11世紀、中央アジアからトルコ系のセルジューク朝が西アジアに進出し、イスラーム世界の政治地図を塗り替えました。その勢力拡大はビザンツ帝国を圧迫し、西ヨーロッパのキリスト教勢力による十字軍の遠征を招きます。
この記事では、セルジューク朝の台頭から十字軍の開始、サラディンによるイェルサレム奪回、そしてマムルーク朝によるモンゴル撃退までを学びます。
10世紀以降、アッバース朝カリフの政治的権威は衰え、各地に地方政権が自立するようになっていました。こうしたなか、中央アジアのトルコ系遊牧民の一派であるセルジューク家が勢力を拡大します。
1038年、セルジューク朝の創始者トゥグリル=ベクがイランに進出してセルジューク朝を建てました。トゥグリル=ベクはスンナ派を掲げ、1055年にはブワイフ朝を追放してバグダードに入城し、名目的な存在となっていたアッバース朝カリフからスルタン(支配者)の称号を授けられました。
スルタンとは「支配者」を意味し、カリフが宗教的権威を保持したまま、政治・軍事の実権をスルタンに委ねるという体制が成立しました。これ以降、スルタンはイスラーム諸国の君主の称号として用いられるようになりました。
スルタン制の成立により、イスラーム世界では宗教的権威(カリフ)と政治的実権(スルタン)が分離する体制が定着しました。
セルジューク朝は、軍事面では遊牧部族軍と並んで同じトルコ系のマムルークを重用し、統治面ではイラン系の官僚を登用しました。なかでもイラン人の宰相ニザーム=アルムルクはペルシア語で『統治の書』を著し、正しい君主のあり方を説きました。また、彼はイスラーム諸学を振興し、司法や行政を担うウラマーを育てるためのマドラサ(学院)を各地につくりました。なかでもバグダードに設立されたニザーミーヤ学院が有名です。
マドラサで学んだ者のなかでは、ガザーリーが名高く、イスラーム諸学の完成者として知られる一方、後半生では神秘主義(スーフィズム)に傾倒して、これを大成させました。イスラーム法に従いつつ神への愛を説くその神秘主義思想は、スンナ派思想の展開に大きな影響を与えました。また、セルジューク朝の庇護を受けた数学者・天文学者のウマル=ハイヤームは、すぐれたペルシア語による四行詩集(『ルバイヤート』)も残しました。
セルジューク朝では、イクター制と呼ばれる軍事封土制度が広くおこなわれました。ブワイフ朝時代に始まったこの制度は、軍事奉仕の代償として軍人に農村などからの徴税権を付与するもので、こののち西アジアの諸政権で継承されました。
セルジューク朝は1071年、マンジケルトの戦いでアナトリア東部のビザンツ帝国軍を破り、配下の遊牧部族軍をアナトリアの西方へ送り込んで、その大半を支配下に入れました。こうしたセルジューク朝の伸張に対抗するために西ヨーロッパで十字軍が組織され、シリアに侵入してイェルサレムなどを奪いました。アナトリアに定着したセルジューク朝の一派は、都市コンヤを拠点にルーム=セルジューク朝を建て(1077年〜1308年)、ビザンツ帝国と対峙しながらアナトリアのイスラーム化を進めました。「ルーム」とは「ローマ(ビザンツ)の地」を意味し、当時のアナトリアの別称です。
①トゥグリル=ベク:セルジューク朝の創始者。スンナ派を掲げ、1055年ブワイフ朝を追放してバグダード入城、カリフからスルタン(支配者)の称号を授かる
②スルタン:支配者の意。これ以降、イスラーム諸国の君主の称号として用いられるようになる
③マドラサ:イスラーム法学を中心とする学院。ニザーミーヤ学院が著名
④マンジケルトの戦い(1071年):セルジューク朝がアナトリア東部でビザンツ帝国軍を破り、アナトリアの大半を支配下に入れる
マンジケルトの戦いで危機に陥ったビザンツ帝国は、西ヨーロッパのキリスト教世界に軍事援助を求めました。これを受けて、1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議で聖地イェルサレムの回復を呼びかけ、十字軍の遠征が決定されました。
十字軍とは、西ヨーロッパのキリスト教勢力が聖地イェルサレムの支配をめぐって行った一連の軍事遠征です。その背景には、聖地巡礼の伝統、ビザンツ帝国の援助要請、教皇権の拡大をめざすローマ教皇の思惑、騎士や諸侯の新領土獲得への意欲など、複合的な要因がありました。
