第11章 近世ヨーロッパの動向

主権国家体制の成立
─ 宗教戦争から国際秩序へ

16世紀から17世紀のヨーロッパでは、中世まで王国をこえる権威をもっていた教皇と皇帝の力がしだいに弱くなり、各国がならびたち、競いあう国際関係が成立しました。それぞれの国家を統べる君主が国内において最高の権力(主権)をもつと主張する、新しい国際秩序が生まれます。
この記事では、スペインの繁栄とオランダの独立、フランスの宗教戦争、そして三十年戦争とウェストファリア条約に至るまでの流れを学びます。

1主権国家と絶対王政

主権国家とは何か

中世のヨーロッパでは、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が王国をこえる権威をもち、各地の国王や諸侯はその権威のもとに位置づけられていました。しかし教皇と皇帝の力がしだいに弱くなり、各国がならびたち、競いあう国際関係が成立すると、新しい国家のかたちが現れます。

それが主権国家です。それぞれの国家を統べる君主は、国内において最高の権力(主権)をもつと主張し、対外的にも独立して平和交渉や戦争を行いました。こうした国家を主権国家、またそれが織りなす国際秩序を主権国家体制と呼び、これは16世紀半ばから17世紀半ばにかけて成立しました。

この動きのきっかけとなったのがイタリア戦争です。フランス国王が領土拡大をめざしてイタリアに侵入し、これに神聖ローマ皇帝が対立したことで始まりました。イタリアは両国の勢力争いの場となって荒廃し、激動の渦中にあったマキァヴェリは『君主論』を著して、政治においては人間の徳性に期待するのではなく、権力と利益を基本原理とすべきとして、政治学を刷新しました。

絶対王政の特徴

この時代の主権国家の典型例が、絶対王政(絶対主義)です。近世ヨーロッパ各国の王権は、貴族をはじめとする諸身分の特権を抑制しつつ、地方の独立性を認めて中央の統制下におき、さらに議会の活動を制限するなどして中央集権化を進めました。常備軍や、国王の任命により中央から地方へ派遣される官僚が、統治の新たな柱となりました。

ポイント:絶対王政の特徴
  • 諸身分の特権の抑制 ─ 貴族をはじめとする諸身分の特権を抑制し、議会の活動も制限した
  • 常備軍 ─ 封建騎士に代わる国王直属の軍隊で、統治の新たな柱となった
  • 官僚 ─ 国王の任命により中央から地方へ派遣され、統治の柱となった
  • 首都の成立 ─ 国王が定住し行政機能を集中させた首都が各国に成立した
中世の封建制から絶対王政へ移行したのか
百年戦争やペスト流行で封建諸侯が没落
宗教改革でローマ教皇の権威が低下
国王が教会・諸侯に代わって主権を集中
官僚制・常備軍・王権神授説で絶対王政が成立
ここが問われる: 絶対王政の特徴と理論 内容・特徴

主権国家:国内で最高の権力(主権)をもち、対外的にも独立して行動する国家
絶対王政:諸身分の特権を抑制し、常備軍・官僚で中央集権化を進めた体制
主権国家体制:16世紀半ば〜17世紀半ばにかけて成立した国際秩序
④中世の教皇・皇帝の権威に代わり、各国がならびたつ新しい国際関係

2スペインの全盛期 ─ フェリペ2世と「太陽の沈まぬ国」

フェリペ2世の時代

スペインは、カール5世の長男フェリペ2世(在位1556〜1598年)の時代に最盛期を迎えました。フェリペはネーデルラント・南イタリアも継承し、加えて王朝が断絶したポルトガルの王位も兼ねて(1580年)、広大な植民地を含む「太陽の沈まぬ国」を手中にしました。

フェリペ2世はカトリックの盟主を自認して、イエズス会を支持しつつ、異端審問によってプロテスタントを弾圧しました。また対抗宗教改革の先頭に立って、ヨーロッパ各地の政治に干渉しました。

レパントの海戦

1571年、フェリペ2世はオスマン帝国の海軍をレパントの海戦で破り、西地中海へのイスラーム勢力の進出を阻止しました。

無敵艦隊の敗北

オランダ独立戦争を支援したイギリスとも対立しました。イギリス女王エリザベス1世は、ホーキンズドレーク私掠船の船長に特許状を与えて、スペインの銀の輸送船や商館を攻撃させていました。

1588年、オランダでの戦況の打開をはかったフェリペ2世は、イギリス侵攻をめざして無敵艦隊アルマダ)を派遣しましたが、イギリス海軍はこれを撃退しました(アルマダの海戦)。アメリカ大陸からもたらされた富はあいつぐ戦争や宮廷の建設費用などに費やされ、スペインの国力は17世紀になるとしだいにおとろえていきました。

