第一次世界大戦は、ヨーロッパだけでなくアジアやアフリカにも大きな影響を与えました。戦争への動員や民族自決の理念は、植民地支配下の人々に独立への希望を抱かせました。
この記事では、インド・中国・トルコ・イラン・アラブ地域・エジプト・アフリカにおける民族運動の展開を学びます。
第一次世界大戦中、イギリスは国際世論におされてインドに自治を約束しました。しかし、大戦後の1919年インド統治法は州行政の一部をインド人にゆだねただけでした。また同年、弾圧的なローラット法が制定され、パンジャーブ地方のアムリットサールではイギリス軍が民衆の抗議集会に発砲して多数の死傷者を出す事件も発生しました。
これらはインド民衆の激しい反発を呼びました。
植民地政府の圧制に対し、非暴力を掲げて民衆の指導者となったのがガンディー(マハートマ=ガンディー)です。南アフリカでのインド人移民への差別に抵抗して成果をおさめた経験を持つガンディーは、1920年の国民会議派大会で非協力運動を提唱し、民族運動をエリートだけでなく民衆も加わる運動へと転換させました。非暴力・不服従(サティヤーグラハ)の原則のもと、イギリス製品のボイコットや納税の拒否に民衆を動員しました。しかし、農民による警官殺害事件が発生したために、運動は中止されました(1922年)。これにより運動方針の対立が生じ、ヒンドゥー教徒とムスリムの対立も深刻化しました。
1930年、ガンディーはイギリスによる塩の専売制を植民地支配の象徴ととらえ、法をおかして塩をつくるため海岸に向かう塩の行進を開始しました。これを皮切りに大規模な反英抵抗運動(不服従運動)が展開されました。
国民会議派内で台頭したネルーら急進派は、1929年のラホール大会で完全独立(プールナ=スワラージ)を決議し、民族運動の目標をより明確にしました。
イギリスは妥協の道をさぐり、インド人の指導者たちをロンドンに招集して円卓会議を開いてインドの将来の地位を論議させようとしました。しかし合意は成立せず、1935年インド統治法では各州の自治をある程度認めるにとどまり、中央の財政・防衛・外交はイギリスが掌握し続けました。その後、州議会選挙が実施されると、多くの州で国民会議派が勝利して政権を担うことになりました。一方、ジンナーを指導者とする全インド=ムスリム連盟は、ムスリムが多数を占める州で勢力をのばし、のちにイスラーム国家パキスタンの建設を目標に掲げるようになります。
①1919年インド統治法→ 州行政の一部をインド人にゆだねただけ
②ローラット法(1919年)→ 令状なしの逮捕を可能にし、反発を招く
③アムリットサール事件(1919年)→ イギリス軍が民衆の抗議集会に発砲
④非協力運動(1920年〜)→ ガンディーが指導、イギリス製品のボイコットなど
⑤完全独立の決議(1929年)→ ネルーら急進派がプールナ=スワラージを決議
⑥塩の行進・不服従運動(1930年〜)→ 大規模な反英抵抗運動を展開
⑦1935年インド統治法→ 各州の自治をある程度認める
1910年に日本に併合された朝鮮では、武官(軍人)が総督を務める武断政治が行われ、朝鮮人の集会・結社・言論の自由が厳しく制限されました。また、土地調査事業によって多くの農民が土地を失い、困窮が広がりました。
1919年3月1日、ウィルソンの民族自決の理念やロシア革命に触発され、ソウル(日本統治下の呼称は京城)で知識人たちが「独立宣言」を発表すると、民衆は「独立万歳」を叫んで立ちあがりました。この運動は朝鮮全土に広がりました(三・一独立運動)。日本の軍・警察はこれを武力で弾圧し、多数の死傷者を出しました。
この運動の後、日本は武断政治の方針を改め、「文化政治」と称する統治方針へと転換しましたが、その実態は同化政策の推進であり、反日独立運動はきびしく取り締まられました。また、三・一独立運動を契機に、上海では大韓民国臨時政府が結成されました。
