ウィーン体制のもとで保たれていたヨーロッパの勢力均衡は、1850年代に大きく揺らぎ始めます。クリミア戦争でロシアが敗北すると、列強体制の拘束力は弱まりました。この隙を突いてイタリアとドイツの統一運動が進展し、ヨーロッパの地図は一変します。一方、フランスではナポレオン3世の第二帝政が興亡し、パリ=コミューンを経て第三共和政が成立しました。ロシアでは農奴解放令が布告され、近代化への一歩が踏み出されます。
この記事では、19世紀後半にヨーロッパの国際秩序がどのように再編されたのかを学びます。
ウィーン体制のもとで列強の協調を主導してきたロシアは、南下政策を進め、衰退するオスマン帝国の領土に影響力を広げようとしていました。ロシアは、オスマン帝国領内のギリシア正教徒保護の名目で圧力を強め、1853年にオスマン帝国に宣戦しました(クリミア戦争)。
イギリス・フランスはロシアの地中海進出を阻止するためオスマン帝国を支援し、戦争はヨーロッパ列強同士の戦いになりました。クリミア半島のセヴァストーポリ要塞をめぐる攻防の末にロシアは敗れ、1856年のパリ条約で黒海の中立化などが定められ、南下政策は一時中断しました。
クリミア戦争は、ウィーン体制を支えていたロシアの圧倒的な軍事的プレゼンスを打ち砕きました。オーストリアも戦争中にロシアを支持せず両国の関係が悪化したため、従来の保守的な列強の連携が完全に崩れたのです。
① 原因:ロシアの南下政策とオスマン帝国領内のギリシア正教徒保護の名目
② 対立構図:ロシア vs オスマン帝国+イギリス・フランス(ロシアの地中海進出を阻止)
③ 結果:パリ条約(1856年)で黒海の中立化。ロシアの南下政策が一時中断
④ 影響:列強体制の拘束力が弱まり、イタリア・ドイツ統一運動が加速
19世紀半ばのイタリアは、北部をオーストリアが支配し、中部にはローマ教皇領、南部には両シチリア王国(ブルボン家)が存在するなど、依然として分裂状態にありました。イタリア統一運動は1848年の革命で挫折した後、新たな指導者のもとで再び動き出します。
統一運動の中心となったのは、自由主義的な立憲体制を守っていたサルデーニャ王国(首都トリノ)でした。国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世のもとで首相を務めたカヴールは、鉄道建設など近代的な社会基盤の整備をはかり、サルデーニャ王国を統一の「核」にふさわしい国力に引き上げました。
カヴールの最大の課題は、北イタリアを支配するオーストリアの排除でした。彼はクリミア戦争に参戦してイギリス・フランスに接近し、1858年にフランス皇帝ナポレオン3世とプロンビエールの密約を結んで、オーストリアとの戦争でフランスの軍事支援を取り付けました。
1859年、イタリア統一戦争が始まると、フランス・サルデーニャ連合軍はオーストリア軍を破り、ロンバルディアを獲得しました。翌年、サヴォイアとニースをフランスにゆずるかわりに中部イタリアを併合しました。
カヴールが外交と政治で北イタリアの統一を進める一方、南イタリアではガリバルディが劇的な行動に出ました。青年イタリア出身のガリバルディは、1860年に約1000人の義勇兵(千人隊・赤シャツ隊)を率いてシチリアに上陸しました。
ガリバルディは南から民衆をもまきこんだ統一運動を展開し、両シチリア王国を占領して、その領土をサルデーニャ国王にゆだねました。こうして1861年にイタリア王国が成立し、サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がイタリア国王の位につきました。
成立当初のイタリア王国には、オーストリア領のヴェネツィアとローマ教皇領が含まれていませんでした。イタリアは1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)に際してプロイセンを支持し、オーストリア領のヴェネツィアを併合しました。さらに1870年の普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)に乗じて教皇領を占領し、翌71年にローマを首都としました。しかし、トリエステ・南チロルなどはオーストリア領にとどまったため、「未回収のイタリア」と呼ばれ、その回復をめぐってオーストリアと長く対立することになりました。また、ローマ教皇庁はヴァチカンにこもり、イタリア政府とは長く断交状態が続きました。
イタリア統一は、カヴールの「上からの外交・政治手腕」とガリバルディの「下からの軍事行動・民衆動員」という対照的な手法の組み合わせで実現しました。カヴールは現実主義の政治家として列強の力関係を利用し、ガリバルディは理想主義の軍人として民衆の力で南イタリアを解放しました。この二つの方向からの統一が合流した点が、イタリア統一の大きな特徴です。
