16世紀、西アジアには二つの強大なイスラーム帝国が並び立ちました。スンナ派を掲げるオスマン帝国と、シーア派を国教とするサファヴィー朝です。
オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅ぼし、その後バルカン半島から北アフリカ、西アジアに至る大帝国を築きました。一方、サファヴィー朝はイランを中心に独自のペルシア文化とシーア派信仰を融合させ、華やかなイスファハーンの都を生み出しました。
この記事では、両帝国の成立・発展・統治制度、そして両者の対立を学びます。
13世紀末、イル=ハン国の支配から独立したトルコ系の諸政権とビザンツ帝国が攻防するアナトリア西部に、オスマンを始祖とする国家が誕生しました。この国家は君主であるスルタンを中心に、キリスト教徒を含む戦士集団を率いて急成長し、バルカン半島で力を広げてオスマン帝国へと発展しました。
14世紀半ば、オスマン帝国はヨーロッパ側のバルカン半島に進出し、アドリアノープル(エディルネ)に首都を移しました。バヤジット1世の時代には、ニコポリスの戦いでハンガリー王を中心とする連合軍を破り、ドナウ川以南の地を確保しました。
しかし、バヤジット1世はアナトリアに進出してきたティムールにアンカラの戦いで敗れて捕らえられ、帝国は解体の危機に瀕しました。しかし、後継者らがまもなく体勢を立て直しました。
メフメト2世は、1453年にコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅ぼしました。メフメト2世は首都をコンスタンティノープル(のちのイスタンブル)に移し、つづけてアナトリアの諸勢力を平定することで、バルカン半島とアナトリアにまたがる帝国を成立させました。
①オスマンを始祖とする国家がアナトリア西部に誕生(13世紀末〜14世紀初め)
②14世紀半ば:アドリアノープル(エディルネ)に首都を移す
③ニコポリスの戦いでハンガリー王中心の連合軍を破る
④1402年:アンカラの戦いでティムールに敗北(解体の危機 → 体勢を立て直す)
⑤1453年:メフメト2世がコンスタンティノープルを攻略 → ビザンツ帝国滅亡
オスマン帝国の最盛期を現出したのがスレイマン1世(在位1520〜66年)です。スレイマン1世は、統治組織・税制・刑罰などにかかわるスルタンの法(カーヌーン)を体系化し、「立法者」(カーヌーニー)の異名で呼ばれました。
スレイマン1世はモハーチの戦いに勝利してハンガリーを征服し、ウィーンを包囲して、ヨーロッパ国際政治の鍵を握りました(第1次ウィーン包囲、1529年)。カール5世の抵抗や冬季の到来により2か月で撤退しましたが、ハプスブルク家と対立し、ヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えました。
また、強力な海軍を組織して、スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊をプレヴェザの海戦で破り、地中海の制海権を握りました。さらに、チュニジアやアルジェリアなどの北アフリカを征服し、インド洋ではポルトガルによる紅海やペルシア湾への侵入を防ぎました。のちにオスマン海軍は1571年のレパントの海戦でスペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊に敗れましたが、地中海での優位は保ちました。
東方では、サファヴィー朝とイラク地方の領有を争ってバグダードを獲得しました。こうしてスレイマン1世の治世下で、オスマン帝国の領域は東ヨーロッパ・西アジア・北アフリカにまたがる広大なものとなり、帝国は最盛期を迎えました。
その後も17世紀後半にかけてオスマン帝国は拡大を続け、1669年にはヴェネツィアからクレタ島を奪い、また東欧ではポーランド南部の一部(ポドリア地方)も獲得して、帝国の最大版図を実現しました。しかし1683年の第2次ウィーン包囲に失敗すると、カルロヴィッツ条約(1699年)でハンガリーなどを失い、ヨーロッパ諸国に対して守勢にまわりました。
