14〜17世紀、アジアの海と陸では、かつてない規模の交易ネットワークが広がっていました。
明は海禁のもと朝貢貿易を推進し、鄭和の大艦隊が諸国に朝貢を促しました。琉球やマラッカが中継貿易で繁栄し、ティムール朝のもとで高度な文化が生まれました。
16世紀に交易が活発化すると、日本銀やアメリカ大陸産の銀が中国に流入して一条鞭法が実施され、東南アジアや東アジアでは新興勢力が台頭しました。明は党争と農民反乱のなか1644年に滅亡し、女真のヌルハチが建てた後金を継ぐ清が新たな大国として登場します。
元末の中国では、白蓮教徒による紅巾の乱をきっかけに群雄が割拠しました。反乱のなかで頭角を現した貧農出身の朱元璋は、儒学の素養をもつ知識人の協力を得て勢力をのばし、1368年に南京で皇帝の座につき(洪武帝)、明を建てました。明軍に追われた元の王室は、モンゴル高原で王朝を維持しました。
洪武帝は、元代に政治の中枢を握っていた中書省を廃止(中書省の廃止)して皇帝に権力を集中させました。また、110戸を目安に1里を構成し、財力ある10戸を里長戸とする里甲制を実施して租税や土地の台帳を整備したほか、租税事務や治安維持に当たらせ、民生の安定をはかりました。土地の台帳として魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)、租税・課役の台帳として賦役黄冊(ふえきこうさつ)が作成されました。さらに、庶民教化のため6カ条の教訓(六諭)を定め、農村の末端にまで統制をおよぼしました。
官制・法制の面では、朱子学を官学として科挙を整備し、唐の律・令にならって明律・明令を制定しました。軍政の面では、一般の民戸と別に軍戸の戸籍を設けて衛所制を整備しました。北方の辺境には、洪武帝の息子たちが王として配置され、対モンゴル防衛を担いました。
明は国内統治と同様、対外関係においても強い統制政策をとり、民間人の海上交易を許さず(海禁)、周辺諸地域とのあいだで朝貢関係を結んで、政府の管理する朝貢貿易を推進しました。
海禁の背景には、沿岸部で活動する倭寇(前期倭寇)への対策がありました。民間人の海上交易は禁止されましたが、朝貢が認められた国から派遣された使節との交易(朝貢貿易)だけは認められていました。
朝貢貿易とは、周辺諸国が明の皇帝に対して使節を派遣し、貢ぎ物を献上する代わりに、皇帝から回賜(かいし)と呼ばれる返礼品を受け取る貿易形態です。明の皇帝は、自らを天下の中心に位置づけ、周辺国との関係を「上下関係」として秩序づけました。
朝貢国にとっては、回賜の価値が貢ぎ物を上回ることが多く、経済的に有利な取引でした。また、朝貢使節に随行する商人たちが、使節団の滞在中に交易を行うこともありました。こうして朝貢は、外交であると同時に実質的な貿易の場でもあったのです。
①海禁:民間人の海上交易を禁止する政策。倭寇(前期倭寇)対策が背景
②朝貢貿易:朝貢が認められた国の使節との交易。政府が管理する貿易形態
③朝貢は外交関係の確認であると同時に、実質的な貿易の場であった
洪武帝の死後、位を継いだ建文帝が勢力の削減をはかったが、北平(北京)を本拠とした燕王はこれに対抗して挙兵し(靖難の役)、南京を占領して帝位についた永楽帝は、北京に都を移し、みずから軍を率いてモンゴル高原に遠征するなど、積極的な対外政策をとりました。
永楽帝は、ムスリムの宦官鄭和(ていわ)に大艦隊を率いさせ、東南アジアからインド洋に前後7回にわたり派遣しました。鄭和はチャンパー王国と、マラッカ海峡に面した港市国家であるマラッカ王国を拠点にして東南アジアや、アフリカ東海岸を含むインド洋沿岸の諸国に明への朝貢を促し、朝貢使節を派遣した国は50以上にのぼりました。
