第3章 南アジア世界と東南アジア世界の展開

東南アジア世界の形成と展開
─ 海と大陸の交差点

東南アジアは、香辛料をはじめとする資源の豊かさゆえに、早くから外の世界とつながり、南アジアや中国の影響を受けつつ独自の文明を築きました。大陸部ではメコン川流域に扶南やカンボジア(クメール)が興り、諸島部ではマラッカ海峡を拠点にシュリーヴィジャヤが繁栄します。
この記事では、東南アジアの自然環境と「インド化」の過程を踏まえたうえで、扶南・チャンパー・カンボジア・シュリーヴィジャヤ・パガン朝・大越国など主要な国家の興亡をたどり、「海の道」を通じた交易ネットワークの全体像を描きます。

1東南アジアの自然環境と文化的特徴

東南アジア主要国家の興亡

扶南
チャンパー
シュリーヴィジャヤ
クメール(アンコール朝)
パガン朝
1C3C7C9C11C13C

東南アジアは、インドシナ半島を中心とする大陸部と、マレー半島から現在のインドネシアやフィリピンを含む島々からなる諸島部に大きく分けられます。大陸部では、北部の山地に発する長大な河川が平原に流れ出てデルタを形成し、さまざまな言語を話す人々が入り組んで分布しています。諸島部では、高地から流れ出る河川が平地を横切り、それらの河川と海を交通路にして、おもにマレー系の言語を話す多くの民族が移動を繰り返しました。

東南アジアの住民の多くはオーストロネシア語族オーストロアジア語族に属し、古くから稲作漁労を生業としてきました。気候的には、いずれの地域も気温が高いですが、年中湿潤な熱帯雨林気候と、雨季と乾季に分かれるサバナ気候とに分けられます。

東南アジアは、香辛料をはじめとする資源の豊かさゆえに、早くから外の世界とつながり、南アジアや中国、ついでイスラームの影響を受けつつ独自の文明を築きました。とくに南アジアや東アジアとの海上交易の拡大にともなって多くの港市国家が誕生しました。前2千年紀末に、ベトナムやタイ東北部を中心に青銅器が製作されていました。前4世紀になると、中国の影響下に、ベトナム北部を中心に独特な青銅器や鉄製農具を生み出したドンソン文化が発展しました。ドンソン文化は中国からの影響も受けながら独特の青銅器を生みだし、前3世紀から後1世紀ごろに最盛期を迎えました。稲作民の文化であるドンソン文化は、川や海のルートを通じて東南アジアの広い地域に広がりました。青銅製の銅鼓は、中国南部から東南アジアの広い地域で発見されており、当時の文化や交易の広がりを物語っています。

ここが問われる: 大陸部と諸島部の比較 比較
大陸部諸島部
地理インドシナ半島。メコン川・エーヤワディー川などの大河が流れるマレー半島から現在のインドネシアやフィリピンを含む島々。マラッカ海峡など海上交通の要衝
経済基盤大河流域の稲作農業海上交易・香辛料の産出
代表的国家扶南、カンボジア(クメール)、パガン朝、スコータイ朝、大越国シュリーヴィジャヤ、シャイレンドラ朝、古マタラム王国
受けた文化的影響インド文化、中国文化(ベトナム)インド文化(ヒンドゥー教・仏教)
国家の性格内陸の農業国家港市国家・海上交易国家

2インド文化の受容 ─ 「インド化」とは何か

東南アジアの国家形成を理解する鍵となるのが、「インド化」と呼ばれる現象です。4世紀末から5世紀になると、南アジアから船舶が盛んに来航し、広い地域で「インド化」と呼ばれる諸変化が生じ、各地の政権のなかに、南アジアの影響が強くみられるようになりました。王権概念インド神話サンスクリット語インド式建築様式などが受容され、東南アジアの基層文化に影響を与えました。

ただし「インド化」は、インドが東南アジアを征服・植民したことを意味しません。東南アジアの支配者たちが、自らの権威を高めるためにインドの宗教や政治思想を主体的に取り入れたのです。たとえば、王をヒンドゥー教の神(シヴァ神やヴィシュヌ神)の化身と位置づけるデーヴァ・ラージャ(神王)の思想は、各地の王権を強化する手段として広く採用されました。

インド文化の受容は画一的ではなく、各地域の固有の文化と融合しながら独自の展開を遂げました。宗教においてはヒンドゥー教と仏教が併存し、時代や地域によってどちらが優勢かが異なります。文字はサンスクリット語を基盤としつつも、パッラヴァ文字系の書体が各地で独自に変化していきました。

