エーゲ海の島々と山がちな半島で、人々は小さな都市国家(ポリス)をつくり上げました。
なかでもアテネでは、市民が直接政治に参加する民主政が発展します。
この記事では、エーゲ文明からポリスの成立、民主政の発展、ペルシア戦争とポリスの衰退、そしてギリシア文化までを学びます。
ギリシア世界の歴史は、エーゲ海に浮かぶクレタ島から始まります。前2000年ごろから、クレタ島ではクレタ文明(ミノア文明)と呼ばれる高度な文明が栄えました。中心となったのはクノッソスの大宮殿です。城壁をもたない壮大な宮殿は、海上交易で繁栄した平和な社会を物語っています。
クレタ文明では線文字Aと呼ばれる独自の文字が使われましたが、現在も未解読のままです。明るい色彩で描かれたフレスコ画には、イルカや牛跳びの場面が描かれ、海洋民族としての性格がうかがえます。
前1600年ごろからは、ギリシア本土でミケーネ文明が栄えました。ミケーネ、ティリンスなどの城塞都市を中心に発展したこの文明は、クレタ文明とは対照的に、堅固な城壁をもつ戦闘的な社会でした。
ミケーネ文明では線文字Bが使われ、これは1952年にイギリスのヴェントリスによって解読されました。ギリシア語の最古の形態であることが判明し、ミケーネ文明がギリシア人の文明であったことが確認されています。前1200年ごろ、ミケーネ文明は「海の民」の移動などを背景に衰退し、ギリシアは文字記録が途絶える暗黒時代(前1200年〜前800年ごろ)に入りました。
①クレタ文明:クノッソス宮殿、城壁なし(海上交易で繁栄)、線文字A(未解読)
②ミケーネ文明:堅固な城壁をもつ城塞都市、戦闘的性格、線文字B(ヴェントリスが解読、ギリシア語の最古の形態)
③暗黒時代(前1200年〜前800年ごろ):ミケーネ文明が衰退し、文字記録が途絶えた時代
前8世紀に入ると、各地で有力貴族の指導のもとにいくつかの集落が連合し、アクロポリス(城山)を中心に人々が集住(シノイキスモス)して都市国家を建てました。これらをポリスといいます。ポリスの成立で社会は安定し、暗黒時代は終わりました。
ポリスは、城壁で囲まれた市域と周囲の田園から成り立っていました。市域の中心のアクロポリスは、砦であると同時に神殿が建てられる神聖な場でした。アゴラ(広場)では市場や集会が開かれました。田園には市民の所有地である「持ち分地」(クレーロス)があり、市民の大多数はここで農業を営みました。ポリスは本来、武器を自分の費用で購入できる農民が戦士としてかたちづくる共同体(戦士共同体)であり、戦士として戦うことが市民に求められる第一の義務でした。同じ都市国家でも、神の権威を背景とした王が専制支配をおこなうオリエントなどの都市国家とはこの点で異なっていました。市民にとっては、ポリスこそが人間生活の基盤でした。各ポリスはそれぞれ独立した国家だったので、古代のギリシアはつねに小国分立状態におかれ、ついに統一国家をつくることはありませんでした。
ポリスの住民は、自由人の市民とこれに隷属する奴隷からなり、市民には貴族と平民との区別がありました。貴族は血統を誇る富裕者であり、高価な武具と馬を所有する戦士としての役割を果たしました。こうして前7世紀までには、貴族が政治を独占する貴族政が一般的になりました。しかし平民は貴族に従属せず、市民同士の関係は平等が原則でした。他方、奴隷は人格を認められず売買の対象であり、市民との身分差は大きいものでした。奴隷とされたのは、借財によって市民身分から転落した人や戦争捕虜、海外から輸入された異民族などでした。女性や外国人居住者(メトイコイ)も市民権をもちませんでした。ギリシア人は自分たちをヘレネス(英雄ヘレンの子孫)と呼び、異民族をバルバロイ(聞き苦しい言葉を話す者)と呼んで区別しました。共通の言語と神話、デルフォイのアポロン神の神託、4年に一度開かれるオリンピアの祭典などを通じて、同一民族の意識をもち続けました。
前8世紀半ばからギリシア人は、人口の増加にともない地中海と黒海の沿岸各地に多くの植民市を建設しました。母市も植民市もそれぞれが一つの独立した都市国家をなしており、これらの間で交易がさかんになりました。植民活動は先進地域であったオリエントとの交易も活発化させました。また、同じころフェニキア文字をもとにつくられたアルファベットが、商業活動で用いられるとともに、ホメロスらの文学の成立をもうながしました。南イタリアやシチリア島にはギリシア人の植民市が数多く建てられ、この地域はマグナ=グラエキア(「大ギリシア」の意)と呼ばれました。マッサリア(現マルセイユ)やビザンティオン(のちのコンスタンティノープル)も、もとはギリシアの植民市です。
