ユーラシア大陸の内陸部には、東西に広がる広大な草原地帯(ステップ)と、砂漠の中に点在するオアシス都市がありました。この地域では、騎馬遊牧民が独自の生活と文化を築き、スキタイや匈奴のような強大な遊牧国家が生まれます。一方、オアシス都市を結ぶ交易路はやがて「シルクロード」として東西文明をつなぐ大動脈となりました。
この記事では、中央ユーラシアの自然環境から騎馬遊牧民の歴史、そしてソグド人の交易活動までを整理します。
ユーラシア大陸の中央部は、パミールの東西にのびる大山脈が高温多湿のアジアの季節風(モンスーン)をさえぎるために乾燥し、寒暖の差が大きい大陸性気候を特徴とします。ここには東のモンゴル高原から西の黒海北岸にかけて広大な草原が連なり、その南にはいくつもの砂漠が広がっています。
砂漠のあいだには高山地帯の雪解け水を水源とするオアシスが点在します。オアシスは、防御施設を備えて市場や寺院をもつ都市部と、灌漑による集約的な農業を営む周辺の農村部からなる独立した生活・経済圏であり、手工業生産や隊商交易の拠点としても重要でした。パミールの東部ではタリム盆地周縁部、西部ではソグディアナやフェルガナなどに多数のオアシス都市が点在しました。
この広大な空間を中央ユーラシアと呼びます。ここでは、きびしい環境に適応した草原の遊牧民や、オアシスの定住民が活躍し、彼らは周辺の諸勢力とさまざまな関係を結びながら、世界史の展開に大きな役割を果たしました。
中央ユーラシアの草原地帯では、羊・ヤギ・馬・牛・ラクダなどの家畜を主要な財産とする遊牧民が、草と水を求めて季節的に移動し、遊牧と狩猟による生活を営んでいました。彼らのあいだに青銅製の馬具や武器をもった騎馬遊牧民が登場するのは、前9世紀〜前8世紀ごろのことです。馬上から矢を射る遊牧民の集団は、機動性にすぐれた軍事力を備え、それは鉄製の武器を得るとさらに向上しました。
彼らのおもな食料は乳製品や肉類であり、衣服は毛皮が中心で、住居も木製の骨組みをフェルトでおおう、移動に適した組み立て式(ゲル)でした。このように、家畜は衣・食・住すべての需要を満たす貴重な財産でした。農耕民と異なり、穀物や手工業品は自ら生産できなかったため、定住民との交易や、ときには略奪によってそれらを入手しました。
騎馬遊牧民は、血縁的なつながりをもつ氏族や、それを束ねた部族を単位として活動し、ときに統率力のある君主のもとで部族連合を組み、強大な遊牧国家を形成しました。君主は忠実な親衛隊を従え、十進法に従って編制された軍団を率いて略奪や征服をおこなうなど、騎馬軍団の威力は周辺の諸勢力に大きくまさりました。しかし、求心力が失われると部族連合の再編がおこり、遊牧国家は興亡を繰り返しました。また彼らは、ユーラシアの東西を結ぶ交易や文化交流にも貢献し、彼らが利用したルートは「草原の道」と呼ばれます。
①遊牧民は穀物や手工業品を自給できず、定住民との交易や略奪によって入手した
②遊牧民と定住民は家畜と農産物・手工業品を交換する相互補完的な関係にあった
③騎馬遊牧民の機動力は農耕社会にとって軍事的脅威であり、中国の長城建設などの対策を生んだ
騎馬遊牧民の国家は、いくつかの共通した構造的特徴をもっていました。まず、血縁的なつながりを基盤とする部族制が政治・社会の基本単位となっており、有力な部族が他の部族を束ねる部族連合の形をとりました。軍事組織は十進法(十・百・千・万人隊)に従って編制され、大規模な騎馬軍団を効率よく統率することが可能でした。宗教的にはシャーマニズム(霊的存在との交流を行う巫者=シャーマンを中心とする信仰)が広くみられ、君主の神聖性もしばしばこれと結びついていました。また、遊牧民国家は農耕定住民や商人を保護する見返りに関税を徴収するなど、遠隔交易の保護を重要な収入源としていました。
文献上で知られる最初の遊牧国家は、前7世紀ごろに黒海北岸の草原地帯を支配したイラン系の騎馬遊牧民スキタイです。その軍事活動はアッシリアなど古代オリエントにもおよび、黒海北岸のギリシア人植民市とも交流しました。
スキタイ文化の特徴は、特有の動物文様をもつ馬具や武器です。よく似た遺物は、スキタイの活動地域のみならず、ユーラシア東部の草原地帯にも広く分布しています。
中央ユーラシア東部でも、前3世紀後半から騎馬遊牧民のあいだに統合の動きが始まり、モンゴル高原に匈奴が現れました。匈奴は単于と呼ばれる君主のもとで強力な遊牧国家をつくり、とくに前3世紀末に即位した冒頓単于は、西では中継交易で利益をあげていた月氏を攻撃して中央アジアのオアシス地域を支配下におさめ、東では成立まもない漢を圧迫しました。
