15〜16世紀、ポルトガル・スペインを先頭にヨーロッパ諸国は大西洋に乗り出し、アジア航路を開拓し、また南北アメリカ大陸に到達してこの地を征服しました。
ヨーロッパ人が海洋に進出した15世紀から16世紀は、大航海時代とも呼ばれます。
この記事では、海洋進出の背景からアメリカ大陸の変容、そして「世界の一体化」と大西洋世界の形成までを学びます。
13〜14世紀の地中海では、イタリア諸都市の商人が活発に交易をおこなっていました。交易品のうち、とくにアジア産の香辛料(コショウ、ナツメグ、クローブなど)は珍重されましたが、ムスリム商人やオスマン帝国を経由して輸入されたため高価でした。また、マルコ=ポーロの『世界の記述(東方見聞録)』が紹介した「黄金の国ジパング」に代表される東洋の富へのあこがれもありました。このため、香辛料を直接手に入れる交易路の開拓は魅力的な事業となり、ポルトガルやスペインは海洋進出に乗り出したのです。
同じ頃、イベリア半島では、イスラーム教徒に対する中世以来の国土回復運動(レコンキスタ)が進行しており、大西洋への出口がキリスト教諸国によって確保されました。1492年にスペインがグラナダを陥落させてレコンキスタが完了すると、領土のいっそうの拡大とキリスト教布教の熱意が高まりました。イベリア半島の再征服に成功した貴族たちは新たな領土の拡大を熱望し、また国王も財政確立のために東方の富を求めていました。こうして15〜16世紀のヨーロッパ諸国は、ポルトガル・スペインを先頭に大西洋に乗り出すことになったのです。
海洋進出を可能にしたのが、航海技術の発達です。羅針盤やアストロラーベが利用されるようになり、天文学や地理学の知識も増えました。イベリア半島にはイタリア商人が蓄積した東方の商業知識や航海・造船・天文・地理の知識が伝わり、カラヴェル船の開発によって逆風のなかでも航行できるようになるなど、大西洋やインド洋への航海が現実のものとなりました。
①香辛料:ムスリム商人やオスマン帝国経由で高価→直接入手をめざした
②マルコ=ポーロ『東方見聞録』による東洋の富へのあこがれ
③国土回復運動(レコンキスタ)の完了(1492年グラナダ陥落)→領土拡大とキリスト教布教への熱意
④航海技術の発達:羅針盤・アストロラーベ・カラヴェル船
ヨーロッパの海洋進出で先駆けとなったのはポルトガルです。ポルトガルは、15世紀に入るとムスリム支配下の北アフリカに進出し、「航海王子」とも呼ばれたエンリケやジョアン2世のもとでアフリカ西岸の探検をおこない、さらにアジア航路の開拓を目的に南大西洋へ探検隊を派遣しました。
1488年、バルトロメウ=ディアスが喜望峰に到達して、アフリカ南端を確認しました。これにより、アフリカを回ってインド洋に出るルートが存在することがわかりました。
そして1498年、ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰をまわり、ムスリムの水先案内を得て、インド西岸のカリカットに到達しました。こうして、ヨーロッパとアジアを直結するインド航路がはじめて開かれました。
ポルトガルはムスリム勢力と戦いながら、1510年にインド西岸のゴアを占領してアジア進出の拠点(総督府)とし、翌1511年には香辛料交易の中心地マラッカを軍事占領しました。さらに香辛料の主産地モルッカ諸島に到達し、アジアの香辛料交易に本格的に参入しました。1557年には中国のマカオに居住権を得て中国交易の拠点とし、日本の平戸とも交易しました。ゴア・マラッカ・マカオ・平戸に拠点を築いたポルトガルは、その強力な海軍と航海術により、領域の支配ではなく海上ルートの支配によって交易の独占をはかる海洋帝国を築きました。
ポルトガルはイベリア半島の西端に位置し、大西洋に面していました。早くから国土回復運動(レコンキスタ)を完了し(1249年)、国内統一が進んでいたため、他のヨーロッパ諸国に先駆けて海外進出に国力を集中できたのです。また、エンリケ航海王子がアフリカ西岸航路の開拓を推進し、航海術・地図学の研究を国家事業として推し進めたことも大きな要因でした。
①エンリケ航海王子:アフリカ西岸探検を組織的に推進
②バルトロメウ=ディアス:喜望峰に到達(1488年)
③ヴァスコ=ダ=ガマ:インド航路を開拓、カリカットに到達(1498年)
④ゴア占領(1510年)→総督府を設置、アジア進出の拠点
⑤マラッカ占領(1511年)→香辛料交易の中心地を確保
⑥マカオ居住権(1557年)→中国交易の拠点。海洋帝国を形成
