東アジアでは、長江・黄河流域の農耕地帯を中心に多様な先史文化が生まれました。やがて黄河中流域で殷(商)王朝が誕生し、甲骨文字や青銅器文化が発展します。殷を滅ぼした周は一族や功臣を諸侯として封建をおこない広域を支配しましたが、春秋戦国時代には社会が大きく変動し、鉄器の普及や諸子百家の活躍する時代が到来しました。
この記事では、中国古代文明の成立から諸子百家の登場までを、時代の変化に注目しながらたどります。
東アジアとは、長江・黄河流域の農耕地帯を中心とするユーラシア大陸東部と沿海の諸島をいいます。長江流域からベトナム北部にかけての地域や朝鮮半島南部・日本列島は季節風(モンスーン)の影響が強い湿潤な気候で、おもに稲作がおこなわれてきました。降水量の比較的少ない黄河流域は畑作が中心で、中国東北地方・朝鮮半島北部の冷涼な森林地帯では狩猟・採集が生業とされていました。こうした東アジアや隣接地域の自然環境・生業の多様性は、各地にさまざまな先史文化を生み出すとともに、人々の移動や交流をうながしました。
長江中流域では前7000年ごろにはすでに稲作が定着していました。前6000年ごろまでに、黄河流域ではアワなどの雑穀を中心とした農耕が始まり、長江流域でも稲作がさらに広がりました。
前5千年紀になると、黄河中流域において彩文土器(彩陶)で知られる仰韶文化が開花し、長江流域では人工的な施設をもつ水田が現れました。東北地方の遼河流域でも、狩猟・採集とあわせて雑穀の栽培がおこなわれるなど、独自の文化がはぐくまれました。前3千年紀には地域間のヒトやモノの移動が盛んになり、黄河流域に西方から麦・羊がもたらされ、中・下流域では黒陶に代表される竜山文化が広がりました。
遼河流域では前4000年〜前3000年ごろに紅山文化が栄え、玉製の龍形装飾品(玉龍)が特徴的です。長江下流域では前3300年ごろに良渚文化が発展し、精巧な玉器や大規模な城郭・水利施設が確認されています。また、四川盆地では殷と同時代に三星堆文化が存在し、殷の青銅器とは異なる独特のデザインをもった大型青銅像や青銅仮面が制作されるなど、黄河文明とは別系統の地方文明が並立していたことが近年の発掘調査で明らかになっています。
この時期の大規模な集落は、長江上流域の四川盆地からもみつかっています。交流の活発化にともなって集団間の争いも生じ、集落のまわりに土壁をめぐらした城郭が築かれ、複数の集落の連合体をたばねる首長も出現しました。
前2千年紀には、黄河上流域で畑作が拡大し、長江流域では稲作との共存が強まるなど、地域ごとの自然環境に合わせて生業が多様化しました。伝説では、殷に先だって夏王朝があったとされます。各地域を結ぶ交通の要地であった黄河中流域では統合が進んで、前16世紀ごろに殷(商)王朝が誕生しました。王都の遺跡殷墟からは、遠方の材料を加工した玉器や南方の海で産出されたタカラガイも発見されており、殷が広域的な交易ネットワークの中心にあったことを示しています。
国の重大な事柄はすべて神意を占って決定され、その記録に用いられた甲骨文字は漢字のもととなりました。甲骨文字は、亀の甲や牛の肩甲骨などのくぼみに焼けた棒を押しあて、できたひび割れから神意を占い、結果を文字によって記録したものです。
殷では複雑な文様をもつ青銅器がつくられ、これらは祭祀に用いられました。青銅器には想像上の獣の顔を描いて呪術的な力を表現することがありました。
当時の集落は、同族意識に支えられた氏族集団を中心に人々が共同生活を営む城郭都市で、これを邑と呼びます。殷は、商という大邑を中心に成立した都市国家の連合組織(邑制国家)でした。豊かな経済力を背景に盛大な祭祀を実施し、宗教的権威によって多くの邑を従えました。
①甲骨文字 ─ 国の重大な事柄を神意で占い、その記録に用いられた文字で、漢字のもととなった
②青銅器 ─ 複雑な文様をもつ青銅器がつくられ、祭祀に用いられた
③宗教的権威による支配 ─ 盛大な祭祀を実施し、宗教的権威によって多くの邑を従えた
④邑制国家 ─ 同族意識に支えられた氏族集団を中心とする邑(都市国家)の連合組織
西方の渭水流域におこった周は、武力よりも徳を重視し、徳の高い者には天からの命令(天命)で支配者となる資格が授けられると考えました。周は前11世紀ごろに殷を滅ぼすと、都を鎬京(現在の西安市)に置きました。
周は一族や功臣のほか、有力氏族の首長を世襲の諸侯とし、封土(領地)と人民を与えて国を建てさせる封建をおこないました。王や諸侯の家臣(卿・大夫・士)も、地位と封土を授けられました。この仕組みによって、氏族集団のまとまりだけではなく、各地の社会や文化の多様性も保たれました。