こうした海の統制政策は、永楽帝の死後、明の対外政策が消極的になったために長つづきしませんでした。鄭和の大遠征の終了とともに、インド洋の諸港と中国を直結するルートはとだえましたが、かわって鄭和の遠征拠点であったマラッカ王国が対明貿易で繁栄に向かい、インド洋と東南アジアを中継する位置を利用して、東南アジア最大の交易拠点となりました。
鄭和の旗艦(宝船)は、全長120メートルを超えたとする記録がありますが、近年の研究ではこの数字は誇張であり、実際は60メートル前後だった可能性が指摘されています。いずれにしても、コロンブスのサンタ=マリア号(約25メートル)をはるかに上回る規模であり、当時の世界で最大級の艦隊でした。この規模の差は、15世紀初頭の時点でアジアの海洋技術がヨーロッパを大きく上回っていたことを示しています。
元朝直系のクビライの子孫が絶えたのち、モンゴル高原では東部のモンゴル諸集団と西部のオイラトとが勢力を競いました。北方では、明の物産を求めていたモンゴル諸集団が、朝貢貿易における使節派遣の回数や規模の制限を不満として、しばしば中国に侵入しました。
15世紀半ばにはオイラトが強大となり、明の皇帝を土木堡で捕らえ(土木の変)、北京を包囲しました。この頃から明は対外的に守勢に転じ、長城を改修して北方民族の侵入に備えるようになりました。
①派遣者:永楽帝、指揮官:ムスリムの宦官鄭和
②大艦隊を率いてインド洋からアフリカ東海岸まで前後7回の遠征
③諸国に明への朝貢を促し、朝貢使節を派遣した国は50以上
④遠征終了後、マラッカ王国が対明貿易で繁栄
⑤15世紀半ば、オイラトが土木の変で皇帝を捕虜に → 明は守勢に転換、長城を改修
15世紀初めに中山王によって統一された琉球(現在の沖縄)は、明の冊封を受け、明との朝貢貿易で得た物資を用いて東シナ海と南シナ海を結ぶ交易の要となりました。首都首里の外港である那覇には多くの福建系中国人が移り住み、中継港として発展しました。
琉球は地理的に東シナ海の中央に位置しており、明・日本・朝鮮・東南アジアの各地域をつなぐ中継貿易で大いに栄えました。中国産の絹織物や陶磁器を東南アジアに運び、東南アジアの香辛料や蘇木(染料)を中国や日本に運ぶという、海の交差点としての役割を果たしたのです。
朝貢体制のもとでは、マラッカや琉球のように領土の小さな国も中継貿易で栄えることができました。しかし16世紀に交易の競争が激化すると、特産品を生み出す広い後背地と強い軍事力をもつ国が交易の主役となっていきました。
①15世紀初めに中山王によって統一された琉球(現在の沖縄)
②明の冊封を受け、朝貢貿易で得た物資を用いて東シナ海と南シナ海を結ぶ交易の要に
③那覇に福建系中国人が移り住み、中継港として発展
④領土の小さな国も朝貢体制のもとで中継貿易で繁栄できた
マラッカ海峡は、インド洋と南シナ海を結ぶ海上交通の要衝です。14世紀末頃、マレー半島南部にマラッカ王国(ムラカ王国)が成立しました。
マラッカ王国は、鄭和の遠征をきっかけに急成長し、インド洋と東南アジアを中継する位置を利用して、マジャパヒト王国にかわる東南アジア最大の交易拠点となりました。マラッカ王国は明への朝貢貿易をつづける一方で、国王がイスラームに改宗して、西方のムスリム世界との関係も深めました。
東南アジアにおけるイスラームの受容は、マラッカ以前にさかのぼります。スマトラ島北部の港市サムドラ(パサイ)は、13世紀末にイスラームを受け入れた最初の東南アジア国家とされ、インド洋のムスリム商人との交易を通じてイスラームが伝播しました。マラッカのイスラーム化は、こうした東南アジアのイスラーム受容の流れの延長線上にあります。
