19世紀、かつて広大な領土を誇ったオスマン帝国は、ヨーロッパ列強の干渉と国内の民族独立運動に直面し、急速に衰退していきました。帝国はタンジマートと呼ばれる近代化改革を試みますが、列強の思惑に翻弄されます。エジプトではムハンマド=アリーが事実上の独立を達成し、スエズ運河の建設がイギリスの進出を招きました。イランのカージャール朝も列強の圧力にさらされ、アラビア半島ではワッハーブ派が台頭します。
この記事では、19世紀の西アジアがヨーロッパの圧力のもとでどのように変容したのかを学びます。
オスマン帝国はカルロヴィッツ条約以後、戦争よりも外交を重視して支配体制を維持しましたが、その支配は18世紀半ばに周縁地域からゆらぎはじめました。19世紀に入ると、オスマン帝国領内の諸地域や民族の自立の動きが高まるとともに、列強の干渉と経済的な支配が強まりました。列強はオスマン帝国の動揺を利用して勢力の拡大をはかり、この間に成立した国際関係は、ヨーロッパ側からみて「東方問題」と呼ばれました。そのもとでは、不凍港の獲得と地中海への進出を求めて南下政策を進めるロシアと、これを阻止しようとするイギリスなどとの対立が鮮明となりました。
東方問題の出発点となったのが、ギリシア独立戦争(1821〜1829年)です。オスマン帝国の支配下にあったギリシアで独立運動が始まると、ヨーロッパでは古代ギリシアへの憧れから独立を支援する世論が高まりました。ロシア・イギリス・フランスが介入してナヴァリノの海戦(1827年)でオスマン帝国艦隊を撃破し、1829年のアドリアノープル条約を経てギリシアの独立が承認されました(1830年)。
ギリシア独立戦争に続いて、オスマン帝国はエジプト総督ムハンマド=アリーの反乱にも直面しました。ムハンマド=アリーは、オスマン帝国の要請を受けてギリシア独立戦争の鎮定に出兵し、その見返りにシリアの領有を求めました。しかしそれが拒否されると、2度にわたってオスマン帝国と戦い、軍事力で圧倒しました(エジプト=トルコ戦争)。
これに対して、エジプトの強大化を望まない列強が介入し、1840年のロンドン会議でムハンマド=アリーに認められたのは、エジプト・スーダンの総督職の世襲のみでした。
産業革命を進める列強にとって、オスマン帝国は重要な市場であり、各国はカピチュレーションを拡大した通商条約を結んで利益を拡大していきました。ヨーロッパ資本の進出は急速に進み、綿花やタバコなどの商品作物の輸出の見返りにイギリスの安価な綿製品などが低関税で輸入されるようになると、帝国内の産業はしだいに没落しました。ただし、綿織物業は輸入綿糸を用いた国内向け生産を行うことで生きのび、絨毯産業はヨーロッパへの輸出向け生産で活況を呈しました。こうした産業はしばしば女性を安価な労働力として用いることで支えられていました。
オスマン帝国も、クリミア戦争での莫大な戦費以来、債務を重ねたため、1875年には財政が完全に破綻しました。おもな税収は多国籍の債権者によるオスマン債務管理局に奪われ、帝国は列強への経済的な従属を強いられることとなりました。
オスマン帝国の衰退は、単なる一国の問題ではなく、列強の利害が複雑に絡み合うヨーロッパ全体の国際問題でした。ロシアの南下をどう阻止するかが常に焦点となっています。
① 定義:オスマン帝国の領土分割・民族独立をめぐる国際問題
② 背景:オスマン帝国の衰退+ロシアの南下政策
③ 主な事件:ギリシア独立戦争(1821〜29年)→エジプト=トルコ戦争→クリミア戦争→ロシア=トルコ戦争
④ 特徴:ロシアの南下を英仏が阻止する構図が繰り返された
こうして内外の危機に直面したオスマン帝国は、19世紀初め以降、帝国の存続と強化をめざしてイェニチェリ軍団の解体や近代的な軍隊の創設など一連の改革を進めました。つづいて1839年にはギュルハネ勅令が発布され、宰相の主導による司法・行政・財政・軍事にわたる大規模な西欧化改革(タンジマート)が開始されました。
この改革は、宗教や民族の区別なく法の前での臣民の平等を認めるオスマン主義のもとで、法治主義にもとづいた近代国家をめざすものであり、民族や宗派の問題を口実とした列強の干渉をかわすことも目的としていました。しかし、こうした改革によっても諸民族の離反を防ぐことはできませんでした。
