第11章 近世ヨーロッパの動向

オランダ・イギリス・フランスの台頭

17世紀前半に急速に台頭したのがオランダでした。スペインから独立したオランダは造船・貿易・金融でヨーロッパをリードしました。しかし17世紀後半からイギリスフランスの挑戦を受け、覇権は移り変わっていきます。イギリスは二度の革命を経て立憲君主政を確立し、フランスではルイ14世のもとで絶対王政がきわまりました。
この記事では、17世紀の三国の台頭と、英仏が世界各地で繰り広げた植民地争奪を学びます。

この記事のポイント
  • スペインから独立したオランダ東インド会社(VOC)を設立し、バタヴィアを拠点にアジア交易を独占した
  • イギリスではピューリタン革命名誉革命を経て、権利の章典により立憲君主政が成立した
  • フランスではリシュリューマザランの基盤の上にルイ14世が絶対王政をきわめたが、対外戦争とナントの王令廃止で衰退した
  • 18世紀には英仏の植民地争奪が北米・インドで展開され、イギリスがイギリス帝国を築いた

1オランダの独立と繁栄

独立への歩み

ネーデルラント北部7州は、スペインの支配に対する反乱(オランダ独立戦争、1568〜1648年)を経て独立を達成しました。1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、独立運動の指導者オラニエ公ウィレムを統領とするネーデルラント連邦共和国(オランダ)を成立させました。1609年のスペインとの休戦によって事実上の独立を果たし、1648年ウェストファリア条約で国際的に承認されました。

東インド会社(VOC)と海上覇権

1602年、オランダは世界初の株式会社とされる東インド会社VOC)を設立しました。VOCは喜望峰以東の交易独占権を持ち、1619年にジャワ島のバタヴィア(のちのジャカルタ)に拠点を築きました。1623年アンボイナ事件を機にイギリス勢力を東南アジアから駆逐し、香辛料交易を独占しました。さらにマラッカやセイロンをポルトガルから奪い、アフリカ南端にケープ植民地を開いて喜望峰からバタヴィアに至る新航路を開拓しました。また日本との交易を維持し、大量の銀を持ち出しました。

オランダは1621年西インド会社も設立し、大西洋地域での貿易や略奪にあたりました。北米にはニューアムステルダムを中心とする植民地を建設し、カリブ海やブラジルではサトウキビのプランテーションを経営して大西洋奴隷貿易にも加わりました。

アムステルダムの繁栄

独立後のオランダは、首都アムステルダムを中心に造船・貿易・金融でヨーロッパをリードしました。こうした経済的繁栄により、17世紀のオランダはヨーロッパでもっとも都市化が進み、貴族や教会だけでなく都市のブルジョワ(市民)も文化の保護者となりました。また宗教と思想に寛大な雰囲気が広がり、学問や出版でもヨーロッパの中心となりました。

17世紀のオランダは経済的繁栄とともに文化的にも黄金時代を迎え、レンブラントフェルメールらが活躍しました。

オランダはなぜ小国ながら海上覇権を握れたのか
中世以来の毛織物業中継貿易の伝統で商業のノウハウが蓄積されていた
東インド会社に株式を発行して広く資金を集める仕組みを導入 → 巨額の投資が可能に
宗教的寛容の姿勢により、各地から迫害された商人・職人・知識人が流入
造船技術の革新により、少ない乗組員で大量の貨物を運べるフリュート船を開発
ここが問われる: オランダの海上覇権 因果関係

1568年オランダ独立戦争開始(〜1648年)
1602年東インド会社(VOC)設立 → アジア交易を独占
1619年バタヴィアに拠点 →アンボイナ事件(1623年)で英勢力を駆逐、ケープ植民地も建設
アムステルダムが国際商業・金融の中心に → ブルジョワが文化の保護者に

2イギリスのピューリタン革命

ステュアート朝と議会の対立

エリザベス1世の死後、1603年にスコットランドから国王(ジェームズ1世)を迎え、ステュアート朝が始まりました。イギリスでは中世以来、国王の統治に議会の同意が必要でしたが、ジェームズ1世は王権神授説を唱えて議会を軽視し、議会との対立が深まりました。

次のチャールズ1世(在位1625〜49年)は、議会の同意なく課税を行ったため、議会は1628年権利の請願を提出して国王権力の制限を要求しました。しかし国王は議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開きませんでした。

