7世紀初め、アラビア半島で生まれたイスラーム教は、わずか100年余りで西アジア・北アフリカ・イベリア半島にまたがる大帝国を築きました。
この記事では、アラビア半島の自然環境からムハンマドの活動、正統カリフ時代の大征服、ウマイヤ朝・アッバース朝の成立までを学びます。
アラビア半島は、大部分が砂漠と乾燥地帯で占められています。この厳しい自然環境のなかで、人々は大きく2つの生活様式を営んでいました。
砂漠ではベドウィンと呼ばれる遊牧民がラクダやヒツジを飼育しながら移動生活を送っていました。彼らは部族を単位とする社会を形成し、部族間の連帯と相互扶助を重視しました。
一方、半島の西部にはヒジャーズ地方と呼ばれる地域があり、紅海沿岸の交易路に沿ってメッカやメディナ(ヤスリブ)などのオアシス都市が発達しました。なかでもメッカは、古くからカーバ神殿を擁する宗教的中心地であると同時に、南北の隊商交易の中継地として繁栄していました。
メッカの有力部族クライシュ族がカーバ神殿の管理と隊商交易を握り、大きな経済力をもっていました。イスラーム教の成立以前、アラビア半島では多神教が信仰されており、カーバ神殿には多くの神々の偶像が祀られていました。
アラビア半島南部のイエメン地方には独自の農耕文明が栄え、乳香・没薬(もつやく)などの香料を特産品とするインド洋交易の要衝でもありました。この地域の交易路はのちにイスラーム商業圏の基盤ともなります。
また、イスラーム教が成立する以前から、西アジアには多数のキリスト教徒が存在していました。なかでも、公会議で異端とされたネストリウス派はシリア・イラク・中央アジアに広まり、単性論派(コプト教会やアルメニア教会など)はエジプトやシリアで強い勢力をもっていました。こうした多様な宗教環境のなかにイスラーム教は誕生しました。
①ベドウィン:アラビア半島の遊牧民。部族を単位として砂漠で移動生活を営む
②メッカ:ヒジャーズ地方のオアシス都市。カーバ神殿があり、隊商交易の中継地として繁栄
③カーバ神殿:メッカにある神殿。イスラーム以前は多神教の聖地、イスラーム教成立後は最大の聖地
④クライシュ族:メッカの有力部族。カーバ神殿の管理権と交易の実権を掌握
570年ごろ、メッカのクライシュ族ハーシム家にムハンマドが生まれました。幼くして両親を亡くし、商人として活動するなかで、貧富の格差や道徳の乱れに心を痛めていました。610年ごろ、メッカ郊外の洞窟で瞑想中に大天使ジブリールを通じて神(アッラー)の啓示を受けたとされ、預言者としての活動を開始しました。
ムハンマドは、みずからを唯一神アッラーの言葉を預けられた預言者であると称し、人々にアッラーへの絶対帰依(イスラーム)を説き、偶像崇拝を否定しました。この教えは、メッカで多神教の聖地カーバ神殿を管理して利益を得ていた有力者たちの反発を招きました。
メッカの有力者たちによる迫害を受けたムハンマドと信者たちは、622年にメディナ(ヤスリブ)に移住しました。この出来事をヒジュラ(聖遷)といい、のちにイスラーム暦(ヒジュラ暦)の紀元となりました。メディナでムハンマドは、部族の違いを超えた信仰にもとづく共同体=ウンマを形成しました。
630年、ムハンマドはメッカを征服し、カーバ神殿から偶像を取り除いてイスラーム教の聖地としました。その権威にしたがって多くのアラブ諸部族が従い、ウンマは有力な政治的・軍事的勢力となりました。632年にムハンマドは亡くなりました。
イスラーム教は、それまでの部族単位の社会に代わる新しい結合原理を提供しました。「神の前の平等」という理念が、分裂していたアラビア半島を統一する力となったのです。
イスラーム教の聖典はクルアーン(コーラン)で、アッラーの言葉がアラビア語で記されたものとされます。信仰の基本は六信五行にまとめられます。
| 六信(信じるべき6つ) | |
|---|---|
| 神(アッラー) | 唯一絶対の神 |
| 天使 | 神の言葉を伝える存在(ジブリールなど) |
| 啓典 | クルアーン、旧約聖書、新約聖書などの聖典 |
| 預言者 | ムハンマドを最後の預言者とし、モーセやイエスも預言者に含める |
| 来世 | 最後の審判と来世の存在 |
| 天命(予定) | すべてが神の意志によるという信仰 |
| 五行(実践すべき5つ) | |
| 信仰告白(シャハーダ) | 「アッラーの他に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」と唱える |
| 礼拝(サラート) | 1日5回、メッカの方角に向かって礼拝する |
| 喜捨(ザカート) | 困窮者への施しを行う |
