後漢の末期、宦官と外戚の対立が皇帝権力を空洞化させ、黄巾の乱をきっかけに帝国は崩壊へ向かいます。三国時代から西晋の短い統一を経て、北方遊牧民の侵入による五胡十六国、そして南北朝の分裂へ。約400年におよぶこの動乱の時代は、中国社会を根本から変容させました。
この記事では、後漢の衰退から南北朝の終わりまでの政治の流れを追い、北魏の漢化政策や仏教の普及など、この時代に生まれた新たな文化にも注目します。
赤眉の乱などの反乱によって王莽の新が滅亡したのち、豪族を率いた漢の一族の劉秀が帝(光武帝)となって漢を復興しました(後漢)。光武帝は洛陽に都をおき、前漢末の体制を継承しました。
後漢ではその後、皇帝側近の外戚・宦官が対立を繰り返すようになりました。幼い皇帝が即位するたびに外戚が政治の実権を握り、成長した皇帝が宦官を使って外戚を排除すると、今度は宦官が権力を握る。こうした構造が繰り返され、皇帝権力は形骸化していきました。
2世紀後半になると、こうした状況を批判した官僚・学者が宦官によって大弾圧されました(党錮の禁)。中央政府への信頼は失われていきました。
さらに2世紀末、宗教結社の太平道が黄巾の乱をおこすと、各地に軍事政権が割拠して、220年に後漢は滅びました。
①幼帝の即位が続き、外戚と宦官が交互に実権を握って政治が混乱した
②宦官が知識人を弾圧した(党錮の禁)
③184年に黄巾の乱が起こり、鎮圧にあたった豪族が軍事力で自立して後漢は事実上崩壊した
後漢が滅亡すると、華北の魏(都:洛陽)、四川の蜀(蜀漢、都:成都)、長江中下流域の呉(都:建業)が並び立ち、近隣の異民族を引き入れながら抗争を繰り返しました(三国時代、220〜280年)。なお、中国では、徳を失った王朝に代わって新たな徳ある者が天命を受けて支配者となるという易姓革命の考え方があり、権力者が前の王朝から帝位を譲り受ける形式(禅譲)は、この正統性を示す典型的な手続きとされました。曹丕が後漢から、司馬炎が魏から禅譲を受けたのも、こうした政治的正統意識に基づいています。
後漢末の群雄割拠のなかから、華北の曹操、江南の孫権、四川の劉備の三者が台頭しました。曹操の子曹丕が後漢から政権を奪って魏王朝を樹立し(禅譲)、洛陽に都を置くと、劉備と孫権は、成都と建業(現在の南京)を都としてそれぞれ蜀と呉を建て、中国は三分されました。
魏は屯田制を実施して農業生産の回復に努め、また九品中正(九品官人法)を制定して有能な人材を集めました。これは地方におかれた中正官が人物を九等級に品定めして推薦する官吏登用制度です。しかし、有力な豪族による高級官職の独占をまねき、全国的な家柄の序列も固定化していきました。こうして形成された名門を貴族(門閥貴族)と呼びます。
| 魏 | 蜀(蜀漢) | 呉 | |
|---|---|---|---|
| 建国者 | 曹丕(基礎は曹操) | 劉備 | 孫権 |
| 都 | 洛陽 | 成都 | 建業 |
| 支配地域 | 華北 | 四川 | 長江中下流域 |
| 特徴 | 九品中正の導入、屯田制 | 漢の正統を主張 | 江南の開発を推進 |
| 滅亡 | 265年(司馬氏に禅譲) | 263年(魏に滅ぼされる) | 280年(西晋に滅ぼされる) |
魏の実権を握っていた司馬氏の一族、司馬炎(武帝)が魏から禅譲を受けて265年に西晋を建国しました。280年には呉を滅ぼし、三国時代に終止符を打って中国を統一しました。武帝は自作農に土地を確保させる占田・課田法を発布して生産の回復をはかりました。しかし、この統一は長くは続きません。
司馬炎の死後、帝位と権力をめぐって司馬氏の一族が争う八王の乱(291〜306年)が起こりました。この内乱は国力を著しく消耗させ、北方の遊牧民族に中国内部への侵入の機会を与えることになります。
4世紀初め、華北への移住を進めていた遊牧諸民族(五胡)が蜂起し、洛陽・長安を攻略された晋は316年に滅びました。五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌をさす呼称で、以後、華北では五胡を中心とする諸政権が興亡を繰り返しました。この時代を五胡十六国時代(304〜439年)と呼びます。このうち鮮卑はモンゴル系で後に北魏を建てる民族、羯は匈奴の別種とされる民族、氐・羌はチベット系の民族です。
