前7世紀、アッシリアが史上初めてオリエント全域を統一しました。しかし過酷な支配は長続きせず、帝国はわずか半世紀ほどで崩壊します。その後、4つの王国が分立する時代を経て、ペルシア人のアケメネス朝が寛容な統治でふたたびオリエントを統一し、エーゲ海からインダス川に至る大帝国を築きました。
この記事では、オリエント統一の過程を「支配のあり方」に注目しながらたどり、ゾロアスター教など後世への影響が大きい宗教についても整理します。
ティグリス川中流域の都市アッシュルの商人は、古くから隊商交易に従事していました。前2千年紀初めに北メソポタミアにおこったアッシリア王国は、アナトリア方面との中継貿易によって栄えましたが、前15世紀には一時ミタンニ王国に服属しました。しかし、その後に独立を回復しました。
アッシリアは前9世紀ごろから、鉄製の武器と戦車を装備し、新たに騎馬隊も組織して勢力をのばしました。シリアやバビロニア、アナトリア東南部、イラン高原西北部を征服し、パレスティナからエジプトにまで進軍しました。こうしてアッシリアは、前7世紀前半にオリエント全土のさまざまな民族を支配して統合する帝国となりました。
アッシリア帝国はニネヴェを首都とし、征服地を州にわけ、それぞれに総督を派遣して直接統治しました。駅伝制を設け、粘土板文書を保存して情報の収集に努めました。しかし、強制移住や重税などのために服属民の反感をまねき、帝国の統治は長くは安定しませんでした。やがて各地に反乱がおこり、近隣諸国にも圧迫されて、前612年にはニネヴェが陥落して崩壊し、オリエントにはエジプト、アナトリアのリディア、新バビロニア(カルデア)、イラン高原のメディアの4王国が分立することになりました。
①鉄製武器・戦車・騎馬隊による軍事力で全オリエントを征服した
②征服地を州に分けて総督を派遣し直接統治した。駅伝制を設け、粘土板文書を保存して情報の収集に努めた
③強制移住・重税などのために服属民の反感をまねき、前612年に崩壊した
アッシリアが滅亡すると、オリエントには4つの王国が分立しました。このうちメディアと新バビロニアはアッシリアを滅ぼした国です。
リディアは、アナトリア(小アジア)西部に建てられた王国です。イオニア地方のギリシア人諸都市を勢力下に置きながら、さかんに交易活動を行いました。リディアではじめて打刻による貨幣(金と銀の合金)がつくられ、ギリシア人もそれにならいました。
メディアは、イラン高原にエクバタナを都として建てられたインド=ヨーロッパ語系(イラン系)の王国で、イラン人が建てた最初の国家です。騎馬隊を主力とする軍隊でアナトリア東部にまで進出し、新バビロニアとともにアッシリアを滅ぼしました。
新バビロニア(カルデア)は、カルデア人がメソポタミアに建てた王国です。ネブカドネザル2世のとき一大勢力を誇り、ユダ王国を滅ぼして住民の多くをバビロンに強制移住させました。これがバビロン捕囚(前586年)です。
エジプトは独立を回復し、サイスを都として復古主義政策をすすめました(第26王朝)。
| 王国 | 地域 | 民族・語系 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| リディア | アナトリア西部 | リディア人 | はじめて打刻による貨幣を使用。ギリシア人と交易 |
| メディア | イラン高原 | インド=ヨーロッパ語系(イラン人) | エクバタナを都とする。イラン人が建てた最初の国家。騎馬隊を主力 |
| 新バビロニア | メソポタミア | カルデア人 | ネブカドネザル2世のとき一大勢力。バビロン捕囚 |
| エジプト | ナイル川流域 | エジプト人 | 独立を回復。サイスを都とする(第26王朝) |
4王国の分立に終止符を打ち、オリエントをふたたび統一したのはペルシア人でした。ペルシア人はインド=ヨーロッパ語系の民族で、イラン高原南部に移住してメディア王国に服属していました。前550年、キュロス2世がメディアの政権を奪取し、アケメネス朝を開きました。
キュロス2世はさらにリディアと新バビロニアをも征服しました。アケメネス朝は、その後エジプトも併合して、ふたたび全オリエントを統一しました。
ダレイオス1世の時代に、帝国は西はエーゲ海沿岸から南はエジプト、東はインダス川流域にまでおよぶ広大な帝国となりました。ダレイオス1世は「諸王の王」と称し、以下のような統治制度を整えました。
また、イラン高原や中央アジアでは地下水路(カナート)がつくられて灌漑農業が開発され、その後の農業発展の基礎が築かれました。
ペルシア帝国にはさまざまな民族が住んでいましたが、アッシリアとは異なり、服属した異民族は寛容にあつかわれました。被征服民の法や宗教は、軍役と貢納の義務が守られるかぎり尊重されました。公用語としてはペルシア語のほか、アッシリア語やアラム語などが使われました。アケメネス朝はオリエントの諸民族の文化を統合し、楔形文字を表音化したペルシア文字もつくられました。
オリエントに君臨し繁栄を誇ったペルシア帝国も、前5世紀前半にはギリシアへの遠征(ペルシア戦争)に敗れ、やがてエジプトの離反にも悩まされました。前4世紀には勢力もおとろえ、前330年にアレクサンドロスの遠征軍によって滅ぼされました。
①全土を20余州に分け、サトラップ(総督)を任命して統治させた