① 中心勢力:サルデーニャ王国(国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世、首相カヴール)
② カヴールの外交:プロンビエールの密約でフランスの支援を確保→対墺戦争でロンバルディア獲得→サヴォイア・ニースをフランスにゆずり中部イタリア併合
③ ガリバルディ:千人隊(赤シャツ隊)で両シチリア王国を占領→サルデーニャ国王にゆだねる
④ 1861年イタリア王国成立→1866年ヴェネツィア併合→1870年教皇領占領→71年ローマを首都
⑤ トリエステ・南チロルなどはオーストリア領に残り「未回収のイタリア」と呼ばれた。教皇庁はヴァチカンにこもりイタリア政府と断交
ドイツの国家統一はプロイセン主導のもとに展開しました。プロイセンは1834年に発足したドイツ関税同盟をさらに拡大し、産業革命を進展させるとともに、オーストリアを除くドイツの経済的統一を推進しました。
政府と議会の対立が続くなか、1862年にユンカー出身のビスマルクがプロイセン首相に任命されました。ビスマルクは議会で「現在の大問題は演説や多数決ではなく、鉄と血によって解決される」と演説し、議会の反対を無視して軍の拡大をはかりました。これが鉄血政策と呼ばれます。
ビスマルクはまず、デンマークとのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題を利用しました。1864年、プロイセンはオーストリアと共同でデンマークに勝利し、両地域を獲得しました(デンマーク戦争)。
次にビスマルクは、獲得した地域の管理をめぐってオーストリアと対立を深め、1866年に普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)に持ち込みました。プロイセンは針撃銃など近代的な装備を活用してわずか7週間でオーストリアに圧勝しました。この結果、ドイツ連邦は解体され、翌1867年にプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦が結成されて、南ドイツ諸邦とも同盟を結びました。オーストリアはドイツの統一から排除されたのです。
残る課題は、南ドイツ諸邦の統合でした。南ドイツにはカトリックの伝統が強く、プロイセン主導の統一には消極的でした。ビスマルクはフランスとの戦争によって南ドイツの民族感情を刺激し、統一を完成させようと考えました。
プロイセンの強大化を阻止しようとしたフランスのナポレオン3世は、スペイン王位継承問題を機に、1870年にプロイセンに宣戦しました(ドイツ=フランス(独仏)戦争、プロイセン=フランス戦争、普仏戦争、1870〜71年)。ビスマルクはエムス電報事件を利用してフランスの開戦を誘ったともいわれます。
北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦の支持を得たプロイセンはフランスを圧倒し、セダン(スダン)の戦いでナポレオン3世を捕虜にしました。1871年1月、プロイセン国王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯によってドイツ皇帝に推戴され、ドイツ帝国が成立しました。敗北したフランスは、アルザス・ロレーヌの割譲と高額の賠償金の支払いを課されました。
ドイツ帝国はドイツの諸邦で構成される連邦制国家で、プロイセン国王が皇帝を兼ねました。帝国議会は男性普通選挙制でしたが、その権限は制約され、帝国宰相は皇帝にのみ責任を負い、大きな権力を行使できました。帝国宰相となったビスマルクは、帝国の国民統合を進めるため、カトリック勢力を「帝国の敵」として攻撃しました(文化闘争)。
ビスマルクは段階的に敵を設定し、そのつど軍事的勝利で統一の障害を取り除いていきました。特にオーストリアを排除する「小ドイツ主義」の路線を貫いた点が、1848年の統一運動の失敗から学んだ戦略でした。
| 戦争 | 年 | 相手 | 結果・意義 |
|---|---|---|---|
| デンマーク戦争 | 1864年 | デンマーク | シュレスヴィヒ・ホルシュタインを獲得。オーストリアとの共同作戦 |
| 普墺戦争 | 1866年 | オーストリア | 7週間で勝利。ドイツ連邦解体、北ドイツ連邦結成。オーストリアをドイツから排除 |
| 普仏戦争 | 1870〜71年 | フランス | セダン(スダン)でナポレオン3世捕虜。ドイツ帝国成立。アルザス・ロレーヌ割譲 |
① 首相ビスマルクの「鉄血政策」:議会の反対を無視して軍の拡大を断行
②「小ドイツ主義」:オーストリアを排除したプロイセン中心の統一
③ 普仏戦争でフランスを圧倒し、セダン(スダン)でナポレオン3世を捕虜に
