南北朝の分裂を終わらせた隋、そしてそれを受け継いだ唐は、律令制を整え、東アジア全域に影響を与える強大な帝国を築きました。漢字・儒教・仏教・律令という共通の文化要素は、朝鮮半島・日本・ベトナムにも広がり、「東アジア文化圏」と呼ばれる文明圏が形成されます。
この記事では、隋唐帝国の興亡をたどりつつ、東アジア文化圏がどのように形成されたのかを整理します。
魏晋南北朝の分裂時代は、6世紀末に終わりを迎えます。北周の外戚楊堅(ようけん)が帝位を奪い、皇帝(文帝)となって隋を建てました(581年)。文帝は589年に南朝の陳を滅ぼして中国を統一しました。
文帝は、対立関係にあった突厥を東西に分裂させ、北方の遊牧民族の動きをおさえる一方で、九品中正にかわる新しい人材登用制度として、儒学の試験によって官吏を選ぶ科挙を始めました。さらに、南北朝の諸制度をあわせて体制を固めつつ、開発の進んでいた江南を華北と結びつける大運河の建設に着手しました。
文帝の子煬帝(ようだい)は、大運河の整備をさらに進め、南北の交通を容易にしました。大運河は、経済的に豊かな江南の物資を政治の中心である華北に運ぶための水路で、南北の経済を結びつける大動脈となります。
しかし煬帝は、高句麗遠征を繰り返し強行しましたが失敗に終わり、工事に従事した民衆は疲弊しました。高句麗遠征の失敗をきっかけに各地で反乱がおこり、隋はわずか2代で滅亡しました(618年)。
①文帝(楊堅) ─ 589年に中国を統一。科挙を開始し、均田制を実施した
②煬帝 ─ 大運河を建設して南北の経済を結びつけた。3度の高句麗遠征に失敗し、民衆の反乱を招いて隋は滅亡した
③科挙 ─ 九品中正に代わる官吏登用制度。門閥貴族の勢力を抑え、皇帝権力の強化をめざした
隋末の混乱のなか、自立した武将の李淵(りえん、高祖)が隋を倒して唐を建てました(618年)。高祖は隋の都大興城を長安と改め、唐の都としました。対立する諸勢力を平定して第2代皇帝となった李世民(りせいみん、太宗)は、国内の諸制度を整えるとともに、東突厥を破りました。遊牧諸民族は、太宗を「天可汗」(テンリカガン)と称して、その支配を受け入れました。太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ、中国史上の模範的な統治として知られます。つぎの高宗は西突厥を滅亡させてオアシス諸都市に進出し、また新羅と結んで百済・高句麗を滅ぼして、東方にも勢力圏を広げました。唐は支配下に入れた諸民族に自治を認めつつ、各方面においた都護府に監督させました。
隋・唐の時代には、律令に従った統治制度が打ちたてられました。律では刑罰が、令では行政の仕組みが定められました。中央政府には三省六部を中心とした制度が整えられました。三省とは中書省・門下省・尚書省のことで、尚書省のもとに吏・戸・礼・兵・刑・工の六部が設けられました。地方行政も州県制に整理されました。
隋・唐は北朝の均田制を受け継いで、農民に土地を配分する原則を掲げ、小家族を単位とする穀物・布の納入と労役(租・庸・調)を税制の基本としました。均田制・租庸調制・府兵制は互いに密接に結びついており、農民を土地に結びつけることで安定した税収と兵力を確保する仕組みでした。
唐が広大な領域を支配した時代には、諸国の使節や留学生・商人など、さまざまな人々が都の長安に集まりました。長安には、仏教や道教の寺院のほか、キリスト教の一派の景教(ネストリウス派)や祆教(ゾロアスター教)・マニ教の寺院もつくられました。海路で中国を訪れるムスリム商人も増え、広州・泉州などの港町が発展しました。有能な外国人は官吏として取り立てられ、とくにソグド人は軍事や経済など多方面で活躍しました。
農業面では、華北では冬小麦を裏作とする二毛作が普及し、江南では水稲栽培の技術が向上して水田地帯がさらに南方に広がりました。水陸の交通網も一段と整備され、都市間の物資流通が充実しました。
