17世紀前半に急速に台頭したのがオランダでした。スペインから独立したオランダは造船・貿易・金融でヨーロッパをリードしました。しかし17世紀後半からイギリス・フランスの挑戦を受け、覇権は移り変わっていきます。イギリスは二度の革命を経て立憲君主政を確立し、フランスではルイ14世のもとで絶対王政がきわまりました。
この記事では、17世紀の三国の台頭と、英仏が世界各地で繰り広げた植民地争奪を学びます。
ネーデルラント北部7州は、スペインの支配に対する反乱(オランダ独立戦争、1568〜1648年)を経て独立を達成しました。1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、独立運動の指導者オラニエ公ウィレムを統領とするネーデルラント連邦共和国(オランダ)を成立させました。1609年のスペインとの休戦によって事実上の独立を果たし、1648年のウェストファリア条約で国際的に承認されました。
1602年、オランダは世界初の株式会社とされる東インド会社(VOC)を設立しました。VOCは喜望峰以東の交易独占権を持ち、1619年にジャワ島のバタヴィア(のちのジャカルタ)に拠点を築きました。1623年のアンボイナ事件を機にイギリス勢力を東南アジアから駆逐し、香辛料交易を独占しました。さらにマラッカやセイロンをポルトガルから奪い、アフリカ南端にケープ植民地を開いて喜望峰からバタヴィアに至る新航路を開拓しました。また日本との交易を維持し、大量の銀を持ち出しました。
オランダは1621年に西インド会社も設立し、大西洋地域での貿易や略奪にあたりました。北米にはニューアムステルダムを中心とする植民地を建設し、カリブ海やブラジルではサトウキビのプランテーションを経営して大西洋奴隷貿易にも加わりました。
独立後のオランダは、首都アムステルダムを中心に造船・貿易・金融でヨーロッパをリードしました。こうした経済的繁栄により、17世紀のオランダはヨーロッパでもっとも都市化が進み、貴族や教会だけでなく都市のブルジョワ(市民)も文化の保護者となりました。また宗教と思想に寛大な雰囲気が広がり、学問や出版でもヨーロッパの中心となりました。
17世紀のオランダは経済的繁栄とともに文化的にも黄金時代を迎え、レンブラントやフェルメールらが活躍しました。
①1568年:オランダ独立戦争開始(〜1648年)
②1602年:東インド会社(VOC)設立 → アジア交易を独占
③1619年:バタヴィアに拠点 →アンボイナ事件(1623年)で英勢力を駆逐、ケープ植民地も建設
④アムステルダムが国際商業・金融の中心に → ブルジョワが文化の保護者に
エリザベス1世の死後、1603年にスコットランドから国王(ジェームズ1世)を迎え、ステュアート朝が始まりました。イギリスでは中世以来、国王の統治に議会の同意が必要でしたが、ジェームズ1世は王権神授説を唱えて議会を軽視し、議会との対立が深まりました。
次のチャールズ1世(在位1625〜49年)は、議会の同意なく課税を行ったため、議会は1628年に権利の請願を提出して国王権力の制限を要求しました。しかし国王は議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開きませんでした。
1640年、国王が課税のために再び議会を招集すると、議会は逆に国王の権力の制約を決議しました。国王が強硬手段で議会を抑え込もうとしたため、1642年に内戦が始まりました。この内戦は革命となり、国王に対して信仰を抑圧されていたピューリタンが議会派の中核を担ったため、ピューリタン革命とも呼ばれます。議会派のクロムウェルは鉄騎隊を中核にして王党派軍を破り、1649年に国王を処刑して共和政を開始しました。
共和政期の重要な政策は、重商主義にもとづいてオランダの経済的覇権に対抗するために制定された航海法(1651年)です。航海法はイギリスとその植民地への輸入品はイギリス船か生産国の船で運ぶことを定め、オランダ船を排除しようとしました。これが3次にわたるイギリス=オランダ(英蘭)戦争のきっかけとなり、さらにその後約2世紀にわたってイギリスの海外貿易の基本方針となりました。