マラッカには、インド洋からムスリム商人が香辛料・綿布・宝石・銀を、中国商人が南シナ海から陶磁器や絹を、またジャワの商人がモルッカ諸島(香料諸島)の香辛料やジャワ島の米をもたらしました。こうしてマラッカは、インド洋と南シナ海と東南アジアの流通網を結びつけ、発展する海の交易圏の中心になりました。
しかし1511年、ポルトガルがマラッカを軍事占領しました。ムスリム商人はスマトラ島やジャワ島に新たな交易の拠点をつくり、ポルトガルに対抗しました。
①14世紀末頃マレー半島南部に成立
②鄭和の遠征をきっかけに急成長し、マジャパヒト王国にかわる東南アジア最大の交易拠点に
③国王がイスラームに改宗し、西方のムスリム世界との関係を深めた
④1511年、ポルトガルが軍事占領
14世紀半ば、中央アジアのチャガタイ=ハン国は東西に分裂し、諸勢力の抗争のなかからティムールが頭角を現しました。ティムールは中央アジアにティムール朝を建てました。
ティムールはキプチャク=ハン国に打撃を与える一方、イル=ハン国崩壊後のイラン・イラク地域を征服し、アンカラの戦いではオスマン軍を破ってバヤジット1世を捕虜としました。彼はチンギス家の権威を尊重しつつ、トルコ系・モンゴル系遊牧民の軍事力とイラン系定住民の経済力や行政能力をたくみに結合しました。14世紀末には北インドに侵攻してデリー=スルタン朝の力を決定的に弱めました。さらに、モンゴル帝国の再興をめざして明討伐の東方遠征に出発しましたが、その途中で病没しました。
ティムール朝の時代には、イル=ハン国で成熟したイラン=イスラーム文化と中央アジアのトルコ=イスラーム文化とがまじわり、文芸や建築などの分野で高度な文化が生まれました。首都サマルカンドには壮大なモスクやマドラサが建設され、ティムール朝君主による文芸保護のもと、ペルシア語文学や写本絵画の傑作と並んで、トルコ語(チャガタイ語)の文学作品が現れました。
また自然科学でも、ティムール朝の君主ウルグ=ベクが建設した天文台を中心に、天文学や暦法が発達しました。
モンゴル帝国以来、中央ユーラシアではチンギス=カン家の男系子孫だけが君主となりうるというルールがありました。チンギス家出身ではないティムールは、チンギス家の娘婿(駙馬)や大将軍などの称号を用いて実権を握りました。モンゴル帝国の正統な後継者であることを示すことが、広大な領域を支配する上で政治的正当性を確保するために重要だったのです。
①チャガタイ=ハン国の分裂から頭角を現したティムールがティムール朝を建国
②アンカラの戦いでオスマン軍を破りバヤジット1世を捕虜に
③北インドに侵攻しデリー=スルタン朝の力を決定的に弱めた
④イラン=イスラーム文化とトルコ=イスラーム文化がまじわり高度な文化が発展
⑤ウルグ=ベクが天文台を建設、天文学や暦法が発達
日本では、14世紀に鎌倉幕府が倒れて南北朝が対立しましたが、14世紀末に南北朝の合一が果たされました。足利義満は、明の海禁によって民間貿易が困難になるなか、15世紀初めに明から「日本国王」に封ぜられて勘合貿易を始めました。
勘合(かんごう)とは、朝貢船が正式であることを証明するために支給された割り符です。勘合をもたない船の交易は認められませんでした。日本や琉球があつかった明の物資には陶磁器・生糸・絹織物・銅銭などがありました。
戦国時代に入ると、勘合貿易の利権は博多商人と結ぶ大内氏と、堺商人と結ぶ細川氏との間で争われるようになりました。
朝鮮半島では、元に服属していた高麗でも親元派と反元派の対立が続きましたが、倭寇を破って名声を高めた李成桂が、1392年に高麗を倒して朝鮮王朝(李朝)を建てました。首都は漢城(現在のソウル)に置かれました。
朝鮮は明と冊封関係を結び、科挙の整備や朱子学の導入など、明の制度にならった改革をおこないました。