この時期に花開いた国際的な文化は、やがて中国社会に浸透し、人々の生活や意識をかえていきました。
①国家が農民に土地を支給する(均田制)
②農民は見返りとして穀物・布・労役を納める(租庸調制)
③均田農民のなかから兵士を徴発する(府兵制)
④三つの制度は相互に結びつき、均田制の崩壊が租庸調制・府兵制の崩壊にもつながった
7世紀末に皇帝となった則天武后(武則天)が科挙を重用したことで、政治の担い手は貴族から科挙官僚へと移りはじめました。8世紀初めに体制の立て直しをはかった玄宗は、内政を整えて「開元の治」と称される安定した治世を実現しました。しかし玄宗は農民からの徴兵をやめ、傭兵を用いる募兵制を採用して、辺境においた節度使に軍団を指揮させました。
755年、強大な力をもつようになった節度使の安禄山とその部下の史思明が大規模な反乱を起こしました。安禄山はイラン系ソグド人の血を引くとされ、唐の辺境において異民族出身者が高い地位に就いた唐の国際性を示す人物でもあります。これが安史の乱(755〜763年)です。安史の乱はウイグルの援軍によってようやく鎮圧されましたが、この乱を境に唐の国家や社会は大きく性格を変えることになりました。
各地の節度使は自立の傾向を強め、吐蕃・南詔の侵攻もあって、中央政府の力のおよぶ範囲は縮小しました。安史の乱から五代十国の時期にかけて、節度使は内地にもおかれ、行政・財政の権力を握って軍閥化しました。こうした節度使のことを藩鎮とも呼びます。
安史の乱のころには、均田制はすでに崩壊していました。土地の売買や集積が進み、大土地所有者が増える一方で、土地を失った農民が増加したためです。均田制の崩壊は、それと一体であった租庸調制と府兵制の崩壊も意味しました。
唐は財政再建のため、780年に両税法を定め、現住地で所有する資産の額に応じて夏・秋2回の課税をおこなうこととしました。これは、土地の私有化の進行や貧富の差の拡大といった社会の状況を反映したものでした。塩の専売も重要な財源となり、こうした新税制によって、唐はこののちもしばらく国力を保ちました。
9世紀後半に山東の塩の密売人黄巣がおこした反乱(黄巣の乱)が全国に広がるなか、力をのばした朱全忠が、10世紀初めに唐の帝位を奪って汴州(開封)を都に後梁を建てました(907年)。そのほかの地域で興亡した十余りの国をあわせて、五代十国といいます。
| 租庸調制 | 両税法 | |
|---|---|---|
| 時期 | 唐の前半期 | 780年〜(楊炎の建議) |
| 課税基準 | 人頭(成年男子ごと) | 資産(土地・財産) |
| 税の内容 | 租(穀物)・庸(労役/布)・調(絹/布) | 銭納を原則とし、夏・秋の年2回徴収 |
| 前提となる制度 | 均田制(国家による土地支給) | 均田制崩壊後の現実に対応 |
| 対象 | 均田農民(戸籍登録地で課税) | 現住地のすべての住民 |
| 特徴 | 農民を土地に縛り付ける | 土地の私有を前提とした合理的税制 |
唐の文化は外交関係を介して近隣諸国にも広がり、唐を中心とする東アジア文化圏が形成されました。朝鮮半島・日本・ベトナムなどの地域は、漢字・儒教・仏教・律令という共通の文化要素を受け入れ、それぞれ独自の発展を遂げていきます。
朝鮮半島では、唐と結んで百済・高句麗を滅ぼした新羅が、676年に唐の勢力を追い払い、朝鮮半島の大部分を支配下におさめました。新羅は唐の律令制度を受容しましたが、その運用は血縁的な身分制度である骨品制を基盤としていました。新羅では仏教が保護され、都の金城(慶州)を中心に仏教文化が栄えました。
一方、高句麗の滅亡後、中国東北地方から朝鮮半島北部にかけて渤海が建国されました。渤海は唐の諸制度を積極的に取り入れ、「海東の盛国」と称されるほど栄えました。日本とも通交しています。