ポルトガルがアフリカ回りのルートを開拓する一方、ポルトガルに遅れをとったスペインは、大西洋を横断してアジアに向かうコロンブスの計画を後援しました。コロンブスはトスカネリの地球球体説をもとにこの計画を立て、大西洋を西に進めばアジアに到達できると考えました。
スペイン女王イサベルの後援のもと、コロンブスの船団は1492年にカリブ海のサン=サルバドル島に到達しました。彼はその後、今日のアメリカ大陸にも上陸しましたが、そこを「インド」と信じ、その住民を「インディオ」(インディアン)と呼びました。
この「発見」に刺激されて、各国の探検隊が同地に派遣されました。アメリゴ=ヴェスプッチは、ここがアジアではなく未知の「新世界」であるととなえ、アメリカの呼び名の起源となりました。また、スペインのバルボアは南北アメリカが地続きであることを確認し、ヨーロッパ人としてはじめて太平洋に到達しました(1513年)。イギリス王の支援を受けたカボットは北米大陸を探検し、フランス人カルティエはカナダに到達しました。
ポルトガルとスペインの両国が競って海外に進出するなか、新たに「発見」された土地の帰属をめぐって争いが生じました。1493年、ローマ教皇アレクサンデル6世はスペインに有利な教皇子午線を設定しましたが、ポルトガル王ジョアン2世がこの線を大幅に西方へ移動させ、1494年のトルデシリャス条約で両国の勢力範囲が定められました。この結果、のちにポルトガル人カブラルが漂着した南アメリカのブラジルはポルトガル領となりました。
1519年、ポルトガル出身のマゼラン(マガリャンイス)は、スペイン王の援助を受けて西回りのアジア航路を発見するための大航海に出発しました。マゼランの船団は南アメリカ大陸南端(現在のマゼラン海峡)を通過して太平洋に出て、1521年にフィリピン諸島に到達し、ここをスペイン領と宣言しました。マゼラン自身は現地人との戦いで戦死しましたが、部下はインド洋から喜望峰をまわって1522年にスペインに帰還し、最初の世界周航を達成しました。こうして、大地が球体であることが確認されました。
| 項目 | ポルトガル | スペイン |
|---|---|---|
| 航路 | アフリカ東回り | 大西洋西回り |
| 主要な航海者 | ディアス、ヴァスコ=ダ=ガマ | コロンブス、マゼラン |
| 到達地 | 喜望峰、インド(カリカット)、ゴア、マラッカ、マカオ | カリブ海、フィリピン(1521年、世界周航) |
| 目的 | インド航路の開拓 | 西回りでアジアに到達 |
| 条約上の勢力範囲 | 教皇子午線の東側(アフリカ・アジア・ブラジル) | 教皇子午線の西側(アメリカ大陸の大部分) |
①1493年ローマ教皇が教皇子午線を設定→ポルトガルの抗議で修正
②トルデシリャス条約(1494年):ポルトガルとスペインが勢力範囲を画定
③この結果、ブラジルはポルトガル領に
④アメリカ大陸の大部分はスペインの勢力圏に
コロンブス以降に中南米へ上陸したスペイン人の「征服者」(コンキスタドール)たちは、先住民の略奪に熱中しました。「征服者」は少人数でしたが、銃や騎馬を駆使し、また先住民の被支配部族の反乱を煽って、巨大な先住民国家を征服していきました。
1521年、コルテスはメキシコでアステカ王国を征服しました。コルテスは少数のスペイン兵しか率いていませんでしたが、アステカに反感を持つ周辺の先住民勢力を味方につけました。さらにスペイン人がもちこんだ疫病も先住民に大きな打撃を与え、征服を可能にした要因でした。
つづいて1533年には、ピサロがペルーでインカ帝国を滅ぼしました。ピサロはインカ皇帝アタワルパを捕らえて処刑し、帝国を滅ぼしました。高度な文明を築いていたアステカ王国やインカ帝国は、スペインの征服によって破壊されたのです。
①コルテスがメキシコでアステカ王国を征服(1521年)
②ピサロがペルーでインカ帝国を征服(1533年)
③征服の要因:銃・騎馬などの軍事力、先住民の被支配部族の反乱を利用、疫病による先住民人口の激減
先住民の財宝をいつくすと、「征服者」たちは王室の認可を受けて、先住民の保護とキリスト教化を条件に先住民とその土地の支配を委託され、彼らに貢租・賦役を課しました(エンコミエンダ制)。「エンコミエンダ」はスペイン語で「委託」を意味します。実態は先住民を鉱山や大農園での過酷な強制労働に従事させるものであり、多くの先住民が命を落としました。
さらに、16世紀半ばにポトシ(現在のボリビア)やメキシコで銀山が発見されると、採掘のために先住民を強制労働に用いることも認められました。大量の銀が採掘されてスペインに大きな富をもたらすとともに、アメリカ大陸から大量の銀が流入したことで、ヨーロッパでは価格革命と呼ばれる物価騰貴がおこりました。