東南アジアの支配者はなぜインド文化を受容したのか
東南アジアの首長が海上交易の利益を握り、権力を拡大しようとする
交易を通じて接触したインドの宗教・王権思想が、権威づけの手段として有効だった
王をシヴァ神やヴィシュヌ神の化身とするデーヴァ・ラージャの思想を採用
サンスクリット語の碑文・ヒンドゥー教寺院の建設で王権を可視化
インド文化が在地の文化と融合し、東南アジア独自の「インド化」国家が形成された

3扶南とチャンパー ─ 初期の「インド化」国家

扶南(1世紀末〜6世紀)

紀元前後から南アジアや中国との交流が盛んになると、1世紀末扶南メコン川下流域に建国されました。この国の港であったオケオの遺跡からは、ローマ貨幣やインドの神像、中国の鏡などが出土しており、東西交易の結節点であった港市国家です。

扶南はインド文化をいち早く受容し、ヒンドゥー教やサンスクリット語を取り入れました。中国の史料によれば、2世紀半ばには大秦国王安敦(ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスに比定される)の使者を名のる者が、ベトナム中部の日南郡に到着しています。ユーラシア大陸の東と西を結ぶ「海の道」が開通しつつあったことを示すできごとです。また、扶南は朝貢を通じて中国とも関係をもち、広域的な交易ネットワークの要衝として栄えました。しかし6世紀にメコン川中流域にクメール人によってヒンドゥー教の影響の強いカンボジアがおこり、扶南は滅ぼされました。

チャンパー(2世紀末〜17世紀)

2世紀末には、チャム人がベトナムの中部に、のちにチャンパー(中国名:林邑・占城)と呼ばれる国を建てました。チャンパーはインド洋から南シナ海を結ぶ海上交易にたずさわり、南アジアの影響を強く受けたいくつもの寺院群を築きました。

ベトナム中部から南部にかけて長期にわたって勢力を保持したチャンパーでしたが、北方のベトナム(大越国)からの圧迫を受け続け、領土を徐々に縮小させていきます。現在のベトナム中部に残るミーソン聖域のヒンドゥー教寺院群は、チャンパー文化の遺産です。

ここが問われる: 扶南とチャンパーの基本情報 内容・特徴

扶南 ─ 1世紀末にメコン川下流域に成立した港市国家。オケオの遺跡からローマ貨幣やインドの神像が出土
チャンパー(林邑・占城) ─ 2世紀末にチャム人がベトナム中部に建てた国家。インド洋から南シナ海を結ぶ海上交易にたずさわり、南アジアの影響を強く受けた寺院群を築いた
③6世紀にメコン川中流域にクメール人のカンボジアがおこり、扶南を滅ぼした

4クメール王国 ─ アンコール=ワットの栄光

扶南に代わって台頭したのが、クメール人の国家です。6世紀にメコン川中流域にクメール人によってヒンドゥー教の影響の強いカンボジアがおこり、扶南を滅ぼしました。

この王国は、9世紀以降アンコールに都をおき、トンレサップ湖周辺を拠点に大規模な灌漑農業を発展させました。

12世紀には、スーリヤヴァルマン2世がヒンドゥー教や仏教の強い影響を受けながらも独自の様式と規模をもつアンコール=ワットを造営しました。回廊には『マハーバーラタ』などの物語が浮き彫りにされており、クメール建築の代表として知られています。主神はヒンドゥー教のヴィシュヌ神です。

続くジャヤヴァルマン7世(在位1181〜1218年ごろ)は、チャンパーの侵攻を撃退して王国を再建しました。このとき建設された都城がアンコール=トムです。ジャヤヴァルマン7世は仏教(上座部仏教ではなく大乗仏教)を信仰し、バイヨン寺院には巨大な仏の顔が彫られています。

しかし13世紀以降、タイ人のアユタヤ朝による圧迫を受けてクメール王国は衰退し、1431年にアンコールは放棄されました。

ここが問われる: クメール王国とアンコール遺跡 内容・特徴

アンコール=ワット ─ 12世紀に造営されたクメール建築の代表。主神はヒンドゥー教のヴィシュヌ神。回廊に『マハーバーラタ』の浮き彫り
アンコール=トムジャヤヴァルマン7世が建設した都城。大乗仏教を信仰し、バイヨン寺院を造営
③クメール王国はトンレサップ湖周辺の灌漑農業を経済基盤とした

