第11章 近世ヨーロッパの動向

科学革命と啓蒙思想
─ 理性が世界のしくみを塗りかえた時代

16〜17世紀、ヨーロッパでは自然の法則を観察と実験によって解き明かそうとする動きが広がりました。コペルニクスの地動説に始まり、ニュートンの万有引力の法則に至る一連の発見は科学革命と呼ばれ、人々の世界観を根底から変えました。
18世紀になると、科学革命がもたらした「理性への信頼」は社会や政治にも及び、啓蒙思想として花開きます。ロック、モンテスキュー、ルソーらの思想は、のちのアメリカ独立革命やフランス革命の思想的基盤となりました。
この記事では、科学革命の展開から啓蒙思想の内容、そしてそれが政治にもたらした影響までを学びます。

1科学革命の幕開け ─ 天文学の転換

天動説から地動説へ

中世後期のヨーロッパにおける自然探究は、古代ギリシアの著作にもとづいていました。なかでもプトレマイオス以来の天動説(地球中心説)が広く信じられていました。地球が宇宙の中心に静止し、太陽や惑星がその周りを回っているという考え方です。この世界観はキリスト教の教義とも結びつき、長く疑われることがありませんでした。

この常識を覆したのが、ポーランドの聖職者コペルニクス(1473〜1543年)です。コペルニクスは、惑星の運動を数学的により簡潔に説明できるとして、地動説(太陽中心説)を唱えました。太陽が宇宙の中心にあり、地球を含む惑星がその周りを公転しているという主張です。この学説は1543年に出版された著書で発表されましたが、教会の反発を恐れて長く公にされませんでした。

ケプラーとガリレイ

地動説はその後、二人の科学者によって大きく発展します。ドイツの天文学者ケプラー(1571〜1630年)は、師のティコ=ブラーエが残した膨大な観測データを分析し、惑星が太陽の周りを楕円軌道で運動することを明らかにしました(ケプラーの法則)。

イタリアのガリレイ(1564〜1642年)は、改良した望遠鏡で天体を観測し、木星の衛星や金星の満ち欠けなど、地動説を裏付ける証拠を次々に発見しました。ガリレイは地動説を公然と支持したため、ローマ教会の宗教裁判にかけられ、地動説の放棄を命じられました。しかし、彼の観測事実は科学の発展に決定的な影響を与えました。

ニュートンの万有引力の法則

科学革命の集大成を成し遂げたのが、イギリスのニュートン(1642〜1727年)です。ニュートンは1687年に出版した『プリンキピア』(自然哲学の数学的原理)のなかで、万有引力の法則を発表しました。すべての物体は互いに引き合う力(引力)を持ち、その力は質量に比例し距離の2乗に反比例するという法則です。ニュートンはこのほか、光のスペクトルや微積分法の発見でも知られ、科学者の団体である王立協会の会長もつとめました。この時代には各国で科学アカデミーや学会が創設され、専門的な科学者が活動する場が整備されていきました。

この法則により、リンゴが木から落ちるのも、月が地球の周りを回るのも、同じ力で説明できることが示されました。ケプラーの惑星運動の法則も、万有引力の法則から数学的に導き出せます。ニュートンの業績は、自然界が人間の理性で解明できる法則に従っているという確信を広め、のちの啓蒙思想に大きな影響を与えました。

その他の科学的成果 ─ 生命科学・化学・数学

天文学・物理学以外の分野でも重要な発見が続きました。イギリスのハーヴェー(ウィリアム・ハーヴェー、1578〜1657年)は、観察と実験によって血液循環の仕組みを解明し、1628年に著書でその成果を発表しました。心臓から送り出された血液が動脈・毛細血管・静脈を通じて全身を循環して心臓に戻るというこの発見は、人体についての古来の考え方を根本から覆しました。イギリスのボイル(ロバート・ボイル、1627〜91年)は、気体の圧力と体積の関係を示すボイルの法則を発見し、近代化学の基礎を築きました。ドイツのライプニッツ(1646〜1716年)は哲学・数学の両面で業績を残し、ニュートンとほぼ同時期に微積分法を独自に発見したことで知られます(現在の微積分の記号法はライプニッツの体系が普及しています)。