植民活動にともなって交易が活発になり、小アジアのリディアから伝わった貨幣が普及しました。貨幣経済の発達は商工業者の台頭をもたらし、ポリスの政治にも大きな影響を与えていきます。
①アクロポリス(城山・神殿がある丘)とアゴラ(広場・集会所)がポリスの中心。田園に「持ち分地」(クレーロス)
②市民=貴族+平民。奴隷・女性・メトイコイは市民権なし。ポリスは戦士共同体
③前8〜前6世紀に地中海・黒海沿岸に植民市を建設(マグナ=グラエキア)
④リディアから伝わった貨幣が普及し、商工業者が台頭
ペロポネソス半島南部のスパルタは、きわめて独特な社会を築いたポリスです。ドーリア人がラコニア地方に侵入して先住民を征服し、建国しました。前8世紀以降、隣接区域を征服して広大な土地を獲得し、市民団に分配しました。はるかに多数の非ドーリア系の被征服民を奴隷身分の農民とし、農業に従事させました。彼らはヘイロータイ(ヘロット)と呼ばれ、商工業に従事するペリオイコイ(周辺民)と同様、スパルタ市民に隷属していました。
戦士であるスパルタ市民はヘイロータイの反乱を防ぐため、貴金属貨幣の使用を禁止したり、他国との自由な行き来を禁止する鎖国政策をとるなどして、市民団内部の結束を高めました。また、スパルタ市民に分配された土地は分割・譲渡が禁じられており、市民全体で均等な経済基盤を保つことで軍事力を維持しようとしました。リュクルゴスの国制と呼ばれるこのような特殊な体制を前6世紀半ばまでに確立したスパルタ市民団は、きびしい軍国主義的規律に従って生活し、ギリシア最強の陸軍国をつくりあげました。政治は2人の王と長老会、民会が担い、5人の監督官(エフォロイ)が政治を監視しました。
一方、イオニア系のアテネ(アッティカ半島)は、貴族政から民主政へと段階的に発展していったポリスです。
交易活動が盛んになると、平民のなかにも農産物を売って富裕になる者が現れました。また、金属の輸入で武器が安くなると、富裕な平民は武具を買って参戦できるようになり、密集隊形(ファランクス)を組んで戦う重装歩兵部隊が、騎馬を利用する貴族にかわって軍隊の主力となりました。こうして国防において大きな役割を果たすようになった平民は、参政権を主張して貴族と対立しはじめ、各ポリスで民主政への歩みが始まりました。
典型的な民主政が出現したのはアテネでした。まず前7世紀にドラコンによって法律が成文化され、法による秩序の維持がはかられました。
ついで前6世紀初めにソロンが貴族と平民の調停者として改革をおこない、血統ではなく財産額の大小によって市民の参政権を定め(財産政治)、また負債を帳消しにし、以後、借財を負った市民を奴隷として売ることを禁止しました(債務奴隷の禁止)。
やがて多くのポリスでは、僭主と呼ばれる独裁者が、平民の支持により非合法に政権を奪って僭主政治を実現しました。アテネではペイシストラトスが前6世紀半ばに僭主政治を確立し、中小農民を保護するなど平民層の力を充実させました。
前508年、クレイステネスが大改革を実施します。血縁にもとづく旧来の4部族制を廃止し、地縁共同体である区(デーモス)を基礎として10部族制に再編し、貴族の影響力を弱めました。また、僭主の出現を防ぐために陶片追放(オストラキスモス)の制度を導入しました。この改革によってアテネ民主政の基礎が確立されたとされています。
| スパルタ | アテネ | |
|---|---|---|
| 所在地 | ペロポネソス半島(ラコニア) | アッティカ半島 |
| 建国民族 | ドーリア人 | イオニア人 |
| 政治体制 | 寡頭政(2王+長老会+エフォロイ) | 民主政(民会が最高機関) |
| 被支配者 | ヘイロータイ(国有奴隷)、ペリオイコイ(半自由民) | 奴隷・メトイコイ(在留外国人) |
| 社会の特徴 | 軍国主義、厳格な共同生活、鎖国的 | 開放的、商業活動が活発 |
| 教育 | 7歳から軍事訓練中心 | 文武両面のバランス |
