4世紀前半、かつてのマガダ国の故地からグプタ朝がおこると、サンスクリット語が公用語化されて文学や自然科学が花開き、インド古典文化の黄金期が訪れます。同時に、バラモン教が民間の信仰や慣習を吸収してヒンドゥー教が社会に定着し、カースト(ジャーティ)制度とともにインド社会に深く根づいていきました。
この記事では、グプタ朝の成立から衰退、ヴァルダナ朝を経た分裂期までを学び、ヒンドゥー教がインド世界の基盤となった過程をたどります。
マウリヤ朝の滅亡後、インドは長い分裂時代に入りました。4世紀前半、かつてのマガダ国の故地から台頭したチャンドラグプタ1世が、パータリプトラを都として320年ごろにグプタ朝をおこしました。
グプタ朝はその子サムドラグプタのもとで領土を大きく拡大し、続くチャンドラグプタ2世(超日王)の時代に最盛期を迎えました。チャンドラグプタ2世は北インドの大部分を統一しました。
グプタ朝のもとでは仏教やジャイナ教も盛んとなり、中国(東晋)から法顕が訪れました。
グプタ朝は、服属した地方勢力の連合的な性格が強く、その支配は分権的でした。その支配地域は、中央部の王国直轄領、従来の支配者がグプタ朝の臣下として統治する地域、および領主が貢納する周辺の属領から構成されていました。
こうした分権的な体制は広大な領域を統治するのに適していた反面、王の権威が衰えると地方勢力が自立しやすいという弱点をもっていました。グプタ朝後半の衰退には、このしくみも一因として作用しています。
①分権的な統治 ─ 服属した地方勢力の連合的な性格が強い
②王国直轄領・臣下が統治する地域・貢納する属領の三層構造
③王権が弱まると地方勢力が自立しやすいという構造的弱点をもつ
グプタ朝の時代には、民間の信仰や慣習を吸収して徐々に形成されていたヒンドゥー教が、社会に定着するようになりました。ヒンドゥー教とは、バラモン教がインド各地の土着の神々に対する民間信仰と融合して成立した宗教です。
ヒンドゥー教はシヴァ神やヴィシュヌ神など多くの神々を信仰する多神教であり、特定の教義や経典にもとづく宗教ではなく、日々の生活や思考の全体に関わる宗教として、現在に至っています。
ヒンドゥー教で特に重要な神格は、シヴァ神とヴィシュヌ神の二柱です。
また、ブラフマー神(創造神)を加えた三神を三神一体(トリムールティ)として理解する思想も生まれました。グプタ朝の王はヴィシュヌ神の信者を名乗ることが多く、王権の正統性をヒンドゥー教に求めました。
| 仏教 | ヒンドゥー教 | |
|---|---|---|
| 開祖 | ガウタマ=シッダールタ(ブッダ) | 特定の開祖なし |
| 成立時期 | 前6〜前5世紀 | グプタ朝期(4〜6世紀)に確立 |
| カースト制度 | 身分差別を否定 | ヴァルナ制を宗教的に肯定 |
| 信仰の対象 | ブッダの教え(法) | シヴァ神・ヴィシュヌ神など多数の神々 |
| 実践の場 | 出家・僧院が中心 | 在家のまま日常生活で実践 |
| 聖典 | 経・律・論の三蔵 | ヴェーダ、叙事詩(マハーバーラタ・ラーマーヤナ)など多様 |
| 広がり | 東南アジア・東アジアへ伝播 | インド社会に深く定着、東南アジアにも影響 |
ヒンドゥー教の定着と並行して、インドの身分制度も大きく変化しました。もともとアーリヤ人の時代に形成されたヴァルナ(バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの4身分)は、社会の大まかな枠組みにすぎませんでした。
グプタ朝の時代以降、ヴァルナの枠組みのもとで、実際の社会生活を規定するジャーティという職業・出自にもとづく集団が無数に形成されていきます。ジャーティごとに従事する職業、結婚の相手、食事の規則などが細かく定められ、社会の隅々まで浸透しました。これがいわゆるカースト制度です。