1860年代からは、政府に不満をもつ若手官僚らが自らを「新オスマン人」と称し、出版を通じて立憲政をめざす運動を展開しました。これを背景に、一連の改革は、1876年に宰相ミドハト=パシャが起草したミドハト憲法(オスマン帝国憲法)の発布に結実しました。翌年には間接選挙で選ばれた代議員による最初の議会が開かれました。
しかし、議会の急進化を恐れたスルタンのアブデュルハミト2世は、おりからのロシア=トルコ戦争(1877〜1878年)を理由に議会を停止させ、憲法も機能を停止しました(1878年)。戦争に敗れたオスマン帝国はバルカン半島の領土の多くを失いました。
なお、ミドハト=パシャは憲法発布後まもなく追放され、流刑先のアラビア半島で死去しました。
スルタンはイスラーム世界に君臨するカリフとしての権威を帝国の内外に誇示しながら、長期にわたる専制をおこないました。同時に、国外のムスリムにもカリフへの支持をうったえかけることで列強を牽制しました(パン=イスラーム主義)。以後、彼の治世に列強との戦争はおこらず、タンジマート以来の軍隊・司法・教育などの近代化は継承され、都市部では社会と文化の近代化が進行しました。憲法の復活は1908年の青年トルコ革命まで待たなければなりませんでした。
議会の急進化を恐れたアブデュルハミト2世は、ロシア=トルコ戦争を理由に立憲体制を停止しました。以後、カリフとしての権威を誇示しながら長期にわたる専制をおこないましたが、列強との戦争はおこらず、都市部では近代化が進行しました。
① タンジマート(1839年〜):ギュルハネ勅令で開始。司法・行政・財政・軍事にわたる西欧化改革
② 新オスマン人(1860年代〜):若手官僚が出版を通じて立憲政をめざす運動
③ ミドハト憲法(1876年):宰相ミドハト=パシャが起草。間接選挙による最初の議会が開かれた
④ ロシア=トルコ戦争(1877〜78年)を理由にアブデュルハミト2世が議会を停止、憲法も機能を停止
⑤ ベルリン条約(1878年):ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立承認
⑥ アブデュルハミト2世の専制期:パン=イスラーム主義を掲げつつ近代化を継続
⑦ 青年トルコ革命(1908年):憲法と議会の復活
豊かな農業生産力をもつオスマン帝国の属州エジプトでは、ナポレオンの遠征軍が退いた後の混乱期に、オスマン帝国の軍人ムハンマド=アリーが民衆の支持を得てエジプト総督となりました。
ムハンマド=アリーは、マムルーク勢力を一掃して権力を集中させ、綿花などの専売を導入して富国強兵と殖産興業の政策を進めました。
ムハンマド=アリーはオスマン帝国の要請を受けてギリシア独立戦争の鎮定に出兵し、その見返りにシリアの領有を求めました。しかしそれが拒否されると二度にわたって帝国と戦い、軍事力で圧倒しました(エジプト=トルコ戦争)。これに対してエジプトの強大化を望まない列強が介入し、1840年のロンドン会議でムハンマド=アリーに認められたのは、エジプト・スーダンの総督職の世襲のみでした。さらに、属州のエジプトにもオスマン帝国と列強の通商条約が適用された結果、専売の利益と関税自主権を失って自立的な経済発展の道を閉ざされました。
その後、エジプトは近代化を急ぎ、フランス人レセップスの提案を受けて巨費を投じスエズ運河を建設しました(1869年開通)。地中海と紅海を結ぶこの運河により、ヨーロッパからアジアへの航路は大幅に短縮されました。一方、19世紀後半には綿花の輸出がのび、綿花生産に基礎を置くモノカルチャー経済が形成されました。
しかし莫大な債務を負ったエジプトは、イギリス・フランスの財務管理下におかれるようになりました。イギリスは1875年に、財政危機におちいったエジプトからスエズ運河会社の株を購入して、運河の権益を手に入れました。
イギリス・フランスの支配に抵抗して、1881年に農民出身の陸軍将校ウラービー(アラービー)が「エジプト人のためのエジプト」をとなえて蜂起し、ウラマーから村指導者層にいたるまで広範な支持を得て、立憲の確立と議会開設を求める国民的な運動に発展しました(ウラービー運動)。しかしイギリスは軍事力によって運動を鎮圧し、エジプトを事実上の保護国としました。
