インダス川流域に栄えた計画都市の文明は、突如として衰退し、その文字は今なお解読されていません。やがてアーリヤ人が進入し、ヴェーダの宗教とカースト制度(ヴァルナ制)が形づくられます。そこから仏教・ジャイナ教が生まれ、マウリヤ朝・クシャーナ朝・グプタ朝のもとでインド独自の文化が花開きました。
この記事では、インダス文明の成立からグプタ朝の黄金期まで、南アジアの古代史を時系列でたどります。
前2600年ごろから前1900年ごろにかけて、インダス川流域に高度な都市文明が栄えました。これがインダス文明です。代表的な遺跡として、インダス川下流域のモエンジョ=ダーロ、上流域のハラッパー、グジャラート地方のドーラーヴィーラーなどが知られています。
インダス文明の都市の最大の特徴は、計画的な都市建設にあります。整然と区画された道路に沿って、焼成煉瓦づくりの建築が建ちならび、下水道も整備されていました。沐浴場や穀物倉などの公共建築物もつくられ、市街地に隣接して城塁がありました。しかし、宮殿や陵墓は発見されておらず、強大な支配者のいない社会であったと考えられています。
インダス文明ではインダス文字(印章文字)が使われていました。しかしこの文字は現在まで未解読であり、そのためインダス文明の政治や社会の詳細はわかっていません。印章には牛や架空の一角獣などの動物の図像とともにインダス文字が刻まれ、同類の印章はメソポタミアでも多く発見されており、両地域間の交流がさかんだったことがわかります。
インダス文明を担った民族は不明ですが、瘤牛や菩提樹が崇拝されており、すでに南アジア文明の源流がつくられていました。インダス文明は前1900年ごろから衰退しましたが、その原因は解明されていません。ただし、河川流路の変更や気候の変化が原因とする説があります。
①計画的な都市建設 ─ 整然と区画された道路、焼成煉瓦づくりの建築、下水道、沐浴場・穀物倉などの公共建築物
②インダス文字(印章文字) ─ 数百種類確認されているが現在まで未解読
③宮殿・陵墓が未発見 ─ 強大な支配者のいない社会であったと考えられている
④代表的遺跡 ─ モエンジョ=ダーロ、ハラッパー、ドーラーヴィーラー
インダス文明が衰退した後、前1500年ごろから、インド=ヨーロッパ語系のアーリヤ人が西北からカイバル峠をこえてパンジャープ地方に進入しました。アーリヤ人は部族を単位として活動し、雷や火などの自然神を崇拝して、さまざまな祭礼をとりおこないました。
これらの宗教的な知識をおさめたインド最古の文献がヴェーダと呼ばれる聖典群です。なかでも最古の讃歌集『リグ=ヴェーダ』からは、この時期の多神教的な世界観を知ることができます。各種ヴェーダが編まれた前1500年〜前600年ごろまでの時代をヴェーダ時代と呼びます。
前1000年を過ぎると、アーリヤ人はより肥沃なガンジス川上流域へ移動を開始しました。森林の開墾に適した鉄器が使われるようになり、牛に牽かせる鉄の刃先をつけた木製の犂も生み出されました。また、稲の栽培もおこなわれるようになりました。アーリヤ人は農耕に従事する先住民とまじわって農耕技術を学び、定住の農耕社会を形成しました。
農耕社会への移行で生産に余裕が生じると、王侯・武士や司祭など、生産に従事しない階層が生まれました。祭式の体系化が進むなか、王が支配の正統性を示すため祭礼を主導し、強い権力を得るようになりました。こうした過程で、ヴァルナと呼ばれる4つの身分に人々はわかれるとする身分的上下観念が生まれました。
この4つのヴァルナの外に置かれる不可触民も存在しました。バラモンたちは、複雑な祭祀を正確にとりおこなわなければ神々から恩恵を受けることができないとして、自身を最高の身分としました。彼らがつかさどる宗教をバラモン教といいます。さらに、特定の信仰や職業と結びついたり、ほかの集団の者との結婚や食事などを制限することで結合をはかるジャーティ(カースト)集団が多数生まれてきました。これらのジャーティはヴァルナ制と結びつき、たがいに上下関係を主張するようになりました。ヴァルナ制とさまざまなジャーティの主張とが組み合わさった社会制度は南アジア社会の基層となり、のちにカースト制度として展開することになりました。