| 年 | 出来事 | 意義 |
|---|---|---|
| 1526年 | モハーチの戦い | ハンガリーを征服 |
| 1529年 | 第1次ウィーン包囲 | ハプスブルク家と対立し、ヨーロッパ国際政治の鍵を握った |
| ― | プレヴェザの海戦 | スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊を破り、地中海の制海権を確立 |
①モハーチの戦い:ハンガリーを征服
②第1次ウィーン包囲(1529年):ヨーロッパ国際政治の鍵を握った
③プレヴェザの海戦:連合艦隊を破り地中海の制海権を確立
④サファヴィー朝からバグダードを獲得
⑤スルタンの法(カーヌーン)を体系化 →「立法者」の異名
オスマン帝国では、君主であるスルタンを頂点とする強力な中央集権体制がきずかれ、大宰相の補佐のもと御前会議で重要な政策が決定されました。セリム1世はサファヴィー朝と争い、アナトリア東部を支配下に入れた後、南進して1517年にマムルーク朝を滅ぼしてシリア・エジプトを併合するとともに、メッカ・メディナも支配下に入れました。
オスマン帝国の統治を支えた独特の制度がデヴシルメです。これは、バルカン半島のキリスト教徒の子弟を徴用し、君主の奴隷としてイスラームに改宗させたうえで、常備軍団に編成する制度です。徴用された少年のなかから特別に選ばれた者は、宮廷で教育され、のちに支配機構の要職につきました。大宰相のような要職の多くも「スルタンの奴隷」出身者が占めました。
常備軍団のなかでも主力となったのが、歩兵のイェニチェリ軍団です。イェニチェリは「スルタンの奴隷」からなる常備歩兵軍団で、鉄砲や大砲などの火器で武装し、帝国の征服事業に大きな威力を発揮しました。
オスマン帝国初期の拡大を支えたのは、トルコ系の騎士(シパーヒー)でした。帝国は彼らに征服地の農地の徴税権を与えるかわりに軍役を課し(ティマール制)、中央政府に結びつけました。バルカン半島やアナトリアの征服地では、戸数や農産物の調査が行われて課税額が定められ、騎士たちは戦時には軍政官の指揮下で遠征に参加しました。
オスマン帝国の領内には、さまざまな民族のムスリムに加えて、ギリシア正教やアルメニア教会などのキリスト教徒のほか、多数のユダヤ教徒の住民がいました。帝国は非ムスリムをジンミーとして処遇し、各宗教共同体の内部での自治を認めました(ミッレト制)。こうして領内では、多くの宗派や民族が平和的に共存しました。
オスマン帝国は外国人商人に対して、領内での安全保障・低関税・領事裁判権などの通商特権(カピチュレーション)を与えました。16世紀に対ハプスブルク同盟を結んだフランスに与えられたカピチュレーションは、やがてイギリスやオランダにも与えられました。
帝国内では、東西交易や首都イスタンブルでの需要などから各地に毛織物・絹布・生糸などの特産品が生まれ、都市が成長しました。商品の生産・販売にあたる都市の商工業者は、宗教の区別をこえて同業組合(エスナーフ)を組織しました。また、キリスト教徒やユダヤ教徒の大商人も交易で活躍しました。
帝国の公用語はトルコ語であり、アラビア文字で表記されたトルコ語は行政文書だけでなく、文学・学問などでも広く使われました。スルタンは大規模なマドラサを建設し、学問の奨励とウラマーの育成をはかりました。イスラームの諸学とともに天文学・医学・地理学なども発達し、ヨーロッパの知識を取り入れた地理書も著されました。建築では、ビザンツ建築の影響も受けつつ固有の様式が生まれ、16世紀の建築家スィナンがスレイマニエ・モスクに代表される雄大壮麗な建造物を帝国各地に多数つくりました。宮廷の保護を受けたミニアチュール(細密画)では、歴史画や君主の肖像画も描かれました。また、コーヒーの飲用が広まり、たびたびの政府の禁令にもかかわらず、コーヒーハウスが社交と娯楽の場として普及しました。