カースト制度はヒンドゥー教のダルマ(法・義務)の思想と結びつき、宗教的に正当化されました。自分の生まれた身分の義務を果たすことが、カルマ(業)を積み、来世でより良い境遇に生まれ変わることにつながると考えられたのです。こうしてカースト制度は、ヒンドゥー教と不可分の社会制度としてインドに深く根づいていきました。
①ヒンドゥー教はダルマ(法・義務)の思想でカースト制度を宗教的に正当化した
②自分の身分の義務を果たすことがカルマ(業)を積み、来世の境遇を良くすると考えられた
③カースト制度はヒンドゥー教と不可分の社会制度としてインド社会に深く浸透した
グプタ朝の時代は、インド古典文化の黄金期でした。影響力を失いかけていたバラモンが再び重んじられるようになり、バラモンの言葉であるサンスクリット語が公用語化されました。サンスクリット語で王の事績を喧伝する碑文を作成することが一般化し、サンスクリット文学が興隆しました。
宮廷詩人カーリダーサによって戯曲『シャクンタラー』がつくられ、後世に大きな影響を与えました。
また、訴訟の手続きや刑罰に関する規定を含み、ヴァルナ別に人々の生活規範をまとめた『マヌ法典』や、サンスクリット語の二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が長い期間をかけて完成しました。『マハーバーラタ』はバラタ族の王位争奪の物語で、数多くのヒンドゥー教の神話や伝承が挿入されています。『ラーマーヤナ』は王子ラーマとその妻シーターの物語です。これらは現在も南アジアから東南アジアにかけて影絵や舞踊などのテーマとなっています。
天文学や文法学・数学なども発達し、十進法の数字の表記法やゼロの概念も生み出されました。これらはのちにイスラーム世界を通じてヨーロッパに伝えられ、自然科学を発展させる基礎となりました。
グプタ朝期には仏教も栄え、ナーランダー僧院が仏教教学の中心となりました。7世紀前半には唐の僧玄奘がナーランダー僧院で学び、7世紀後半には義浄がインドを訪れました。
美術では、ガンダーラ美術の影響から抜け出て、純インド的なグプタ様式が成立しました。この時期の仏像は優美さとやさしさをもつのが特徴です。アジャンター石窟寺院の主要部もこの時代につくられました。
「ゼロ」を独立した数として扱い、位取りの数字体系に組み込んだのはインド数学の最大の功績です。ローマ数字(I, V, X, L, C...)では数が大きくなるほど表記が複雑になりますが、インド式の十進法では0〜9の10個の数字だけで、どんなに大きな数も簡潔に表せます。この体系がイスラーム世界を経てヨーロッパに伝わり、近代科学の発展を支える基盤となりました。グプタ朝の文化遺産が現代世界に与えた影響として、極めて重要なものです。
①サンスクリット文学 ─ カーリダーサ『シャクンタラー』、『マヌ法典』(ヴァルナ別の生活規範)、二大叙事詩(『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』)の完成
②自然科学 ─ 天文学・数学の発達、十進法・ゼロの概念。のちにイスラーム世界を通じてヨーロッパへ
③仏教学問 ─ ナーランダー僧院が仏教教学の中心に(玄奘・義浄が留学)
④グプタ様式 ─ ガンダーラ美術の影響を脱した純インド的な仏像。アジャンター石窟寺院
5世紀後半以降、西北インドからフーナが侵入したこともあってグプタ朝は弱体化しました。フーナは一時的に北インドの広い地域を支配しましたが、グプタ朝から自立した地方勢力にやぶれました。中央アジアの遊牧民エフタルの進出により西方との交易が打撃を受けたことや、地方勢力が台頭したことも、グプタ朝の衰退を促しました。