1096年に出発した第1回十字軍は、1099年にイェルサレムを占領し、シリアの沿岸部にイェルサレム王国をはじめとする複数の十字軍国家を建て、現地の住民を支配しました。セルジューク朝は十字軍の侵入に対して有効に抵抗できず、こうした十字軍国家は周辺のイスラーム諸政権と同盟や対立を繰り返しながら、13世紀末まで存続しました。
十字軍は、西ヨーロッパ側からみれば「聖地回復のための遠征」ですが、西アジアのイスラーム世界からみれば「外部勢力による侵攻」でした。また、第4回十字軍(1202〜04年)ではコンスタンティノープルが十字軍に占領されるなど、同じキリスト教世界のビザンツ帝国に対する攻撃も行われました。このように、十字軍は宗教的動機だけでなく、政治・経済的な動機が複雑に絡み合った出来事として理解する必要があります。
十字軍に対するイスラーム側の反攻を主導したのが、クルド系軍人のサラーフ=アッディーン(サラディン)です。サラーフ=アッディーンは、はじめザンギー朝、ついでファーティマ朝に仕えて権力を握り、ファーティマ朝を廃してエジプトにアイユーブ朝をおこしました。なお、ファーティマ朝の名はムハンマドの娘ファーティマにちなんでおり、王家がムハンマドの直系の血統を引くことを示す王朝名でした。アイユーブ朝は、ファーティマ朝時代のシーア派にかわってエジプトでスンナ派の支配を回復させるとともに、イクター制を採用し、エジプトからシリアにかけての広大な領域を支配しました。
サラディンは1187年に十字軍からイェルサレムを奪回しました。これに対して西ヨーロッパは第3回十字軍(1189〜92年)を派遣しましたが、イェルサレムの奪還には至りませんでした。
十字軍の成否は、西ヨーロッパ側の動員力だけでなく、イスラーム側の結束の度合いに大きく左右されました。サラディンによるイスラーム諸勢力の統合が、イェルサレム奪回を可能にしたのです。
①クレルモン公会議(1095年):ウルバヌス2世が十字軍を提唱
②第1回十字軍(1096〜99年):イェルサレム占領、イェルサレム王国を建設
③アイユーブ朝(1169年〜):サラーフ=アッディーン(サラディン)が建国。エジプトからシリアを支配
④ 1187年:サラーフ=アッディーンが十字軍からイェルサレムを奪回
⑤ 第3回十字軍(1189〜92年):イェルサレム奪還に失敗
アイユーブ朝では、トルコ系のマムルークと呼ばれる奴隷出身の軍人が重用されていました。13世紀半ば、エジプト・シリアの支配権はアイユーブ朝からマムルーク朝へとかわりました。アイユーブ朝君主によるマムルークの重用の結果、彼らのなかの有力者がスルタンの地位を引き継ぎ、エジプトにマムルーク朝を建てたのです。
セルジューク朝のホラズム総督が自立して建てたホラズム朝は、セルジューク朝が衰退すると中央アジアからイランへと勢力を広げ、13世紀初頭にはアッバース朝の宗主権を否定するほどの大国となりました。しかし1219年、チンギス=カン率いるモンゴル軍の侵攻を受け、短期間で壊滅的な打撃を受けて滅亡しました。ホラズム朝の滅亡はモンゴルの西方進出の起点となり、その後の西アジア政治に決定的な影響を与えました。
13世紀、モンゴル帝国の西征軍(フレグの西征)が西アジアに侵攻し、1258年にバグダードを攻略してアッバース朝のカリフを殺害し、500年余り続いたアッバース朝は滅亡しました。
マムルーク朝の第5代スルタンバイバルス(在位1260〜77年)は、1260年のアイン=ジャールートの戦いでシリア方面への進出を試みたモンゴル勢力を破り、その西進を阻止しました。さらにバイバルスは十字軍を破り、まもなく十字軍国家は消滅しました。マムルーク朝は、アッバース家のカリフをカイロに擁立し、イスラームの聖地メッカとメディナを保護下に置いて、イスラーム世界の盟主としてふるまいました。
フレグの建てたイル=ハン国は、イラン・イラクを支配しながら当初はイスラーム教を軽視しましたが、第7代ガザン=ハンがイスラーム教に改宗してムスリム社会の支持を得ました。14世紀前半には、イル=ハン国とマムルーク朝のあいだに和約が結ばれ、それぞれの統治が安定しました。マムルーク朝のもとではナイル川の治水管理が進んで農業生産力が向上し、首都カイロは商業・手工業の中心として栄えました。カイロを拠点とするカーリミー商人らが、南アジア・東南アジアからもたらされた香辛料を扱う交易に従事し、歴代のスルタンは彼らと結んで利潤を独占しました。また、スルタンや有力な軍人はイスラーム教にもとづく善行として、カイロ市内にモスクやマドラサ、病院などを建設し、土地や商業施設を寄進(ワクフ)してその運営をはかりました。ただし、14世紀半ば以降は黒死病(ペスト)のたびかさなる流行が都市の繁栄に打撃を与えました。