クロムウェルはまた、王党派と結んでいたアイルランドとスコットランドを征服しました。アイルランドではカトリック勢力の土地を大規模に没収して議会派の軍事費をまかない、その影響はのちのアイルランド問題に長く尾を引きました。内外の難局に対処するため、クロムウェルは1653年に護国卿(Lord Protector)に就任して軍事独裁を強めました。しかし国民は彼の厳格な統治を嫌い、その没後にチャールズ1世の子を亡命先のフランスから国王(チャールズ2世)として迎えました(王政復古、1660年)。
①権利の請願(1628年):議会が国王権力の制限を要求
②内戦勃発(1642年):国王派 vs 議会派(ピューリタンが中核)
③クロムウェルが鉄騎隊を中核にして勝利
④国王処刑(1649年)→ 共和政成立
⑤航海法(1651年)→ イギリス=オランダ(英蘭)戦争の原因
チャールズ2世は議会と国教会を革命前のかたちに戻しましたが、王政復古後も重商主義政策は継承され、オランダとの対立が続きました。チャールズ2世はカトリックを支持する政策をとったため、国教会を重視する議会は1673年に審査法を定めて非国教徒が公職につくことを禁じました。王位継承者のカトリック信仰が発覚したため、継承資格をめぐって激しい争いが生じ、王権を重んじるトーリ党と、議会を重んじるホイッグ党の二つの政治党派が生まれました。また1679年には人身保護法が制定され、国王による恣意的な逮捕を禁じ、人民の身柄の自由を保障しました。
カトリック信徒のまま即位したジェームズ2世は、議会の立法権を無視して統治を行いました。また王は、フランスでプロテスタントを迫害していたルイ14世と親密な関係にあったことから、国民のあいだにはフランスへの従属とカトリック化への危機感が高まりました。そこで1688年に、トーリ党とホイッグ党は協力して、王の娘メアリとその夫であるオラニエ公ウィレム3世をオランダから招きました。
ウィレムが軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世は国民の支持を失ってフランスに亡命しました。
1689年、ウィレムは夫妻で即位し(ウィリアム3世・メアリ2世)、寛容法を定めてプロテスタント全般の信教の自由を保障しつつ、議会の要求を受け入れて権利の章典の制定に同意しました。権利の章典は、立法や財政などにおいて議会の権限が国王の権力に優越することを宣言するものであり、ここにイギリスの立憲君主政が始まりました(名誉革命)。
この時期にロックは『統治二論』を著し、国王の権力の根源は人民からの信託にあるとする社会契約説をとなえて、専制に陥った権力に対する人民の抵抗権を正当化しました。
ウィリアム3世のもと、イギリスは同じプロテスタントのオランダと同君連合となり、対外政策もカトリック国フランスの拡大を阻止することが重視されるようになりました。同君連合の解消後、1707年にイギリスはスコットランドと国家合同してグレートブリテン王国を形成しました。さらに18世紀前半には、ホイッグ党のウォルポールが首相として国政を指揮し、世論と議会の信任を失うと後継首相にその座を譲りました。ここに、選挙と議決の結果を重視する責任内閣制(議院内閣制)がイギリスに確立しました。
1628年の「権利の請願」は議会が国王に対して権利の確認を求めた文書であり、国王が無視することも可能でした。一方、1689年の「権利の章典」は国王の即位の条件として制定された法律であり、国王の権限を法的に制約する効力を持ちました。つまり、「請願」から「法律」へと進化したことで、議会主権が確固たるものになったのです。
| 年 | 出来事 | 意義 |
|---|---|---|
| 1628年 | 権利の請願 | 議会の同意なき課税は違法と主張 |
| 1642年 | 内戦勃発 | 国王派と議会派の武力衝突 |
