春秋戦国時代の分裂を経て、秦の始皇帝が史上初めて中国全土を統一しました。秦は短命に終わりましたが、中央集権的な郡県制や度量衡の統一など、その後の中国王朝の基本的な枠組みを確立しました。続く漢は約400年にわたって中国を支配し、儒学を官学化して統治の思想的基盤を整え、シルクロードを通じて西方世界とも結ばれました。
この記事では、秦による統一から前漢・新・後漢にいたる中華帝国の成立過程と、漢代の文化を整理します。
前4世紀、「戦国の七雄」の一国であった西方の秦が、商鞅の変法など新しい政治制度や技術を取り入れて強大化しました。東方の諸国は他国と同盟を結んで自国の防衛をはかりましたが、前221年、秦王の政(せい)に征服されました。
政は、国内を郡・県にわけて官僚を派遣する郡県制を征服地にも導入し、新たな君主の称号である「皇帝」を名乗って(始皇帝)、度量衡・貨幣・文字(小篆に統一)・車軌(車輪の幅)の統一や思想の統制をおこないました。郡県制は、戦国時代の各国で行われていた封建制とは異なり、官吏は皇帝が任免し、世襲は認められませんでした。これにより、皇帝を頂点とする中央集権体制が確立されたのです。
対外的には、北方では戦国時代以来の長城を修築して匈奴と戦い、南方では華南に進出して南海(広州市)など3郡を置きました。
思想面では、法家の李斯(りし)の進言を受けて焚書坑儒、すなわち実用書以外の書物を焼却し(焚書)、多くの学者を穴埋めにした(坑儒)とされる思想統制をおこないました。
①郡県制 ─ 全国を郡・県に分け、中央から派遣した官吏が治めた(世襲を認めない)
②度量衡・貨幣・文字・車軌の統一 ─ 文字は小篆に統一し、車軌(車輪の幅)もそろえて全国的な経済・行政・交通の一体化を図った
③万里の長城の修築 ─ 北方の匈奴に備え、戦国時代の長城をつなぎ合わせた
④焚書坑儒 ─ 法家以外の思想を弾圧し、思想統制を図った
しかし、あいつぐ軍事行動や土木工事の負担に人々は苦しみ、始皇帝が死去すると東方各地で陳勝・呉広の乱をはじめとする反乱がおこって、秦は前206年に滅びました。
その後の混乱のなかで、楚の名門出身の項羽を破った農民出身の劉邦が、諸勢力から皇帝に推戴され、前202年に漢(前漢)を開きました。劉邦は秦の咸陽付近に長安(現在の西安)を建設して都とし、高祖と呼ばれます。
漢は秦の制度の多くを引き継ぎました。対外的には、冒頓単于(ぼくとつぜんう)のもとで強大化した匈奴に敗れ、以後しばらく匈奴との和親策をとりました。高祖は、統一以前の秦の領域を郡県制によって直接支配する一方、功臣や一族を王に任じて、かつての東方諸国の領域の支配をゆだねました(郡国制)。しかし、高祖の死後、皇帝と諸王の対立が深まり、やがて軍事衝突に発展しました(呉楚七国の乱)。これに勝利した皇帝は諸王国の統治に干渉するようになり、諸侯王の権限は次第に縮小されていきました。
①秦は郡県制のみを採用し、全国を中央が直接統治した
②前漢の高祖は郡国制を採用し、郡県制と封建制を併用した
③呉楚七国の乱を経て、前漢でも実質的に郡県制へ移行した
前漢の最盛期は、第7代の武帝(在位:前141〜前87年)の時代です。武帝は積極的な対外政策と国内制度の整備によって、漢を東アジアの大帝国へと発展させました。
前2世紀後半に即位した武帝は、匈奴を撃退するとともに、諸王の実権を奪い、南越国や衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡などを設置し、漢の支配下に入れました。また武帝は元号を定め、年を区切って紀年を統一する制度を確立しました。元号制度は以後、中国・朝鮮・日本などに受け継がれ、東アジアの時間意識を形成するうえで大きな役割を果たします。
また、張騫(ちょうけん)を西域の大月氏(だいげっし)に派遣したことをきっかけに、中央アジアの交通路をおさえて、タリム盆地一帯にまで勢力をのばしました。