しかし、江南に逃れた晋の皇族の司馬睿は、建康(現在の南京)で即位して晋を復興しました(東晋)。華北の混乱を逃れた貴族や農民が大量に江南へ移住し、長江流域の開発が大きく進みました。この人口移動は、中国の経済的中心が華北から江南へ移っていく端緒となります。
①西晋は280年に中国を統一したが、武帝の死後に八王の乱が起こり国力が消耗した
②北方から移住していた五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)が華北で自立し、316年に西晋は滅亡した
③華北の漢人は江南へ大量に移住し、東晋が建康を都に成立した
4世紀になると鮮卑の一派である拓跋氏が北魏を建国し、439年に太武帝が華北を統一しました。以後、華北の北朝と江南の南朝がほぼ淮河をはさんで対峙する南北朝時代が始まります。
北魏の第6代皇帝孝文帝(在位471〜499年)の時代には、戸籍を整備して均田制と三長制を施行し、小農民から広く租・調を徴収して兵役を課す体制を整えました。また、中国の制度や風俗を積極的にとりいれる漢化政策を推進しました。
孝文帝の漢化政策は北魏の統治を安定させましたが、一方でこうした政策に反発した人々がおこした反乱(六鎮の乱)をきっかけに、北魏は東魏と西魏に分裂しました。その後、東魏は北斉に、西魏は北周にそれぞれ取って代わられました。6世紀半ば、モンゴル高原では柔然にとってかわった突厥が勢力をのばし、これと結んだ北周が華北を統一しました。
江南では、420年に東晋が滅亡したあと、軍人たちがつぎつぎに政権を奪って皇帝の座につき、南朝と総称される短命な四つの王朝(宋・斉・梁・陳)が交替しました。いずれも都は建康に置かれ、門閥貴族が要職を独占して中央の政治を左右しました。このため皇帝の力は弱く、政権は不安定でした。一方、江南の貴族や豪族は、華北からの移住民や没落した自作農を迎え入れながら水田の開拓をすすめ、大規模な農園(荘園)を経営しました。南朝では長江流域の農業開発がさらに進み、江南は中国の一大穀倉地帯へと成長していきます。
①戸籍を整備して均田制と三長制を施行し、小農民から広く租・調を徴収する体制を整えた
②494年に平城から洛陽に遷都した
③鮮卑語の使用を禁止し、漢語の使用・漢風の姓への改姓・漢人との通婚を推進した
仏教は、南北朝時代の社会不安のなかで、中華文明の世界に根をおろしました。戦乱に苦しむ人々が仏教の教えに救いを求めたこと、また北朝の遊牧民族出身の支配者が仏教を保護したことが、社会の連帯を願う多くの人々に受け入れられる背景となりました。
仏教の隆盛を物語るのが、各地に造営された石窟寺院です。北魏の都であった平城の郊外に造営された雲岡の石窟、洛陽遷都後に洛陽の郊外に造営された龍門の石窟が代表的です。また、仏図澄や鳩摩羅什(クマラジーヴァ)らによって仏寺の建立や仏典の漢訳がすすめられました。東晋の僧法顕は399年に長安を出発して陸路でインドに入り、海路を経て帰国し、『仏国記』を著しました。
古来の神仙思想や老荘思想に五斗米道や太平道などの民間信仰が加わり、さらに仏教の影響を受けて、寇謙之(北魏)や陶弘景(南朝)らによって道教として大成されました。
貴族の間では、竹林の七賢の言行にみられるように、老荘思想にもとづく清談がもてはやされ、老荘思想が歓迎されました。
書の分野では、東晋の王羲之が書の芸術を大成し、後世まで尊ばれました。また、絵画の分野では東晋の顧愷之が活躍しました。陶淵明は田園詩の分野を開きました。韻文では対句を多用して技巧をこらした四六駢儷体という華麗な文章が好まれ、梁の昭明太子が古今のすぐれた詩文を集めた『文選』を編集しました。
これに対して北朝では、歴史地理書の『水経注』や農業技術書の『斉民要術』のような、現実的で実用的な文化が開花しました。
仏教が魏晋南北朝の時代に急速に広まった背景を理解すると、この時代の社会状況がよくわかります。第一に、長期にわたる戦乱で人々が現世の苦しみから逃れる教えを求めたこと。第二に、北朝の遊牧民族出身の君主にとって、仏教は中国の伝統的な儒教秩序に縛られない「外来の宗教」として受け入れやすかったこと。第三に、インドから来た僧侶たちがシルクロード経由で仏典を持ち込み、漢訳を進めたことで、中国語で教義が学べるようになったことが挙げられます。