①武断政治(武官総督制)・土地調査→ 農民困窮
②1919年3月1日:独立宣言読み上げ→全国的デモ
③日本が武力で弾圧
④その後、武断政治から「文化政治」へ転換(実態は同化政策、独立運動は弾圧)
辛亥革命後の政治的混乱のなかで、1910年代後半には根本的な社会変革をめざす新文化運動が始まりました。陳独秀らが創刊した雑誌『新青年』は「民主と科学」を掲げて儒教批判を展開し、胡適は口語(白話)による文学をとなえました(文学革命)。魯迅は『狂人日記』『阿Q正伝』で中国社会の矛盾を描きました。また、李大釗らによるマルクス主義の研究も始まりました。
第一次世界大戦中、日本は中国に対して山東のドイツ利権の継承などを含む二十一カ条の要求(1915年)を突きつけました。パリ講和会議(1919年)で中国は二十一カ条の取り消しや山東のドイツ権益の返還を求めましたが、ヴェルサイユ条約の案では山東利権を日本へ譲渡することになっていました。
これに抗議して1919年5月4日、北京の学生を中心とするデモがおこなわれました。これは日本商品排斥やストライキをうながし、都市部の幅広い層を巻き込む全国的な運動に拡大しました(五・四運動)。この運動の影響もあり、パリの中国代表団はヴェルサイユ条約への調印を拒否しました。
五・四運動を背景に、中国では新たな政治勢力が成長しました。コミンテルンは中国の社会主義者の組織化をはかり、1921年に陳独秀を指導者とする中国共産党が成立しました。一方、1919年に成立した中国国民党は広州に拠点をおき、孫文の指導のもとでソ連に接近しました。
孫文は「連ソ・容共・扶助工農」の方針をとり、1924年に国民党を改組して、中国共産党員が共産党籍を残したまま国民党に入党することを認めました(第一次国共合作)。1925年に孫文は病死しましたが、上海の日系紡績工場における労働争議をきっかけに広がった五・三〇運動は反帝国主義を掲げる国民党の追い風になりました。
1926年7月、蒋介石率いる国民革命軍は、各地に割拠する軍事勢力を打倒して中国統一をめざす北伐を開始しました。共産党の指導する農民運動や労働運動の支援もあり、1927年3月に上海・南京を占領しました。しかし、蒋介石は1927年4月に上海クーデタをおこして共産党を弾圧し、新たに南京に国民政府を建てました(国共分裂)。
1928年に北伐は再開され、中国の形式的な統一が達成されました。一方、共産党は農村に根拠地を建設して勢力の再建をめざしました。
①原因:ヴェルサイユ条約の案で山東利権が日本へ譲渡されることになった
②担い手:北京の学生から日本商品排斥やストライキに拡大
③影響:パリの中国代表団がヴェルサイユ条約への調印を拒否
④影響:中国の民族意識が高まり、共産党の成立・国民党の改組につながった
| 中国国民党 | 中国共産党 | |
|---|---|---|
| 成立 | 1919年成立 → 1924年改組 | 1921年 |
| 指導者 | 孫文 → 蒋介石 | 陳独秀 → 毛沢東 |
| 理念 | 三民主義(民族・民権・民生) | マルクス主義 |
| 支持基盤 | 都市の商工業者・地主層 | 労働者・農民 |
| 外部支援 | ソ連(国共合作期)→ 欧米 | ソ連 |
第一次世界大戦で同盟国側に立って参戦して敗れたオスマン帝国は、セーヴル条約(1920年)によって列強に領土の分割を認めさせられ、ギリシア軍がエーゲ海沿岸に侵攻しました。これに対して軍人のムスタファ=ケマル(のちのアタテュルク)がトルコ人の主権と国土を守るために抵抗運動を指導し、1920年にトルコ大国民議会を組織しました。
ケマルは1922年にギリシア軍を撃退し、スルタン制を廃止してオスマン帝国との決別を明らかにしました。1923年に連合国とローザンヌ条約を結んで新たに国境を定め、治外法権の廃止と関税自主権の回復を実現して、トルコ共和国を樹立しました(トルコ革命)。ケマルは大統領に就任しました。