前6世紀ごろになると、政治・経済の中心がガンジス川上流域から中・下流域へと移動し、城壁で囲まれた都市国家がいくつも生まれました。都市の発達と商業の成長にともない、クシャトリヤやヴァイシャなどの都市民が台頭しました。こうした社会的・経済的な発展を背景に、バラモンが祭祀を独占し身分を固定するバラモン教に対して、新たな宗教思想が生まれます。
クシャトリヤ出身のガウタマ=シッダールタ(ブッダ、前5世紀ごろ)は、業・輪廻・解脱の考えを深めて仏教を創始し、苦の原因から解脱する正しい認識の方法(四諦)と正しい実践の方法(八正道)を説きました。ヴェーダの権威を批判する仏教は、祭祀をつかさどるバラモンが高い権威をもつことに不満をもつ商人や王侯に支持され、インド全域に広がりました。
ほぼ同じ時期に、マガダ国のクシャトリヤ出身のヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)が、禁欲的な苦行と徹底的な不殺生により解脱を得るとするジャイナ教の祖となりました。ジャイナ教もヴェーダの権威を批判し、商人や王侯に支持されましたが、厳格な戒律のため広範な普及には至りませんでした。
ヴェーダ時代の末期に編纂された『ウパニシャッド』(奥義書)文献では、人間は業(カルマ)が支配する輪廻にとらわれた存在とされ、宇宙の根本原理(ブラフマン)と自己(アートマン)を合一させることによって、輪廻からときはなたれ解脱することができると説かれました(梵我一如)。仏教やジャイナ教は、このウパニシャッドの思想的基盤の上に成立した宗教です。ただし、仏教はアートマン(永遠不変の自我)の存在を否定した点でウパニシャッド哲学と異なります。
前4世紀後半、マケドニアのアレクサンドロス大王が前326年までにインダス川流域を制圧し、西北インドは一時その大帝国に組み入れられました。一方、マガダ国では前317年ごろ、武将チャンドラグプタがナンダ朝を倒し、パータリプトラ(現パトナ)を都としてマウリヤ朝を建てました。マウリヤ朝は西はアフガニスタン南部から東はガンジス川下流域、南はデカン高原にいたるインド最初の大帝国を形成しました。
マウリヤ朝は第3代のアショーカ王(在位前268ごろ〜前232ごろ)のもとで帝国の領域が最大となりました。アショーカ王は征服活動で多くの犠牲者を出したことを悔い、仏教への帰依を深めました。その広大な帝国を統治する理念として不殺生・慈悲などの倫理(法(ダルマ))をかかげ、領内の各地でダルマの大切さを説く勅令を岩や石柱に刻みました。これらの磨崖碑・石柱碑はインド各地に残り、なかにはギリシア語やアラム語で記されたものもあり、帝国の多民族・多言語的な性格を示しています。
また、仏典の結集(編纂)をおこない、スリランカなどの各地に布教使を派遣しました。この布教活動を通じて、仏教は南アジアから東南アジアへと広がっていきます。
しかし、官僚組織と軍隊の維持が財政難をまねいたことや、王家に対するバラモン階層の反発もあり、アショーカ王の死後、マウリヤ朝は衰退し、前2世紀初頭に滅亡しました。
マウリヤ朝滅亡後、北インドは政治的に不安定な時期が続きました。南インドでは、前1世紀ごろにデカン高原にサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)が成立し、インド洋交易で繁栄しました。一方、1世紀には中央アジアのクシャーナ族が西北インドから中央アジアにかけてクシャーナ朝を建てました。
クシャーナ朝は2世紀中ごろのカニシカ王のもとで全盛期を迎え、プルシャプラ(現ペシャワール)を都として北インドから中央アジアに及ぶ地域を支配しました。カニシカ王は仏教を保護しました。クシャーナ朝は東西交易の中継で繁栄し、中国から運ばれた絹がインダス川河口周辺の港でローマに向けて船積みされ、かわりにローマからは金貨がもたらされました。