内戦の勃発

1640年、国王が課税のために再び議会を招集すると、議会は逆に国王の権力の制約を決議しました。国王が強硬手段で議会を抑え込もうとしたため、1642年内戦が始まりました。この内戦は革命となり、国王に対して信仰を抑圧されていたピューリタンが議会派の中核を担ったため、ピューリタン革命とも呼ばれます。議会派のクロムウェル鉄騎隊を中核にして王党派軍を破り、1649年に国王を処刑して共和政を開始しました。

クロムウェルの統治

共和政期の重要な政策は、重商主義にもとづいてオランダの経済的覇権に対抗するために制定された航海法1651年)です。航海法はイギリスとその植民地への輸入品はイギリス船か生産国の船で運ぶことを定め、オランダ船を排除しようとしました。これが3次にわたるイギリス=オランダ(英蘭)戦争のきっかけとなり、さらにその後約2世紀にわたってイギリスの海外貿易の基本方針となりました。

クロムウェルはまた、王党派と結んでいたアイルランドとスコットランドを征服しました。アイルランドではカトリック勢力の土地を大規模に没収して議会派の軍事費をまかない、その影響はのちのアイルランド問題に長く尾を引きました。内外の難局に対処するため、クロムウェルは1653年護国卿(Lord Protector)に就任して軍事独裁を強めました。しかし国民は彼の厳格な統治を嫌い、その没後にチャールズ1世の子を亡命先のフランスから国王(チャールズ2世)として迎えました(王政復古1660年)。

ピューリタン革命はなぜ起こったのか
ステュアート朝の国王が王権神授説を唱え、議会の権限を無視した
議会の同意なき課税国教会の強制に対し、ピューリタン(清教徒)を中心に不満が高まった
権利の請願(1628年)を国王が無視 → 議会なき専制政治が約11年続いた
1642年に内戦が勃発 → クロムウェル率いる議会派が勝利 → チャールズ1世処刑(1649年)
ここが問われる: ピューリタン革命の流れ 出来事の流れ

権利の請願(1628年):議会が国王権力の制限を要求
内戦勃発(1642年):国王派 vs 議会派(ピューリタンが中核)
クロムウェル鉄騎隊を中核にして勝利
国王処刑(1649年)→ 共和政成立
航海法(1651年)→ イギリス=オランダ(英蘭)戦争の原因

3王政復古と名誉革命

王政復古

チャールズ2世は議会と国教会を革命前のかたちに戻しましたが、王政復古後も重商主義政策は継承され、オランダとの対立が続きました。チャールズ2世はカトリックを支持する政策をとったため、国教会を重視する議会は1673年審査法を定めて非国教徒が公職につくことを禁じました。王位継承者のカトリック信仰が発覚したため、継承資格をめぐって激しい争いが生じ、王権を重んじるトーリ党と、議会を重んじるホイッグ党の二つの政治党派が生まれました。また1679年には人身保護法が制定され、国王による恣意的な逮捕を禁じ、人民の身柄の自由を保障しました。

名誉革命

カトリック信徒のまま即位したジェームズ2世は、議会の立法権を無視して統治を行いました。また王は、フランスでプロテスタントを迫害していたルイ14世と親密な関係にあったことから、国民のあいだにはフランスへの従属とカトリック化への危機感が高まりました。そこで1688年に、トーリ党とホイッグ党は協力して、王の娘メアリとその夫であるオラニエ公ウィレム3世をオランダから招きました。

ウィレムが軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世は国民の支持を失ってフランスに亡命しました。

権利の章典

1689年、ウィレムは夫妻で即位し(ウィリアム3世メアリ2世)、寛容法を定めてプロテスタント全般の信教の自由を保障しつつ、議会の要求を受け入れて権利の章典の制定に同意しました。権利の章典は、立法や財政などにおいて議会の権限が国王の権力に優越することを宣言するものであり、ここにイギリスの立憲君主政が始まりました(名誉革命)。

この時期にロックは『統治二論』を著し、国王の権力の根源は人民からの信託にあるとする社会契約説をとなえて、専制に陥った権力に対する人民の抵抗権を正当化しました。

ウィリアム3世のもと、イギリスは同じプロテスタントのオランダと同君連合となり、対外政策もカトリック国フランスの拡大を阻止することが重視されるようになりました。同君連合の解消後、1707年にイギリスはスコットランドと国家合同してグレートブリテン王国を形成しました。さらに18世紀前半には、ホイッグ党のウォルポールが首相として国政を指揮し、世論と議会の信任を失うと後継首相にその座を譲りました。ここに、選挙と議決の結果を重視する責任内閣制(議院内閣制)がイギリスに確立しました。