ケマルはのちに議会から「アタテュルク(父なるトルコ人)」の姓を与えられました。ケマルは国家主導の産業育成、カリフ制の廃止と政教分離、文字改革(アラビア文字にかえてローマ字を採用)、太陽暦の採用、女性参政権の実施などの近代化政策を強力に推進するとともに、歴史と言語を軸とするトルコ民族主義の育成と強化をめざしました。
第一次世界大戦中、オスマン帝国はキリスト教徒の少数民族であるアルメニア人を敵国ロシアへの協力者とみなし、大規模な追放・虐殺を行いました。このアルメニア人迫害では、多数のアルメニア人が命を失いました。
また、セーヴル条約(1920年)ではクルド人の自治が認められる予定でしたが、トルコ共和国の建設によりローザンヌ条約(1923年)ではこの規定が無視され、クルド人は独自の国家を持てないまま各国の少数民族となりました(クルド問題の起源)。
イランは大戦に際して中立を宣言しましたが、大戦中は事実上イギリスとロシアの占領下におかれました。戦後の混乱期に軍人のレザー=ハーンが実権を握り、1925年にガージャール朝を廃してパフレヴィー朝を開き、みずからシャー(国王)を称しました。
レザー=ハーンはトルコと同じく近代化政策を推進し、国名を他称の「ペルシア」から「イラン」に改めるなどイラン民族主義を掲げましたが、国内の石油利権はなおイギリスが保有しました。
| トルコ | イラン | |
|---|---|---|
| 指導者 | ムスタファ=ケマル(アタテュルク) | レザー=ハーン |
| 旧体制 | オスマン帝国(スルタン制) | ガージャール朝 |
| 新体制 | トルコ共和国(1923年) | パフレヴィー朝(1925年) |
| 改革の特徴 | 政教分離を徹底、カリフ制廃止、文字改革 | トルコに倣った近代化、国名変更 |
| 外交 | ローザンヌ条約で治外法権廃止・関税自主権回復 | 石油利権はなおイギリスが保有 |
第一次世界大戦中、イギリスはアラブ地域に関して互いに矛盾する複数の約束を行いました。
まず、1915年のフセイン=マクマホン協定では、メッカのシャリーフ(太守)フセインに対してアラブ人のオスマン帝国からの独立を約束しました。大戦中にサイクス=ピコ協定でオスマン帝国の分割を画策していた列強は、英仏露の間で領土の分割を秘密裏に取り決めていました。さらに、1917年のバルフォア宣言では、パレスチナへの復帰をめざすユダヤ人のシオニズム運動を支援する姿勢を示し、パレスチナにおけるユダヤ人のための「民族的郷土」の建設を支持すると表明しました。
こうしたあい反する約束に加えて、大戦後にアラブ地域はイギリスとフランスの委任統治領として分割されたため、深刻な問題を引き起こしました。
フランスはシリアとレバノンを統治し、イギリスはフセインの子をイラクとトランスヨルダンで王位につけ、パレスチナを分離してユダヤ人の入植を認めました。しかし、それらの国境線は列強の思惑によって定められたものであり、アラブ地域はいくつもの国境線で分断されることになりました。
アラビア半島ではイブン=サウードがワッハーブ派の力を率いて勢力を拡大し、1932年にサウジアラビア王国を建国しました。同国ではイスラーム法の厳格な施行と国王を中心とする政治が行われました。
もっとも大きな矛盾が生じたのはパレスチナです。大戦後にパレスチナはイギリスの委任統治領となったため、アラブ・ユダヤの両民族はそれぞれの権利を主張して対立し、現在まで続く深刻なパレスチナ問題が生まれることになりました。
委任統治とは、国際連盟規約に基づき、旧敵国の植民地や領土の統治を先進国に委託する制度です。アラブ地域では、フランスがシリアとレバノンを、イギリスがイラク・トランスヨルダン・パレスチナを委任統治しました。しかし、それらの国境線は列強の思惑によって定められたものであり、アラブ地域はいくつもの国境線で分断されることになりました。