漢代の初めは、秦で栄えた法家にかわり、ゆるやかな体制に適合する黄老の政治思想が重んじられていました。武帝の時代には、董仲舒(とうちゅうじょ)の活躍などで儒学の影響力が高まり、五経博士が設置されて儒学は国家の学問としての地位を確立し、経典も整理されました。武帝は、地方長官の推薦で官吏を選任する人事制度(郷挙里選)をとり、諸王国にも中央から官吏を派遣し、さらに監察官を送って全国を監視しました。経済面でも、塩・鉄の専売や物価調整策(均輸・平準)などによって国内の統合を進めましたが、こうした集権的な政策は、匈奴との戦いなどあいつぐ外征による社会不安や財政難への対応でもありました。
①匈奴遠征 ─ 和親策を転換し、大規模な軍事遠征で匈奴を北方に退けた
②張騫の西域派遣 ─ 大月氏との同盟を目指して張騫を西域に派遣し、シルクロード交易の端緒を開いた
③儒学の官学化 ─ 董仲舒の献策を受け、五経博士を設置し、儒学を統治の思想的基盤とした
しかし、人徳や礼を重んじる儒学がしだいに盛んになると、行き過ぎた中央集権的な政策を改めて、実情の異なる各地域に配慮した政治を求める動きが高まりました。武帝のころからは大土地所有者が多数出てきて、これらが豪族と総称される勢力となりました。武帝の死後、皇帝支配が弱まると、豪族は地域社会に勢力を張り、郷挙里選を通じて官僚となって中央・地方の政界にも進出しました。これを受けて、前1世紀末には、外戚(皇后の親族)の王莽(おうもう)が儒学の理想にもとづく新たな体制を築きました。王莽は、漢の皇帝から帝位を奪って新をおこしましたが、さらに急進的な改革を進めたため反発をまねいて支持を失いました。匈奴との抗争や赤眉の乱などの反乱によって新は滅亡しました。
新の混乱のなか、豪族を率いた漢の一族の劉秀が皇帝(光武帝)となって漢を復興しました(後漢)。光武帝は洛陽に都をおき、前漢末の体制を継承しました。戦国時代以降、小家族による戸が社会の基本単位となりましたが、自然災害や徭役の負担などで人々は困窮し、土地を買い集めた豪族の奴隷や小作人となるものも多くいました。後漢時代には豪族が儒学を学んで官僚となり、国政に進出するようになりました。
後漢の1世紀後半、班超が西域都護として活躍し、西域諸国を漢の勢力下に収めました。班超は部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣しましたが、甘英はペルシア湾岸(条支)に達したところで引き返したとされています。
しかしその後、皇帝側近の外戚・宦官が対立を繰り返すようになり、2世紀後半には、こうした状況を批判した官僚・学者が宦官によって弾圧されました(党錮の禁)。こうしたなか、張角が組織した太平道や、張陵が蜀(四川省)ではじめた五斗米道など、のちの道教の源流となった宗教結社が広がりました。2世紀末、太平道が黄巾の乱をおこすと、各地に軍事政権が割拠して、220年に後漢は滅びました。
秦・漢時代は約400年以上にわたり、中国文化の基本的な枠組みが形成された時代です。
前漢の司馬遷は、伝説の時代から武帝の治世までの歴史を記した『史記』を著しました。『史記』は、支配者の年代記である本紀と臣下の伝記である列伝を組み合わせて歴史を叙述する紀伝体という形式を確立しました。この紀伝体は、中国の歴史書の基本的なかたちをつくりました。後漢の班固は、前漢一代の歴史を記した『漢書』を著し、一つの王朝だけを扱う断代史の形式を創始しました。
後漢時代には郷挙里選において儒学が重視されたので、儒学の研究・教育が盛んになり、経典の字句の解釈をおこなう訓詁学が鄭玄(じょうげん)らによって発展しました。
後漢の張衡(ちょうこう)は、天球儀や地震計を考案するなど、科学技術の面でも進歩がみられました。また、蔡倫(さいりん)は製紙法を大幅に改良しました。紙自体は前漢時代からありましたが、それまで主に用いられていた竹簡や木簡、絹に比べ、蔡倫の改良した紙は安価で大量に生産でき、書物の普及を大きく促しました。製紙法はやがてシルクロードを経て西方にも伝わり、世界的な文化の発展に貢献しました。
中国の歴史書には大きく分けて二つの記述形式があります。司馬遷の『史記』に始まる紀伝体は、人物ごとに伝記をまとめる形式で、人物の行動や性格を詳しく描けるのが特徴です。一方、編年体は年代順に出来事を記す形式で、孔子が編纂したとされる『春秋』がその代表です。のちに北宋の司馬光が編年体で著した『資治通鑑』は、紀伝体の正史を年代順に再整理した大著として知られています。中国の正史24史はいずれも紀伝体で書かれており、司馬遷が確立した形式がいかに大きな影響を持ったかがわかります。