発展:「権利の請願」と「権利の章典」の違い

1628年の「権利の請願」は議会が国王に対して権利の確認を求めた文書であり、国王が無視することも可能でした。一方、1689年の「権利の章典」は国王の即位の条件として制定された法律であり、国王の権限を法的に制約する効力を持ちました。つまり、「請願」から「法律」へと進化したことで、議会主権が確固たるものになったのです。

出来事意義
1628年権利の請願議会の同意なき課税は違法と主張
1642年内戦勃発国王派と議会派の武力衝突
1649年チャールズ1世処刑共和政の成立(ピューリタン革命)
1651年航海法制定オランダの中継貿易に打撃 → イギリス=オランダ戦争
1660年王政復古チャールズ2世が即位
1673年審査法非国教徒の公職就任を禁止
1688年名誉革命ジェームズ2世が亡命、流血なき王朝交替
1689年権利の章典立憲君主政の成立
ここが問われる: イギリス革命の全体像 出来事の流れ

王政復古(1660年):チャールズ2世即位。審査法(1673年)、トーリ・ホイッグ両党が成立
人身保護法(1679年):恣意的な逮捕を禁止
名誉革命(1688年):ジェームズ2世亡命 → ウィリアム3世メアリ2世即位
権利の章典(1689年):立憲君主政が成立。ロックの社会契約説
ウォルポールのもとで責任内閣制が確立

4フランスの絶対王政

ルイ14世の親政

フランスでは、17世紀初めにユグノー戦争後の混乱をおさめることが最大の課題でした。ルイ13世の時代に宰相リシュリューがユグノーや大貴族を抑えて王権の強化に努め、対外的にはハプスブルク家に対抗するために三十年戦争に介入しました。

しかし、ルイ14世(在位1643〜1715年)が幼少で即位し、国政を率いた宰相マザランが中央集権化をさらに進めると、自立性を失うことを恐れた貴族や地方の不満が高まりました。とくに1648年高等法院や貴族、民衆がおこした反乱(フロンドの乱)は激しいものでしたが、鎮圧されました。

その後、ルイ14世は半世紀以上にわたる親政を開始し、王権神授説を唱えて貴族への統制と官僚制を強化し、絶対王政をきわめました。「朕は国家なり」と称したルイ14世は「太陽王」と呼ばれ、その名声はヨーロッパ全域におよびました。

ヴェルサイユ宮殿

造営した巨大なヴェルサイユ宮殿は各国の宮殿・宮廷のモデルとされ、フランス語も外交・文化における国際語となりました。国内でも王立学術機関のアカデミー=フランセーズが定めた規範を受けて、フランス語文化が発達しました。

コルベールの重商主義

ルイ14世は経済面ではコルベールを登用して策略的な重商主義政策を展開し、オランダに対抗しました。コルベールは東インド会社を改革・国営化してインドに進出したほか、王立マニュファクチュアの育成、造船や海運の奨励などの政策を実施しました。またカナダなど北米大陸への植民を本格化し、西インド諸島のプランテーションも拡大しました。

ナントの王令廃止

一方、宗教政策では、王が信仰の統一をはかるため1685年ナントの王令を廃止しました。これにより、弾圧されたユグノーの商工業者がオランダやイギリスなどの新教国に移住し、フランス経済はこの面からも大きな打撃を受けました。

ルイ14世がもっとも力を注いだのが、王の威光を増す手段とみなした戦争でした。常備軍を大幅に増強し、フランス陸軍はヨーロッパ最大・最強となりましたが、これに脅威を覚えた諸国による共同の対抗を招きました。ルイ14世はさかんに周辺諸国に侵入し、南ネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争ファルツ継承戦争をおこしました。さらにスペイン継承戦争(1701〜13年)ではイギリス・オランダ・オーストリアを相手に戦い、1713年ユトレヒト条約によってスペインにブルボン家の王朝が成立しましたが、フランスとの同君連合化は認められず、イギリスにハドソン湾地方などの植民地を奪われたため、フランスの覇権は失われました。