こうした過酷な支配やヨーロッパからもちこまれた疫病(天然痘・はしかなど)によって、先住民は激減しました。これらの病原体に対する免疫を持たなかった先住民のあいだで伝染病は爆発的に広がり、メキシコと中南米のインディオ人口は、スペイン征服後わずか100年あまりで約5000万人から約400万人に減少したと推定されています。
スペインの植民地では、17世紀前半から、アシエンダ制と呼ばれる大土地所有にもとづく農園経営が広がりました。大農園主は、負債を負った農民(ペオン)を使って農業や牧畜を営みました。
ラス=カサスら聖職者たちの努力により、スペイン本国は先住民の奴隷化を禁止しましたが、それはかわりの労働力としてアフリカからの奴隷の大量輸入をひきおこす結果となりました。これが大西洋奴隷貿易の始まりです。ポルトガル領のブラジルでは、16世紀後半からサトウキビのプランテーション(大農園)が経営され、そのための労働力としてアフリカから奴隷が輸入されました。こうして中南米では、スペイン・ポルトガルの広大な植民地が形成されていきました。
ラテンアメリカの植民地では、本国生まれのスペイン人(半島人)を支配層とし、出身・血統に基づく複雑な人種的身分社会が形成されました。主要な区分として、①クリオーリョ(クリオール):植民地で生まれた白人の子孫、②白人と先住民との混血メスティソ、③先住民インディオ、④白人と黒人との混血ムラート、そして最下層に黒人奴隷が置かれました。クリオーリョはしばしば植民地政府の要職から排除され、この身分制への不満がのちの独立運動の原動力となりました。
彼ら(スペイン人)は先住民を人間として扱わなかった。
①エンコミエンダ制:キリスト教布教の義務と引きかえに先住民を使役し、貢租・賦役を課す
②ポトシ銀山(ボリビア)やメキシコの銀山→大量の銀がヨーロッパに流入→価格革命
③過酷な支配と疫病(天然痘等)により先住民が激減
④労働力としてアフリカから黒人が奴隷として運び込まれた(大西洋奴隷貿易の開始)
⑤アシエンダ制:大土地所有にもとづく農園経営。負債を負った農民(ペオン)を使役
大航海時代を境に、ヨーロッパ・アメリカ・アフリカの間で人・モノ・文化・生物が大規模にやりとりされるようになりました。この現象を歴史学では「コロンブスの交換」と呼びます。
ヨーロッパ人は先住民の文明を滅ぼしたうえに、様々な動植物・病原体をもちこみました。天然痘やはしかなどの疫病は先住民に壊滅的な被害をもたらしました。さらに自分たちが入植するとともに黒人奴隷も運び込み、またキリスト教を広めるなど、現地の社会を根本的にかえてしまいました。
一方、アメリカ大陸からヨーロッパへは、ジャガイモ・サツマイモ・トウモロコシ・トマト・トウガラシ・カカオ・タバコなど様々な農作物がもちこまれてヨーロッパ社会に大きな影響をおよぼしました。逆に、サトウキビやコーヒーなどが「新大陸」にもちこまれました。さらに、アメリカ大陸の銀や砂糖などの産物がヨーロッパの産物と大規模に交易される関係も始まりました。
ヨーロッパ人が海洋に進出したことで、世界の諸地域が交易を通じて結びつけられ、「世界の一体化」が始まりました。ヨーロッパと南北アメリカ大陸は結びつきの度合いをいっそう強め、一体化しつつあった世界の一角に「大西洋世界」が出現しました。のちにはヨーロッパ・アフリカ・アメリカ大陸を結ぶ三角貿易の構造が生まれていきました。
アメリカ大陸原産のジャガイモは、寒冷なヨーロッパの気候でもよく育ち、小麦に比べて単位面積あたりの収穫量が多い作物でした。18世紀以降、ヨーロッパ各地で栽培が広がると、食料供給が安定し、ヨーロッパの人口増加を支える一因となりました。新大陸の作物が旧大陸の歴史を変えた例として、教科書でもよく取り上げられます。
①コロンブスの交換:旧大陸と新大陸の間の動植物・病原体・文化の大規模な交流
②新大陸→旧大陸:ジャガイモ・トウモロコシ・トマト・カカオ・タバコ・銀
③旧大陸→新大陸:サトウキビ・コーヒー・疫病・キリスト教
④「世界の一体化」が始まり、大西洋世界が出現。のちに三角貿易の構造が生まれた
オランダは17世紀に台湾を拠点として対日・対中貿易を展開しましたが、1661年、明の遺臣鄭成功(てい・せいこう)率いる軍勢がオランダを台湾から駆逐しました。鄭成功は台湾を反清復明の拠点とし、その死後も鄭氏政権が続きましたが、1683年に清に制圧されました。このエピソードは、アジアにおけるヨーロッパ勢力の進出が、アジアの政治勢力によって阻まれた例として重要です。