①フセイン=マクマホン協定(1915年)→ アラブ人にオスマン帝国からの独立を約束
②サイクス=ピコ協定 → 英仏露でオスマン帝国の分割を画策
③バルフォア宣言(1917年)→ ユダヤ人のシオニズム運動を支援、「民族的郷土」建設を支持
こうしたあい反する約束がパレスチナ問題の原因
大戦の開始とともにイギリスの保護国となっていたエジプトでは、戦後に全国的な反英独立運動がおこりました(1919年革命)。ワフド党を中心に独立運動が展開され、1922年にイギリスは条件つきの独立を認めて、立憲王制のエジプト王国が成立しました。
しかし、イギリスはスエズ運河の支配権など多くの特権を維持したので、エジプト人による抗議が続きました。1936年のイギリス=エジプト条約によりエジプトは主権をほぼ回復しましたが、スエズ運河の管理権はなおイギリスの手に残されました。
アフリカの大部分はヨーロッパ列強の植民地支配下にありましたが、この時期に民族意識の萌芽がみられました。
アフリカでの民族運動とは別に、19世紀末から、おもにアメリカ合衆国とカリブ海地域のアフリカ系知識人を中心として、パン=アフリカニズムと呼ばれる解放運動が生まれていました。第一次世界大戦後の1919年にはアメリカ合衆国の黒人解放運動指導者デュボイスがパリでパン=アフリカ会議を開催し、アフリカの植民地における漸進的な自治の推進などが決議されました。
南アフリカでは、アフリカ民族会議(ANC)が人種差別に反対しアフリカ人の権利を要求する運動を展開しました。ただし、アフリカの民族運動がさらに大きな独立運動に発展するのは、第二次世界大戦後のことになります。
①戦後に全国的な反英独立運動(1919年革命)がおこる
②ワフド党を中心に独立運動を展開
③1922年にイギリスが条件つきの独立を認め、立憲王制のエジプト王国が成立
④スエズ運河の支配権など多くの特権はイギリスが維持
第一次世界大戦後、アジア・アフリカの各地で民族運動が活発化しましたが、その形態はさまざまでした。インドのように非暴力・不服従の手段で抵抗した地域もあれば、トルコのように武力で独立を勝ち取った地域もあります。中国のように国共合作から国共分裂に至る内部の政治闘争と並行して進んだ地域もありました。
共通していたのは、第一次世界大戦で掲げられた「民族自決」の理念がアジア・アフリカには十分に適用されなかったことへの不満と、帝国主義列強の支配に対する抵抗の意志です。この時期の民族運動は、第二次世界大戦後の大規模な脱植民地化の前段階として重要な位置を占めています。
| 地域 | 指導者 | 運動の特徴 | 結果 |
|---|---|---|---|
| インド | ガンディー、ネルー | 非協力運動・不服従運動(非暴力) | 1935年インド統治法で州自治、完全独立は戦後 |
| 中国 | 孫文 → 蒋介石 | 五・四運動、国共合作、北伐 | 南京国民政府が形式的に統一 |
| トルコ | ムスタファ=ケマル | 武力による抵抗と近代化改革(トルコ革命) | トルコ共和国の建国 |
| イラン | レザー=ハーン | クーデタと近代化 | パフレヴィー朝の成立 |
| アラブ地域 | フセイン、イブン=サウード | 独立運動、委任統治への抵抗 | サウジアラビア王国の建国、パレスチナ問題の始まり |
| エジプト | ワフド党 | 1919年革命、反英独立運動 | 1922年条件つき独立、エジプト王国成立 |
歴史総合では「国際秩序の変化や大衆化と私たち」の単元で、第一次世界大戦後のアジアの民族運動を学びます。特にインドの非協力運動・不服従運動、中国の五・四運動、トルコ革命は歴史総合でも頻出のテーマです。世界史探究で因果関係をしっかり押さえておくと、歴史総合の理解も深まります。