日本も遣隋使・遣唐使を通じて中国文化を摂取し、大化改新などを経て律令にもとづく国づくりを進めました。唐の長安にならって平城京や平安京などの都城がつくられ、「日本」という国号や「天皇」の称号も正式に定められました。均田制を模した土地分配制度(班田収授法)が施行され、中国と同じ円形・方孔の銅銭も発行されました。唐の国際的な文化の影響を受けた天平文化が開花しました。
東アジアの国際秩序においては、周辺国が中国皇帝に使節(朝貢)を派遣し、皇帝が返礼として王号などを授ける(冊封)という冊封体制が基本的な枠組みでした。朝鮮半島の新羅や渤海は唐の冊封を受けて中華文明を積極的に摂取しました。日本は遣唐使を送って中国文化を取り入れましたが、正式な冊封は受けませんでした。
ベトナム北部は、秦漢以来長く中国王朝の支配を受けていました。唐の時代には安南都護府が置かれ、漢字・儒教・仏教・律令といった中国文化が浸透しました。一方で、ベトナムの人々は独自の文化や言語を保ち続け、唐の滅亡後に独立を果たしていきます。
チベットでは、7世紀にソンツェン=ガンポが吐蕃を建てました。吐蕃は唐の制度を取り入れつつ、インドの影響も受けてチベット文字やチベット仏教を生み出しました。8世紀半ばには雲南で南詔が勢力を広げ、仏教を重んじて漢字など唐の文化を受け入れました。
①東アジア文化圏の共通要素は漢字・儒教・仏教・律令の4つ
②新羅 ─ 唐と結んで百済・高句麗を滅ぼし、676年に唐の勢力を排除して朝鮮半島の大部分を支配。骨品制を基盤に律令を運用
③渤海 ─ 高句麗の滅亡後に中国東北地方から朝鮮半島北部にかけて建国。唐の諸制度を積極的に受容
④日本 ─ 遣隋使・遣唐使を通じて中国文化を摂取。大化改新を経て律令国家を形成
⑤ベトナム ─ 安南都護府が置かれ、中国文化が浸透。唐滅亡後に独立へ
唐代には科挙制度によって儒学も盛んになり、とくに訓詁学が重視されて、孔穎達らにより『五経正義』が編纂されました。文学では、唐代は中国文学史上、漢詩の最盛期にあたります。科挙の試験科目に詩が含まれていたこともあり、多くの優れた詩人が輩出されました。
李白は奔放な想像力と自由な精神で知られ、「詩仙」と称されました。杜甫は社会の矛盾や民衆の苦しみを重厚に詠み、「詩聖」と呼ばれています。白居易(はくきょい)はわかりやすい表現を用い、その詩は日本にも大きな影響を与えました。文章の面では、韓愈(かんゆ)や柳宗元が六朝時代の形式的な文体を批判し、漢代以前の簡潔な文体を理想とする古文の復興を主張しました。
この時代には、道教・仏教が権力者の保護を受けて栄えました。外国との交流が活発になったことを受け、玄奘(げんじょう)は陸路で、義浄は海路でインドを訪れ、仏典をもち帰りました。玄奘はインドからもち帰った大量の仏典をもとに大翻訳事業をおこない、中国の仏教学の水準を飛躍的に高めました。仏教が中国に定着したことで、禅宗など中国独特の宗派も形成されました。
しかし、仏教寺院の経済的な膨張は国家財政を圧迫するようになります。845年、武宗は大規模な仏教弾圧(会昌の廃仏)を断行しました。多数の寺院が破壊され、僧尼が還俗させられました。この弾圧のあと、教義の学問的研究を重視する宗派は衰退し、座禅を重んじる禅宗や、念仏により極楽往生をめざす浄土宗のような、民衆に根差した宗派が主流になっていきます。
煬帝が建設した大運河は、隋の滅亡を早めた面がある一方で、その後の中国史に決定的な影響を与えました。大運河によって華北と江南が一体の経済圏として結ばれたことで、江南の穀物や物資が効率的に北方へ運ばれるようになり、唐から宋にかけて江南が中国経済の中心地として飛躍的に発展する基盤となったのです。「隋の大運河なくして唐の繁栄なし」と言われるゆえんです。