スペインの覇権はなぜ衰えはじめたのか
新大陸の銀の大量流入による物価上昇(価格革命
国内産業が育たず、銀は戦費や輸入品の支払いに消える
オランダ独立戦争の長期化で軍事費が膨張
無敵艦隊(アルマダ)(1588年)がイギリスに撃退される
あいつぐ戦争や宮廷の建設費用に富が費やされ、国力がしだいにおとろえた
ここが問われる: フェリペ2世の業績と挫折 人物と業績

フェリペ2世(在位1556〜98年):カール5世の長男。スペイン最盛期
②「太陽の沈まぬ国」:ポルトガル王位も兼ね、広大な植民地を含む帝国
レパントの海戦(1571年):オスマン帝国の海軍を破り、西地中海への進出を阻止
無敵艦隊(アルマダ)(1588年):イギリスに撃退される → スペインの国力衰退へ

3オランダ独立戦争

ネーデルラントの反乱

ネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー一帯)は、古くから毛織物業や商業が栄えていた地域です。イタリア戦争の講和によってフランスとのあいだの人の移動が自由になり、スペイン領ネーデルラントにカルヴァン派が広まると、彼らはフェリペのカトリック化政策に反発しました。さらにフェリペが都市に重税を課し、従来の自治特権を奪ったため、貴族の反抗が加わって反乱へと展開しました。

1568年頃から、オラニエ公ウィレムを中心にスペインへの抵抗運動が始まり、オランダ独立戦争(八十年戦争)が幕を開けます。

ユトレヒト同盟と独立

1579年、北部7州は軍事同盟であるユトレヒト同盟を結んでスペイン軍と対しました。これがネーデルラント連邦共和国(オランダ)の始まりです。

一方、カトリック勢力の強い南部10州(のちのベルギー)はフェリペとの協調路線に転じました。

北部のオランダはオラニエ公ウィレムの指導のもと、スペインに敵対する諸国の援助を受けて抵抗を続け、1581年に独立を宣言しました。スペインはこの地の独立を承認しなかったため戦争は長期化しましたが、1609年の休戦で事実上の独立を果たしました。最終的には1648年ウェストファリア条約で正式に独立が国際的に承認されました。

発展:なぜ北部が独立し南部は残ったのか

北部7州ではカルヴァン派の商工業者が多く、スペインのカトリック強制に強い反発がありました。また海運業で経済的に自立できたことも独立を可能にしました。一方、南部10州はカトリック信徒が多数を占め、スペインとの宗教的な対立が少なかったために、スペインの支配下にとどまりました。この南北の違いが、現在のオランダ(プロテスタント中心)とベルギー(カトリック中心)の起源となっています。

ここが問われる: オランダ独立戦争の経過 出来事の流れ

①カルヴァン派の反発と貴族の反抗 → 1568年頃からオランダ独立戦争開始
1579年:北部7州がユトレヒト同盟を結成
③1581年:独立を宣言 → オラニエ公ウィレムを統領とするネーデルラント連邦共和国の成立
1609年:スペインとの休戦で事実上の独立。1648年のウェストファリア条約で正式承認

4フランスの宗教戦争 ─ ユグノー戦争

ユグノー戦争の勃発

16世紀後半のフランスでは、ユグノーと呼ばれたカルヴァン派の勢力拡大にともなって、国内各地でカトリックとの対立が深まりました。これに大貴族間の勢力争いがからんで、1562年からユグノー戦争と呼ばれる宗教内戦へと至りました。

サン=バルテルミの虐殺

この宗教戦争では、サン=バルテルミの虐殺のような惨事もおきました。1572年、パリにおいて、カトリック側がユグノー側のリーダーの暗殺を計画しましたが、民衆による無差別な虐殺がおこり、多数のユグノーが殺害されました。またスペインなど外国勢力の干渉も加わりました。

ナントの王令と内乱の終結

長期にわたったこの内戦のなか、ユグノーの指導者であったアンリ4世が即位してブルボン朝を開きました(在位1589〜1610年)。アンリ4世はみずからカトリックに改宗する一方、1598年ナントの王令を発してユグノーに信仰の自由を与えました。

こうして、国内では信仰よりも国家の統一が優先される方向に向かい、フランスの宗教内戦には一応の終止符が打たれました。ブルボン朝のもとで、フランスはやがてヨーロッパ最強の絶対王政国家へと発展していきます。

アンリ4世はなぜカトリックに改宗したのか
アンリ4世はもともとユグノー(カルヴァン派)の指導者
フランス国民の大多数はカトリック
ユグノーのままでは国王として国民の支持を得られない
カトリックに改宗して即位 → 国内の安定を優先
ナントの王令でユグノーに信仰の自由を与え、内乱をおさめた

フランスの宗教戦争

ユグノー戦争開始
サン=バルテルミの虐殺
内戦の継続
ナントの王令
内乱終結
1562年1572年1598年
ここが問われる: ユグノー戦争の展開と終結 出来事の流れ

ユグノー:フランスのカルヴァン派。勢力拡大にともなってカトリックと対立
1572年サン=バルテルミの虐殺 → 多数のユグノーが殺害される
アンリ4世:ユグノーの指導者からカトリックに改宗して即位(ブルボン朝を開く)
1598年ナントの王令 → ユグノーに信仰の自由を与え、内乱をおさめた