| 1649年 | チャールズ1世処刑 | 共和政の成立(ピューリタン革命) |
| 1651年 | 航海法制定 | オランダの中継貿易に打撃 → イギリス=オランダ戦争 |
| 1660年 | 王政復古 | チャールズ2世が即位 |
| 1673年 | 審査法 | 非国教徒の公職就任を禁止 |
| 1688年 | 名誉革命 | ジェームズ2世が亡命、流血なき王朝交替 |
| 1689年 | 権利の章典 | 立憲君主政の成立 |
①王政復古(1660年):チャールズ2世即位。審査法(1673年)、トーリ・ホイッグ両党が成立
②人身保護法(1679年):恣意的な逮捕を禁止
③名誉革命(1688年):ジェームズ2世亡命 → ウィリアム3世とメアリ2世即位
④権利の章典(1689年):立憲君主政が成立。ロックの社会契約説
⑤ウォルポールのもとで責任内閣制が確立
フランスでは、17世紀初めにユグノー戦争後の混乱をおさめることが最大の課題でした。ルイ13世の時代に宰相リシュリューがユグノーや大貴族を抑えて王権の強化に努め、対外的にはハプスブルク家に対抗するために三十年戦争に介入しました。
しかし、ルイ14世(在位1643〜1715年)が幼少で即位し、国政を率いた宰相マザランが中央集権化をさらに進めると、自立性を失うことを恐れた貴族や地方の不満が高まりました。とくに1648年に高等法院や貴族、民衆がおこした反乱(フロンドの乱)は激しいものでしたが、鎮圧されました。
その後、ルイ14世は半世紀以上にわたる親政を開始し、王権神授説を唱えて貴族への統制と官僚制を強化し、絶対王政をきわめました。「朕は国家なり」と称したルイ14世は「太陽王」と呼ばれ、その名声はヨーロッパ全域におよびました。
造営した巨大なヴェルサイユ宮殿は各国の宮殿・宮廷のモデルとされ、フランス語も外交・文化における国際語となりました。国内でも王立学術機関のアカデミー=フランセーズが定めた規範を受けて、フランス語文化が発達しました。
ルイ14世は経済面ではコルベールを登用して策略的な重商主義政策を展開し、オランダに対抗しました。コルベールは東インド会社を改革・国営化してインドに進出したほか、王立マニュファクチュアの育成、造船や海運の奨励などの政策を実施しました。またカナダなど北米大陸への植民を本格化し、西インド諸島のプランテーションも拡大しました。
一方、宗教政策では、王が信仰の統一をはかるため1685年にナントの王令を廃止しました。これにより、弾圧されたユグノーの商工業者がオランダやイギリスなどの新教国に移住し、フランス経済はこの面からも大きな打撃を受けました。
ルイ14世がもっとも力を注いだのが、王の威光を増す手段とみなした戦争でした。常備軍を大幅に増強し、フランス陸軍はヨーロッパ最大・最強となりましたが、これに脅威を覚えた諸国による共同の対抗を招きました。ルイ14世はさかんに周辺諸国に侵入し、南ネーデルラント継承戦争、オランダ侵略戦争、ファルツ継承戦争をおこしました。さらにスペイン継承戦争(1701〜13年)ではイギリス・オランダ・オーストリアを相手に戦い、1713年のユトレヒト条約によってスペインにブルボン家の王朝が成立しましたが、フランスとの同君連合化は認められず、イギリスにハドソン湾地方などの植民地を奪われたため、フランスの覇権は失われました。
①リシュリュー・マザランが王権強化の基盤を築く → フロンドの乱(1648年)を鎮圧
②「朕は国家なり」 → 太陽王ルイ14世の親政、ヴェルサイユ宮殿造営
③コルベールの重商主義:東インド会社改革、王立マニュファクチュア育成
④ナントの王令廃止(1685年)→ ユグノーが国外流出
⑤南ネーデルラント継承戦争・オランダ侵略戦争・ファルツ継承戦争 → スペイン継承戦争 → ユトレヒト条約(1713年)でフランスの覇権が失われる
三十年戦争・スペイン継承戦争によってハプスブルク家・ブルボン家それぞれの覇権が失われたのち、18世紀の西ヨーロッパ国際政治は、島国の利点を持ったイギリスと、最大の人口を持ったフランスとのあいだの争いが基調となりました。