15世紀前半の世宗(セジョン)の時代には、金属活字による出版や訓民正音(ハングル)の制定などの文化事業もおこなわれました。ハングルは母音と子音とを組み合わせた合理的な表音文字で、漢字を知らない民衆でも読み書きができるようにという目的で作られました。
ベトナムの黎朝(レ朝)も、明と朝貢関係を結び、明の制度を取り入れ、朱子学を振興しました。
| 項目 | 日本(室町幕府) | 朝鮮(李朝) |
|---|---|---|
| 建国者 | 足利尊氏(1336年) | 李成桂(1392年) |
| 明との関係 | 足利義満が「日本国王」に封ぜられ勘合貿易開始 | 冊封関係を結ぶ |
| 首都 | 京都 | 漢城(ソウル) |
| 主な輸出品 | 刀剣・銅・硫黄 | 高麗人参・綿布など |
| 文化的特徴 | 北山文化・東山文化 | 朱子学の導入、金属活字、訓民正音(ハングル)の制定 |
①倭寇を破った李成桂が高麗を倒し朝鮮王朝を建国(1392年)、首都:漢城
②科挙の整備・朱子学の導入など、明の制度にならった改革
③15世紀前半、世宗の時代に金属活字による出版・訓民正音(ハングル)制定
16世紀半ば、中国の周辺では、北方のモンゴルや東南沿海の倭寇の活動が激化して明を苦しめました(北虜南倭)。これは交易の利益を求める人々が明の統制政策を打破しようとする動きでした。当時モンゴルを統合したアルタン=ハーンは、しばしば長城をこえて侵入し、1550年には北京を包囲しました。
16世紀の倭寇(後期倭寇)の活動には、日本人のみならず中国人も多く含まれていました。日本の五島列島などを拠点に活動した中国出身の王直は、後期倭寇の有名な頭目の一人でした。
このような状況に直面して、明は従来の交易統制政策を緩和し、モンゴルとのあいだに交易場を設けるとともに、海禁をゆるめて民間人の海上交易を許しました。その結果、新たな銀山の開発と灰吹法の導入により急速に生産をのばした日本の銀、ついでアメリカ大陸のスペイン植民地で採掘された銀が大量に中国に流入しました。
民間交易の活発化とともに、東アジア・東南アジアにおける明の権威は衰えて朝貢体制は崩壊に向かい、貿易の利益を求める勢力がその軍事力を背景に競争する実力抗争の時代となりました。
13〜14世紀から15〜16世紀にかけて、アジアの交易は陸のシルクロード中心から海の交易ネットワーク中心へと移行しました。この転換には3つの構造的要因があります。①イスラーム商人の移動:モンゴル帝国の解体後、陸路の安全が失われ、インド洋海路を用いるムスリム商人が主役となった。②経済的重心の華南への移動:宋代以降の江南開発で中国の経済的重心が華南に移り、泉州・広州などの港湾都市が繁栄した。③商品の変化:軽量で高価値の香辛料・絹・陶磁器など海上輸送に適した商品が主要な交易品となった。
海外からの銀の流入により、中国では銀が主要な貨幣となりました。16世紀には、各種の税や労役を銀に一本化して納入する一条鞭法の改革が実施されました。
国際商業の活発化は、中国国内の商工業の発展をうながしました。この時期に絹織物や生糸などの家内制手工業が発展した長江下流域では、人口に比べて穀物が不足するようになり、長江中流域の湖広(現在の湖北・湖南省)が新たな穀倉地帯として成長しました。江西省の景徳鎮に代表される陶磁器も生産をのばして、生糸とともにヨーロッパやアメリカ大陸にまで販路を広げました。
科挙の合格者や官僚経験者は、郷里の名士として勢力をもちました。このような人々を郷紳(きょうしん)といいます。郷紳は都市に居住し、庭園の建設や骨董の収集など文化生活を楽しみました。