17世紀になると、オスマン帝国の対ヨーロッパ・対サファヴィー朝の両戦線は膠着しました。首都ではイェニチェリがしばしば反乱をおこし、何度かスルタンを廃位にまで追い込みました。また、17世紀前半にはしばしば幼少のスルタンが即位したため、スルタンの母后が宮廷で権力をふるいました。17世紀後半には、宮廷の外部に独立した大宰相府に権力の中心が移り、官僚組織も発達しました。領土の安定にともなって、帝国の税制はティマール制から徴税請負制へと変化しました。徴税請負は中央政府の官僚やウラマー、さらに軍人たちによって担われました。徴税請負制では、国家が徴税権を入札によって民間に売却し、落札した請負人(徴税請負人)が農民から税を徴収しました。請負人はその権限を利用して大農場(チフトリク)を経営し、農民を実質的な農奴として使役するケースも広まりました。しかし、18世紀になると徴税請負制下の周辺地域で富と権力の集中が進み、各地に有力者(アーヤーン)が台頭しました。アーヤーンは徴税請負人として財を蓄え、それを地方行政や軍事の実権と結びつけて勢力を拡大した地方名士であり、中央政府の統制を弱体化させる要因となりました。18世紀後半、軍事技術の刷新に遅れたオスマン帝国はアーヤーンの兵力も使って二度にわたりロシアと戦いましたが敗れ、クリミア半島の支配権を失いました。
| 制度 | 内容 | 目的・効果 |
|---|---|---|
| デヴシルメ | キリスト教徒の子弟を徴用し、「スルタンの奴隷」として常備軍団に編成 | 要職の多くを「スルタンの奴隷」出身者が占め、中央集権を強化 |
| イェニチェリ | 「スルタンの奴隷」からなる常備歩兵軍団 | 鉄砲・大砲などの火器で武装し、帝国の征服事業に活躍 |
| ティマール制 | 征服地の騎士(シパーヒー)に徴税権を与え、戦時の軍役を義務づける | 中央政府と騎士を結びつけ、中央集権を維持 |
| ミッレト制 | 非ムスリム(ジンミー)の宗教共同体に自治を認める | 多くの宗派や民族が平和的に共存 |
ティマール制は一見するとヨーロッパの封建制に似ていますが、決定的な違いがあります。西欧の封建制では領主が土地の所有権を持ち、世襲が一般的でした。一方、ティマール制ではシパーヒーに与えられるのは徴税権のみで、土地の所有権はスルタンに帰属しました。また、ティマールは原則として世襲されず、スルタンの意志で付け替えが可能でした。この仕組みにより、ヨーロッパのような地方分権的な封建秩序は生まれず、スルタンの中央集権的支配が維持されました。
①デヴシルメ:キリスト教徒の子弟を徴用 →「スルタンの奴隷」として常備軍団に編成
②イェニチェリ:「スルタンの奴隷」からなる常備歩兵軍団。火器で武装
③ティマール制:騎士に徴税権を与え軍役を課す → 17世紀以降は徴税請負制に変化
④ミッレト制:非ムスリム(ジンミー)の宗教共同体に自治を認める
⑤カピチュレーション:外国人商人への通商特権
15世紀後半、イラン高原北西部やアナトリア東部のトルコ系遊牧民のあいだでは、過激な神秘主義(スーフィズム)を掲げるサファヴィー教団が勢力を広げました。教主イスマーイール1世は軍団を率いて16世紀初めにタブリーズを占領してサファヴィー朝を建てました。さらにイラン東部に進出していたウズベク人の勢力を破り、イラン高原を統一しました。
建国の際、イスマーイール1世はシーア派(十二イマーム派)を国教と定め、イランの住民のシーア派化をすすめました。16世紀以後、シーア派のサファヴィー朝とスンナ派のオスマン帝国が対抗するなかで、メッカ・メディナの二聖都の保護者の地位を継承したオスマン帝国は、正統的なスンナ派イスラームの擁護者としての立場を強調しました。
①15世紀後半:サファヴィー教団がトルコ系遊牧民のあいだで勢力を拡大