| 王朝 | 建国者 | 首都 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| セルジューク朝 | トゥグリル=ベク | バグダードなど | トルコ系。スルタンの称号。マドラサの整備 |
| アイユーブ朝 | サラーフ=アッディーン(サラディン) | カイロ | クルド系。イェルサレム奪回。スンナ派復興 |
| マムルーク朝 | マムルーク軍人 | カイロ | 奴隷出身軍人の王朝。モンゴル撃退 |
①マムルーク:奴隷出身の軍人。アイユーブ朝からマムルーク朝へ支配権が移った
② 1258年:モンゴル軍がバグダードを攻略しアッバース朝のカリフを殺害、アッバース朝が滅亡
③バイバルス(在位1260〜77年):十字軍を破り、モンゴル勢力の西進も阻止
④ 14世紀前半にイル=ハン国とマムルーク朝のあいだに和約が結ばれ、統治が安定
セルジューク朝からマムルーク朝にいたる時代は、政治的には激動の時代でしたが、イスラーム世界の学問・文化は途絶えることなく発展を続けました。
イスラーム世界では、ギリシア語の哲学・科学文献がアラビア語に翻訳される運動が8〜10世紀に盛んに行われました。アッバース朝のバグダードに設けられた知恵の館(バイト=アルヒクマ)はその中心でした。この知的蓄積のうえに、独自の学問が花開きます。
| 分野 | 学者 | 業績 |
|---|---|---|
| 医学 | イブン=シーナー | 『医学典範』を著し、ヨーロッパの大学でも教科書として使用された |
| 哲学 | イブン=ルシュド | アリストテレス哲学の注釈を行い、西ヨーロッパのスコラ学に影響を与えた |
| 数学 | フワーリズミー | 代数学(アルジェブラ)の基礎を築いた |
| 地理・旅行 | イブン=バットゥータ | 『大旅行記』でユーラシア・アフリカ各地の情報を記録 |
| 歴史 | イブン=ハルドゥーン | 『世界史序説』で王朝の興亡を分析し、歴史哲学の先駆けとなった |
これらの学問的成果は、のちに西ヨーロッパに伝わり、12世紀ルネサンスやスコラ哲学の発展に貢献しました。イスラーム世界は、ギリシア・ローマの知的遺産を保存・発展させ、ヨーロッパに橋渡しする役割も果たしたのです。
政治的な動乱のなかでも、イスラーム世界の商業ネットワークは維持されました。インド洋交易や東西の陸上交易路を通じて、物資だけでなく学問・技術・芸術が広範囲に伝播しました。中国から伝わった製紙法はアッバース朝期の文化を支え、のちにイベリア半島やシチリア島を経てヨーロッパにも伝えられました。モスク(礼拝所)やマドラサの建築は各地に広がり、アラベスクやカリグラフィー(アラビア書道)はイスラーム美術の特色となりました。
中世の西ヨーロッパでは、トレドを中心にイブン=シーナーやイブン=ルシュドらのアラビア語の著作や古代ギリシア文献のアラビア語訳書が盛んにラテン語に翻訳され、これは12世紀ルネサンスへとつながりました。数学では、インド起源の数字がイスラーム世界を経由して伝わり、「アラビア数字」としてヨーロッパに定着しました。
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 1038年 | セルジューク朝成立。トゥグリル=ベクが建国 |
| 1055年 | トゥグリル=ベクがブワイフ朝を追放してバグダードに入城。カリフからスルタン(支配者)の称号を授かる |
| 1071年 | マンジケルトの戦い。セルジューク朝がアナトリア東部でビザンツ帝国軍を破る |
| 1095年 | クレルモン公会議。ウルバヌス2世が十字軍を提唱 |
| 1096〜99年 | 第1回十字軍。1099年にイェルサレムを占領、イェルサレム王国を建設 |
| 1169年 | アイユーブ朝成立。サラーフ=アッディーン(サラディン)が権力を掌握し、1171年にファーティマ朝を廃してスンナ派を復興 |
| 1187年 | サラーフ=アッディーンが十字軍からイェルサレムを奪回 |
| 1189〜92年 | 第3回十字軍。イェルサレム奪還に失敗 |
| 1250年 | マムルーク朝成立(エジプト) |
| 1258年 | モンゴル軍がバグダード攻略、アッバース朝滅亡 |