背景:富裕な平民が重装歩兵(密集隊形=ファランクス)として軍の主力に → 参政権を要求
①ドラコン(前7世紀):法律の成文化
②ソロン(前6世紀初め):債務奴隷の禁止、財産政治の導入
③ペイシストラトス(前6世紀):僭主政(非合法な独裁)
④クレイステネス(前508年):区(デーモス)を基礎とする10部族制、陶片追放(オストラキスモス)の導入 → 民主政の基礎確立
⑤ペリクレス(前5世紀):民主政の完成(後述)
全オリエントを統一したアケメネス朝(ペルシア)の支配に対し、ミレトスを中心としたイオニアのギリシア人諸都市が反乱をおこしました。これをアテネが支援したことをきっかけに始まったのがペルシア戦争です。ペルシアは反乱を支援したアテネに遠征軍を差しむけました。
民主政によって団結を強めたアテネ市民の重装歩兵軍は、前490年のマラトンの戦いでペルシア軍を打ち破りました。
前480年、ペルシア王クセルクセス1世は大軍を率いて再びギリシアに侵攻します。テルモピュライの戦いでスパルタ王レオニダスらが壮絶な戦死を遂げた後、ペルシア軍はアテネを占領しました。
その後、アテネはテミストクレスの政策により海軍を拡充し、前480年のサラミスの海戦では、ギリシア連合軍が彼の指揮のもとでペルシアの大軍を再び大敗させました。翌年のプラタイアの戦いで、ギリシア側の勝利は決定的となりました。
ペルシア戦争勝利後、エーゲ海周辺の多くのポリスはペルシアの再侵攻に備えてデロス同盟を結び、アテネはその盟主となりました。アテネは強大な海軍力でほかの同盟諸国に対する支配を強める一方、同盟の基金を自らの財政資金に流用するようにもなりました。
サラミスの海戦で三段櫂船の漕ぎ手として戦争に参加した無産市民の発言力が高まることを背景に、前5世紀半ばごろ、将軍ペリクレスの指導のもとでアテネ民主政は完成されました。そこでは成年男性市民の全体集会である民会が多数決で国家の政策を決定し、将軍など一部を除き、一般市民から抽選された任期1年の役人が行政を担当しました。裁判では、やはり抽選された多数の陪審員が民衆裁判所において投票で判決をくだしました。また、役人に日当(手当)が支給されるようになり、貧しい市民も公職に就くことが可能になりました。
市民団のなかでは政治的平等が徹底している一方で、奴隷・在留外国人・女性には参政権がありませんでした。また代議制ではなく、市民全員が参加する直接民主政であったことも、現代とは異なるギリシア民主政の特徴です。しかし、民主主義という考え方をはじめて生み出した点で、ギリシア民主政の世界史的意義は大きいといえます。
①ペルシア戦争での勝利 → アテネがデロス同盟の盟主に(同盟の基金を自らの財政に流用)
②ペリクレスのもとで民主政が完成:民会が多数決で国政を決定、将軍職以外は抽選制(任期1年)、役人に日当支給、民衆裁判所で抽選された陪審員が投票で判決
③サラミスの海戦で無産市民(三段櫂船の漕ぎ手)が活躍 → 下層市民の発言力が向上
④ただし参政権は成人男性市民のみ。女性・在留外国人・奴隷は対象外
ペルシア戦争後、デロス同盟を通じてアテネの勢力が拡大すると、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との対立が深まりました。前431年、ついに両陣営が衝突し、ペロポネソス戦争(前431年〜前404年)が始まります。
はじめ優勢であったアテネは、疫病の流行でペリクレスを失ってから政治が混乱し、有能な戦争指導者を見出せないまま、ついにペルシアと結んだスパルタに敗れました(前404年)。
その後、前4世紀半ばにはスパルタにかわりテーベが一時主導権を握りましたが、敗戦後も民主政を守り続けたアテネは勢力を回復し、さらにペルシアがギリシア人同士をたがいに争うようにしむけたので、有力ポリス間の争いはやみませんでした。戦争と疫病の影響でポリスでは市民の人口が減り、貧富の差が広がってポリス社会は変容しはじめました。ポリス内部では土地を失う市民も多く、傭兵がさかんに用いられたので、市民がポリスを自衛するという原則は失われていきました。
前4世紀後半、ポリスをつくらなかったギリシア人の一派である北方のマケドニアがフィリッポス2世のもとで軍事力を強め、前338年のカイロネイアの戦いでテーベとアテネの連合軍を破りました。フィリッポスはスパルタを除く全ギリシアのポリスをコリントス同盟(ヘラス同盟)に集め、それらを支配下におきました。