しかし、匈奴はやがて漢の攻撃を受けて前1世紀半ばに東西に、後1世紀半ばには南北に分裂しました。南匈奴は後漢にくだり、北匈奴は遠く西方に移動しました。
後3世紀には中央ユーラシアの東西で遊牧民の活動が活発となり、東部では匈奴などいわゆる「五胡」が華北に進出し、4世紀以降、遊牧民と定住民がまじりあうなかでつぎつぎと政権を樹立しました(五胡十六国)。西部ではフン人の大規模な西進が始まり、ゲルマン人の大移動をうながしました。こうして中央ユーラシアの騎馬遊牧民は、ユーラシアの東西に大変動をもたらすことになりました。
①冒頓単于は月氏を西方に追い、中央アジアのオアシス地域を支配下におさめ、成立まもない漢を圧迫した
②匈奴は漢の攻撃を受けて前1世紀半ばに東西に分裂し、後1世紀半ばには南北に分裂した
③後3世紀以降、五胡の華北進出やフン人の西進など、遊牧民がユーラシアの東西に大変動をもたらした
| スキタイ | 匈奴 | |
|---|---|---|
| 時期 | 前7世紀〜前3世紀ごろ | 前3世紀後半〜後1世紀ごろ |
| 系統 | イラン系 | トルコ系またはモンゴル系(諸説あり) |
| 活動地域 | 黒海北岸の草原地帯 | モンゴル高原 |
| 統治者 | 王 | 単于(ぜんう) |
| 特徴 | 動物意匠の金属工芸、ギリシア植民市との交易 | 冒頓単于によるモンゴル高原統一、漢との対立 |
| 文化的影響 | 動物意匠がユーラシア遊牧民に広く伝播 | 漢の対外政策やシルクロード開通に影響 |
1世紀に匈奴がおとろえると、東部の森林地帯から鮮卑が進出してモンゴル高原の覇権を握りました。鮮卑の王国もやがて分裂しますが、5世紀には柔然(じょうぜん)が草原地帯東部の諸勢力をまとめて強大な遊牧国家を建てました。柔然の君主はカガン(可汗)を称し、その権威は天(テングリ)に由来するとされました。カガンの称号は、その後の突厥やウイグルなど騎馬遊牧民国家の最高君主の称号として受け継がれていきます。柔然は6世紀半ばに突厥によって滅ぼされました。
ラクダに荷を乗せた隊商がオアシス都市を結んでユーラシアの東西を往来する交易路は、「オアシスの道」を形づくりました。西方で珍重された中国産の絹(シルク)が主要な交易品であったことから、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンがこの交易路をシルクロードと名づけました。「オアシスの道」は遊牧民が利用した「草原の道」とあわせて、一般に「絹の道(シルク=ロード)」とも呼ばれます。
漢の武帝は、大月氏に派遣した張騫から西域に関する情報を得て、タリム盆地を匈奴から奪い、敦煌など4郡を置き、シルクロードの東半分を支配しました。
オアシス都市は連合して大きな国家をつくることはなく、周辺の大国の支配下に入ることが多くありました。オアシス都市の資源や東西交易の利益は、北方の草原地帯の遊牧国家にとっても重要であり、たとえば匈奴はオアシス都市の支配をめぐり漢と争奪戦を繰り広げました。
中央アジアのオアシス民は、しばしば遊牧国家による略奪や支配を受けましたが、両者の関係はつねに敵対的であったわけではありませんでした。オアシス民の生み出す穀物や織物は、遊牧民のもたらす畜産物と日常的に交換されたほか、遊牧国家が保障した隊商路の安全は双方に経済的な利益をもたらしました。このように遊牧民とオアシス民との関係は、緊張をはらみつつも互恵的であり、それは中央ユーラシアにとどまらず、東アジアの歴史の展開にも重要な役割を果たしました。
シルクロードの交易で中心的な役割を果たしたのが、ブハラやサマルカンドなどソグディアナのオアシス地域に住むイラン系のソグド人です。彼らは個別の都市国家を営んでいましたが、地の利を生かして早くから隊商交易に乗り出し、遊牧国家の保護を得て中央ユーラシア一帯におよぶ通商ネットワークをつくりあげました。
ソグド人は、遊牧国家に集積された絹織物をはじめとする奢侈品をビザンツ帝国などと交易したほか、外交使の役割も果たし、遊牧国家とは共生関係にありました。文化交流の面では、さまざまな宗教を突厥やウイグルに伝えたほか、東西の文化交流にも大きな役割を果たしました。ソグド文字はウイグル文字のもととなり、それはのちのモンゴル文字や満洲文字に受け継がれました。8世紀にソグディアナがアラブ=ムスリム軍に征服されると、ソグド人の名前は歴史上から消えていきますが、彼らの経済・文化的な機能はのちのムスリム商人が担うことになりました。