| 1260〜77年 | バイバルスが十字軍を破り、モンゴル勢力の西進を阻止 |
| 1291年 | アッコン陥落。十字軍国家の最後の拠点が消滅 |
11〜13世紀の西アジアは、トルコ系のセルジューク朝の台頭、西ヨーロッパからの十字軍、サラディンによるイスラーム勢力の結集、モンゴルの侵攻と、大きな政治変動が相次いだ時代でした。しかし、こうした激動のなかでもイスラーム文明は途絶えることなく発展を続け、むしろ多様な民族の参加によって豊かさを増しました。マムルーク朝がモンゴルの侵攻を阻止したことで、エジプトを中心にイスラーム文化圏はその後も存続し、やがてオスマン帝国の台頭へとつながっていきます。
十字軍を契機とした東西交流の拡大は、歴史総合で学ぶ「諸地域の結びつき」の重要な事例です。香辛料・絹織物などの東方物産への需要が高まり、のちの大航海時代の動機のひとつとなりました。また、イスラーム文化が西ヨーロッパに伝わった経路は、「文明の交流と対立」を考えるうえで重要なテーマです。
トルコ系のセルジューク朝がスルタン制を確立し、ビザンツ帝国を圧迫した結果、十字軍が開始された。サラディンのアイユーブ朝がイェルサレムを奪回し、マムルーク朝がモンゴルを撃退してイスラーム世界を守った。(98字)
Q1. セルジューク朝の創始者で、1055年にブワイフ朝を追放してバグダードに入城し、カリフからスルタンの称号を授けられた人物は誰か。
Q2. セルジューク朝の宰相が各地に建設した、イスラーム法学を中心とする教育機関を何というか。
Q3. 1095年のクレルモン公会議で十字軍を呼びかけたローマ教皇は誰か。
Q4. アイユーブ朝を建てた人物で、1187年にイェルサレムを奪回したのは誰か。
Q5. 1260年にモンゴル軍を撃退したマムルーク朝のスルタンは誰か。また、この戦いの名称は何か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
11世紀、トルコ系遊牧民が建てた( ア )朝の( イ )は、バグダードに入城してアッバース朝カリフから( ウ )の称号を授けられた。1071年の( エ )の戦いでは( ア )朝がビザンツ帝国に大勝し、トルコ人の( オ )(小アジア)進出が進んだ。
ア:セルジューク イ:トゥグリル=ベク ウ:スルタン エ:マンジケルト オ:アナトリア
セルジューク朝の基本事項を確認する問題です。スルタンは「支配者」の意味で、これ以降イスラーム諸国の君主の称号として用いられるようになりました。マンジケルトの戦い(1071年)はトルコ人のアナトリア進出の契機であり、のちの十字軍やオスマン帝国の前史としても重要です。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
1095年、ローマ教皇( ア )は( イ )公会議で聖地回復のための遠征を呼びかけた。第1回十字軍は1099年にイェルサレムを占領したが、のちに( ウ )朝を建国した( エ )が1187年にイェルサレムを奪回した。13世紀にはモンゴル軍がバグダードを攻略してアッバース朝を滅ぼしたが、( オ )朝のバイバルスがアイン=ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退した。
ア:ウルバヌス2世 イ:クレルモン ウ:アイユーブ エ:サラディン オ:マムルーク
十字軍からマムルーク朝にいたる流れを一連で押さえる問題です。サラディン(サラーフ=アッディーン)はクルド系軍人で、ファーティマ朝を廃してエジプトにアイユーブ朝をおこした人物です。マムルーク朝は奴隷出身の軍人(マムルーク)が建てた王朝で、モンゴル軍の撃退と十字軍国家の駆逐の両方を成し遂げました。
11世紀後半から13世紀にかけて、西アジアの政治状況はどのように変化したか。「セルジューク朝」「十字軍」「サラディン」「マムルーク朝」の語句を使って120字以内で説明せよ。
セルジューク朝がビザンツ帝国を圧迫した結果、十字軍が西アジアに侵攻してイェルサレムを占領した。その後、サラディンがイスラーム勢力を統合してイェルサレムを奪回し、マムルーク朝がモンゴル軍を撃退してイスラーム世界を防衛した。(108字)
この時代の西アジアの変化を、4つの指定語句を使って因果関係の流れとして説明する問題です。セルジューク朝のビザンツ圧迫→十字軍の開始→サラディンの反攻→マムルーク朝のモンゴル撃退、という展開を時系列に沿って記述しましょう。