| 断食(サウム) | ラマダーン月の日中に飲食を断つ |
| 巡礼(ハッジ) | 可能であれば一生に一度メッカを巡礼する |
イスラーム教はユダヤ教・キリスト教と同じ一神教の系譜に属し、モーセやイエスも預言者として認めている点が特徴です。ただし、ムハンマドが「最後にして最大の預言者」とされます。また、すべてのムスリムは神の前に平等であり、一般の信徒と神を仲介する聖職者は存在しません。ユダヤ教徒とキリスト教徒は「啓典の民」として信仰の自由を認められました。
①ヒジュラ(622年):メッカからメディナへの移住。イスラーム暦の紀元
②ウンマ:部族を超えた信仰にもとづく共同体
③クルアーン:イスラーム教の聖典。アッラーの言葉をアラビア語で記す
④六信五行:信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼の五行が特に重要
⑤ ユダヤ教・キリスト教との関係:同じ一神教の系譜に属し、モーセ・イエスも預言者として認める
632年にムハンマドが亡くなると、ウンマの指導者としてカリフ(「預言者の後継者」の意)が選ばれました。初代から第4代までの4人のカリフを正統カリフと呼びます。
| 代 | カリフ | 在位 | 主な業績 |
|---|---|---|---|
| 初代 | アブー=バクル | 632〜634 | ウンマに反抗的な勢力を討伐し、アラビア半島を政治的に統一 |
| 第2代 | ウマル | 634〜644 | ニハーヴァンドの戦いでササン朝に決定的勝利。シリア・エジプトを征服。大征服の主導者 |
| 第3代 | ウスマーン | 644〜656 | クルアーンの編纂を完了。北アフリカへの征服を継続 |
| 第4代 | アリー | 656〜661 | ムハンマドの従弟・娘婿。ウマイヤ家との対立で内紛が激化 |
正統カリフ時代に、アラブ・ムスリム軍はアラビア半島の外へ大規模な征服活動を展開しました。642年、ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアに決定的な勝利を収め、ササン朝は651年に滅亡しました。また、ビザンツ帝国からシリア・エジプトを奪い、短期間で西アジア・北アフリカの広大な領域を支配下に置きました。
この急速な征服が可能だった背景には、ササン朝とビザンツ帝国が長年の抗争で疲弊していたこと、東西キリスト教会の対立でエジプトやシリアの社会が混乱していたこと、戦利品の獲得がアラブ諸部族にとって大きな魅力であったことなどがあげられます。
多くのアラブ人は、家族とともに征服地につくられた軍営都市(ミスル)に移住し、新たな支配層となりました。ミスルにはカリフから任命されたアミール(総督)が派遣されて治安の維持と徴税を担い、兵士には年金(アター)が支給されました。征服地の統治では、ジズヤ(人頭税)とハラージュ(土地税)を納めることを条件に、異教徒にも信仰の自由が認められました。なお、ユダヤ教徒・キリスト教徒(ネストリウス派・単性論派など)は「啓典の民」として当初から比較的保護されましたが、ゾロアスター教徒やマニ教徒は多神教徒として差別されました。
なお、正統カリフ時代の征服活動は、教科書では「ジハード」(神の道のための努力)の一環として記されることがあります。ジハードの本来の意味は、信仰を守り広めるための努力全般を指す幅広い概念です。
第4代カリフのアリーが暗殺されると、シリア総督だったムアーウィヤがカリフの地位を主張し、661年にウマイヤ朝を建てました。首都はダマスクスに置かれ、それまでの慣習を破ってカリフの地位はウマイヤ家の世襲となりました。
ウマイヤ朝は、征服地を拡大してイベリア半島から中央アジアにまたがる広大な領域を支配しました。しかし、その統治体制はアラブ人を特権的な支配者とするものでした。被征服地の人々からは人頭税(ジズヤ)と土地税(ハラージュ)が徴収されました。いずれも本来は非イスラーム教徒に課せられる税でしたが、異教徒がイスラーム教に改宗することは奨励されず、実際には被征服地の人々が改宗しても免除されませんでした。こうした非アラブ人のムスリム(マワーリー)に対する不平等な扱いは、やがて大きな不満をもたらすことになります。
正統カリフ時代の末期からウマイヤ朝の成立にかけて、イスラーム教は大きく2つの派に分裂しました。
第4代カリフ・アリーとその子孫だけを正統な指導者(イマーム)と認める人々がシーア派です。一方、歴代カリフの正統性を認め、ムハンマドの言行(スンナ)にもとづく合意を重視する多数派がスンナ派(スンニ派)です。
| スンナ派 | シーア派 | |
|---|---|---|