②16世紀初め:イスマーイール1世がタブリーズを占領して建国
③シーア派(十二イマーム派)を国教と定めた
④イランの住民のシーア派化をすすめた
サファヴィー朝は、アナトリア東部やイラクの支配をめぐってオスマン帝国と争いました。
しかし、遊牧民の騎馬軍団からなるサファヴィー朝軍は、1514年のチャルディラーンの戦いで鉄砲や大砲などの火器を装備したオスマン帝国軍に敗れ、アナトリア東部はオスマン帝国に帰属しました。またスレイマン1世にはイラク地方を奪われました。
このように、スンナ派のオスマン帝国とシーア派のサファヴィー朝は、領土と宗派の両面で激しく対抗し続けました。
①1514年:チャルディラーンの戦いで火器を装備したオスマン帝国軍が勝利
②遊牧民の騎馬軍団からなるサファヴィー朝軍が敗北
③アナトリア東部がオスマン帝国に帰属
④スレイマン1世の時代にイラク地方もオスマン帝国に奪われた
サファヴィー朝の支配者(シャー)は、トルコ系遊牧民の支配層に支えられる一方、在地のイラン人の官僚も重用し、両者の協力を得て都市と農村を統治しました。16世紀後半に即位したアッバース1世は、貴族位のトルコ系騎馬軍団をおぎなうものとして、オスマン帝国にならって奴隷軍人からなる王直属の軍団を編制しました。
アッバース1世は、オスマン帝国からイラクを奪い返し、ポルトガル人をホルムズ島から追放するなどして、サファヴィー朝の最盛期を現出させました。しかし、アッバース1世の死後、王朝の勢力はおとろえ、オスマン帝国にイラクを奪い返されました。
さらにアッバース1世は、イラン中部のイスファハーンを新たな首都としました。イスファハーンは「世界の半分」とうたわれるほど繁栄し、庭園や彩色タイルのモスクなどが都市を飾りました。サファヴィー朝ではティムール朝の文化を継承して建築が発達したほか、すぐれたミニアチュール画家や書道家があらわれ、人物画も流行しました。詩・絵画・工芸などの芸術も発達しました。
イスファハーンにはインドやヨーロッパから商人が訪れて商業がさかんに行われました。手工業の分野では、イラン産の絹糸がとくに高値で取引され、それを用いて織られた絹織物なども各地で重用されました。
宗教面では、サファヴィー朝の支配層は、建国当初の独自の信仰にかえてシーア派の穏健な一派である十二イマーム派の教えを受け入れ、シリアから宗教家をまねくなどしてシーア派信仰の整備につとめました。この結果、しだいにイランやアゼルバイジャンにシーア派信仰が浸透しました。
アルメニア人商人は、イラン特産の絹について、オスマン帝国・ヨーロッパ向けの国際貿易を独占しました。イラン産の絹糸は、オスマン帝国の地中海岸の都市にもたらされ、ヨーロッパ商人により購入されました。ギリシア人やアルメニア人、ユダヤ教徒の商人は、オスマン帝国においてもそれぞれ独自の国際的交易網を広げていました。
①アッバース1世:サファヴィー朝の最盛期を現出
②軍制改革:奴隷軍人からなる王直属の軍団を編制(オスマン帝国にならう)
③オスマン帝国からイラクを奪い返す・ホルムズ島からポルトガル人を追放
④首都をイスファハーンに移転 →「世界の半分」と称えられた繁栄
オスマン帝国は19世紀に「東方問題」としてヨーロッパの国際政治に深く関わります。歴史総合で学ぶ「帝国主義と民族運動」のテーマの前提として、オスマン帝国の多民族・多宗教の統治構造(ミッレト制)を理解しておくことが重要です。
| オスマン帝国 | サファヴィー朝 | |
|---|---|---|
| 建国 | 13世紀末(オスマン1世) | 1501年(イスマーイール1世) |
| 宗派 | スンナ派 | 十二イマーム派(シーア派) |
| 君主の称号 | スルタン(のちカリフも兼任) | シャー |
| 首都 | イスタンブル(旧コンスタンティノープル) | イスファハーン(アッバース1世以降) |
| 最盛期の君主 | スレイマン1世 | アッバース1世 |