ルイ14世の治世はなぜフランスの衰退の原因にもなったのか
ヴェルサイユ宮殿の建設や華やかな宮廷生活に莫大な費用がかかった
ナントの王令廃止(1685年)により、商工業に長けたユグノーが国外流出
スペイン継承戦争(1701〜13年)など対外戦争を繰り返し、さらに財政が悪化
ルイ14世の死後、フランスは深刻な財政危機を抱え、やがてフランス革命の遠因に
ここが問われる: ルイ14世の政策 人物と業績

リシュリューマザランが王権強化の基盤を築く → フロンドの乱(1648年)を鎮圧
②「朕は国家なり」 → 太陽王ルイ14世の親政、ヴェルサイユ宮殿造営
コルベール重商主義:東インド会社改革、王立マニュファクチュア育成
ナントの王令廃止(1685年)→ ユグノーが国外流出
南ネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争ファルツ継承戦争スペイン継承戦争ユトレヒト条約(1713年)でフランスの覇権が失われる

5英仏の植民地争奪

北米での抗争

三十年戦争・スペイン継承戦争によってハプスブルク家・ブルボン家それぞれの覇権が失われたのち、18世紀の西ヨーロッパ国際政治は、島国の利点を持ったイギリスと、最大の人口を持ったフランスとのあいだの争いが基調となりました。

北米では、イギリスが東海岸に13植民地を建設する一方、フランスはカナダ(ケベック)に植民し、ルイ14世の時代にミシシッピ川流域に進出してルイジアナ植民地としました。

インドでの抗争

イギリスはアンボイナ事件以降インドをアジア貿易の拠点とし、マドラスボンベイカルカッタに要塞や商館を築きました。同じ時期にフランスも東インド会社を通じてインドに進出したため、両国はムガル帝国の衰退に乗じて、それぞれインドの地方勢力と結んで対立を激化させました。一時フランスが勢力をのばしましたが、イギリス東インド会社のクライヴ1757年プラッシーの戦いでフランスとベンガル太守の連合軍を破り、イギリスによるインド支配の端緒をつくりました。

七年戦争とパリ条約

七年戦争(1756〜63年)はヨーロッパの同盟関係の変動(外交革命)を背景に、ヨーロッパだけでなく北米・インドでも英仏が戦いました。北米での戦いはフレンチ=インディアン戦争と呼ばれます。

1763年パリ条約によって、北米大陸からフランス勢力を駆逐し、西インド諸島でも植民地を拡大しました。またこの時期にイギリスは、インド東北部(ベンガル地方)において広大な植民地を獲得し、世界各地に広がる帝国を築きました(イギリス帝国)。

イギリスはとくに大西洋地域に積極的に進出し、三角貿易を大規模に展開しました。武器や毛織物など本国の製品がアフリカに輸出され、そこで購入された黒人奴隷がカリブ海や北米大陸南部のプランテーションに送り込まれるとともに、砂糖やタバコなどプランテーションの産品が本国に持ち帰られました。

この三角貿易がアフリカに与えた打撃は計り知れないものでした。15世紀後半から19世紀初頭にかけての約4世紀間に、大西洋を横断して1,000万人以上のアフリカ人が奴隷として連れ去られたと推計されています。奴隷狩りは内陸部への戦争・略奪を引き起こし、アフリカ社会の人口減少・政治的不安定化・経済的停滞の原因となりました。奴隷貿易によって潤った財力が、後のアフリカ分割や植民地化を進めるヨーロッパ列強の経済的背景となったことも指摘されています。

また、三角貿易で流入した砂糖・綿花などのプランテーション産品への需要は、イギリス国内の加工・製造業の発展を促しました。砂糖精製・綿織物工業などの需要拡大が資本蓄積を生み、これが18世紀後半の産業革命に向けた資本・技術・市場の条件を整える一因となりました。植民地貿易と産業革命は切り離せない関係にあったのです。

戦争時期北米での呼称結果
スペイン継承戦争1701〜13年アン女王戦争ユトレヒト条約:英がハドソン湾一帯・アカディアなど獲得
七年戦争1756〜63年フレンチ=インディアン戦争パリ条約:英がカナダ・ルイジアナ東部を獲得
ここが問われる: 英仏植民地戦争の帰結 結果・影響