②「王の目」「王の耳」とよばれる巡察使と密偵を派遣し、州行政を監視した
③「王の道」とよばれる公道と駅伝制を整備し、王都と地方を直結させた
④被征服民の法・宗教を、軍役と貢納の義務が守られるかぎり尊重する寛容な支配を行った
イラン人の民族的宗教であるゾロアスター教(拝火教)は、世界史上きわめて大きな影響を与えた宗教の一つです。この宗教では、この世は光明神アフラ=マズダと暗黒神アーリマンがたえず闘争すると説きました。これを善悪二元論といいます。
そして、善き人々の霊魂は最後の審判によって天国に導かれると説きました。祭祀は拝火壇を中心に行われたため、「拝火教」とも呼ばれます。
ゾロアスター教の教典は『アヴェスター』と呼ばれます。ただし、『アヴェスター』が体系的に編集されたのは、後のササン朝の時代です。この最後の審判や天国の観念は、その後のユダヤ教・キリスト教・イスラームといった一神教に大きな影響を及ぼしました。ゾロアスター教はアケメネス朝で信仰され、ササン朝で国教とされました。
ゾロアスター教の「善悪二元論」「最後の審判」「天国と地獄」といった考え方は、後のユダヤ教に影響を与え、ユダヤ教から生まれたキリスト教やイスラームにも受け継がれたとされています。とくにバビロン捕囚の時代に、ユダヤ人がペルシア人と接触したことが影響の契機と考えられています。
また、南北朝・隋唐時代の中国にも伝わり、「祆教(けんきょう)」と呼ばれました。さらに、ゾロアスター教から派生したマニ教(3世紀に成立)は、仏教・キリスト教を融合した宗教で、北アフリカや中央ユーラシア、唐代の中国にまで広がりました。
①善悪二元論 ─ 光明神アフラ=マズダと暗黒神アーリマンの闘争
②最後の審判 ─ 善き人々の霊魂は最後の審判によって天国に導かれる
③教典は『アヴェスター』(ササン朝で編集)
④ササン朝で国教化。キリスト教・イスラームにも影響を与えた
オリエントの統一は、メソポタミアの都市国家から始まった古代世界が、より大きな「帝国」へと発展していく転換点です。アッシリアの武断政治とアケメネス朝の寛容な支配の対比は、「帝国を長期的に維持するには何が必要か」という普遍的な問いへの一つの答えを示しています。
アッシリアが武力で初のオリエント統一を果たしたが武断政治で崩壊。4王国分立を経てアケメネス朝ペルシアが寛容な支配で再統一し、サトラップ制などの中央集権体制を築いた。ゾロアスター教は後世の宗教にも影響を与えた。
Q1. アッシリアが前7世紀前半に全オリエントを統一した際の首都はどこか。
Q2. 4王国のうち、はじめて打刻による貨幣を使用したことで知られる国はどこか。
Q3. アケメネス朝で、各州に任命された総督を何と呼ぶか。
Q4. ゾロアスター教で信仰される光明神は何か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
前7世紀前半、( ア )が鉄製武器や戦車を用いて全オリエントを征服したが、武断政治により前612年に崩壊した。その後、小アジアの( イ )、イラン高原のメディア、メソポタミアの新バビロニア、エジプトの4王国が分立した。やがてイラン人の( ウ )がアケメネス朝を建て、( エ )の時代にエーゲ海からインダス川に至る大帝国が完成した。
ア:アッシリア イ:リディア ウ:キュロス2世 エ:ダレイオス1世
オリエント統一の流れは、アッシリアによる最初の統一 → 4王国の分立 → アケメネス朝による再統一、という3段階で整理できます。アケメネス朝は建国者キュロス2世の寛容な政策と、ダレイオス1世のサトラップ制・「王の目」「王の耳」・「王の道」による中央集権体制で帝国を安定させました。
アケメネス朝ペルシアに関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ○ (2) ×「サトラップが中央に情報を伝える制度」→「中央から派遣されてサトラップを監視する巡察使と密偵」 (3) ×「宗教や慣習を弾圧し、ペルシアの文化を強制した」→「被征服民の法や宗教・慣習を尊重した(寛容な支配)」 (4) ○
(2)について:「王の目」「王の耳」はサトラップ自身ではなく、中央から各地に派遣された巡察使と密偵のことです。サトラップが地方で独自の権力を持ちすぎないように監視する仕組みでした。(3)について:アケメネス朝の最大の特徴は「寛容な支配」です。アッシリアの武断政治が短期間の崩壊を招いたのに対し、アケメネス朝は服属した異民族を寛容にあつかうことで長期にわたる安定を実現しました。この対比は入試で頻出です。
アッシリアとアケメネス朝ペルシアの支配の違いを、80字以内で説明せよ。
アッシリアは強制移住や重税などで服属民の反感をまねき短期間で崩壊したが、アケメネス朝は服属した異民族を寛容にあつかい、法や宗教を尊重することで長期の安定を実現した。(80字)
この問題はアッシリアとアケメネス朝の「支配のあり方」を対比させる典型的な論述問題です。両者はともにオリエントを統一した帝国ですが、支配の方針は正反対でした。アッシリアは強制移住や重税で服属民の反感をまねいて短期間で崩壊しましたが、アケメネス朝は服属した異民族を寛容にあつかうことで長期にわたる安定を実現しました。この対比を簡潔に述べることがポイントです。