①ペロポネソス戦争(前431〜前404年):アテネ vs スパルタ。アテネが敗北
②スパルタの覇権 → テーベが一時覇権を握るも長続きせず
③ポリス間の抗争で市民が疲弊、傭兵への依存が増加
④カイロネイアの戦い(前338年):マケドニアのフィリッポス2世がギリシアを征服
前2世紀のギリシア人歴史家ポリビオスは、ローマが地中海世界を制覇した理由をローマの政治体制に求め、「混合政体論」を説きました。ポリビオスによれば、王政・貴族政・民主政はそれぞれ単独では腐敗しやすいが、ローマはコンスル(執政官)・元老院・民会という三要素が相互に牽制し合う混合政体をとっているため安定性が高いと論じました。この思想は近代ヨーロッパの三権分立論にも影響を与えたとされます。
ギリシア文学の出発点は、前8世紀ごろに活躍したとされるホメロスの叙事詩です。トロイア戦争を題材とした『イーリアス』と、英雄オデュッセウスの帰還を描いた『オデュッセイア』は、ヨーロッパ文学の原点とされます。同じころ、ヘシオドスは『労働と日々』で農民の日常を、『神統記』で神々の系譜を歌いました。
前5世紀のアテネでは、ディオニュソス神の祭典の一環として演劇が盛んに上演されました。三大悲劇詩人として、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスが知られます。喜劇ではアリストファネスがペロポネソス戦争を風刺する作品を残しました。
ギリシア哲学は、自然の根源(アルケー)を探究したイオニア自然哲学に始まります。タレスは万物の根源を水であると唱えました。
前5世紀後半のアテネでは、ソフィスト(知恵ある者)と呼ばれる職業的教師が活躍し、プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と主張して相対主義の立場をとりました。これに反対したソクラテスは、真理の絶対性と知徳の合一を主張しました。弟子のプラトンは、イデア論にもとづく哲学を説き、哲人の指導する理想国家論を唱えました。プラトンは学園アカデメイアを設立しています。
プラトンの弟子アリストテレスは、哲学・論理学・政治学・自然科学などの諸学を集大成し、のちのイスラーム世界の学問や中世ヨーロッパのスコラ学に大きな影響を及ぼしました。アリストテレスは学園リュケイオンで教えました。
ヘロドトスは自らの調査にもとづいてペルシア戦争の歴史を物語風に描いた『歴史』を著し、「歴史の父」と呼ばれます。トゥキディデスはその因果関係を批判的に考察しながら、ペロポネソス戦争の歴史を記述しました。
ペリクレスの計画のもと、アテネのアクロポリスにはパルテノン神殿が建てられ、民主政の最盛期を象徴しました。彫刻家フェイディアスは神殿の装飾として、人体美を理想化した姿の神像をつくりました。ギリシアの神殿建築にはドーリア式、イオニア式、コリント式の三つの柱頭様式があります。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスは師弟の関係で結ばれています。ソクラテスの弟子がプラトンで、プラトンの弟子がアリストテレスです。しかし三者の哲学は一直線に受け継がれたわけではありません。プラトンは目に見える世界の背後にある完全な「イデア」こそが真の実在だと考えましたが、アリストテレスは現実の事物を観察し分類することで真理に迫ろうとしました。この「理想」と「現実」のアプローチの違いは、のちのヨーロッパ思想の二大潮流の源流となりました。
入試では「ソクラテス → プラトン → アリストテレス」の師弟関係と、それぞれの学園名(アカデメイア / リュケイオン)がセットで問われます。
①ホメロス:『イーリアス』『オデュッセイア』。ヘシオドス:『労働と日々』
②三大悲劇詩人:アイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデス。喜劇:アリストファネス
③ソクラテス(知徳の合一)→ プラトン(イデア論、アカデメイア)→ アリストテレス(諸学を集大成、リュケイオン)
④ヘロドトス(「歴史の父」)、トゥキディデス(因果関係を批判的に考察)