スペイン継承戦争ユトレヒト条約(1713年)で英が北米領土の一部を獲得
七年戦争(1756〜63年):ヨーロッパ・北米・インドで英仏が対立
プラッシーの戦い(1757年):クライヴがフランス・ベンガル連合軍を破る
パリ条約(1763年):北米からフランス勢力を駆逐、インドでも植民地獲得
⑤英がイギリス帝国を築き、大西洋で三角貿易を展開

617世紀の三国の比較

オランダイギリスフランス
政体連邦共和政立憲君主政(名誉革命後)絶対王政
経済政策自由貿易・中継貿易航海法による保護貿易コルベールの重商主義
東インド会社VOC(1602年設立)EIC(1600年設立)再建(コルベール)
貿易拠点バタヴィア(東南アジア)インド・北米13植民地カナダ・ルイジアナ・インド
覇権の時期17世紀前半(黄金時代)18世紀以降ルイ14世期が最盛期
衰退の要因英蘭戦争で海上覇権を喪失対外戦争・ナントの王令廃止
ここが問われる: 三国の経済政策と覇権交替 比較

覇権交替:16C後半スペイン → 17C半ばオランダ → 17C末フランス → 18C後半イギリス
航海法(1651年)がオランダの中継貿易に打撃 → イギリス=オランダ戦争
コルベールの重商主義 vs イギリスの航海法 ── ともに重商主義政策
④最終的に七年戦争でイギリスがフランスを退け、イギリス帝国を確立

7他の章とのつながり

  • 9章 大航海時代 ─ ポルトガル・スペインが先行した海外進出の流れを受けて、オランダ・イギリス・フランスが海上覇権を争いました。VOCがポルトガルの拠点を奪った経緯は9章の延長線上にあります。
  • 11-1 ルネサンス・11-2 宗教改革 ─ ユグノー戦争やピューリタンの信仰は宗教改革の帰結であり、11-2の内容が本記事の前提です。ナントの王令の発布と廃止を理解するにはユグノー戦争の知識が不可欠です。
  • 11-3 主権国家体制 ─ ウェストファリア条約(1648年)がオランダの独立を承認し、主権国家体制のなかで各国が覇権を争う構図は前の記事と直結しています。
  • 12章 産業革命と環大西洋革命 ─ イギリスの議会政治の発展はアメリカ独立の思想的背景に、ルイ14世以降の財政危機はフランス革命の遠因につながります。
歴史総合とのつながり

イギリスの名誉革命と権利の章典は、近代民主主義の出発点として歴史総合でも重要です。また、英仏の植民地争奪は「帝国主義と植民地化」のテーマの前史であり、北米植民地がアメリカ独立革命へと進む過程は歴史総合の中心的な学習内容です。

8まとめ

  • オランダはスペインから独立し、東インド会社(VOC、1602年)を設立してバタヴィアを拠点にアジア交易を独占した。アムステルダムが国際商業・金融の中心地となった。
  • イギリスではピューリタン革命(1649年)でクロムウェルが共和政を樹立した。航海法(1651年)はオランダの中継貿易に打撃を与えた。
  • 名誉革命(1688年)でジェームズ2世が亡命し、権利の章典(1689年)で議会主権が法的に確立された。
  • フランスではリシュリューマザランが王権強化の基盤を築き、ルイ14世が絶対王政をきわめた。コルベール重商主義で経済を強化したが、ナントの王令廃止(1685年)でユグノーが国外流出し、南ネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争ファルツ継承戦争スペイン継承戦争と続く対外戦争で覇権を失った。
  • インドではプラッシーの戦い(1757年)でイギリスがフランスを退け、七年戦争(1756〜63年)の結果、パリ条約(1763年)で北米からもフランス勢力を駆逐してイギリス帝国を築いた。大西洋では三角貿易を展開した。
この記事を100字で要約すると

17世紀、オランダはVOCでアジア交易を独占し、イギリスはピューリタン革命と名誉革命を経て立憲君主政を確立した。フランスではルイ14世が絶対王政をきわめた。18世紀の英仏植民地戦争でイギリスが覇権を握り、三角貿易を展開した。

9穴埋め・一問一答

Q1. 1602年にオランダが設立した、アジア貿易の独占権を持つ会社の名称は何か。また、その東南アジアにおける拠点はどこか。

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会社は東インド会社(VOC)。拠点はバタヴィア(ジャワ島、現在のジャカルタ)。世界初の株式会社とされ、香辛料貿易を支配しました。