大航海時代は、香辛料の直接入手への意欲、『東方見聞録』が伝えた東洋の富へのあこがれ、レコンキスタの延長線上に始まりましたが、その結果は当事者たちの想像をはるかに超えるものでした。ポルトガルはゴア・マラッカ・マカオなどの拠点を結ぶ海洋帝国を築き、スペインはアメリカ大陸を征服してフィリピンにも進出しました。こうしてヨーロッパ諸国が海洋に進出したことで、世界の諸地域が交易を通じて結びつけられ、「世界の一体化」が始まりました。しかしその過程で、ヨーロッパ人は先住民の文明を滅ぼし、過酷な支配と疫病で先住民は激減し、アフリカから黒人が奴隷として運び込まれるという、現地の社会を根本的にかえてしまう深刻な犠牲が伴いました。大航海時代がもたらした光と影の両面を理解することが重要です。
大航海時代によって始まった大西洋世界の形成は、「歴史総合」で扱う「近代化と私たち」の重要な前史です。三角貿易や植民地支配の構造は、のちの帝国主義やグローバル経済の不平等へとつながっていきます。大航海時代を「グローバル化の始まり」として押さえておくと、近代以降の世界の構造がよく理解できます。
15〜16世紀、香辛料の直接入手とレコンキスタを背景にポルトガル・スペインが海洋に進出し、アメリカ大陸を征服。過酷な支配と疫病で先住民が激減し、アフリカから黒人奴隷が運び込まれた。「世界の一体化」が始まり大西洋世界が出現した。
Q1. 1498年にアフリカ南端を回ってインドのカリカットに到達し、インド航路を開拓したポルトガルの航海者は誰か。
Q2. 1494年にポルトガルとスペインが勢力圏を分割した条約を何というか。
Q3. スペイン領アメリカで先住民を管理するために導入された、実態として強制労働を伴う制度は何か。
Q4. 大航海時代以降、旧大陸と新大陸の間で人・モノ・生物が大規模に交流した現象を何と呼ぶか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
1488年、ポルトガルの( ア )がアフリカ大陸最南端の喜望峰に到達し、1498年には( イ )がインドのカリカットに到達してインド航路を開拓した。一方、スペインの支援を受けた( ウ )は1492年にカリブ海に到達し、1519年に出発した( エ )の船団は世界周航を達成した。1494年に両国が結んだ( オ )により、勢力圏が分割された。
ア:バルトロメウ=ディアス イ:ヴァスコ=ダ=ガマ ウ:コロンブス エ:マゼラン オ:トルデシリャス条約
ポルトガルとスペインの航海者を時系列に整理した基本問題です。ディアス(喜望峰到達)→コロンブス(カリブ海到達)→ガマ(インド到達)→マゼラン(世界周航)の順序と、トルデシリャス条約(1494年)の内容は頻出事項です。航海者と業績の組み合わせを確実に覚えましょう。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) × コロンブスはそこを「インド」と信じ、その住民をインディオと呼んだ。新大陸であるととなえたのはアメリゴ=ヴェスプッチ。 (2) × ブラジルは教皇子午線(トルデシリャス条約の分界線)の東側にあったためポルトガル領となった。 (3) × コルテスがメキシコでアステカ王国を、ピサロがペルーでインカ帝国を滅ぼした。 (4) ○
(1)〜(3)はいずれも頻出のひっかけポイントです。(1)コロンブスはそこを「インド」と信じ、先住民をインディオ(インディアン)と呼びました。(2)ブラジルは南アメリカの東端に位置し、トルデシリャス条約の教皇子午線(分界線)より東側にあったためポルトガル領です。(3)コルテス=アステカ王国(メキシコ)、ピサロ=インカ帝国(ペルー)の組み合わせを正確に覚えましょう。
大航海時代がアメリカ大陸の社会に与えた影響について、「エンコミエンダ制」「疫病」「銀」「奴隷貿易」の語句を使って120字以内で説明せよ。
スペインはエンコミエンダ制により先住民を使役し、ポトシなどで銀の採掘を行った。過酷な支配とヨーロッパからもちこまれた疫病で先住民が激減すると、労働力としてアフリカから黒人が奴隷貿易で運び込まれ、大西洋世界が形成された。(108字)
この問題は、スペインの植民地支配がアメリカ大陸の社会に与えた影響を、因果関係に注意して論述するものです。エンコミエンダ制(先住民への使役・貢租・賦役)→銀の採掘→疫病と過酷な支配による先住民の激減→労働力としてアフリカから奴隷が運び込まれる、という流れを意識して書くことがポイントです。