| 軍事の特徴 | イェニチェリ(「スルタンの奴隷」からなる常備歩兵軍団) | トルコ系騎馬軍団 → 奴隷軍人からなる王直属の軍団に改革 |
| 非ムスリムへの対応 | ミッレト制(宗教共同体の自治) | アルメニア商人の保護・活用 |
①宗派の違い:スンナ派(オスマン)vs 十二イマーム派(サファヴィー)
②君主の称号:スルタン vs シャー
③最盛期:スレイマン1世 vs アッバース1世
④軍事制度:デヴシルメ・イェニチェリ vs トルコ系騎馬軍団 → 奴隷軍人からなる王直属の軍団
オスマン帝国はイェニチェリやティマール制で中央集権体制を築き、スレイマン1世のもとで最盛期を迎えた。サファヴィー朝は十二イマーム派を国教とし、アッバース1世のもとイスファハーンを中心に繁栄した。両帝国はスンナ派対シーア派の構図で対抗した。
Q1. 1453年にコンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国のスルタンは誰か。
Q2. オスマン帝国で、バルカン半島のキリスト教徒の子弟を徴用して「スルタンの奴隷」として常備軍団に編成した制度を何というか。また、この制度による常備歩兵軍団を何というか。
Q3. オスマン帝国が非ムスリムの住民の宗教共同体に自治を認めた制度を何というか。
Q4. 16世紀初めにサファヴィー朝を建国し、シーア派(十二イマーム派)を国教と定めたのは誰か。
Q5. サファヴィー朝の最盛期を現出した君主は誰か。また、その首都はどこか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
( ア )年、メフメト2世はコンスタンティノープルを征服して( イ )帝国を滅ぼした。オスマン帝国は、征服地のキリスト教徒の子弟を徴集する( ウ )制度により、スルタン直属の常備歩兵軍団( エ )を組織した。また、非ムスリムの住民には( オ )制をしいて宗教共同体ごとの自治を認めた。
ア:1453 イ:ビザンツ ウ:デヴシルメ エ:イェニチェリ オ:ミッレト
オスマン帝国の基本事項を問う問題です。1453年のコンスタンティノープル征服はビザンツ帝国の滅亡であると同時に、中世から近世への転換点とされる重要な年号です。デヴシルメ・イェニチェリ・ミッレト制はオスマン帝国の統治制度として頻出の用語であり、それぞれの内容を正確に区別して理解しておく必要があります。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ×「プレヴェザの海戦」→「モハーチの戦い」 (2) ×「土地の所有権」→「徴税権」 (3) ○ (4) ○
(1)について:ハンガリーを破った戦いはモハーチの戦いです。プレヴェザの海戦はスペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊を破って地中海の制海権を握った海戦です。この二つは混同されやすいので注意が必要です。(2)について:ティマール制では騎士(シパーヒー)に与えられたのは徴税権のみでした。
オスマン帝国とサファヴィー朝の対立の背景と影響について、「スンナ派」「シーア派」「チャルディラーンの戦い」「火器」の語句を用いて120字以内で説明せよ。
スンナ派のオスマン帝国とシーア派(十二イマーム派)を国教とするサファヴィー朝は宗派的に対立した。1514年のチャルディラーンの戦いでは、火器を装備したオスマン軍が遊牧民の騎馬軍団からなるサファヴィー朝軍を破り、アナトリア東部を獲得した。(116字)
この問題では両帝国の対立を宗教的背景と軍事的展開の二つの面から整理する必要があります。宗教的背景として、スンナ派対シーア派の宗派対立を明示します。軍事的展開として、チャルディラーンの戦いにおける火器の優位に触れます。そのうえで、この対立がイスラーム世界を二分する構図を生んだという歴史的意義にまで言及できれば高得点です。