しかし、軍事費の増大により重税を課された農民の生活は苦しく、商工業発展の利益はもっぱら商人や官僚の手に流れ込みました。山西商人や徽州(新安)商人など、明の政府と結びついて塩の専売などで利益を得た特権商人は、全国的に活動して巨大な富を築きました。大都市には、同郷出身者や同業者の互助・親睦をはかるための会館や公所もつくられました。
①後期倭寇と北方モンゴルの圧力(北虜南倭)
②明が海禁を緩和し民間の海上交易を許可
③新たな銀山の開発と灰吹法の導入で急増した日本銀・アメリカ大陸産の銀が大量に中国へ流入
④税や労役を銀に一本化する一条鞭法が実施
⑤山西商人・徽州(新安)商人など特権商人が台頭
儒学のなかでは、16世紀初めに王守仁(王陽明)が、無学な庶民や子どもでも本来その心のなかに真正の道徳をもっていると主張し、外面的な知識や修養に頼る当時の朱子学の傾向を批判して、学者のみならず庶民のあいだにも広い支持を得ました(陽明学)。
明末には科学技術への関心も高まりました。李時珍の『本草綱目』、徐光啓の『農政全書』、宋応星の『天工開物』などの科学技術書がつくられ、日本など東アジア諸国にも影響を与えました。
当時の科学技術の発展には、16世紀半ば以降東アジアに来航したキリスト教宣教師の活動も重要でした。イエズス会のマテオ=リッチらが中国に入って布教をおこないました。日本ではキリスト教が庶民層にまで広まりましたが、中国では、ヨーロッパの科学技術に関心をもつ士大夫層がキリスト教を受け入れました。マテオ=リッチが作製した『坤輿万国全図』は、中国に新しい地理知識を広め、日本などにも伝えられました。また、ドイツ出身のアダム=シャール(湯若望)らが西洋暦法による『崇禎暦書』の編纂を指導し、徐光啓とマテオ=リッチの共訳による『幾何原本』(『ユークリッド幾何学』の翻訳)も刊行されました。
また、商業の発展とともに、小説や技術関係の実用書などが多数出版されて、書物の購買層は広がりました。『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』などの小説が普及し、講談や芝居も都市を中心に庶民の人気を得ました。
①王守仁(王陽明)が陽明学を提唱 → 庶民にも広い支持
②李時珍『本草綱目』、徐光啓『農政全書』、宋応星『天工開物』(科学技術書)
③日本ではキリスト教が庶民層に、中国では士大夫層が受容 → 対比が重要
④マテオ=リッチが『坤輿万国全図』を作製、アダム=シャールらが『崇禎暦書』を編纂、『幾何原本』も刊行
⑤小説や技術関係の実用書が多数出版され書物の購買層が広がった
16世紀の東南アジアでは、ポルトガルに占領されたマラッカのように、ヨーロッパ勢力の支配下に入った地域もありました。ポルトガルに続いて東南アジアに進出したスペインは、フィリピンを占領し、マニラを拠点として交易をおこないました。スペイン支配下のアメリカ大陸で採掘された銀がマニラへと運ばれ、おもに中国に流入しました。一方、アジアからは中国の絹や陶磁器、南アジア産の綿布などがマニラ経由でアメリカ大陸に運ばれました。
一方、同時期の東南アジアには、交易の利益や外国との交流を利用して、強力な国家を建設した国々もありました。
諸島部では、アチェ王国やマタラム王国などのイスラーム国家が大きく成長しました。インドシナ半島では、タイのアユタヤ朝やビルマのタウングー朝など上座部仏教を奉ずる国々が、ヨーロッパから伝来した新式の火器なども活用しながら、米や鹿皮の輸出で繁栄しました。
①スペインがフィリピンを占領しマニラを拠点に交易
②諸島部:アチェ王国・マタラム王国(イスラーム国家)
③大陸部:アユタヤ朝(タイ)・タウングー朝(ビルマ)(上座部仏教圏)