フーナはインド側の史料での呼称です。かつては6世紀中ごろまで中央アジアを広く支配したエフタルの一部とみなされることが多かったのですが、近年ではエフタルとは別の集団とする説が有力になりつつあります。
6世紀半ば、グプタ朝は滅亡し、北インドは再び多くの小国に分裂しました。
ただし、グプタ朝が滅亡しても、この時代に確立されたヒンドゥー教・サンスクリット文化・カースト制度は、その後のインド社会の基盤として長く存続していきます。
グプタ朝の衰退後、ハルシャ王(ハルシャ=ヴァルダナ)がヴァルダナ朝をおこし、カナウジを都として一時、北インドの大部分を統一しました。当時の支配者の多くはヒンドゥー教の熱心な信者でしたが、仏教やジャイナ教にも保護を与えました。
唐から訪れた玄奘はハルシャ王の厚い保護を受けながらナーランダー僧院で仏教を学びました。7世紀後半には義浄がインドを訪れ、帰国の途上に『南海寄帰内法伝』を著しました。
しかし、ハルシャ王の死後に王朝は急速に衰退しました。以後、8世紀からイスラーム勢力が進出してくる10世紀頃までの南アジアは、統一的な中央政権が存在せず、多数の地方王権からなる時代となりました。北インドではラージプートと総称されるヒンドゥー諸勢力の抗争が続きました。諸勢力は支配の正当性を示すために巨大なヒンドゥー教寺院を建立し、井戸や貯水池の建設などもおこないました。
6世紀ごろから、祭儀を形式的に行うことよりも神々に対する心の底からの帰依を重視するバクティの思想が影響をもつようになりました。南インドで体系化されたバクティはやがてインド各地に広まり、神への帰依と信愛を感情的にうたう詩文学を生みだしました。12世紀ごろまでにはカースト制を批判するバクティの宗教指導者も現れるようになりました。仏教はグプタ朝以後の商業活動の不振によって商人からの支援を失い、また仏教やジャイナ教を攻撃するバクティ運動も盛んになって、衰退に向かいました。こうしてヒンドゥー教がインド全域の幅広い階層の間に定着しました。
グプタ朝が衰退したころから、ヒンドゥー教ではシヴァ神やヴィシュヌ神を祀る石造の寺院が本格的に建てられるようになりました。また、特別な修行や呪文によって超自然的な力や現世利益が獲得できるとする教えも広がり、これをタントリズムといいます。ヒンドゥー教でタントリズムが発展すると、仏教でもタントリズム的な密教が成立し、東インドを中心に広がりました。グプタ朝衰退後も諸王朝の保護を受けてナーランダーをはじめとする僧院では教義の研究がすすめられましたが、密教の発展とともにヒンドゥー教との違いが曖昧になったこともあり、仏教はやがてヒンドゥー教に吸収され、インドにおいては衰退しました。
南インドでは、活発なインド洋交易にも支えられて有力な諸王国が出現しました。デカン高原を本拠として8世紀に成立したラーシュトラクータ朝は、西海岸を支配するとともに北インドにも勢力をのばしました。11世紀には南端のチョーラ朝が有力になり、スリランカやスマトラ島に軍を派遣してインド洋東部の覇権を握りました。チョーラ朝は海上交易のさらなる発展をめざして中国の宋に使節を派遣し、また数多くの大規模なヒンドゥー教寺院を造営しました。
①ハルシャ王がヴァルダナ朝をおこし、カナウジを都として北インドの大部分を統一
②当時の支配者はヒンドゥー教の信者だが、仏教やジャイナ教にも保護を与えた
③唐の玄奘がハルシャ王の保護のもとナーランダー僧院で学んだ
④ハルシャ王の死後、王朝は急速に衰退し北インドは再び分裂した
グプタ朝の繁栄は、分権的な統治体制のもとで実現し、文化的にはサンスクリット文学、自然科学、ヒンドゥー教という「インドらしさ」の核が形成された時代でした。グプタ朝が滅んでも、これらの文化的基盤はインドの社会と不可分のまま存続し、東南アジアにも広がっていきます。