①「オアシスの道」と「草原の道」をあわせて「絹の道(シルク=ロード)」と呼ぶ
②イラン系のソグド人が遊牧国家の保護を得て通商ネットワークを築き、シルクロード交易の中心的な担い手となった
③ソグド人は物資だけでなく、宗教・文字などの文化を突厥やウイグルに伝え、ソグド文字はウイグル文字のもとになった
④遊牧民とオアシス民の関係は、緊張をはらみつつも互恵的であった
中央ユーラシアの騎馬遊牧民は、ユーラシア大陸の農耕社会に対して軍事的脅威を与え続けると同時に、東西の文化交流の担い手でもありました。遊牧民の活動とシルクロードの交易は、中国・インド・西アジア・ヨーロッパの各文明圏をつなぐ重要な役割を果たしたのです。
シルクロードによる東西交流は、異なる文明圏をつなぐグローバルな交易ネットワークの原型と言えます。歴史総合で学ぶ大航海時代の「世界の一体化」や近現代のグローバリゼーションは、こうした古代からの交易路の延長線上にあります。ただし、古代の東西交易は中継交易が中心であり、近代の直接的な世界貿易とは性格が異なる点にも注意しましょう。
中央ユーラシアの草原ではスキタイや匈奴など騎馬遊牧民が強大な国家を築いた。遊牧民とオアシス民は互恵的な関係を結び、ソグド人が東西交易と文化交流の仲介者として活躍した。
Q1. 黒海北岸の草原地帯に前7世紀ごろ遊牧国家を建てた、イラン系の騎馬遊牧民は何か。
Q2. モンゴル高原を統一して匈奴を強大な遊牧国家とした君主は誰か。
Q3. 漢の武帝が大月氏に派遣し、西域に関する情報をもたらした人物は誰か。
Q4. シルクロード交易の中心的な担い手として活躍した、中央アジアのイラン系商業民族は何か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
前7世紀ごろ、黒海北岸にイラン系の( ア )が遊牧国家を建てた。前3世紀末には、( イ )がモンゴル高原を統一して匈奴を強大な国家とした。漢の武帝は匈奴を挟撃するため( ウ )を大月氏に派遣した。オアシス都市を結ぶ東西交易路は、19世紀にドイツの( エ )によってシルクロードと名づけられた。
ア:スキタイ イ:冒頓単于 ウ:張騫 エ:リヒトホーフェン
スキタイはイラン系の騎馬遊牧民で、動物意匠の金属工芸が特徴です。冒頓単于は月氏を西方に追い、中央アジアのオアシス地域を支配下におさめました。武帝は大月氏と協力して匈奴を挟撃するために張騫を派遣しましたが、大月氏は協力を断りました。しかし張騫がもたらした西域の情報により漢はタリム盆地に進出しました。リヒトホーフェンは19世紀のドイツの地理学者で、中国産の絹が主要交易品であったことからシルクロードの名をつけました。
中央ユーラシアに関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) × 「トルコ系」→「イラン系」、「モンゴル高原」→「黒海北岸」 (2) ○ (3) × 「南北に分裂」→「東西に分裂」 (4) × 「トルコ系」→「イラン系」
(1)について:スキタイはイラン系の騎馬遊牧民で、活動地域は黒海北岸の草原地帯です。モンゴル高原を統一したのは匈奴の冒頓単于です。(3)について:匈奴はまず前1世紀半ばに東西に分裂し、その後、後1世紀半ばに南北に分裂しました。分裂の順序に注意しましょう。(4)について:ソグド人はサマルカンドを中心とするソグディアナ地方に住むイラン系の民族です。ソグド人の民族系統(イラン系)は入試で問われやすいポイントです。
中央ユーラシアの遊牧民が東西文化交流に果たした役割について、「シルクロード」「ソグド人」の語句を用いて60字以内で述べよ。
シルクロード沿いのオアシス都市でソグド人が交易を担い、物資だけでなく宗教や文字などの文化も東西に仲介した。(52字)
中央ユーラシアは、草原の遊牧民とオアシスの商人が共存する地域でした。シルクロード交易を担ったソグド人は、絹やガラスなどの物資を運ぶだけでなく、ゾロアスター教やマニ教などの宗教、ソグド文字などの文字体系を東西に伝える仲介者としても重要な役割を果たしました。遊牧民の移動と交易活動が、異なる文明圏をつなぐ東西交流の基盤を作ったのです。