5シュリーヴィジャヤ ─ 海上交易の覇者

シュリーヴィジャヤ(中国名:室利仏逝)は、7世紀半ばにスマトラ島のパレンバンを中心に成立した海上交易国家です。マラッカ海峡という東西交易の最重要航路を支配し、インド洋と南シナ海を結ぶ中継貿易で莫大な富を得ました。

シュリーヴィジャヤは大乗仏教の中心地としても知られています。7世紀後半にインドを訪れた唐の僧義浄は、帰国の途上に首都パレンバンに滞在し、『南海寄帰内法伝』を著しました。義浄は、この国に千人以上の仏僧がいて、学問水準はインドなみに高いと述べています。

シュリーヴィジャヤは、マラッカ海峡を管理し、中国にも朝貢使節を派遣しました。その後、シュリーヴィジャヤを引き継いで三仏斉が繁栄しました。ジャワ島では8世紀にマレー人勢力がシャイレンドラ朝を名のり、大乗仏教を信奉して仏教寺院のボロブドゥールを建造しました。一方、8世紀中ごろからジャワ島中部の盆地ではジャワ人がヒンドゥー教を信奉する古マタラム王国を建設し、9世紀中ごろにシャイレンドラ朝を破って勢力を広げ、プランバナン寺院群を造営しました。11世紀には南インドのチョーラ朝の遠征を受けて打撃を受け、14世紀にはジャワ島のマジャパヒト王国の台頭やイスラーム商人の進出により衰退しました。

発展:マラッカ海峡はなぜ東西交易の要だったのか

インド洋と南シナ海を行き来する船にとって、マレー半島とスマトラ島のあいだに位置するマラッカ海峡は、最短の航路でした。季節風(モンスーン)の変化を利用した帆船交易では、風向きが変わるまで港で待機する必要があり、海峡の港町は商人の滞在・取引の場として発展しました。こうした港町を「港市」と呼び、港市を基盤とする国家を「港市国家」といいます。

シュリーヴィジャヤが支配したマラッカ海峡は、のちにイスラーム商人の交易圏に組み込まれ、15世紀のマラッカ王国、さらには16世紀以降のポルトガル・オランダによる争奪の対象となっていきます。東南アジア史において、この海峡の支配は常に覇権の鍵でした。

6パガン朝とベトナム ─ 大陸部の二つの方向

パガン朝(ビルマ)

エーヤワディー(イラワジ)川下流域では、9世紀までピュー人の国がありました。11世紀には、ビルマ人エーヤワディー川中流域の中央平原における稲作を基盤としてパガン朝(1044〜1299年)をおこしました。インドやセイロン島とも交流をもち、上座部仏教が広まりました。

パガンには、おもに11世紀から13世紀にかけて、数多くのパゴダと呼ばれる仏塔や上座部仏教の寺院が建立されました。

パガン朝は13世紀末、モンゴル帝国()の侵攻を受けて衰退し、1299年に滅亡しました。

チャオプラヤ川下流域では、7世紀から11世紀ごろにかけてモン人によるドヴァーラヴァティー王国が発展しました。さらに13世紀半ばには、タイ北部にタイ人による最古の王朝であるスコータイ朝がおこりました。これらの国家はいずれも上座部仏教を信仰しました。

ベトナム ─ 中国文化圏の東南アジア

東南アジアの大陸部において、ベトナムは特異な位置を占めています。他の地域がインド文化を受容したのに対し、ベトナム北部は中国文化の強い影響下にありました。

ベトナムでは、前漢時代以来、紅河デルタを中心にした北部が中国に服属していました。漢字儒教などの中華文明がベトナム北部に伝わりました。

しかしベトナム人は独立への動きも強く、10世紀末には中国に独立を認めさせました。11世紀初めには李氏李朝を成立させ、のちに国名を大越(ダイベト)と称しました。13世紀に李朝にかわった陳朝は、3次にわたる元軍の侵略を退けました。陳朝のころ、ベトナム語を書くために漢字を利用したチュノム(字喃)と呼ばれる文字がつくられました。大越国は中国の制度にならいつつも、チャンパーとも対立を続けました。

ベトナムはなぜ「インド化」ではなく「中国化」したのか
ベトナム北部(紅河デルタ)は中国と陸続きで、直接の征服・支配を受けやすかった
前漢時代以来、紅河デルタを中心にした北部が中国に服属した
漢字・儒教・律令制度など、中国文化が行政機構を通じて直接的に移植された
他の東南アジア諸国が交易を通じてインド文化を主体的に選択したのとは対照的に、ベトナムは中国文化圏に組み込まれた