科学革命はなぜ16〜17世紀のヨーロッパで起きたのか
ルネサンスにより古代ギリシア・ローマの学問が再発見され、人間の理性で世界を探究する気運が高まった
大航海時代で未知の自然や動植物に触れ、従来の知識体系への疑問が生まれた
活版印刷の普及により、新しい学説が広く共有されるようになった
コペルニクス・ケプラー・ガリレイ・ニュートンが次々に観察・実験・数学的証明で従来の世界観を書きかえた

科学革命の主な展開

コペルニクス
地動説
ケプラー
惑星運動の法則
ガリレイ
望遠鏡の改良
ニュートン
万有引力の法則
1543年1609年1610年代1687年
ここが問われる: 科学革命の主要人物と業績 人物と業績

コペルニクス(ポーランド):地動説(太陽中心説)を提唱
ケプラー(ドイツ):惑星の楕円軌道を発見(ケプラーの法則)
ガリレイ(イタリア):望遠鏡の改良による天体観測で地動説を裏付け → 宗教裁判にかけられた
ニュートン(イギリス):万有引力の法則を発見。著書『プリンキピア』(1687年)

2経験論と合理論 ─ 新しい学問の方法

ベーコンの経験論

科学革命が進むなか、学問の方法そのものを問い直す動きも現れました。イギリスのフランシス=ベーコン(1561〜1626年)は、経験論empiricism)の立場を打ち出しました。ベーコンは、著書『新オルガヌム』のなかで、先入観や偏見(これを彼は「イドラ」と呼びました)にとらわれず、観察と経験によって自然現象を解明すべきだと主張しました。多数の事例から一般的な命題を導く帰納法を確立し、近代科学の方法論に大きな影響を与えました。のちにロック(→第3節)がこの経験論を発展させ、人間の思考では生後に獲得される知識と経験が決定的な役割を果たすと論じて、イギリス経験論の流れを確立しました。

デカルトの合理論

一方、フランスのデカルト(1596〜1650年)は、合理論rationalism)の立場を確立しました。デカルトは、あらゆるものを徹底的に疑ったうえで、「疑っている自分」だけは疑えないとして、「われ思う、ゆえにわれあり」(コギト・エルゴ・スム)という命題を出発点にしました。一般的な命題からより特殊な命題を導き出す演繹法を確立し、著書『方法叙説』を著して合理主義哲学の先駆となりました。デカルトの哲学により、理性を万能視する合理主義が確立され、この流れは大陸合理論と呼ばれます。

経験論と合理論はアプローチこそ異なりますが、いずれも教会の権威や伝統ではなく、人間の理性によって真理に到達できるという信念を共有していました。この考え方が、のちの啓蒙思想の土台となります。なお、18世紀末にドイツのカント(1724〜1804年)が大陸合理論とイギリス経験論を総合・統一し、観念論哲学への道を開きました。

経験論合理論
代表的な思想家フランシス=ベーコン(イギリス)デカルト(フランス)
知識の源泉感覚的な経験・観察理性による思考
学問の方法帰納法(個別→一般)演繹法(原理→個別)
代表的な著書『新オルガヌム』『方法叙説』
キーワード「知は力なり」「イドラ」「われ思う、ゆえにわれあり」
→ 18世紀末、ドイツのカントが経験論と合理論を総合・統一し、観念論哲学への道を開いた
ここが問われる: 経験論と合理論の比較 比較

ベーコン(イギリス):経験論 = 観察と経験を重視する帰納法。著書『新オルガヌム
デカルト(フランス):合理論(大陸合理論)= 理性を重視する演繹法。著書『方法叙説
③両者に共通するのは、教会の権威ではなく人間の理性で真理を探究するという姿勢
④ベーコンの「知は力なり」、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」はともに頻出
⑤18世紀末、ドイツのカントが経験論と合理論を総合・統一し、観念論哲学への道を開いた