北米では、イギリスが東海岸に13植民地を建設する一方、フランスはカナダ(ケベック)に植民し、ルイ14世の時代にミシシッピ川流域に進出してルイジアナ植民地としました。
イギリスはアンボイナ事件以降インドをアジア貿易の拠点とし、マドラス・ボンベイ・カルカッタに要塞や商館を築きました。同じ時期にフランスも東インド会社を通じてインドに進出したため、両国はムガル帝国の衰退に乗じて、それぞれインドの地方勢力と結んで対立を激化させました。一時フランスが勢力をのばしましたが、イギリス東インド会社のクライヴは1757年のプラッシーの戦いでフランスとベンガル太守の連合軍を破り、イギリスによるインド支配の端緒をつくりました。
七年戦争(1756〜63年)はヨーロッパの同盟関係の変動(外交革命)を背景に、ヨーロッパだけでなく北米・インドでも英仏が戦いました。北米での戦いはフレンチ=インディアン戦争と呼ばれます。
1763年のパリ条約によって、北米大陸からフランス勢力を駆逐し、西インド諸島でも植民地を拡大しました。またこの時期にイギリスは、インド東北部(ベンガル地方)において広大な植民地を獲得し、世界各地に広がる帝国を築きました(イギリス帝国)。
イギリスはとくに大西洋地域に積極的に進出し、三角貿易を大規模に展開しました。武器や毛織物など本国の製品がアフリカに輸出され、そこで購入された黒人奴隷がカリブ海や北米大陸南部のプランテーションに送り込まれるとともに、砂糖やタバコなどプランテーションの産品が本国に持ち帰られました。
この三角貿易がアフリカに与えた打撃は計り知れないものでした。15世紀後半から19世紀初頭にかけての約4世紀間に、大西洋を横断して1,000万人以上のアフリカ人が奴隷として連れ去られたと推計されています。奴隷狩りは内陸部への戦争・略奪を引き起こし、アフリカ社会の人口減少・政治的不安定化・経済的停滞の原因となりました。奴隷貿易によって潤った財力が、後のアフリカ分割や植民地化を進めるヨーロッパ列強の経済的背景となったことも指摘されています。
また、三角貿易で流入した砂糖・綿花などのプランテーション産品への需要は、イギリス国内の加工・製造業の発展を促しました。砂糖精製・綿織物工業などの需要拡大が資本蓄積を生み、これが18世紀後半の産業革命に向けた資本・技術・市場の条件を整える一因となりました。植民地貿易と産業革命は切り離せない関係にあったのです。
| 戦争 | 時期 | 北米での呼称 | 結果 |
|---|---|---|---|
| スペイン継承戦争 | 1701〜13年 | アン女王戦争 | ユトレヒト条約:英がハドソン湾一帯・アカディアなど獲得 |
| 七年戦争 | 1756〜63年 | フレンチ=インディアン戦争 | パリ条約:英がカナダ・ルイジアナ東部を獲得 |
①スペイン継承戦争 →ユトレヒト条約(1713年)で英が北米領土の一部を獲得
②七年戦争(1756〜63年):ヨーロッパ・北米・インドで英仏が対立
③プラッシーの戦い(1757年):クライヴがフランス・ベンガル連合軍を破る
④パリ条約(1763年):北米からフランス勢力を駆逐、インドでも植民地獲得
⑤英がイギリス帝国を築き、大西洋で三角貿易を展開
| オランダ | イギリス | フランス | |
|---|---|---|---|
| 政体 | 連邦共和政 | 立憲君主政(名誉革命後) | 絶対王政 |
| 経済政策 | 自由貿易・中継貿易 | 航海法による保護貿易 | コルベールの重商主義 |
| 東インド会社 | VOC(1602年設立) | EIC(1600年設立) | 再建(コルベール) |
| 貿易拠点 | バタヴィア(東南アジア) | インド・北米13植民地 | カナダ・ルイジアナ・インド |
| 覇権の時期 | 17世紀前半(黄金時代) | 18世紀以降 | ルイ14世期が最盛期 |
| 衰退の要因 | 英蘭戦争で海上覇権を喪失 | ― | 対外戦争・ナントの王令廃止 |