| カリフ観 | ウンマの合意で選ばれたカリフを正統と認める | アリーとその子孫のみを正統な指導者(イマーム)とする |
| 重視する規範 | クルアーン+ムハンマドの言行(スンナ)+共同体の合意 | クルアーン+イマームによる解釈 |
| 勢力圏 | イスラーム世界の多数派(約85〜90%) | イランを中心に、イラク南部・レバノンなど |
| 分裂のきっかけ | 第4代カリフ・アリーの暗殺とウマイヤ朝の成立 | |
① ウマイヤ朝の首都はダマスクス。カリフの地位はウマイヤ家の世襲
② ウマイヤ朝はアラブ人優位の統治体制。非アラブ人ムスリム(マワーリー)は不平等な扱い
③スンナ派:多数派。歴代カリフを正統と認め、スンナ(慣行)を重視
④シーア派:アリーの子孫のみを正統なイマームとする。イランに多い
ウマイヤ朝のアラブ人優位政策に対する不満は、マワーリーやシーア派を中心に高まりました。ウマイヤ家のカリフ位独占を批判する人々があいつぐ反乱をおこし、ウマイヤ朝の支配力は徐々に低下していきました。750年、ムハンマドの叔父の子孫であるアッバース家がホラーサーンで反乱をおこしてウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を建てました。
第2代カリフのマンスールは、762年にティグリス川西岸に新都バグダードを建設しました。バグダードは円形都市として設計され、三重の城壁に囲まれた中心部にカリフの宮殿が置かれました。「平安の都」と称されたこの都市は、東西交易の要衝として急速に発展し、全盛期には人口100万を超えたとも伝わります。
アッバース朝の最大の特徴は、アラブ人の特権を廃止し、民族の別をこえたイスラーム教徒のあいだの平等をはかった点にあります。税制も整理され、人頭税はキリスト教徒やユダヤ教徒などの非ムスリムが払い、土地税は農地をもつ者が民族を問わず負担する仕組みとなりました。イラン人をはじめとする非アラブ人のムスリムが官僚や軍人として登用され、アラブ人だけの帝国から「イスラーム帝国」(イスラーム教を紐帯とする多民族帝国)へと性格を転換しました。アッバース朝は第5代カリフハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えました。
統治機構も整備され、ササン朝ペルシアの行政制度を取り入れた官僚制が発展しました。カリフのもとにワズィール(宰相)が置かれ、各州には総督が派遣されました。
| ウマイヤ朝 | アッバース朝 | |
|---|---|---|
| 首都 | ダマスクス | バグダード |
| 統治方針 | アラブ人優位。非アラブ人ムスリムに不平等な扱い | ムスリムの平等。民族を問わず登用 |
| 帝国の性格 | アラブ帝国 | イスラーム帝国(多民族帝国) |
| 行政 | アラブ人中心の軍事支配 | ペルシアの制度を取り入れた官僚制 |
| 成立 | 661年 | 750年 |
ウマイヤ朝からアッバース朝への交代は、単なる王朝交代ではなく、帝国の性格そのものの転換でした。アラブ人だけが支配者だった「アラブ帝国」が、イスラーム教を共通の紐帯とする「イスラーム帝国」に変わったことで、イラン・トルコ・北アフリカなど多様な民族がイスラーム文明の担い手として参加できるようになりました。これが、のちにイスラーム文化が多様性をもちながらも広域に展開する基盤となったのです。
クルアーンがアラビア語で記されていることから、アラビア語はイスラーム世界の学問・行政・商業の共通語となりました。ウマイヤ朝のカリフ、アブド=アルマリクの時代に行政用語がアラビア語に統一され、アッバース朝の時代にはアラビア語による学術活動が盛んに行われました。
シャリーア(イスラーム法)は、クルアーンとムハンマドの言行についての伝承(ハディース)を基盤として、法学者の議論によって体系化されました。信仰生活だけでなく、商取引・婚姻・相続・刑罰など社会生活全般を規律するものです。イスラーム世界では、政治と宗教が密接に結びついており、シャリーアは単なる宗教上の規範にとどまらず、社会の秩序を支える根幹でした。
法学者(ウラマー)がシャリーアの解釈・運用にあたり、イスラーム社会において大きな影響力をもちました。
| 年代 | できごと |
|---|---|
| 570年ごろ | ムハンマド、メッカに生まれる |
| 610年ごろ | ムハンマドが啓示を受け、預言者としての活動を開始 |
| 622年 | ヒジュラ(聖遷)。メッカからメディナへ移住。イスラーム暦の紀元 |
| 630年 | ムハンマドがメッカを征服 |
| 632年 | ムハンマド死去。アブー=バクルが初代カリフに就任(正統カリフ時代) |