Q2. クロムウェルが1651年に制定し、オランダの中継貿易に打撃を与えた法律は何か。

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航海法。イギリスとその植民地への輸入品はイギリス船か生産国の船で運ぶことを定め、オランダ船を排除しようとしました。これがイギリス=オランダ(英蘭)戦争の原因となりました。

Q3. 1688年の名誉革命で亡命したイギリス国王は誰か。また、翌年制定された、議会主権を法的に確立した文書は何か。

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国王はジェームズ2世。文書は権利の章典(Bill of Rights、1689年)。議会の同意なき課税・法律の停止を禁止し、議会主権の原則を確立しました。

Q4. ルイ14世の財務長官として重商主義政策を推進した人物は誰か。

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コルベール。東インド会社の再建、王立マニュファクチュアの育成、保護関税の導入などを行い、フランスの経済力の強化を図りました。

Q5. ルイ14世が1685年に廃止した、ユグノーに信仰の自由を認めていた王令は何か。

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ナントの王令。1598年にアンリ4世が発布し、ユグノー戦争を終結させた勅令です。廃止により多くのユグノーが国外に亡命し、フランスの経済力低下を招きました。

10アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。

A 基礎レベル

11-4-1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。

イギリスでは1642年に国王派と議会派の内戦が始まり、議会派を率いた( ア )が勝利して1649年にチャールズ1世を処刑し、共和政を樹立した。( ア )は( イ )に就任して軍事独裁を行い、1651年には( ウ )を制定してオランダの中継貿易に打撃を与えた。1688年の( エ )ではジェームズ2世が亡命し、翌年( オ )が制定されて議会主権が法的に確立された。

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解答

ア:クロムウェル イ:護国卿 ウ:航海法 エ:名誉革命 オ:権利の章典

解説

ピューリタン革命から名誉革命に至るイギリス革命の流れを問う基本問題です。クロムウェルの護国卿就任(1653年)と航海法制定(1651年)の前後関係にも注意しましょう。名誉革命(1688年)と権利の章典(1689年)はセットで出題されることが多い頻出事項です。

B 標準レベル

11-4-2 B 標準 正誤

次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。

  • (1) オランダ東インド会社は1600年に設立され、アジア貿易の独占権を与えられた。
  • (2) ルイ14世の財務総監コルベールは重商主義政策を推進し、東インド会社を再建した。
  • (3) 1689年に制定された権利の請願は、議会主権を法的に確立した。
  • (4) 七年戦争の結果、1763年のパリ条約でフランスはカナダをイギリスに割譲した。
クリックして解答・解説を表示
解答

(1) ×「1600年」→「1602年」(1600年設立はイギリス東インド会社) (2) ○ (3) ×「権利の請願」→「権利の章典」 (4) ○

解説

(1)について:イギリス東インド会社が1600年設立、オランダ東インド会社(VOC)が1602年設立です。2年の差ですが入試では頻出の引っかけです。(3)について:「権利の請願」(1628年)と「権利の章典」(1689年)は名称が似ていますが、時期も性質も異なります。「請願」は議会から国王への要求、「章典」は国王の即位の条件として制定された法律です。

C 発展レベル

11-4-3 C 発展 論述

17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの海上覇権がオランダからイギリスへ移った背景を、「航海法」「英蘭戦争」「名誉革命」「七年戦争」の語句を用いて150字以内で説明せよ。

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解答例

17世紀半ば、イギリスはオランダの中継貿易を排除するため航海法を制定した。これを契機とする英蘭戦争でオランダの海上覇権は衰退した。一方、イギリスでは名誉革命により議会主権が確立し、安定した政治体制のもとで経済力・軍事力を強化した。18世紀の七年戦争でフランスを退け、イギリスは世界的な植民地帝国の覇権を確立した。(148字)

解説

この問題では覇権交替のプロセスを時系列で論じる必要があります。航海法と英蘭戦争でオランダの海上覇権が衰退したこと、名誉革命による国内体制の安定が対外拡張の基盤となったこと、七年戦争でフランスに勝利して最終的にイギリスの覇権が確立したこと、の三段階を整理できるかがポイントです。

採点ポイント
  • 航海法がオランダの中継貿易を標的としたことを述べている
  • 英蘭戦争によるオランダの覇権衰退に言及している
  • 名誉革命がイギリスの政治的安定をもたらした点を述べている
  • 七年戦争でイギリスがフランスに勝利し覇権を確立した点に触れている