④ 1871年ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯がヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に推戴。フランスからアルザス・ロレーヌ割譲
⑤ 連邦制国家。男性普通選挙制の帝国議会だが権限は制約。帝国宰相は皇帝にのみ責任を負う
⑥ ビスマルクはカトリック勢力を攻撃(文化闘争)し、国民統合を推進
クリミア戦争で敗北したロシアのアレクサンドル2世は、専制体制と農奴制によるロシアの立ちおくれを認め、国内改革に着手しました。
1861年、皇帝は農奴解放令を布告して、農奴に人格的自由を認めました。しかし、農民は土地を貴族領主から買い戻す必要があり、また土地は個人にではなくミール(農村共同体)に引き渡されることが多く、これによって皇帝は農民を直接支配下に組み込むことができました。
アレクサンドル2世はこのほかにも、地方自治や教育制度などの近代化改革を実施しました。しかし、改革の気運に乗じてポーランドの民族主義者が蜂起すると、皇帝は再び専制政治に戻りました。
工業がなお未成熟であったロシアでは、社会改革の提唱者は都市の学生などの知識人層(インテリゲンツィア)が担いました。彼らの一部は農村共同体を基盤にすれば社会主義改革が可能と考え、「ヴ=ナロード(人民のなかへ)」を掲げて農民に働きかけたのでナロードニキと呼ばれましたが、農民は呼びかけにこたえず、失望したナロードニキの一部は要人殺害で専制を打倒しようと、皇帝や政府高官を暗殺しました。
① 背景:クリミア戦争の敗北で近代化の必要性を認識
② 内容:農奴解放令(1861年)で農奴に人格的自由を付与
③ 限界:土地は貴族領主から買い戻す必要があり、ミールに引き渡されることが多かった
④ その後:ポーランド蜂起を機に専制復活→ナロードニキ運動→皇帝暗殺
フランスでは、二月革命(1848年)で成立した第二共和政のもと、ナポレオン1世の甥にあたるルイ=ナポレオンが大統領に選出されました。彼は1851年にクーデタによって独裁権を握り、翌1852年には国民投票で帝政を復活させ、ナポレオン3世を名乗りました(第二帝政)。
ナポレオン3世は、自由貿易によって国内産業を育成するためイギリスと通商条約を結び、パリの大改造など鉄道建設や都市改造を通じて本格的な工業化を推進しました。対外的にはクリミア戦争やイタリア統一戦争への介入、アロー戦争(第2次アヘン戦争)での中国侵攻やインドシナ出兵などの積極的な政策を追求しましたが、メキシコ遠征に失敗して威信が低下しました。
さらにビスマルクの挑発に乗って、1870年にドイツ=フランス(独仏)戦争(普仏戦争)をおこし、みずから捕虜になる失敗を喫したため、帝政は崩壊しました。同年に臨時国防政府が成立して抗戦を続けましたが、翌年には降伏しました。
ティエールの指導する臨時政府が講和を進めました。
敗北と領土割譲を受け入れた講和に抗議して、1871年3月に社会主義者やパリ民衆が立ち上がり、史上はじめての革命的自治政府を樹立しました(パリ=コミューン)。
しかし、パリ=コミューンは国内では広い支持を得られず、パリを逃れたティエールの指導する臨時政府側の軍事力によって、まもなく倒されました。
その後、国内では王党派と共和派のあいだで将来の政体をめぐる対立が続きましたが、1875年に共和国憲法が制定されて第三共和政の基礎がすえられ、1880年以降はフランス革命を原点とする国民統合が進みました。
パリ=コミューンはわずか約2か月で崩壊しましたが、のちの社会主義運動に大きな影響を与えました。マルクスはコミューンを「ついに発見された、労働者階級の経済的解放を実現しうる政治形態」と評価しました。公務員の選挙制・解任制や直接民主制の試みは、20世紀の社会主義運動や労働運動の先駆的な実験として位置づけられています。
① 1852年:ナポレオン3世が皇帝に即位→第二帝政成立
② 1870年:普仏戦争のセダンの戦いでナポレオン3世が捕虜に→第三共和政の臨時政府が発足
③ 1871年3月:敗北と領土割譲の講和に抗議→パリ=コミューン成立→まもなくティエール政府に鎮圧
④ 1875年:共和国憲法制定で第三共和政の基礎がすえられる
19世紀後半に実現したイタリアとドイツの国民国家形成には、共通点と相違点があります。どちらも分裂状態から一つの王国・帝国にまとまりましたが、統一を主導した勢力や方法には違いがありました。
| 項目 | イタリア統一 | ドイツ統一 |
|---|---|---|
| 中心国 | サルデーニャ王国 | プロイセン王国 |
| 指導者 | カヴール(首相)・ガリバルディ(軍人) | ビスマルク(首相) |