3啓蒙思想の展開

啓蒙思想とは何か

18世紀には、すべての人間を対象に、現実世界における幸福を増大させるために有用な知識を集積して広めようとする啓蒙思想が広まりました。「啓蒙」とは「蒙(くらやみ)を啓(ひら)く」の意味で、人間の理性の光に照らして事物を検討し、迷信や偏見を打破すべきことを主張する思想でした。啓蒙思想家たちは国境をこえて議論をおこない、為政者に直接働きかけたり、世論を通じて改革を要求したりしました。なお、科学革命や新しい哲学の発展を受けて、17世紀末から18世紀初めにかけて、古代人と現代人のどちらがすぐれているかをめぐる論争がおこり、現代人派が勝利したことで、人間の歴史はよりよい時代に向かって進歩していくことが可能であるという進歩の観念が広まりました。啓蒙思想の中心地はフランスで、思想家たちは教会や絶対王政を理性にもとづいて批判しました。

ホッブズの社会契約説 ─ 絶対的主権国家の論理

啓蒙思想の直接の先駆として、イギリスのホッブズ(1588〜1679年)を押さえておく必要があります。ホッブズは1651年に著書『リヴァイアサン』を著し、国家と社会契約の関係を論じました。ホッブズによれば、人間は本来「万人の万人に対する戦争」状態にある利己的な存在であり、この混乱から脱するために人々は自らの権利を国家(主権者)に全面的に委ねる契約を結んだとされます。

この論理は結果として、絶対的な主権国家の権威を正当化するものであり、抵抗権や革命権を認めない点でロックと根本的に異なります。しかしホッブズの重要性は、国家の権威を神の意志ではなく人間同士の契約(社会契約)によって説明した点にあります。これはロック・モンテスキュー・ルソーへとつながる政治思想の出発点であり、近代政治学の基礎を置いたとして高く評価されています。

ロックの社会契約説と抵抗権

啓蒙思想の先駆となったのが、イギリスのロック(1632〜1704年)です。ロックは『統治二論』(市民政府二論)を著し、人間は生まれながらに生命・自由・財産に対する自然権を持っており、これを守るために人々が社会契約によって政府を設立したと論じました(社会契約説)。

さらにロックは、政府が人民の自然権を侵した場合には、人民には抵抗権(革命権)があると説きました。この思想は1688年の名誉革命を擁護する論拠となったほか、のちのアメリカ合衆国の独立やフランス人権宣言にも大きな影響を与えました。

モンテスキューの三権分立

フランスのモンテスキュー(1689〜1755年)は、著書『法の精神』(1748年)のなかで、権力の集中を防ぐために三権分立を主張しました。立法権・行政権・司法権を異なる機関に分け、互いに抑制させることで、専制政治を防止できるという考えです。モンテスキューは歴史上の諸国家の考察を通じて、イギリスの立憲君主政を例にこの理論を導き出しました。三権分立の思想は、のちのアメリカ合衆国憲法に大きな影響を与えました。

ヴォルテール

フランスのヴォルテール(1694〜1778年)は、鋭い風刺と機知に富んだ文章で知られる啓蒙思想家です。『哲学書簡』でフランスの後進性を批判し、カトリック教会の不寛容と専制政治を厳しく批判して、宗教的寛容を訴えました。ヴォルテールの著作により、国家・君主の信仰とは異なる宗派のキリスト教を容認する姿勢(宗教的寛容)が広まりました。また、プロイセンのフリードリヒ2世と親交を持つなど、啓蒙専制君主にも影響を与えました。

ルソーの人民主権と社会契約論

フランスのルソー(1712〜78年)は、『人間不平等起源論』で文明社会が人間の自由を制約していると論じ、さらに著書『社会契約論』(1762年)のなかで、自由・平等と人民主権を説きました。ルソーは、各人が社会と契約してすべての権利を譲渡したうえで、一般意志にもとづく直接民主政のかたちで統治に参加することによって自由と平等を回復すべきだと論じました。

ルソーの思想は他の啓蒙思想家と比べて急進的で、のちのフランス革命に直接的な影響を与えました。

啓蒙思想はなぜフランスで花開いたのか
フランスでは絶対王政のもとで身分制や特権が温存され、社会矛盾が深刻だった
イギリスの名誉革命議会政治が「理性に基づく政治」のモデルとして知られるようになった
科学革命の成功が「理性で社会も改善できる」という自信を知識人に与えた
パリのサロン(知識人の社交場)やロンドンのコーヒーハウス、出版文化を通じて、思想が広く議論・共有された
ここが問われる: 啓蒙思想家の主張と著作 内容・特徴