7東南アジアの交易ネットワーク

東南アジア世界を形成した最大の要因は、海上交易ネットワークでした。インド洋と南シナ海を結ぶ航路は、季節風(モンスーン)を利用した帆船貿易によって維持されていました。夏の南西モンスーンでインドから東南アジアへ、冬の北東モンスーンで東南アジアからインドへ航海するのが基本パターンです。

ローマ帝国の衰退後は東南アジアや中国との交易の重要性が増し、マラッカ海峡・インドシナ半島南部が航海上の要衝となりました。チャンパー・シュリーヴィジャヤなどが、香辛料や象・茶・などの交易によって栄えました。こうして、地中海から紅海やペルシア湾を通り、アラビア海を渡って南アジアの各地に達し、さらに東南アジアや中国に至る「海の道」がひらけ、交易が活発におこなわれました。

この交易ネットワークに沿って、宗教や文化も伝播しました。インドからはヒンドゥー教と仏教が、中国からは儒教や漢字文化がもたらされました。そして13世紀以降は、イスラームがインド洋交易を通じて諸島部に広まり、東南アジアの宗教地図を大きく塗り替えていくことになります。

歴史総合とのつながり

東南アジアの交易ネットワークは、歴史総合で扱う「結びつく世界」のテーマに直結します。季節風を利用した海上交易は、近代以前のグローバリゼーションの一形態であり、16世紀にポルトガルがマラッカを占領して以降、東南アジアは「大航海時代」の舞台へと変わっていきます。

8俯瞰する ─ この記事のつながり

東南アジアは、南アジアの文明と中国文明という二大文明の影響を受けながらも、それぞれの地域で独自の国家と文化を形成しました。大陸部と諸島部という地理的条件の違いが、農業国家と港市国家という異なる国家の類型を生み出し、ベトナムだけが中国文化圏に属するという独自の位置を占めています。これらの国家は、「海の道」を介して相互に結びつくとともに、広くインド洋世界・東アジア世界とも接続していました。

この記事と他の章のつながり

  • 3-2 ヒンドゥー教の確立とインド古典文化 ─ 東南アジアの「インド化」は、ヒンドゥー教・仏教というインド古典文化の東方への伝播です。特にグプタ朝期に体系化されたヒンドゥー教の神王思想が、クメール王国などの王権を支えました。
  • 2-2 秦・漢帝国 ─ ベトナムが中国文化圏に組み込まれたのは、前漢の武帝による征服がきっかけです。以後約1000年にわたる中国支配は、ベトナムの国家形成に決定的な影響を与えました。
  • 4-1 イラン諸国家の興亡 ─ インド洋交易は、イラン・西アジアの商人も参加する広域ネットワークでした。ササン朝ペルシアの銀貨が東南アジアで出土するなど、東西交易のつながりを物語っています。
  • 5-3 イスラーム世界の拡大 ─ 13世紀以降、イスラーム商人が東南アジアの交易ネットワークに参入し、諸島部のイスラーム化が進みます。マラッカ王国のイスラーム改宗は、東南アジア史の大きな転換点となりました。

9まとめ

  • 東南アジアは大陸部(大河流域の農業国家)と諸島部(海上交易の港市国家)に大別される。
  • インド化」とは、東南アジアの支配者がヒンドゥー教・仏教・サンスクリット語などのインド文化を主体的に受容した現象である。
  • 扶南は1世紀末にメコン川下流域に成立した港市国家。チャンパーは2世紀末にチャム人がベトナム中部に建てた国家。
  • クメール王国(カンボジア)は6世紀にメコン川中流域に成立。9世紀以降アンコールに都をおき、12世紀にスーリヤヴァルマン2世アンコール=ワットを造営した。
  • シュリーヴィジャヤは7世紀半ばにスマトラ島のパレンバンを中心に成立。マラッカ海峡を管理し、大乗仏教の中心地でもあった。唐の僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録。
  • パガン朝はエーヤワディー川中流域の稲作を基盤に11世紀に成立。上座部仏教が広まった。
  • ベトナムは前漢時代以来、中国に服属。10世紀末に独立し、11世紀初めに李朝が成立、のちに国名を大越(ダイベト)と称した。13世紀の陳朝は元軍の侵略を退け、ベトナム語を表すチュノムが生まれた。
この記事を100字で要約すると

東南アジアは大陸部と諸島部に分かれ、インド文化を受容して独自の国家を形成した。扶南・カンボジア(クメール)・シュリーヴィジャヤが交易で栄え、ベトナムのみ中国文化圏に属した。「海の道」を通じた交易ネットワークが地域全体を結んだ。