エジプトに支配されていたスーダンでは、神秘主義教団の指導者ムハンマド=アフマドが1881年に自らをマフディーであると宣言し、エジプト軍に対する抵抗運動を開始しました(マフディー運動)。この運動はマフディー国家を築きましたが、1898年にイギリス・エジプト連合軍によって滅ぼされました。
① ムハンマド=アリー:エジプト総督として近代化改革を推進。エジプト=トルコ戦争でオスマン帝国と対立→総督の世襲権を獲得
② スエズ運河(1869年開通):巨費を投じて建設。地中海と紅海を連結
③ 莫大な債務→英仏の財務管理下に。1875年:イギリスがスエズ運河株を購入
④ ウラービー運動(1881〜82年):「エジプト人のためのエジプト」→イギリス軍が鎮圧→事実上の保護国化
イランでは、サファヴィー朝が支配下のアフガン人の反乱によって衰壊したあと、18世紀末にテヘランを首都とするカージャール朝がおこりました。
しかしカージャール朝は南進してきたロシアとの戦争に敗れ、1828年のトルコマンチャーイ条約でロシアの治外法権を認め、関税自主権を失ったうえに、南コーカサスの領土を割譲しました。
19世紀半ばには、社会不安や経済的な窮境を背景に、農民や商人、職人などからなるバーブ教徒がカージャール朝の専制に対して各地で蜂起しましたが、政府軍によって鎮圧されました。その後、政府は列強諸国に借款を重ね、電信線・鉄道の敷設、石油採掘、銀行開設などの利権を譲渡していきました。
列強への利権譲渡に対する不満が爆発したのが、タバコ=ボイコット運動(1891〜1892年)です。カージャール朝の国王がイギリス人にタバコの生産・販売・輸出の独占権(利権)を与えると、イランの商人や宗教指導者(ウラマー)が猛反発しました。
シーア派の有力な宗教指導者がタバコの使用禁止を呼びかけると、国中でタバコのボイコットが広がりました。この運動は商人・知識人・宗教指導者が連携した近代イラン初の大規模な民族運動として重要です。激しい抵抗を受けた政府はタバコ利権を撤回せざるを得ませんでした。しかし、その後も政府は借款にたより、20世紀初頭にはイギリスがイランの石油利権を獲得しました。
こうした状況のなか、日露戦争での日本の勝利にも刺激を受けて、改革派のウラマーや知識人が商人の協力を得て立憲運動を展開しました。1905年に大規模な抗議運動が広がり、翌年に国民議会が開設されました(イラン立憲革命、1905〜1911年)。しかし、ロシアの軍事介入もあり、1911年に議会は解散に追い込まれました。
アフガニスタンでは、イランから自立したアフガン人が18世紀半ばから独立を保っていましたが、19世紀に入るとロシアとイギリスによる覇権争い(グレートゲーム)に巻き込まれました。ロシアが中央アジアに進出してアフガニスタンにせまると、イギリスはインド植民地を守るために2度にわたってアフガニスタンに侵攻しました(第1次・第2次アフガン戦争)。その結果、アフガニスタンは英露間の緩衝国となり、イギリスはその外交権を確保しました。
イランでは国教とされたシーア派(十二イマーム派)のウラマーが大きな社会的影響力を持っていました。タバコ=ボイコット運動では、ウラマーの発した宗教的見解(ファトワー)が運動を全国に広げる原動力となりました。宗教指導者が政治運動に重要な役割を果たすという構図は、のちの1905年のイラン立憲革命や、20世紀後半のイラン革命にも通じる、イラン近現代史の特徴的なパターンです。
① カージャール朝(1796〜1925年):首都テヘラン
② トルコマンチャーイ条約(1828年):対ロシア戦争に敗北し、領土割譲・治外法権・関税制限を受け入れる
③ タバコ=ボイコット運動(1891〜92年):イギリスへのタバコ独占利権に反発→ウラマーと商人が連携して利権撤回に成功
④ 近代イラン初の大規模な民族運動として歴史的に重要
オスマン帝国の支配の周縁にあったアラビア半島の中央部では、独自のイスラーム改革運動が生まれていました。