ロック(イギリス):『統治二論』で社会契約説抵抗権を説き、名誉革命を擁護
モンテスキュー(フランス):『法の精神』→ 三権分立を主張
ヴォルテール(フランス):『哲学書簡』でフランスの後進性を批判。宗教的寛容を主張
ルソー(フランス):『人間不平等起源論』『社会契約論』→ 人民主権・自由平等を主張

4百科全書と経済思想

百科全書の編纂

啓蒙思想の精神を結集した一大事業が、『百科全書』の編纂です。フランスのディドロと数学者のダランベールが中心となり、1751年から約20年をかけて全35巻の大著を完成させました。

『百科全書』は、あらゆる学問・技術・産業の知識を体系的にまとめたもので、ヴォルテールやルソーなど当時の主要な思想家が執筆に参加しました。教会や王権の権威を理性の立場から批判する内容を含んでいたため、出版の禁止や弾圧を受けることもありましたが、啓蒙思想を広く普及させる役割を果たしました。このほか各国でも百科事典が刊行され、博物館や植物園もこの時代に登場しました。啓蒙思想は基本的に文字・図像を通じて広められましたが、その背景には、書物に限らず新聞・雑誌などの出版業が18世紀後半のヨーロッパで発達したことがありました。

ケネーと重農主義

アダム=スミスに先行して、フランスではケネー(フランソワ・ケネー、1694〜1774年)が重農主義(フィジオクラシー)を唱えました。ケネーは農業こそが富の唯一の源泉であり、農業に従事する人々が生み出す余剰こそが国富の基盤だと主張しました。著書『経済表』(1758年)では、社会全体の富の流通を図式化し、国民経済を体系的に分析しようとした点で、近代経済学の先駆とされます。ケネーの弟子にあたるテュルゴ(1727〜81年)らの重農主義者たちは、「なすにまかせよ」(レッセ=フェール)の標語のもとに国家による過度な産業統制(重商主義)を批判し、自由な経済活動を主張しました。この考え方はアダム=スミスの経済思想に影響を与えています。

アダム=スミスと自由主義経済

啓蒙思想は経済の分野にも及びました。イギリス(スコットランド)のアダム=スミス(1723〜90年)は、1776年に『諸国民の富』(国富論)を著し、自由主義経済の考え方を打ち出しました。

アダム=スミスは、個人が自由に経済活動を行えば、市場の自動調節機能(彼はこれを「見えざる手」と表現しました)によって社会全体の富が増大すると論じました。重商主義的な特権や規制を廃して、自由放任の政策を唱え、自由貿易自由競争を主張しました。この思想は、当時の重商主義政策を批判するものであり、古典派経済学を創始しました。この思想は19世紀の産業革命期における自由貿易の拡大に大きな影響を与えました。

発展:『百科全書』と近代的な知の体系化

『百科全書』が画期的だったのは、宗教ではなく人間の理性を基盤として知識を体系化しようとした点です。中世の知識体系は神学を頂点に構築されていましたが、『百科全書』は科学・技術・産業といった実用的な知識にも大きな比重を置きました。農業・工業の技術を図版入りで詳しく解説しており、この姿勢は「実用知こそ社会を進歩させる」という啓蒙思想の信念を体現しています。

ここが問われる: 百科全書とアダム=スミス 内容・特徴

①『百科全書』:ディドロダランベールが編纂。啓蒙思想の普及に貢献
アダム=スミス(イギリス):『諸国民の富』(国富論、1776年)→ 自由主義経済を主張
③アダム=スミスは重商主義を批判し、自由貿易自由競争を訴えた
④「見えざる手」= 市場の自動調節機能が社会全体の利益を導くという考え。古典派経済学を創始