こうした複数の要因が重なったことで、仏教は支配者から民衆まで幅広い層に受容されました。雲岡・龍門の石窟寺院は、この時代の仏教信仰の壮大さを今に伝えています。
①仏教が普及し、雲岡・龍門の石窟寺院が造営された。法顕がインドに渡り『仏国記』を著した
②神仙思想・老荘思想・民間信仰が仏教の影響を受け、道教として大成された
③竹林の七賢の言行にみられる清談がもてはやされた
④東晋の王羲之が書の芸術を大成し、顧愷之が絵画で活躍した
⑤北朝では『水経注』『斉民要術』など実用的な文化が開花した
後漢末から南北朝に至る約400年の分裂は、中国史において一見すると「暗黒時代」のように見えます。しかし、この時代には北方遊牧民と漢民族の融合、仏教の受容、江南の開発など、隋唐帝国の繁栄を準備する重要な変化が進行していました。特に北魏の均田制は、隋・唐の土地制度と税制(租庸調制)の基盤となり、中国的な統治体制の根幹を形づくっていきます。
魏晋南北朝の時代に起きた「民族の大移動」と「北方遊牧民による王朝建設」は、同時期のヨーロッパにおけるゲルマン民族の大移動と西ローマ帝国の滅亡に類似した現象です。歴史総合で学ぶ「グローバル化の始まり」では、ユーラシア大陸の東西で同時期に起きた民族移動が世界史の大きな転換点であったことを理解しましょう。
後漢は外戚・宦官の対立と黄巾の乱で崩壊し、三国・西晋を経て五胡の侵入で南北に分裂した。北魏は太武帝が華北を統一し、孝文帝が均田制・三長制など漢化政策を推進。仏教が普及し雲岡・龍門の石窟が造営され、道教も大成された。
Q1. 184年に張角が率いた農民反乱を( )の乱という。
Q2. 魏が導入した、中正官が人物を九等級に評価して推薦する官吏登用制度を何というか。
Q3. 北魏の孝文帝の時代に施行された、国家が農民に土地を配分し老年になると回収する制度を何というか。
Q4. 東晋の僧で、陸路でインドに渡り『仏国記』を著した人物は誰か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
後漢では( ア )と宦官の対立が繰り返された。184年に( イ )の乱が起こると、後漢は事実上崩壊し、220年に魏・蜀・呉の( ウ )時代が始まった。のちに魏に代わった西晋が中国を統一するが、( エ )の乱で国力を消耗し、五胡の侵入で滅亡した。
ア:外戚 イ:黄巾 ウ:三国 エ:八王
後漢の衰退から三国時代、西晋の短い統一と崩壊までの流れを問う基本問題です。外戚と宦官の対立 → 黄巾の乱 → 三国時代 → 西晋の統一 → 八王の乱 → 五胡の侵入という一連の因果関係を押さえましょう。
北魏の孝文帝に関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ○ (2) ×「洛陽から平城」→「平城から洛陽」 (3) ○ (4) ×「鮮卑語の使用を奨励し、漢語の使用を禁じた」→「鮮卑語の使用を禁じ、漢語の使用を義務づけた」
(2)について:孝文帝は漢化政策の一環として、鮮卑の本拠地であった平城(現在の大同)から、中国文化の中心地であった洛陽に都を移しました。遷都の方向を逆に覚えないよう注意しましょう。(4)について:孝文帝の漢化政策は鮮卑の風習を禁止し、中国の文化・制度を採用するものでした。鮮卑語の禁止、漢風の姓への改姓、漢人との通婚の奨励が主な内容です。
魏晋南北朝時代に仏教が中国で広く普及した背景を、政治状況と結びつけて60字以内で説明せよ。
長期の戦乱で民衆が救済を求め、北朝の遊牧民出身の君主も儒教秩序に縛られず仏教を保護した。(43字)
仏教が中国で普及した背景には、需要側と供給側の両面があります。需要側としては、魏晋南北朝の長期にわたる戦乱のなかで、民衆が現世の苦しみから逃れる教えを求めたこと。供給側としては、北朝の五胡出身の君主にとって、仏教は中国の伝統的な儒教秩序とは無関係な「外来の宗教」であり、保護しやすかったことが挙げられます。この二つの要因を政治状況と結びつけて説明することが求められています。