カースト制度は近代以降も形を変えながらインド社会に影響を与え続けています。歴史総合では、イギリスによるインド植民地支配がカースト制度にどのような影響を与えたか、また独立後のインドがカースト差別の撤廃にどう取り組んだかを学びます。また、ゼロの概念を含むインド数学がイスラーム世界を経由してヨーロッパに伝わった過程は、歴史総合の「つながる世界」のテーマとも関連しています。
グプタ朝のもとでサンスクリット語が公用語化され、文学や十進法・ゼロの概念が生まれてインド古典文化の黄金期を迎えた。バラモン教が民間の信仰や慣習を吸収してヒンドゥー教が社会に定着し、カースト制度とともにインド社会の基盤となった。
Q1. グプタ朝の最盛期の王で、「超日王」とも呼ばれるのは誰か。
Q2. バラモン教が民間信仰と融合して成立した、特定の開祖をもたない宗教は何か。
Q3. グプタ朝の宮廷詩人で、戯曲『シャクンタラー』の作者は誰か。
Q4. グプタ朝の衰退後、北インドを一時的に統一したヴァルダナ朝の王は誰か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
4世紀に( ア )が建てたグプタ朝は、( イ )の時代に最盛期を迎えた。この時代にバラモン教と民間信仰が融合して( ウ )教が成立し、破壊と創造の神である( エ )神や、世界の維持をつかさどるヴィシュヌ神への信仰が広まった。
ア:チャンドラグプタ1世 イ:チャンドラグプタ2世(超日王) ウ:ヒンドゥー エ:シヴァ
グプタ朝は320年ごろにチャンドラグプタ1世がかつてのマガダ国の故地を基盤に建て、チャンドラグプタ2世(超日王)のもとで北インドの大部分を統一して最盛期を迎えました。ヒンドゥー教はバラモン教が民間の信仰や慣習を吸収して社会に定着した宗教で、シヴァ神(破壊と創造)・ヴィシュヌ神(世界の維持)が主神です。マウリヤ朝のチャンドラグプタとグプタ朝のチャンドラグプタ1世を混同しないよう注意しましょう。
次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) × 「官僚制による中央集権的支配」→「服属した地方勢力の連合的な性格が強い分権的支配」 (2) ○ (3) × 「ヒンドゥー教」→「仏教」 (4) ○
(1)について:中央集権的な官僚制で統治を行ったのはマウリヤ朝です。グプタ朝は服属した地方勢力の連合的な性格が強く、その支配は分権的でした。(3)について:ナーランダー僧院は仏教教学の中心です。グプタ朝期には仏教も栄え、ナーランダー僧院がアジア各地から留学僧を集めました。
ヒンドゥー教が仏教に代わってインド社会の主要な宗教となっていった要因を、カースト制度との関係に触れながら100字以内で述べよ。
ヒンドゥー教は民間信仰を柔軟に吸収し、カースト制度をダルマの思想で宗教的に正当化して社会秩序と一体化した。出家を必要とせず在家で信仰を実践できた点も、僧院に依存する仏教より広く浸透した要因である。(98字)
仏教がカースト制度(ヴァルナ制)を否定したのに対し、ヒンドゥー教はカースト制度を宗教的に肯定しました。自分のジャーティに課せられた義務(ダルマ)を果たすことが来世の良い境遇につながるという教えは、既存の社会秩序を維持したい支配層にとって都合がよく、同時に庶民にとっても日常生活と信仰が結びつく点で受け入れやすいものでした。また、仏教が出家者中心の僧院に依存していたため、王権の庇護が弱まると存続が困難になったのに対し、ヒンドゥー教は社会のあらゆる層に根を張っていたため、政治体制の変動に左右されにくかったのです。