5啓蒙専制君主への影響

啓蒙思想は一般市民だけでなく、ヨーロッパの君主たちにも影響を与えました。東欧・北欧で勢力を広げた諸国では、啓蒙専制主義と呼ばれる体制のもとで、啓蒙思想の影響を受けた君主が農業・商工業の奨励、死刑・拷問の廃止、初等教育の拡充、宗教的寛容の実現などの改革をおこない、臣民の幸福の増大も目的の1つに掲げました。こうした君主たちを啓蒙専制君主と呼びます。

フリードリヒ2世(プロイセン)

プロイセンのフリードリヒ2世(在位1740〜86年)は、自らを「君主は国家第一の」と称し、サンスーシ宮殿を造営して思想家ヴォルテールや音楽家バッハらを招きました。司法改革や宗教的寛容を実施する一方で、ユンカー(地主貴族)の農奴支配は温存しました。

エカチェリーナ2世(ロシア)

ロシアのエカチェリーナ2世(在位1762〜96年)も啓蒙思想に傾倒し、ヴォルテールやディドロと文通を交わしました。文芸の保護や社会福祉・地方行政制度の充実などの改革を試みましたが、農奴制はむしろ強化され、コサックのプガチョフを指導者とする農民反乱(プガチョフの反乱、1773〜75年)を招きました。

ヨーゼフ2世(オーストリア)

オーストリアのヨーゼフ2世(在位1765〜90年)は、母マリア=テレジアとともに啓蒙専制君主のなかでも最も急進的な改革を試みました。税制の改革や官僚制の整備を進め、農奴解放令を発布するとともに、カトリック教会への統制を強めて修道院を解散させました。宗教寛容令でプロテスタントやユダヤ教徒にも信仰の自由を認めましたが、改革があまりに急激であったため貴族層の強い反発を招き、その多くは彼の死後に撤回されました。

ポイント:啓蒙専制君主の共通点と限界
  • 共通点:啓蒙思想に共感し、司法改革・宗教的寛容・教育振興などの近代的改革を実施
  • 限界:イギリス・フランスなど西欧の先進国に対抗し、東欧の君主みずからがリーダーシップをとって富国強兵をめざすものであったため、身分制など社会の根幹は変更されなかった
  • 矛盾:「理性にもとづく統治」を掲げつつ、実際には領土拡大や貴族特権の温存など、旧体制的な側面も持ち続けた
啓蒙専制君主はなぜ「啓蒙」と「専制」を両立させようとしたのか
18世紀後半、西欧先進国に追いつくための近代化改革が急務だった
啓蒙思想の「理性による統治」は、効率的な国家運営の論拠として魅力的だった
しかし議会政治や民衆の政治参加を認めると、貴族層の反発で王権が弱体化する恐れがあった
そのため、啓蒙思想の改革理念だけを取り入れ、君主の強権で上から実行するという方法が選ばれた
ここが問われる: 啓蒙専制君主の比較 比較
君主主な改革・業績限界
フリードリヒ2世プロイセン司法改革・宗教的寛容。サンスーシ宮殿を造営しヴォルテールらを招聘ユンカー(地主貴族)の農奴支配は温存
エカチェリーナ2世ロシア文芸の保護・社会福祉の充実。ヴォルテール・ディドロと文通農奴制はむしろ強化され、プガチョフの反乱を招いた
ヨーゼフ2世オーストリア税制改革・官僚制整備・農奴解放令・宗教寛容令。修道院を解散貴族の反発で死後に改革の多くが撤回

6科学革命・啓蒙思想の歴史的意義

科学革命と啓蒙思想は、近代世界の形成に計り知れない影響を与えました。「理性で世界を理解し、社会を改善できる」という信念は、政治・経済・社会のあらゆる領域で変革を促す力となりました。

科学革命・啓蒙思想がもたらした影響
  • 政治への影響:社会契約説・人民主権・三権分立の思想が、アメリカ独立革命(1776年)やフランス革命(1789年)の思想的基盤となった
  • 経済への影響:アダム=スミスの自由主義経済は、産業革命期の自由貿易政策を支える理論となった
  • 世界観の変革:自然界が法則に従うという科学的世界観が、宗教的権威に代わる新しい知の基準となった
  • 啓蒙専制主義:東欧・ロシアの君主たちが啓蒙思想を取り入れ、「上からの近代化」を試みた
発展:科学革命はなぜ「革命」と呼ばれるのか