①覇権交替:16C後半スペイン → 17C半ばオランダ → 17C末フランス → 18C後半イギリス
②航海法(1651年)がオランダの中継貿易に打撃 → イギリス=オランダ戦争
③コルベールの重商主義 vs イギリスの航海法 ── ともに重商主義政策
④最終的に七年戦争でイギリスがフランスを退け、イギリス帝国を確立
イギリスの名誉革命と権利の章典は、近代民主主義の出発点として歴史総合でも重要です。また、英仏の植民地争奪は「帝国主義と植民地化」のテーマの前史であり、北米植民地がアメリカ独立革命へと進む過程は歴史総合の中心的な学習内容です。
17世紀、オランダはVOCでアジア交易を独占し、イギリスはピューリタン革命と名誉革命を経て立憲君主政を確立した。フランスではルイ14世が絶対王政をきわめた。18世紀の英仏植民地戦争でイギリスが覇権を握り、三角貿易を展開した。
Q1. 1602年にオランダが設立した、アジア貿易の独占権を持つ会社の名称は何か。また、その東南アジアにおける拠点はどこか。
Q2. クロムウェルが1651年に制定し、オランダの中継貿易に打撃を与えた法律は何か。
Q3. 1688年の名誉革命で亡命したイギリス国王は誰か。また、翌年制定された、議会主権を法的に確立した文書は何か。
Q4. ルイ14世の財務長官として重商主義政策を推進した人物は誰か。
Q5. ルイ14世が1685年に廃止した、ユグノーに信仰の自由を認めていた王令は何か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
イギリスでは1642年に国王派と議会派の内戦が始まり、議会派を率いた( ア )が勝利して1649年にチャールズ1世を処刑し、共和政を樹立した。( ア )は( イ )に就任して軍事独裁を行い、1651年には( ウ )を制定してオランダの中継貿易に打撃を与えた。1688年の( エ )ではジェームズ2世が亡命し、翌年( オ )が制定されて議会主権が法的に確立された。
ア:クロムウェル イ:護国卿 ウ:航海法 エ:名誉革命 オ:権利の章典
ピューリタン革命から名誉革命に至るイギリス革命の流れを問う基本問題です。クロムウェルの護国卿就任(1653年)と航海法制定(1651年)の前後関係にも注意しましょう。名誉革命(1688年)と権利の章典(1689年)はセットで出題されることが多い頻出事項です。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ×「1600年」→「1602年」(1600年設立はイギリス東インド会社) (2) ○ (3) ×「権利の請願」→「権利の章典」 (4) ○
(1)について:イギリス東インド会社が1600年設立、オランダ東インド会社(VOC)が1602年設立です。2年の差ですが入試では頻出の引っかけです。(3)について:「権利の請願」(1628年)と「権利の章典」(1689年)は名称が似ていますが、時期も性質も異なります。「請願」は議会から国王への要求、「章典」は国王の即位の条件として制定された法律です。
17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの海上覇権がオランダからイギリスへ移った背景を、「航海法」「英蘭戦争」「名誉革命」「七年戦争」の語句を用いて150字以内で説明せよ。
17世紀半ば、イギリスはオランダの中継貿易を排除するため航海法を制定した。これを契機とする英蘭戦争でオランダの海上覇権は衰退した。一方、イギリスでは名誉革命により議会主権が確立し、安定した政治体制のもとで経済力・軍事力を強化した。18世紀の七年戦争でフランスを退け、イギリスは世界的な植民地帝国の覇権を確立した。(148字)
この問題では覇権交替のプロセスを時系列で論じる必要があります。航海法と英蘭戦争でオランダの海上覇権が衰退したこと、名誉革命による国内体制の安定が対外拡張の基盤となったこと、七年戦争でフランスに勝利して最終的にイギリスの覇権が確立したこと、の三段階を整理できるかがポイントです。