周王は天の子(天子)と称し、天帝の権威のもとに諸侯を従えました。諸侯などの支配者層は、本族・分族に組織された父系の血縁集団(宗族)をつくりました。周では氏族集団が社会秩序の基礎であったので、親族関係にもとづいた規範(宗法)が重んじられました。
また、服従の証として諸侯が周王に各地の特産品をおさめる決まりも設けられました。こうした社会の上下関係を律する行動規範は礼と総称され、今日まで東アジアの社会に強い影響をおよぼしています。しかし、氏族制にもとづく絆はしだいに弱まり、封建制もゆらぎはじめました。
| 殷(商) | 周 | |
|---|---|---|
| 時期 | 前16世紀〜前11世紀ごろ | 前11世紀〜前256年 |
| 都 | 殷墟(河南省安陽付近) | 鎬京(西周)→ 洛邑(東周) |
| 政治体制 | 神権政治(占いによる統治) | 封建制度(諸侯を各地に封じる) |
| 支配方式 | 邑制国家(都市国家の連合) | 天子(周王)を頂点とする階層的支配 |
| 秩序の原理 | 祭祀・占い(神の意志) | 宗族・宗法(血縁秩序)・礼楽(行動規範) |
| 文字 | 甲骨文字 | 金文(青銅器の銘文) |
| 文化的特色 | 青銅器(祭祀用の礼器) | 礼楽文化の発展 |
前770年、西方辺境の犬戎に首都を攻略された周は、都を東方の洛邑(現在の洛陽)に移しました(東周)。これ以降、周王の威光は衰え、諸侯が競い合うようになりました。
東周の時代は、春秋時代(前770年〜前403年ごろ)と戦国時代(前403年〜前221年)に分けられます。春秋の名称は孔子の編んだとされる歴史書『春秋』からとられ、戦国の名称はこの時代の諸侯の策謀について記した『戦国策』という書物の名前からとられたものです。
東遷後の周王の威光が衰えるなか、はじめは武力で他国を威圧した有力諸侯(覇者)が盟主となり、周王を支えて秩序を維持していました。
やがて小国の併合や大国の分裂がおこり、前5世紀後半に諸国間の秩序は失われました。こののち、諸侯は王を自称して、激しく抗争しました。戦国時代には、各地の社会・文化の特徴を反映した個性ある国づくりがおこなわれました。塩業で栄えた黄河下流域の斉、長江流域の文化圏に拠った楚、遊牧民族の胡服騎射を取り入れた趙、西方の地域をおさえた秦のほか、魏・韓・燕を合わせた7つの有力国は戦国の七雄と呼ばれます。一方、各国のあいだには、官僚を地方に派遣して中央との関係を強化したり、法制度を整えたりするなど、共通する動きもみられました。また、周の諸侯がおさめた範囲を「中国」とみなす考え方が現れたように、1つの文明圏としてのまとまりも生まれてきました。この「中国」意識は、みずからを文化の中心とし、生活習慣の異なる他者を「夷狄」とさげすむ華夷思想と結びついていました。
春秋時代に出現した鉄器は、戦国時代に広まって社会を大きく変化させました。鉄製農具の使用や牛耕も一部で始まりましたが、より重要なのは、鉄器によって森林伐採が効率化し、農地が増加するとともに、多くの木材が建材や工業原料・燃料として供給されたことでした。また、文字を記録するために木や竹を細長く裁断した木簡・竹簡が登場し、文書による命令・情報の伝達が容易になりました。他方、乱開発によって森林の面積が大きく減少したことで、華北の気候は乾燥化に向かいました。農業生産力の向上の一方で、氏族集団にもとづかない統治が進むと、氏族はしだいに解体され、一夫婦を中心とする小家族が生産や課税・徴兵の単位である「戸」として重視されるようになりました。また、農業や手工業の発展に応じて、商取引を仲立ちする青銅貨幣が普及し、豊かな大商人も現れました。
①鉄製農具と牛耕の普及により農業生産力が向上し、個人の土地所有が広がった
②経済力をつけた新興勢力が台頭し、血統や身分にかかわらず実力がものをいう社会に変化した
③下克上が頻発し、封建的な身分秩序が動揺した
④諸侯が有能な人材を求めたことで、諸子百家が活躍する土壌が生まれた
個人の能力が重んじられる風潮のなかで、思想や技能を生かして社会的評価を得ようとする人々は、諸子百家と呼ばれるさまざまな学派をひらきました。
諸子百家のうち、春秋時代の孔子を祖とする儒家は、周の時代の徳による統治を理想とし、礼の実践を通して親子・兄弟の肉親愛を社会秩序にまで拡大することを説きました。孔子やその弟子の言行は、のち『論語』にまとめられました。この考え方は孟子や荀子に継承されました。
現実主義に立った法家は、君主の権力を背景にした法の徹底を掲げました。秦に仕えた商鞅や李斯など実務的な政治家を生み、法家思想を集大成した韓非子も現れました。
墨家も、身分をこえた人類愛や家柄によらない実力主義といった、時代を反映した主張を展開しました。