⑤パルテノン神殿(ペリクレスの計画、彫刻家フェイディアス)、柱頭様式:ドーリア式・イオニア式・コリント式
ギリシアのポリスは、オリエントの大帝国とはまったく異なる政治形態でした。小さな都市国家だからこそ、市民が直接政治に参加する民主政が発展しました。この経験は、のちのヨーロッパにおける民主主義思想の源流となります。同時に、ポリス間の対立がギリシア世界を弱体化させ、マケドニアに征服されるという結末は、分裂の代償を示しています。ギリシア文化は、マケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征を通じて広い地域に広がり、ヘレニズム文化として展開していきます。
ギリシアの民主政は、歴史総合で学ぶ「近代民主主義の成立」の源流にあたります。18世紀の啓蒙思想家たちはギリシア・ローマの政治思想を参照し、フランス革命やアメリカ独立の理念を構築しました。ただし、古代ギリシアの民主政は成人男性市民に限られた「直接民主政」であり、現代の「普通選挙にもとづく間接民主政」とは大きく異なることに注意しましょう。
前8世紀にギリシア各地でポリスが成立し、アテネでは段階的に民主政が発展した。ペルシア戦争での勝利がアテネの黄金時代を生んだが、ペロポネソス戦争後にポリスは衰退し、マケドニアに征服された。哲学・文学・建築に西洋文明の源流が築かれた。
Q1. 前594年に債務奴隷を禁止し、財産額に応じた参政権を定める改革を行ったアテネの政治家は誰か。
Q2. クレイステネスが僭主の出現を防ぐために導入した、市民の投票で危険人物を国外追放する制度を何というか。
Q3. 前480年、テミストクレスの戦略でギリシア連合艦隊がペルシア艦隊を破った海戦を何というか。
Q4. プラトンの弟子で、哲学・論理学・政治学・自然科学などの諸学を集大成した哲学者は誰か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
アテネでは、前594年に( ア )が債務奴隷を禁止し、財産額に応じて参政権を定める改革を行った。前508年には( イ )が血縁にもとづく部族制を廃止し、地域にもとづく( ウ )部族制に再編した。ペルシア戦争後、将軍( エ )のもとで民主政が完成し、将軍職以外の役職には( オ )制が採用された。
ア:ソロン イ:クレイステネス ウ:10 エ:ペリクレス オ:抽選
アテネ民主政の発展段階は頻出テーマです。ソロン(財産政治)→ クレイステネス(10部族制・陶片追放)→ ペリクレス(民会中心・抽選制・日当制)という流れを、各人物の改革内容とセットで押さえましょう。特に、クレイステネスの改革が「血縁から地域へ」の転換であった点が重要です。
ギリシアのポリスに関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ○ (2) ×「メトイコイ」→「ヘイロータイ」 (3) ○ (4) ×「テーベ」→「スパルタ」
(2)について:スパルタで農業に従事させられた被征服民は「ヘイロータイ」(国有奴隷)です。「メトイコイ」はアテネなどの在留外国人を指す用語であり、混同しないようにしましょう。「ペリオイコイ」(半自由民、商工業を担当)との区別も重要です。(4)について:ペロポネソス戦争(前431〜前404年)は、デロス同盟(アテネ中心)とペロポネソス同盟(スパルタ中心)の間で戦われました。テーベはペロポネソス戦争後にスパルタを破ったポリスです。
ペルシア戦争がアテネの民主政の発展に与えた影響について、「三段櫂船」「無産市民」「デロス同盟」の語句を使って100字以内で説明せよ。
ペルシア戦争でサラミスの海戦において三段櫂船の漕ぎ手として無産市民が活躍し、その軍事的貢献から発言力が増大した。また戦後にデロス同盟の盟主となったアテネは財力を蓄え、民主政を完成させた。(92字)
ペルシア戦争と民主政の関係は、「軍事的貢献 → 政治的権利の拡大」という因果関係で理解することが大切です。マラトンの戦いでは重装歩兵(武装を自弁できる中間層)が活躍しましたが、サラミスの海戦では三段櫂船の漕ぎ手として武装を自弁できない無産市民が決定的な役割を果たしました。この軍事的貢献が下層市民の発言力を高め、ペリクレス時代の民主政完成へとつながりました。