第一次世界大戦後、インドではガンディーの非協力運動、中国では五・四運動から北伐、トルコではケマルのトルコ革命など、各地で民族運動が活発化した。イギリスのあい反する約束はパレスチナ問題の出発点となった。(100字)
Q1. ガンディーが掲げた、非暴力を絶対的な原則とし、一切の服従・協力を拒否することで不当な支配に抵抗する運動のやり方を何と呼ぶか。
Q2. 1919年5月4日、ヴェルサイユ条約で山東利権が日本へ譲渡されることに抗議して始まった中国の全国的な運動を何というか。
Q3. オスマン帝国解体後にトルコ共和国を建国し、政教分離などの近代化改革を推進した人物は誰か。
Q4. 1917年にイギリスがパレスチナにおけるユダヤ人の「民族的郷土」建設への支持を表明した宣言を何というか。
この節で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。基礎(A)から発展(C)まで段階的に取り組んでみてください。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
第一次世界大戦後のインドでは、( ア )が非暴力・不服従の原則を掲げてイギリスへの抵抗を指導した。1930年にはイギリスの( イ )に抗議して約380キロメートルを歩く( ウ )を行った。中国では1919年に( エ )が起こり、反帝国主義の民族意識が高まった。トルコでは( オ )がトルコ共和国を建国して近代化改革を推進した。
ア:ガンディー イ:塩の専売 ウ:塩の行進 エ:五・四運動 オ:ムスタファ=ケマル
いずれも戦間期の民族運動を象徴する基本用語です。ガンディーの塩の行進は「非暴力・不服従」の実践例として、五・四運動は中国の民族意識の転換点として、ムスタファ=ケマルはイスラーム世界の近代化の先駆者として頻出です。
次の出来事を年代順に正しく並べかえよ。
② → ③ → ④ → ①
正しい年代順は以下の通りです。
1920年代前半にトルコの建国と中国の国共合作がほぼ同時期に起きている点がポイントです。塩の行進は1930年と最も遅い出来事です。
第一次世界大戦中にイギリスがアラブ地域に関して行った三つの約束の名称と内容を挙げ、それらの矛盾がどのような問題を引き起こしたかを80字以内で説明せよ。
フセイン=マクマホン協定でアラブ人にオスマン帝国からの独立を約束し、サイクス=ピコ協定で列強がオスマン帝国の分割を画策し、バルフォア宣言でユダヤ人のシオニズム運動を支援した。こうしたあい反する約束がパレスチナ問題の原因となった。(113字)
この問題では三つの約束の名称・相手先を正確に区別することが重要です。フセイン=マクマホン協定(1915年、対アラブ人)、サイクス=ピコ協定(列強間の領土分割)、バルフォア宣言(1917年、ユダヤ人のシオニズム運動支援)という整理が必要です。これらがあい反する約束であったことがパレスチナ問題の出発点です。
第一次世界大戦後にインド・中国・トルコで展開された民族運動について、それぞれの運動の特徴と結果を比較しながら、200字以内で論述せよ。
インドではガンディーが非暴力・不服従運動を指導し、塩の行進など民衆を広く巻き込んだが、完全独立は実現しなかった。中国では五・四運動で民族意識が高まり、国共合作のもと蒋介石が北伐を行って形式的統一を達成したが、国共分裂により内部対立が残った。トルコではムスタファ=ケマルが武力で外国勢力を排除し、共和国を建国して政教分離など大胆な近代化改革を実現した。(178字)
三つの地域を比較する問題では、各地域の運動の「方法」と「結果」を対比的に述べることが重要です。インドは非暴力、中国は政党間の合作と軍事行動、トルコは軍事的抵抗と上からの改革という違いを明確にしましょう。結果についても、インドは独立未達成、中国は統一したが内部分裂、トルコは独立と近代化を達成、というように対比的に書くと高評価が得られます。