18世紀半ば、アラビア半島のナジド地方でイブン=アブドゥルワッハーブがイスラーム改革運動を始めました。彼は神秘主義教団の聖人や聖廟を徹底的に批判し、預言者ムハンマドの教えに立ちかえれと主張しました。彼の教えに従う人々はワッハーブ派として知られるようになりました。
この運動は、アラビア半島中央部の豪族サウード家の軍事的な支援を得て広がり、聖地メッカとメディナの二聖都をも支配するワッハーブ王国(サウード王国)を建設しました。
ワッハーブ王国は、19世紀初頭、オスマン帝国の命令でアラビア半島に出兵したエジプトのムハンマド=アリーによって一度は滅ぼされました。しかし王国はのちに小勢力として復活し、20世紀初頭からは勢力を回復して、今日のサウジアラビア(サウード家の王国)にいたっています。
19世紀にイスラーム諸王朝がヨーロッパ列強に政治的・経済的に支配されるという危機に直面して、世界のムスリムの団結によって帝国主義に対抗しようとする動きが生まれました。イラン出身のアフガーニーはイスラーム世界の各地を渡り歩いて団結と抵抗をよびかけるとともに、イスラーム社会の内部改革をうったえました。彼の思想と活動はエジプトのウラービー運動やイランのタバコ=ボイコット運動を準備する役割を果たしました。
アフガーニーの影響を受けたエジプトのムハンマド=アブドゥフは、教育と宗教の分野で近代的な要素をとりいれたイスラーム改革に取り組みました。19世紀は活版印刷術がイスラーム世界に普及して新聞や雑誌がさかんに発行された時代であり、こうした改革思想はアラビア語の雑誌を通じてイスラーム世界に広く知られるようになりました。
ワッハーブ派の運動は、19世紀以降のイスラーム世界における「原点回帰」を目指す改革運動の先駆的な存在です。時代や地域の慣習に埋もれた信仰を、クルアーンの教えに立ち返って「浄化」しようとする姿勢は、のちにエジプトの改革思想家ムハンマド=アブドゥフらにも影響を与えたとされています。宗教と政治権力(サウード家)が結びついた点も、この運動の大きな特徴です。
① 創始者:イブン=アブドゥルワッハーブ(18世紀半ば、ナジド地方)
② 主張:聖者崇拝・神秘主義を否定し、クルアーンとスンナに基づく厳格な信仰への回帰
③ サウード家と結んでワッハーブ王国(第1次サウード王国)を建国→メッカ・メディナを一時占領
④ ムハンマド=アリーによって1818年に滅亡→のちに再興→現在のサウジアラビアへ
19世紀の西アジアでは、オスマン帝国・エジプト・イランがそれぞれ近代化を試みましたが、いずれもヨーロッパ列強の圧力のもとで挫折や変質を余儀なくされました。
| 地域 | 改革の内容 | 列強の干渉 | 結果 |
|---|---|---|---|
| オスマン帝国 | タンジマート(法の前の平等・近代化)→ミドハト憲法 | ロシアの南下、英仏の介入(東方問題) | 憲法停止、バルカン半島の領土喪失 |
| エジプト | ムハンマド=アリーの富国強兵・殖産興業 | スエズ運河建設で債務→英仏の財務管理→イギリスの事実上の保護国化 | ウラービー運動の鎮圧、イギリス支配 |
| イラン | 軍事・行政・教育の改革を試みたが長続きせず | トルコマンチャーイ条約で治外法権・関税自主権喪失、利権を列強に譲渡 | タバコ=ボイコット運動→利権撤回。イラン立憲革命(1905〜11年) |
共通するのは、西洋の圧倒的な軍事力・経済力に対して、「上からの近代化」だけでは対抗しきれなかった点です。一方、エジプトのウラービー運動やイランのタバコ=ボイコット運動など、民衆レベルの抵抗運動が芽生え始めた点も重要です。
オスマン帝国の改革やエジプトの近代化は、「歴史総合」の「近代化と私たち」で扱われるテーマです。西洋の衝撃を受けた非西洋社会がどのように対応し、どのような困難に直面したかという視点は、日本の明治維新とも比較できる重要な論点です。
19世紀、オスマン帝国は東方問題に苦しみ、タンジマートやミドハト憲法で近代化を図ったが、アブデュルハミト2世の専制とパン=イスラーム主義の時代を経て、青年トルコ革命で立憲政が復活した。エジプトではムハンマド=アリーが改革を進めたが、スエズ運河建設後にイギリスの支配下に入り、スーダンではマフディー運動が起きた。イランではタバコ=ボイコット運動からイラン立憲革命に至った。アフガーニーのパン=イスラーム主義やワッハーブ派の改革運動がイスラーム世界に広がった。(230字)