| 秦 | 前漢 | 後漢 | |
|---|---|---|---|
| 建国者 | 始皇帝(嬴政) | 高祖(劉邦) | 光武帝(劉秀) |
| 都 | 咸陽 | 長安 | 洛陽 |
| 地方制度 | 郡県制 | 郡国制(郡県制+封建制) | 郡県制中心 |
| 統治思想 | 法家 | 儒学(武帝が官学化) | 儒学(訓詁学が発展) |
| 対匈奴政策 | 万里の長城を修築 | 武帝が遠征・張騫を西域に派遣 | 班超が西域を経営 |
| 滅亡の契機 | 陳勝・呉広の乱 | 外戚・王莽の簒奪 | 黄巾の乱 |
秦・漢帝国は、春秋戦国時代の分裂を統一し、以後の中国王朝の基本的な統治モデルを確立しました。郡県制による中央集権・儒学の官学化・皇帝権力の確立という三つの柱は、清代にいたるまで中国の政治体制の骨格であり続けます。また、シルクロードの開通は東アジアと中央ユーラシア・西アジア・地中海世界を結びつけ、ユーラシア規模の交流を本格化させました。
秦の始皇帝が行った度量衡・文字・貨幣の統一は、広大な領土を一つの国家として運営するための基盤整備でした。歴史総合で学ぶ近代国民国家の形成においても、共通の言語・通貨・法律の整備が重要な課題となります。国家統合のために「統一」が不可欠であるという発想は、古代中国から近現代の国民国家まで通底するテーマです。
秦の始皇帝は郡県制で中国を統一したが短命に終わった。続く漢は郡国制から出発し、武帝の時代に儒学を官学化し匈奴遠征やシルクロード交易を推進した。後漢は班超が西域を経営したが、黄巾の乱で滅亡した。
Q1. 秦の始皇帝が全国に施行した、中央から官吏を派遣して地方を治める制度を何というか。
Q2. 前漢の武帝が匈奴を挟撃するために西域の大月氏に派遣した人物は誰か。
Q3. 前漢の司馬遷が著した、黄帝から武帝までの通史を何というか。
Q4. 後漢の蔡倫が改良した、書写材料として竹簡に代わって普及した技術は何か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
前221年、( ア )が中国を統一して始皇帝と称した。始皇帝は全国に( イ )を施行して中央集権体制を確立し、度量衡・貨幣・( ウ )の統一を行った。また、北方の( エ )の侵入に備えて万里の長城を修築した。
ア:秦王の政(秦) イ:郡県制 ウ:文字 エ:匈奴
秦の始皇帝は中国史上初めて天下を統一した皇帝です。郡県制は、中央から派遣した官吏が地方を治める制度で、世襲の諸侯を置く封建制とは異なります。文字は小篆に統一されました。匈奴は北方の遊牧民族で、秦・漢を通じて中国にとって最大の脅威でした。
前漢の武帝に関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ×「法家」→「儒学」 (2) ○ (3) ○ (4) ×「編年体」→「紀伝体」
(1)について:法家を統治理念としたのは秦の始皇帝です。武帝は董仲舒の献策を受けて儒学を官学化し、五経博士を設置しました。(4)について:『史記』は紀伝体の歴史書です。紀伝体は本紀(帝王の記録)と列伝(人物の伝記)を中心に構成する形式です。編年体は年代順に出来事を記す形式で、『春秋』などがその代表です。
秦が短期間で滅亡した一方、漢が長期間にわたって存続できた理由を、統治制度と統治思想の両面から80字以内で述べよ。
秦は郡県制と法家思想で厳格な支配を行い民心の離反を招いた。漢は郡国制で段階的に中央集権化を進め、儒学を官学化して徳治の理念で統治を安定させた。(72字)
秦と漢の対比は入試で頻出のテーマです。制度面では、秦が急激な郡県制を押しつけたのに対し、漢(前漢)は郡国制で段階的に移行しました。思想面では、秦の法家による厳格な法治が焚書坑儒や過酷な労役として現れたのに対し、漢は儒学の礼や徳治の理念で民心の安定を図りました。この「急激 vs 漸進」「法治 vs 徳治」の対比を軸に論述すると得点しやすいです。