10穴埋め・一問一答

Q1. スマトラ島を拠点にマラッカ海峡の海上交易を支配した国家を何というか。

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シュリーヴィジャヤ(室利仏逝)。7世紀半ばにスマトラ島のパレンバンを中心に成立し、大乗仏教の中心地としても知られました。唐の僧・義浄が『南海寄帰内法伝』で千人以上の仏僧の存在を記録しています。

Q2. クメール王国のスーリヤヴァルマン2世が造営した、ヴィシュヌ神に捧げた石造寺院を何というか。

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アンコール=ワット。12世紀に造営されたクメール建築の代表。主神はヒンドゥー教のヴィシュヌ神であり、回廊には『マハーバーラタ』などの物語が浮き彫りにされています。

Q3. ベトナム北部を征服して約1000年の支配を開始した中国の皇帝は誰か。

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前漢の武帝。ベトナム北部(紅河デルタ)を征服し、以後、漢字・儒教などの中華文明がベトナム北部に伝わりました。

Q4. ビルマ人最初の統一王朝で、上座部仏教を受容した王朝を何というか。

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パガン朝(1044〜1299年)。エーヤワディー川中流域の中央平原における稲作を基盤に成立しました。インドやセイロン島とも交流をもち、上座部仏教が広まりました。パガンには数多くのパゴダ(仏塔)が建立されています。

11アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。

A 基礎レベル

問1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。

東南アジアでは、インドの商人や僧侶を通じて( ア )教や仏教が伝わり、これを「インド化」と呼ぶ。メコン川下流域には港市国家の( イ )が成立し、12世紀にはクメール王国のスーリヤヴァルマン2世が( ウ )を造営した。スマトラ島を拠点とする( エ )はマラッカ海峡の海上交易を支配し、大乗仏教の中心地として栄えた。

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解答

ア:ヒンドゥー イ:扶南 ウ:アンコール=ワット エ:シュリーヴィジャヤ

解説

東南アジアの「インド化」国家の基本的な知識を問う問題です。ヒンドゥー教と仏教の伝播 → 扶南(メコン川下流域の港市国家) → アンコール=ワット(スーリヤヴァルマン2世がヴィシュヌ神に捧げた) → シュリーヴィジャヤ(マラッカ海峡・大乗仏教)という組み合わせを正確に押さえましょう。

B 標準レベル

問2 B 標準 正誤

東南アジアの歴史に関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。

  • (1) アンコール=ワットは、ジャヤヴァルマン7世がヴィシュヌ神に捧げて造営した。
  • (2) シュリーヴィジャヤは大乗仏教の中心地であり、唐の僧・義浄がその繁栄を記録した。
  • (3) パガン朝は上座部仏教を受容し、13世紀末にモンゴル帝国の侵攻で滅亡した。
  • (4) ベトナムは「インド化」の影響を強く受け、ヒンドゥー教を国教とした。
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解答

(1) ×「ジャヤヴァルマン7世」→「スーリヤヴァルマン2世」 (2) ○ (3) ○ (4) ×「『インド化』の影響を強く受け、ヒンドゥー教を国教とした」→「前漢時代以来、中国に服属し、漢字や儒教などの中華文明が伝わった」

解説

(1)について:アンコール=ワットを造営したのはスーリヤヴァルマン2世です。ジャヤヴァルマン7世が建設したのはアンコール=トムで、こちらは大乗仏教の影響を受けています。この二人の王と二つの遺跡の対応関係は頻出です。(4)について:ベトナムは東南アジアで唯一、インド文化ではなく中国文化の影響下にあった地域です。前漢時代以来、紅河デルタを中心にした北部が中国に服属し、漢字や儒教などの中華文明が伝わりました。

C 発展レベル

問3 C 発展 論述

東南アジアにおける「インド化」の特徴を、インドによる征服・植民との違いに言及しながら、80字以内で説明せよ。

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解答例

インドによる軍事征服ではなく、東南アジアの支配者が自らの権威を高めるためにヒンドゥー教や仏教・王権思想を主体的に受容し、在地文化と融合させた。(68字)

解説

「インド化」の最大のポイントは、それがインド側からの一方的な押しつけではなく、東南アジアの支配者による主体的な文化受容であったことです。王権の正統化にインドの宗教(デーヴァ・ラージャの思想)が利用された点と、在地文化との融合が起こった点を述べる必要があります。ベトナムが中国による直接統治を受けた「中国化」との対比で整理すると理解が深まります。

採点ポイント
  • インドによる征服・植民ではないことが明示されている
  • 東南アジア側の「主体的な受容」が述べられている
  • ヒンドゥー教・仏教・王権思想など具体的な受容内容に言及している