Q1. オスマン帝国の衰退に伴う領土分割・民族独立をめぐる国際問題を総称して( )という。
Q2. 1839年にギュルハネ勅令で始まったオスマン帝国の近代化改革を( )という。
Q3. 1876年にミドハト=パシャが中心となって制定された、アジア初の近代的憲法は( )憲法である。
Q4. エジプト総督として近代化改革を推進し、エジプト=トルコ戦争を起こした人物は( )である。
Q5. オスマン帝国の税収の多くを管理し、帝国の列強への経済的従属を象徴した機関は( )である。
Q6. 「エジプト人のためのエジプト」を掲げてイギリスに反乱を起こしたエジプト軍人は( )である。
Q7. 1828年にカージャール朝イランがロシアと結んだ不平等条約は( )条約である。
Q8. 1891年にイランで起きた、イギリスのタバコ独占利権に反対する運動を( )運動という。
Q9. 18世紀にアラビア半島でクルアーンとスンナへの回帰を唱えた改革運動は( )派である。
Q10. ワッハーブ派と結んでワッハーブ王国を建国し、のちのサウジアラビアの基礎を築いた家系は( )家である。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) 1839年にオスマン帝国で発布された( ア )勅令により、( イ )と呼ばれる近代化改革が始まった。
(2) エジプトで近代化を推進した( ウ )は、2度にわたるエジプト=トルコ戦争を経て、エジプト総督の( エ )権を認められた。
(3) 1869年に開通したスエズ運河は、( オ )海と紅海を結ぶ運河である。
(4) イランで1891年に起きた( カ )運動では、ウラマーと商人が連携してイギリスの独占利権を撤回させた。
ア:ギュルハネ イ:タンジマート ウ:ムハンマド=アリー エ:世襲 オ:地中 カ:タバコ=ボイコット
(1)について:ギュルハネ勅令はトプカプ宮殿内のギュルハネ(バラ園)で読み上げられたことから名付けられました。タンジマートはトルコ語で「改革」を意味します。(2)について:ムハンマド=アリーはアルバニア系の軍人出身で、ナポレオンのエジプト遠征後の混乱のなかで権力を掌握しました。1840年のロンドン条約でエジプト総督の世襲が認められました。(3)について:スエズ運河は全長約160kmで、地中海のポートサイドと紅海のスエズを結びます。(4)について:タバコ=ボイコット運動は、シーア派のウラマーが発したファトワー(宗教的見解)が運動拡大の原動力となりました。
次の文のうち、正しいものを1つ選べ。
(4)
(1)について:タンジマートは宰相の主導による西欧化改革です。アブデュルハミト2世はむしろ憲法を停止して専制をおこなった人物です。(2)について:ミドハト憲法はロシア=トルコ戦争を理由にアブデュルハミト2世によって停止されました。オスマン帝国はロシア=トルコ戦争に敗北しています。(3)について:レセップスはフランス人であり、イギリス人ではありません。スエズ運河はフランスの主導で建設されました。(4)について:正しい。ウラービー(アラービー)はエジプト軍の将校で、英仏の財政管理に反発して1881年に蜂起しました。
19世紀のエジプトにおいて、ムハンマド=アリーの近代化改革からイギリスによる事実上の保護国化に至る過程を、「スエズ運河」「ウラービー」の語句を使って120字以内で説明せよ。
ムハンマド=アリーは西洋式の軍隊編成や殖産興業でエジプトの近代化を進めた。しかし後継者の時代にスエズ運河建設の費用で財政が悪化し、運河株をイギリスに売却した。英仏の財政管理に反発したウラービーの運動もイギリス軍に鎮圧され、エジプトは事実上の保護国となった。(120字)
ムハンマド=アリーの近代化→スエズ運河による財政悪化→イギリスの進出→ウラービー運動の鎮圧→保護国化という因果の流れを押さえることが重要です。近代化が皮肉にも列強への従属を招いたという構造を記述できるとよいでしょう。