の君主みずからがリーダーシップをとって富国強兵をめざすものであったため、身分制など社会の根幹は変更されませんでした。貴族の強力な伝統的特権をおさえるために、旧式なものを批判する啓蒙思想がよりどころとされたのです。
① 共通点:啓蒙思想の影響を受けた君主による「上からの改革」と富国強兵
② 啓蒙専制主義の目的:西欧の先進国に対抗するため、貴族の伝統的特権をおさえる根拠として啓蒙思想を利用
③ 限界:身分制など社会の根幹は変更されなかった(農奴制の温存・貴族の特権維持)
④ フリードリヒ2世=サンスーシ宮殿でヴォルテールを招く。ヨーゼフ2世=修道院の解散。エカチェリーナ2世=文芸の保護
18世紀の北欧・東欧では、プロイセン・オーストリア・ロシアが啓蒙専制主義のもとで富国強兵と領土拡大を進め、ヨーロッパ国際政治における地位を向上させた。大国スウェーデンは北方戦争で覇権を失い、ポーランドは三国に分割されて消滅した。(113字)
Q1. プロイセン王国の王家は( )家である。
Q2. フリードリヒ2世がオーストリア継承戦争で獲得した地域は( )である。
Q3. マリア=テレジアがシュレジエン奪回のために宿敵フランスと同盟を結んだ出来事を( )という。
Q4. ヨーゼフ2世が発布した、プロテスタントなどにも信仰の自由を認めた法令は( )である。
Q5. ピョートル1世がバルト海沿岸に建設し、遷都した新首都は( )である。
Q6. エカチェリーナ2世の治世に起きた、コサックと農民の大反乱を( )の乱という。
Q7. 北方戦争の決定的な戦いで、ロシアがスウェーデンを破った1709年の戦いは( )の戦いである。
Q8. ポーランド議会で議員1人の反対で議決が無効となる制度を( )という。
Q9. 1794年にポーランド独立のために蜂起した人物は( )である。
Q10. 北方戦争を終結させた1721年の講和条約は( )条約である。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) プロイセンのフリードリヒ2世は、フランスの思想家( ア )と交流し、自らを「国家第一の僕」と称した。
(2) オーストリアのカール6世が女性の相続権を認めるために発布した国事詔書を( イ )という。
(3) ピョートル1世がバルト海沿岸に建設した新首都は( ウ )である。
(4) ポーランド議会において、議員1人の反対で議決が無効となる制度を( エ )という。
ア:ヴォルテール イ:プラグマティック=サンクション(国事詔書) ウ:ペテルブルク(サンクトペテルブルク) エ:リベルム=ヴェト(自由拒否権)
(1)について:フリードリヒ2世と交流した思想家はヴォルテールです。エカチェリーナ2世と交流した思想家はディドロなので、混同に注意しましょう。(2)について:プラグマティック=サンクションはカール6世が1713年に公布し、ハプスブルク家の領土不分割と女子の相続権を定めたものです。(4)について:リベルム=ヴェトは「自由拒否権」と訳され、ポーランドの国政を機能不全に陥らせた原因として重要です。
次の文のうち、正しいものを1つ選べ。
(3)
(1)について:シュレジエンを失ったのはオーストリア(マリア=テレジア)であり、フリードリヒ2世は「獲得」した側です。主語と動詞の組み合わせに注意しましょう。(2)について:外交革命でマリア=テレジアが同盟を結んだのはフランス(ブルボン家)です。プロイセンは敵対国です。(4)について:北方戦争の結果、バルト海の覇権はスウェーデンからロシアに移りました。
18世紀にポーランドが3度にわたって分割され消滅した原因について、ポーランドの内政上の問題と周辺国の動向の両面から、「リベルム=ヴェト」「選挙王政」「五月三日憲法」の語句を使って120字以内で説明せよ。
ポーランドでは選挙王政により国王の権限が弱く、リベルム=ヴェトにより議会が機能不全に陥ったため、中央集権化が進まず軍事力も弱体だった。改革のため五月三日憲法を制定したが、ロシアとプロイセンが介入し、三国に分割されて消滅した。(112字)
この問題では、ポーランドの「内政上の弱点」と「周辺国の介入」の両面を記述する必要があります。内政面ではリベルム=ヴェトと選挙王政が国家機能を弱体化させたこと、外交面では改革の試み(五月三日憲法)が周辺列強の介入を招いたという二段構えで論じましょう。