①漢詩の黄金時代 ─ 李白(詩仙)・杜甫(詩聖)・白居易が代表。科挙の試験科目に詩が含まれた
②古文の復興 ─ 韓愈・柳宗元が六朝の形式的な文体を批判し、簡潔な古文を主張
③玄奘 ─ 陸路でインドへ渡り、多くの経典を持ち帰って翻訳した
④義浄 ─ 海路でインドへ渡り、仏教の戒律を研究した
⑤会昌の廃仏(845年)─ 武宗による仏教弾圧。以後、禅宗・浄土宗が主流となる
隋唐帝国は、秦漢帝国以来の中国統一を実現し、律令制に支えられた強大な中央集権国家を築きました。その文化や制度は東アジア全域に広がり、漢字・儒教・仏教・律令という共通の要素を基盤とする「東アジア文化圏」が形成されました。この文化圏は、のちの東アジアの歴史を理解するうえでの基本的な枠組みとなります。
唐の律令制度は、法にもとづく統治の東アジア版ともいえます。歴史総合では近代国家が「法の支配」や「立憲主義」を追求する過程を学びますが、唐の律令はそれに先立つ東アジア独自の法治の伝統です。また、科挙制度は能力主義にもとづく官僚選抜として、近代の公務員試験制度のルーツとも位置づけられます。
隋が中国を再統一し、唐が律令制を完成させて東アジアの大帝国を築いた。安史の乱後に衰退するが、漢字・儒教・仏教・律令は朝鮮・日本・ベトナムに広がり、東アジア文化圏が形成された。
Q1. 隋の煬帝が建設した、華北と江南を結ぶ水路を何というか。
Q2. 唐で均田農民に課された税制で、租(穀物)・庸(労役/布)・調(絹/布)からなる制度を何というか。
Q3. 755年に唐の節度使が起こした大反乱を何というか。
Q4. 東アジア文化圏を構成する4つの共通要素を答えよ。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
581年に( ア )が隋を建国し、589年に中国を統一した。隋の滅亡後、618年に( イ )が唐を建国した。唐は( ウ )にもとづく統治体制を整え、中央には三省六部を置いた。唐の制度と文化は周辺諸国にも広がり、漢字・儒教・仏教・律令を共通要素とする( エ )が形成された。
ア:楊堅(文帝) イ:李淵(高祖) ウ:律令 エ:東アジア文化圏
隋の建国者・楊堅(文帝)は北周の外戚で、589年に南朝の陳を滅ぼして中国を統一しました。唐の建国者・李淵は隋末の混乱の中で挙兵し、唐を開きました。唐は律(刑法)と令(行政法)にもとづく統治体制を完成させ、その制度と文化が朝鮮・日本・ベトナムに広がり、東アジア文化圏が形成されました。
唐代の制度・文化に関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ○ (2) ×「人頭を基準として」→「資産を基準として」 (3) ×「海路で」→「陸路で」(海路でインドに渡ったのは義浄) (4) ○
(2)について:両税法は780年に楊炎の建議で施行された税制で、課税基準を人頭(租庸調制)から資産に変えた点が最大の特徴です。均田制の崩壊後、土地の私有が進んだ現実に対応しました。(3)について:玄奘は陸路(シルクロード)でインドに渡り、義浄は海路でインドに渡りました。両者の渡航ルートの違いは頻出です。
唐代における均田制の崩壊が、税制と兵制にどのような変化をもたらしたか。80字以内で述べよ。
均田制の崩壊により、人頭課税の租庸調制は資産課税の両税法に転換され、農民を徴兵する府兵制は職業軍人を雇う募兵制へと変化した。(62字)
均田制・租庸調制・府兵制は三位一体の制度でした。国家が農民に土地を支給する均田制が崩壊すると、土地支給を前提とした租庸調制も維持できなくなり、780年に資産課税の両税法へ転換されました。また、均田農民から兵を徴発する府兵制も成り立たなくなり、代わりに給与を支払って兵を雇う募兵制が採用されました。募兵制のもとで辺境の軍事指揮官(節度使)が兵力を蓄え、安史の乱の背景となった点も重要です。