日本では、織田信長・豊臣秀吉が南蛮貿易の利益を得つつ、新式の鉄砲などの火器を活用して日本の統一をめざしました。秀吉は天下統一をめざして朝鮮に侵攻しました(日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という)。しかし、明の援軍や朝鮮の李舜臣が率いた水軍、民間の義兵などの抵抗を受け、秀吉の死とともに日本軍は撤退しました。
秀吉の後に実権を握って江戸幕府を開いた徳川家康は、東南アジアに朱印船を派遣し、香木・鹿皮などの東南アジア物産や、中国の生糸・絹織物を輸入しました。東南アジアの各地では、中国の貿易商人による華人街に加えて、日本人による日本町もつくられました。
日本の銀と中国の生糸の交易は大きな利益をもたらすものでしたが、明は海禁をゆるめたのちも日中間の直接交易を許しませんでした。そのため、1557年に居住権を得たマカオを拠点としたポルトガルや、台湾に拠点を築いたオランダなど、ヨーロッパ勢力が中継貿易の利益を得ようと争いました。
しかし江戸幕府は、幕府の統治の基礎を固めるため、キリスト教禁止や交易統制を強化し、1630年代に日本人の海外渡航やポルトガル人の来航を禁じました(いわゆる「鎖国」)。
①豊臣秀吉が朝鮮に侵攻(壬辰・丁酉の倭乱)→ 明の援軍・李舜臣の水軍・義兵の抵抗で撤退
②徳川家康が朱印船貿易を展開、東南アジアに日本町が形成
③ポルトガルがマカオ、オランダが台湾を拠点に中継貿易
④江戸幕府がキリスト教禁止・交易統制を強化(「鎖国」)
中国の東北地方には、狩猟・農耕生活を営む女真(ジュシェン、のち満洲と改称)が住み、明の支配を受けていました。この地方でも高麗人参や毛皮の交易が盛んになり、その利益をめぐる諸集団の争いが激化しました。
そのなかで16世紀末、ヌルハチ(太祖)が女真の統一に成功し、1616年に建国して国号を後金としました。ヌルハチは八旗の編制や満洲文字の制作など、独自の国家建設を進め、明との戦争を開始しました。
第2代のホンタイジ(太宗)は、内モンゴルのチャハルを従えると、支配下の満洲人・漢人・モンゴル人に推戴されて1636年に皇帝と称し、国号を清と定めました。
朝鮮半島や東北地方での戦争によって、明の財政難は深刻化しました。万暦時代の初め、実権を握った張居正は中央集権化による財政の立て直しを試みましたが、かえって地方出身の官僚たちの反発をまねきました。東林派と非東林派との党争によって政治は混乱し、重税と負担のために各地で農民反乱がおこりました。
明は李自成の反乱軍に北京を占領されて滅亡しました(1644年)。
①ヌルハチが女真を統一し1616年に後金を建国、八旗を編制
②ホンタイジが1636年に皇帝を称し国号を清と改める
③東林派と非東林派の党争で政治が混乱
④李自成の反乱軍が北京を占領し明が滅亡(1644年)
14〜17世紀のアジアには、陸と海の両方にまたがる巨大な交易ネットワークが形成されていました。明は海禁と朝貢貿易で対外関係を統制しましたが、16世紀に交易の活発化とともに海禁が緩和されると、日本銀やアメリカ大陸産の銀が中国に大量に流入し、朝貢体制は崩壊に向かいました。
東南アジアではイスラーム国家や上座部仏教国が台頭し、東アジアでは豊臣秀吉の朝鮮侵攻、江戸幕府の鎖国、ヌルハチによる女真統一と清の建国など、各地で新興勢力が生まれました。明は財政難と党争のなかで李自成の反乱軍によって滅亡しました(1644年)。
このアジア交易世界は、ヨーロッパの大航海時代に先行するものでした。ポルトガルやスペインがアジアに到達したとき、そこにはすでに成熟した交易秩序が存在していたのです。ヨーロッパ勢力の進出は、この既存の秩序を変容させていくことになります。