人為を否定して天の道に従うこと(無為自然)をとなえた老子・荘子ら道家の教えは、君主が社会に干渉しないことを理想とする黄老の政治思想に影響を与えました。このほか、外交の論理を説いた縦横家、軍事理論の兵家(孫武の『孫子』が有名)、陰陽五行説を説いた陰陽家など、多彩な学派が生まれました。
| 学派 | 代表的思想家 | 中心思想 | 主な主張 |
|---|---|---|---|
| 儒家 | 孔子・孟子・荀子 | 仁・礼 | 道徳と礼による政治。孟子は性善説、荀子は性悪説 |
| 法家 | 商鞅・韓非子・李斯 | 法・術 | 厳格な法律による統治。秦の富国強兵の基盤 |
| 墨家 | 墨子 | 兼愛・非攻 | 身分をこえた人類愛と侵略戦争の否定 |
| 道家 | 老子・荘子 | 道(タオ) | 無為自然。人為的な制度・道徳を否定 |
| 兵家 | 孫武 | 軍事戦略 | 『孫子』に体系化された兵法 |
殷で使われた甲骨文字は、現在使われている漢字の直接の祖先にあたります。甲骨文字は絵画的な象形文字を多く含んでいましたが、周の時代には青銅器に刻まれる金文へと発展し、さらに戦国時代には各国で異なる書体が使われるようになりました。のちに秦の始皇帝が文字を小篆に統一したことで、広大な中国全土で共通の文字が使われるようになります。文字の統一は、言語(方言)が異なる地域の人々が共通の文書で意思疎通できる基盤となり、中国文明の統一性を支える重要な要素となりました。
中国古代文明は、黄河・長江流域の農耕文化を基盤に、殷の神権政治から周の封建制度へ、さらに春秋戦国時代の実力主義社会へと変化しました。この過程で生まれた諸子百家の思想は、のちの中国の政治・社会・文化に決定的な影響を与え続けます。
春秋戦国時代の諸子百家は、社会の変動期にさまざまな思想が生まれた事例として重要です。歴史総合で学ぶ近代の啓蒙思想(ロック・モンテスキュー・ルソーなど)も、旧体制の動揺を背景に新しい社会のあり方を模索した点で共通しています。社会変動が思想の多様化を促すというパターンは、時代を超えて繰り返し見られます。
黄河・長江流域に生まれた中国文明は、殷の神権政治、周の封建制度を経て、春秋戦国時代に鉄器の普及と下克上により社会が激変した。この変動の中で儒家・道家・法家など諸子百家が登場し、中国思想の源流が形成された。
Q1. 殷の遺跡から発見された、亀の甲や牛の骨に刻まれた文字を何というか。
Q2. 周が一族や功臣を各地の諸侯として封じ、土地と人民の支配を任せた制度を何というか。
Q3. 儒家の祖である孔子が重視した、他者への思いやりを意味する徳目は何か。
Q4. 墨子が説いた、身分や血縁を超えて平等に人を愛するという考え方を何というか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
前16世紀ごろに成立した( ア )では、亀の甲や牛の骨に刻まれた( イ )が用いられ、王が占いによって政治を行う( ウ )が行われた。前11世紀ごろに殷を滅ぼした周は、一族や功臣を各地に諸侯として封じる( エ )によって広域を支配した。
ア:殷(商) イ:甲骨文字 ウ:神権政治 エ:封建制度
殷は甲骨文字・青銅器文化・神権政治を三大特徴とします。甲骨文字は漢字の原型であり、殷の実在を証明する考古学的証拠でもあります。周は殷の神権政治とは異なり、封建制度・宗法・礼楽によって秩序を維持しました。殷と周の統治の違いは頻出ポイントです。
諸子百家に関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ×「『孟子』」→「『論語』」 (2) ○ (3) ○ (4) ×「儒家に属し、礼による統治」→「法家に属し、法と術による統治」
(1)について:孔子の言行録は『論語』です。『孟子』は戦国時代の儒家・孟子の著書であり、別の書物です。(4)について:韓非子は法家の代表的思想家であり、儒家ではありません。法家は徳や礼ではなく、厳格な法律と統治の技術(術)によって国を治めるべきだと主張しました。諸子百家の学派・人物・思想の組み合わせは頻出なので正確に整理しましょう。
殷から春秋戦国時代にかけて、中国の政治体制がどのように変化したかを、80字以内で述べよ。
殷では王が占いで統治する神権政治が行われた。周は封建制度と宗法で広域を支配したが、春秋戦国時代に周王の権威が衰え、実力主義の下克上の時代となった。(73字)
この問題では、殷→周→春秋戦国という三つの時期の政治体制の変化を簡潔にまとめることが求められます。殷の神権政治、周の封建制度(宗法・礼楽)、春秋戦国時代の周王権威の失墜と実力主義への移行という流れを押さえましょう。変化の要因として、鉄製農具・牛耕の普及による社会変動に言及できるとさらに高い評価が得られます。