クシャーナ朝の支配のもとで、インド・中央アジア・ペルシア・ギリシアの諸文明が接触し、さまざまな宗教が混在しました。このころからヘレニズム文明の影響もあって仏像がつくられるようになりました。西北インドのガンダーラ地方では、ギリシア彫刻の強い影響を受けた仏教美術が生まれ、これをガンダーラ美術と呼びます。
また、ガンジス川流域ではマトゥラー様式と呼ばれる独自の仏像様式も発展しました。洗練されたガンダーラ様式とは異なり、素朴ではあるが力強い作風が特徴的です。これらの仏像表現は東アジア・東南アジアの仏教美術に大きな影響を与えます。
紀元前後には、衆生の救済を重視し、悟りや知恵を求める修行者を広く菩薩として信仰する大乗仏教がおこりました。2世紀ごろ、ナーガールジュナ(龍樹)がその教理の基礎を理論化しました。大乗仏教はおもに中央アジアから東アジアに広まり(北伝仏教)、一方、スリランカや東南アジアには上座部仏教(南伝仏教)が広まりました。
| マウリヤ朝 | クシャーナ朝 | |
|---|---|---|
| 時期 | 前4世紀末〜前2世紀 | 1世紀〜3世紀 |
| 建国者 | チャンドラグプタ | クシャーナ族 |
| 最盛期の王 | アショーカ王 | カニシカ王 |
| 都 | パータリプトラ | プルシャプラ |
| 支配領域 | アフガニスタン南部〜ガンジス川下流域〜デカン高原 | 西北インド〜中央アジア |
| 仏教との関係 | アショーカ王がダルマをかかげ、布教使を派遣 | カニシカ王が保護、大乗仏教が発展 |
| 文化 | 石柱碑・磨崖碑にダルマ(法)を刻む | ガンダーラ美術(ヘレニズムの影響を受けた仏像) |
4世紀前半、かつてのマガダ国の故地から台頭したチャンドラグプタ1世がパータリプトラを都としてグプタ朝を建てました(320年ごろ)。チャンドラグプタ2世の時代に北インドの大部分を統一し、最盛期を迎えました。
グプタ朝の時代はインド古典文化の黄金期と呼ばれます。サンスクリット語が宗教だけでなく政治や学芸の言語として用いられ、サンスクリット語で王の事績を喧伝する碑文を作成することが一般化しました。グプタ朝の国教的な地位を占めたのはヒンドゥー教でしたが、仏教やジャイナ教も引き続き信仰されていました。
グプタ朝は5世紀後半からフーナの侵入を受けて衰退し、6世紀半ばに滅亡しました。しかし、グプタ朝期に確立したヒンドゥー教とサンスクリット語による諸学芸はインドをこえて広がり、とくに東南アジアではその伝統文化の一部を構成することとなりました。
グプタ朝滅亡後、7世紀前半にハルシャ=ヴァルダナ(ヴァルダナ朝)が一時北インドを統一しましたが、彼の死後ふたたび分裂しました。玄奘はその治世下のインドを訪問し、当時の様子を『大唐西域記』に記録しています。
| マウリヤ朝 | グプタ朝 | |
|---|---|---|
| 時期 | 前4世紀末〜前2世紀 | 4世紀〜6世紀 |
| 建国者 | チャンドラグプタ | チャンドラグプタ1世 |
| 最盛期の王 | アショーカ王 | チャンドラグプタ2世 |
| 都 | パータリプトラ | パータリプトラ |
| 支配方式 | 官僚制による中央集権的支配 | 地方の首長に自治を認める緩やかな支配 |
| 宗教 | アショーカ王がダルマ(法)をかかげる | ヒンドゥー教が国教的地位を占める |
| 文化 | 石柱碑・磨崖碑、仏教布教 | サンスクリット文学、インド数字、アジャンター壁画、ナーランダー僧院 |
| 衰退原因 | アショーカ王死後に衰退、前2世紀初頭に滅亡 | フーナの侵入 |
インド亜大陸の南部、デカン高原と海岸平野の間には丘陵地帯が続き、そこで採れる胡椒やインド産の綿布はインド洋交易の主要商品となりました。南インドの港はアラビア海・ベンガル湾の交易を結ぶ要衝として栄えました。