科学革命は一夜にして起こったわけではありません。コペルニクスからニュートンまで約150年の歳月を要しています。しかし、人類が何千年もかけて築いてきた「地球が宇宙の中心」という世界観が根本から覆され、「観察・実験・数学的証明」で自然を理解するという新しい方法論が確立された点で、人類の知の歴史における決定的な転換(=革命)だったと言えます。

7他の章とのつながり

  • 7-4 中世ヨーロッパの文化 ─ 中世のスコラ哲学や大学の発展が、科学革命の前提となる知的基盤を形成しました。トマス=アクィナスの合理的神学が、やがて世俗の学問にも合理的思考を広げていった流れを確認できます。
  • 9-2 ヨーロッパの海外進出 ─ ルネサンスと大航海時代が、従来の知識体系への疑問を生み、科学革命の土壌を準備しました。新大陸の「発見」は、古代の権威だけでは世界を理解できないことを証明しました。
  • 11-5 北・東ヨーロッパの動向 ─ 啓蒙専制君主であるフリードリヒ2世(プロイセン)やエカチェリーナ2世(ロシア)の具体的な国家運営は、11-5の内容と直結します。
  • 12-1 産業革命 ─ 科学革命の精神と啓蒙思想が、技術革新や自由主義経済の発展を促し、産業革命の前提条件を整えました。アダム=スミスの思想は産業革命期の経済政策に直接つながります。
  • 12章 アメリカ独立革命・フランス革命 ─ ロック・モンテスキュー・ルソーの思想は、市民革命の思想的基盤として決定的な役割を果たしました。独立宣言・人権宣言との対応関係は入試でも頻出です。
歴史総合とのつながり

歴史総合では「近代化と私たち」のテーマで、市民革命と産業革命を学びます。科学革命・啓蒙思想は、なぜ18世紀に市民革命が起きたのかを理解するための前提となる知識です。ロックの社会契約説・抵抗権、モンテスキューの三権分立、ルソーの人民主権は、歴史総合でも重要なキーワードとして問われます。

8まとめ

  • コペルニクス地動説を提唱し、ケプラーが惑星の楕円軌道を、ガリレイが望遠鏡の改良による観測でこれを裏付けた。
  • ニュートン万有引力の法則を発見し(『プリンキピア』1687年)、科学革命を集大成した。
  • ベーコンは『新オルガヌム』で経験論(帰納法)を、デカルトは『方法叙説』で合理論(演繹法)を確立した。18世紀末にカントが両者を総合・統一した。
  • ロックは『統治二論』で社会契約説抵抗権を説き、モンテスキューは『法の精神』で三権分立を主張した。
  • ヴォルテールは宗教的不寛容と専制政治を批判し、ルソーは『人間不平等起源論』『社会契約論』で自由・平等と人民主権を唱えた。
  • ディドロダランベールが編纂した『百科全書』は、啓蒙思想の普及に大きく貢献した。
  • アダム=スミスは『諸国民の富』(国富論、1776年)で自由放任の政策を唱え、重商主義を批判した。
  • フリードリヒ2世エカチェリーナ2世ヨーゼフ2世啓蒙専制君主は、啓蒙思想を取り入れた上からの改革を試みた。
この記事を100字で要約すると

16〜17世紀の科学革命でコペルニクスやニュートンが自然法則を解明し、理性への信頼が高まった。18世紀にはロック・モンテスキュー・ルソーらが啓蒙思想を展開し、社会契約説・三権分立・人民主権の概念が市民革命の思想的基盤となった。

9穴埋め・一問一答

Q1. ポーランドの聖職者で、太陽中心説(地動説)を提唱した人物は誰か。

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コペルニクス。1543年に著書を出版し、地動説を発表しました。

Q2. ニュートンが1687年に出版し、万有引力の法則を発表した著書の名称は何か。

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プリンキピア』(自然哲学の数学的原理)。ケプラーの法則やガリレイの業績を統一的に説明する力学の体系を示しました。