| 排除された国 | オーストリア | オーストリア(小ドイツ主義) |
| 統一方法 | 外交+義勇兵の軍事行動+住民投票 | 軍事力(鉄血政策)による3度の戦争 |
| 統一完成 | 1861年(王国成立)→1870年(ローマ併合) | 1871年(ドイツ帝国成立) |
| 残された課題 | 南北の経済格差、「未回収のイタリア」 | アルザス・ロレーヌ問題(対仏関係) |
両統一に共通するのは、1848年革命の挫折を経て、理想主義的な統一運動から現実主義的な国家権力による統一へと路線が転換した点です。また、どちらもオーストリアの排除が統一の鍵でした。
19世紀後半のイタリア・ドイツ統一や農奴解放は、「歴史総合」の「近代化と私たち」で扱われるテーマです。国民国家の形成が人々の生活や権利意識にどのような変化をもたらしたかという視点で、世界史探究の知識と結びつけて理解しましょう。
クリミア戦争で列強体制の拘束力が弱まると、カヴール・ガリバルディによるイタリア統一、ビスマルクの鉄血政策によるドイツ統一が実現した。ロシアは農奴解放令で農奴に人格的自由を認め、フランスは第二帝政崩壊後にパリ=コミューンを経て第三共和政の基礎がすえられた。(125字)
Q1. クリミア戦争を終結させた1856年の条約は( )条約である。
Q2. イタリア統一の中心となった国は( )王国で、その首相は( )である。
Q3. 約1000人の義勇兵(赤シャツ隊)を率いて南イタリアを征服した人物は( )である。
Q4. ビスマルクが議会の承認なしに軍備拡張を進めた政策を( )政策という。
Q5. 1866年の普墺戦争の結果、プロイセンを盟主として結成された連邦は( )連邦である。
Q6. 普仏戦争中の1870年、ナポレオン3世が捕虜になった戦いは( )の戦いである。
Q7. 普仏戦争の結果、フランスがドイツに割譲した地域は( )である。
Q8. 1861年にロシアのアレクサンドル2世が発布した、農奴に人格的自由を与えた勅令は( )である。
Q9. 1871年にパリの民衆が樹立した、史上初の労働者を中心とする自治政府は( )である。
Q10. 1875年に制定され、フランスの共和政を確立した憲法は( )憲法である。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) サルデーニャ王国の首相カヴールは、フランスの( ア )と秘密協定を結んでオーストリアとの戦争に備えた。
(2) ガリバルディが率いた約1000人の義勇兵は( イ )と呼ばれる。
(3) ビスマルクが普仏戦争の開戦を誘うために利用した外交事件は( ウ )事件である。
(4) ロシアの農奴解放令で、農民が土地を得るために必要とされた代金を( エ )という。
ア:ナポレオン3世 イ:赤シャツ隊(千人隊) ウ:エムス電報 エ:買い戻し金(償還金)
(1)について:カヴールとナポレオン3世はプロンビエールの密約(1858年)を結びました。見返りにサヴォイアとニースをフランスに割譲しています。(2)について:赤いシャツを着用していたことが名前の由来です。千人隊(Mille)とも呼ばれます。(3)について:エムス電報事件ではビスマルクがヴィルヘルム1世とフランス大使の会談内容を編集・公開し、フランスの世論を刺激しました。
次の文のうち、正しいものを1つ選べ。
(3)
(1)について:クリミア戦争でオスマン帝国側に参戦したのはイギリス・フランス・サルデーニャ王国です。オーストリアは参戦していません(中立的立場で、ロシアとの関係が悪化した)。(2)について:ガリバルディは征服地をヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に「献上」しました。共和国として独立させたのではありません。(4)について:パリ=コミューンを鎮圧したのはティエール率いるヴェルサイユ政府軍です。ナポレオン3世はすでにセダンの戦い(1870年)で捕虜となり退位しています。
1850年代〜1870年代にかけてヨーロッパの国際秩序が再編された過程について、「クリミア戦争」「鉄血政策」「普仏戦争」「アルザス・ロレーヌ」の語句を使って150字以内で説明せよ。
クリミア戦争でロシアが敗北しウィーン体制が崩壊すると、プロイセンのビスマルクは鉄血政策で軍備を増強し、デンマーク・オーストリア・フランスとの3度の戦争に勝利した。特に普仏戦争ではナポレオン3世を破りドイツ帝国を建国し、フランスからアルザス・ロレーヌを割譲させた。こうしてドイツが新たな列強として台頭した。(148字)
この問題では、ウィーン体制の崩壊からドイツ帝国の成立までを、指定語句を使って因果関係をつないで記述する必要があります。クリミア戦争→鉄血政策→普仏戦争→アルザス・ロレーヌという時系列に沿って書くと整理しやすいでしょう。