11世紀には南インドのチョーラ朝が隆盛し、スリランカやスマトラ島に軍を派遣するなど、インド洋世界に積極的に進出しました。チョーラ朝の海上活動は、東南アジアとの交流を深める上でも重要な意味をもちます。
南アジアの古代文明は、インダス文明の計画都市に始まり、アーリヤ人の進入によるヴァルナ制の形成、それに対する仏教・ジャイナ教の成立、そしてマウリヤ朝・クシャーナ朝・グプタ朝のもとでの文化の発展という流れで展開しました。グプタ朝期に確立したヒンドゥー教とサンスクリット語による諸学芸はインドをこえて広がり、とくに東南アジアではその伝統文化の一部を構成することとなりました。
カースト制度に見られる身分による社会の固定化は、歴史総合で学ぶ近代の身分制度の解体や平等思想の成立と対比して考えることができます。また、仏教の伝播は、グローバルな宗教の広がりという視点で、キリスト教やイスラーム教の伝播と比較する題材にもなります。
インダス文明の計画都市に始まり、アーリヤ人の進入でヴァルナ制とバラモン教が形成された。仏教・ジャイナ教が生まれ、マウリヤ朝のアショーカ王はダルマによる統治をおこなった。クシャーナ朝ではガンダーラ美術と大乗仏教が発展し、グプタ朝でヒンドゥー教やサンスクリット文学などインド古典文化が花開いた。
Q1. インダス文明の代表的な遺跡で、インダス川下流域にある都市遺跡の名前は何か。
Q2. アーリヤ人の社会で、祭祀を司る最高位の身分を何というか。
Q3. マウリヤ朝の第3代の王で、仏教に帰依しダルマ(法)による統治を行ったのは誰か。
Q4. グプタ朝の時代にバラモン教と民間信仰が融合して成立した宗教は何か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
前2600年ごろからインダス川流域に栄えた( ア )文明では、( イ )やハラッパーなどの計画都市が建設された。この文明で使われた( ウ )文字は現在も解読されていない。前1500年ごろ、インド=ヨーロッパ語系の( エ )人が西北インドに進入し、ヴェーダにもとづく文化を形成した。
ア:インダス イ:モエンジョ=ダーロ ウ:インダス エ:アーリヤ
インダス文明はインダス川流域に栄えた古代文明で、モエンジョ=ダーロ(下流)とハラッパー(上流)が代表的遺跡です。インダス文字は印章に刻まれた未解読の文字です。アーリヤ人は中央アジア方面から進入したインド=ヨーロッパ語系の民族で、最古の聖典リグ=ヴェーダを伝えました。
次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ×「ローマ美術」→「ギリシア美術」、「インド南部」→「西北インドのガンダーラ地方」 (2) ○ (3) ○ (4) ×「出家者のみが悟りに到達できる」→「すべての人々の救済を目指す」
(1)について:ガンダーラ美術はギリシア美術の影響を受けて西北インドのガンダーラ地方で発達した仏教美術です。クシャーナ朝の時代に、アレクサンドロス大王の東方遠征以来のギリシア文化の影響が仏像制作に反映されました。(4)について:大乗仏教は出家者だけでなく、すべての人々(衆生)の救済を目指す仏教です。従来の仏教を小乗仏教と呼んで批判し、菩薩による衆生救済を説きました。
マウリヤ朝とグプタ朝の支配方式および宗教政策の違いを、80字以内で述べよ。
マウリヤ朝は官僚制による中央集権的支配を行い仏教を保護したが、グプタ朝は地方首長に自治を認める緩やかな支配のもとヒンドゥー教を重視した。(68字)
マウリヤ朝はアショーカ王に代表されるように、広大な領域を官僚制と法(ダルマ)によって中央集権的に統治し、仏教を保護・布教しました。一方、グプタ朝は地方の首長に一定の自治を認める間接的な支配方式をとり、宗教面ではヒンドゥー教が国教的な地位を占めました。この両王朝の違いは入試で頻出のテーマです。