Q3. 「われ思う、ゆえにわれあり」の言葉で知られ、合理論・演繹法を確立したフランスの哲学者は誰か。

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デカルト。あらゆるものを疑う方法的懐疑のなかで、「疑っている自分」の存在だけは疑えないとし、これを哲学の出発点としました。

Q4. 『社会契約論』を著し、人民主権の考えを示したフランスの啓蒙思想家は誰か。

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ルソー。1762年に『社会契約論』を著し、国家の主権は人民にあるという人民主権を主張しました。この思想はフランス革命に大きな影響を与えました。

Q5. 『百科全書』の編纂を主導した二人の人物は誰か。

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ディドロダランベール。約20年をかけて全35巻を完成させ、啓蒙思想の普及に大きく貢献しました。

10アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。基礎(A)から発展(C)まで段階的に取り組んでみてください。

A 基礎レベル

11-6-1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。

16世紀にポーランドの( ア )が地動説を唱え、イタリアの( イ )は望遠鏡を用いた天体観測でこれを裏付けたが、宗教裁判にかけられた。17世紀にはイギリスの( ウ )が( エ )の法則を発見し、著書『( オ )』で発表した。

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解答

ア:コペルニクス イ:ガリレイ ウ:ニュートン エ:万有引力 オ:プリンキピア

解説

科学革命の基本事項を問う問題です。コペルニクス(地動説)→ ガリレイ(望遠鏡による観測・宗教裁判)→ ニュートン(万有引力の法則・『プリンキピア』)という流れは、科学革命の最重要ポイントです。特にガリレイが宗教裁判にかけられた事実は、科学と教会の対立を示す象徴的な出来事として頻出です。

B 標準レベル

11-6-2 B 標準 正誤

次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。

  • (1) フランシス=ベーコンは合理論の立場から演繹法を学問の基本とした。
  • (2) モンテスキューは『法の精神』で三権分立を主張し、アメリカ合衆国憲法に影響を与えた。
  • (3) ルソーは社会契約説にもとづいて抵抗権(革命権)を主張し、名誉革命を擁護した。
  • (4) アダム=スミスは『諸国民の富』で重商主義を批判し、自由貿易・自由競争を主張した。
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解答

(1) ×「合理論」→「経験論」、「演繹法」→「帰納法」 (2) ○ (3) ×「ルソー」→「ロック」 (4) ○

解説

(1)について:ベーコンは経験論の立場から帰納法を重視しました。合理論・演繹法はデカルトの立場です。ベーコンとデカルトの混同は入試で非常に多い誤りです。(3)について:社会契約説と抵抗権を主張して名誉革命を擁護したのはロックです。ルソーは『社会契約論』で人民主権を主張した人物で、フランス革命に影響を与えました。ロックとルソーは「社会契約」という共通のキーワードを持つため混同しやすいですが、ロック=抵抗権・名誉革命、ルソー=人民主権・フランス革命と対応させて覚えましょう。

C 発展レベル

11-6-3 C 発展 論述

17〜18世紀の科学革命と啓蒙思想が、18世紀後半の市民革命にどのような思想的影響を与えたか、「万有引力の法則」「社会契約説」「三権分立」「人民主権」の語句を用いて150字以内で説明せよ。

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解答例

ニュートンの万有引力の法則に代表される科学革命は、自然界が理性で解明可能であるという確信を広めた。この理性への信頼のもと、ロックの社会契約説、モンテスキューの三権分立、ルソーの人民主権といった啓蒙思想が展開され、アメリカ独立革命やフランス革命の思想的基盤となった。(130字)

解説

この問題は科学革命→啓蒙思想→市民革命という一連の因果関係を整理する論述問題です。科学革命がもたらした「理性への信頼」が啓蒙思想の前提であること、そして啓蒙思想の具体的な内容(社会契約説・三権分立・人民主権)が市民革命の思想的基盤となったことを、指定語句を用いて論理的に述べる必要があります。

採点ポイント
  • 科学革命(万有引力の法則)が「理性への信頼」を広めたと述べている
  • 社会契約説(ロック)・三権分立(モンテスキュー)・人民主権(ルソー)の内容に触れている
  • 啓蒙思想が市民革命の思想的基盤となったと結論づけている