| 642年 | ニハーヴァンドの戦い。ササン朝に決定的勝利 |
| 651年 | ササン朝ペルシア滅亡 |
| 661年 | ウマイヤ朝成立。首都ダマスクス |
| 711年 | ウマイヤ朝がイベリア半島に進出(西ゴート王国を滅ぼす) |
| 732年 | トゥール・ポワティエ間の戦い。フランク王国がウマイヤ朝の侵入を阻止 |
| 750年 | アッバース朝成立。首都バグダード |
| 751年 | タラス河畔の戦い。アッバース朝が唐に勝利(製紙法が西方に伝播) |
7世紀のイスラーム教の誕生は、世界史の大きな転換点でした。ローマ帝国分裂後、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国が覇権を争っていた西アジアに、イスラーム教という新たな結合原理をもつ勢力が台頭し、わずか100年余りで地中海から中央アジアにまたがる大帝国を築きました。ウマイヤ朝の「アラブ帝国」からアッバース朝の「イスラーム帝国」への転換は、多民族がイスラーム文明に参加する道を開き、以後数世紀にわたるイスラーム世界の繁栄の基盤となりました。
イスラーム世界の成立は、歴史総合で学ぶ「グローバル化の歴史的背景」に深く関わります。イスラーム商人によるインド洋交易ネットワークは、16世紀以降のヨーロッパによる「大航海時代」に先立つグローバルな交易圏でした。また、イスラーム世界で保存・発展されたギリシア哲学・科学がヨーロッパに逆輸入され、ルネサンスの知的基盤となった点も重要です。
7世紀にムハンマドがイスラーム教を創始し、正統カリフ時代の大征服で西アジア・北アフリカに拡大した。ウマイヤ朝のアラブ人優位体制を経て、アッバース朝でムスリムの平等が実現し、多民族帝国へ転換した。(97字)
Q1. 622年、ムハンマドと信者がメッカからメディナに移住した出来事を何というか。また、これはイスラーム暦の何にあたるか。
Q2. ウマイヤ朝で不平等な扱いを受けた、非アラブ人のムスリムのことを何と呼ぶか。
Q3. アッバース朝の首都として建設され、東西交易の要衝として繁栄した都市はどこか。
Q4. クルアーンとムハンマドの言行についての伝承(ハディース)を基盤として体系化された、社会生活全般を規律するイスラーム法を何というか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
610年ごろ、メッカの商人( ア )は唯一神アッラーの啓示を受け、イスラーム教を創始した。622年、迫害を受けた( ア )と信者たちは( イ )への移住(ヒジュラ)を行い、これがイスラーム暦の紀元となった。( ア )の死後、後継者として( ウ )が選ばれた。第2代( ウ )のウマルのもとで大征服が進み、642年の( エ )の戦いでササン朝に決定的勝利を収めた。征服地では、異教徒に( オ )(人頭税)の支払いを条件として信仰の自由を認めた。
ア:ムハンマド イ:メディナ ウ:カリフ エ:ニハーヴァンド オ:ジズヤ
イスラーム教の成立と大征服の流れを一連で押さえましょう。ヒジュラ(622年)は年代とともに頻出です。「カリフ」は「預言者の後継者」を意味します。ジズヤ(人頭税)とハラージュ(土地税)の区別も問われます。
イスラーム世界に関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ×「バグダード」→「ダマスクス」 (2) ○ (3) ○ (4) ×「ヘブライ語」→「アラビア語」
(1)について:ウマイヤ朝の首都はダマスクス、アッバース朝の首都がバグダードです。この取り違えは非常に多い誤りなので注意しましょう。(4)について:クルアーンはアラビア語で記されています。ヘブライ語は旧約聖書の言語です。クルアーンがアラビア語であったことが、アラビア語がイスラーム世界の共通語となった理由でもあります。
ウマイヤ朝からアッバース朝への交代にともなう帝国の性格の変化について、「マワーリー」「ダマスクス」「バグダード」の語句を使って100字以内で説明せよ。
ダマスクスを首都とするウマイヤ朝はアラブ人優位の統治を行い、非アラブ人ムスリムのマワーリーは不平等な扱いを受けた。アッバース朝はバグダードに遷都し、民族を問わずムスリムの平等を実現して、イスラーム帝国へ転換した。(106字)
この問題のポイントは、「アラブ帝国」から「イスラーム帝国」への転換を、具体的な内容とともに説明することです。ウマイヤ朝の問題点(アラブ人優位・マワーリーへの差別)と、アッバース朝がそれをどう解決したか(ムスリムの平等・多民族国家化)を対比的に述べましょう。