「歴史総合」では、近代化以前の「アジアの交易ネットワーク」が近代のグローバル化の前史として扱われます。ヨーロッパの大航海時代だけでなく、それに先行するアジア独自の交易世界が存在したことを理解しておくと、近代以降の「ヨーロッパのアジア進出」の背景をより深く理解できます。
明は海禁と朝貢貿易でアジアの交易秩序を主導したが、16世紀に交易が活発化すると海禁を緩和。日本銀・アメリカ大陸産の銀の流入で一条鞭法が実施された。東南アジア・東アジアで新興勢力が台頭し、明は党争と農民反乱のなか1644年に滅亡、女真のヌルハチが建てた後金を継ぐ清が台頭した。
Q1. 明が民間の海上貿易を禁止した政策を何と呼ぶか。
Q2. 永楽帝の命を受けて大艦隊を率い、諸国に明への朝貢を促した宦官は誰か。
Q3. マラッカ海峡に位置し、イスラームに改宗して東西交易の結節点となった王国は何か。
Q4. 朝鮮王朝の世宗の時代に制定された、朝鮮語を表記するための表音文字を何と呼ぶか。
Q5. 洪武帝が元代の中書省にかわって皇帝に権力を集中させるためにとった措置は何か。
Q6. 16世紀に各種の税や労役を銀に一本化して納入する改革を何と呼ぶか。
Q7. 朱子学の傾向を批判し、庶民のあいだにも広い支持を得た学問を何と呼び、その提唱者は誰か。
Q8. 女真を統一して1616年に後金を建国した人物は誰か。
Q9. 明を滅亡させた反乱軍の指導者は誰か。また明の滅亡は何年か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
明の第3代皇帝( ア )は、ムスリムの宦官( イ )に大艦隊を率いさせ、東南アジアからインド洋沿岸の諸国に明への( ウ )を促した。東南アジアでは( エ )海峡沿いに( エ )王国が成立し、( オ )に改宗して東西交易の結節点となった。
ア:永楽帝 イ:鄭和 ウ:朝貢 エ:マラッカ オ:イスラーム
鄭和の南海遠征と、マラッカ王国の成立・イスラーム化を問う基本問題です。鄭和の遠征の目的が軍事的征服ではなく、朝貢体制の拡大にあったことが重要です。マラッカ王国はイスラームに改宗してムスリム商人のネットワークに参入し、急速に発展しました。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ×「メフメト2世」→「バヤジット1世」 (2) ○ (3) ○ (4) ×「仏教」→「朱子学(性理学)」
(1)について:アンカラの戦い(1402年)でティムールに敗れたのはバヤジット1世です。メフメト2世はコンスタンティノープルを征服した(1453年)スルタンであり、時代が異なります。(4)について:朝鮮王朝が統治理念としたのは朱子学(性理学)です。高麗時代には仏教が盛んでしたが、李成桂は仏教を抑制し、朱子学を国家の基本理念としました。
14〜16世紀のアジア海上交易において、明の朝貢貿易体制が果たした役割について、「海禁」「鄭和」「マラッカ」「琉球」の語句を使って120字以内で説明せよ。
明は海禁政策で民間貿易を禁じ、朝貢形式でのみ交易を認めた。鄭和の南海遠征で各地に朝貢を促し、マラッカや琉球は明に朝貢する一方、中継貿易で東南アジア・中国・日本をつなぐ海上交易圏を形成し繁栄した。(100字)
この問題は、明の朝貢貿易体制がアジア海上交易のなかでどのような役割を果たしたかを問うものです。ポイントは三つあります。第一に、海禁政策によって民間貿易が禁じられ、朝貢が唯一の公認ルートとなったこと。第二に、鄭和の遠征が朝貢体制の拡大を目的としていたこと。第三に、マラッカや琉球が朝貢体制のもとで中継貿易によって繁栄したこと。この三段階を4つの指定語句を用いて整理する必要があります。