5三十年戦争とウェストファリア条約

三十年戦争の発端 ─ ベーメンの反乱

ドイツでは、アウクスブルクの和議以降も宗派対立が続いていました。1618年、ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)のプロテスタント貴族が、ハプスブルク家のカトリック化政策に反旗をひるがえし、これを機に三十年戦争(1618〜1648年)がはじまりました。

戦争の拡大 ─ 宗教戦争から国際戦争へ

この戦争では、ルター派のデンマーク王や、プロテスタント支援を名目にバルト海地域での覇権をめざしたスウェーデン(国王グスタフ=アドルフ)があいついでドイツに侵入し、さらにハプスブルク家の勢力を削ごうとしたカトリックのフランスも、反皇帝側で参戦しました。

カトリック国のフランスがプロテスタント側を支援したことは、この戦争が当初の宗教対立から国家間の争いへと拡大していたことを示しています。フランスの宰相リシュリューは、ハプスブルク家に対抗するために三十年戦争に介入したのです。

また、傭兵が主体の軍隊が略奪や暴行をくりかえし、戦場となったドイツは甚大な被害をこうむりました。

ウェストファリア条約(1648年)

戦いに疲れた諸国は、1648年ウェストファリア条約を結んでようやく戦争を終結させました。

ポイント:ウェストファリア条約の主な内容
  • カルヴァン派の公認 ─ 神聖ローマ帝国でルター派のほかにカルヴァン派も公認された
  • 諸侯の領邦国家に独自の外交権 ─ 各諸侯の領邦国家には独自の外交権が認められた
  • オランダ・スイスの独立の正式承認
  • フランス・スウェーデンの領土拡大 ─ フランスはアルザス(ストラスブール周辺)・ロレーヌの一部・メス・トゥール・ヴェルダンを正式に獲得してライン川方面への進出を確立した。スウェーデンはポンメルン西部・ヴィスマール・ブレーメン大司教区・フェルデン司教区を得て、バルト海沿岸の覇権を固めた
ウェストファリア条約の歴史的意義
  • 主権国家体制の確立:多数の国が調印する国際条約というかたちで保障され、主権国家体制が法的な裏づけを得て最終的に確立された
  • 国家主権の不可侵性:国際関係において国家主権の不可侵性が確認された
  • 神聖ローマ帝国の形骸化:ドイツ諸侯の独立性が強まり、帝国は有名無実化した
  • 近代国際法の出発点:条約にもとづく国家間の合意で国際秩序をつくるという考え方が定着した
発展:「ウェストファリア体制」とは何か

ウェストファリア条約によって確立された国際秩序は、「ウェストファリア体制」と呼ばれます。その核心は、国家主権の不可侵性が確認され、各国家が形式上は対等な立場で国際社会を形成するという原則です。多数の国が調印する国際条約というかたちで主権国家体制が保障されたことは、近代国際社会の基本原則の出発点となりました。

三十年戦争の展開

ベーメン段階
デンマーク介入
スウェーデン介入
フランス介入
1618年1625年1630年1635年1648年
ここが問われる: 三十年戦争の展開とウェストファリア条約の内容 結果・影響

①発端:1618年のベーメン(ボヘミア)の反乱 → 宗教戦争から国際戦争に拡大
②カトリック国フランス(宰相リシュリュー)がハプスブルク家に対抗するため反皇帝側で参戦 → 宗教対立から国家間の争い
ウェストファリア条約(1648年):カルヴァン派の公認、諸侯に独自の外交権、オランダ・スイスの独立承認
④歴史的意義:主権国家体制が法的な裏づけを得て確立、神聖ローマ帝国の有名無実化

616〜17世紀ヨーロッパの宗教戦争 ─ 比較と整理

ここが問われる: 16〜17世紀の主な宗教戦争の比較 比較
戦争・事件時期対立構図結果
オランダ独立戦争1568〜1648年カルヴァン派(北部)vs カトリック(スペイン)ネーデルラント連邦共和国の独立
ユグノー戦争1562〜1598年ユグノー(カルヴァン派)vs カトリックナントの王令でユグノーに信仰の自由を与える
三十年戦争1618〜1648年プロテスタント諸侯 vs カトリック(ハプスブルク家)ウェストファリア条約で主権国家体制が確立
ここが問われる: 各国の絶対王政の特徴の比較 比較
代表的君主特徴
スペインフェリペ2世カトリックの盟主。新大陸の銀で繁栄するが、アルマダ敗北後に衰退
フランスアンリ4世(ブルボン朝)みずからカトリックに改宗。ナントの王令で内乱をおさめた
イギリスエリザベス1世イギリス国教会を確立。オランダ独立を支援し、スペインの無敵艦隊を撃退

7他の章とのつながり

  • 11-2 宗教改革 ─ ルターやカルヴァンの宗教改革が、本記事で扱う宗教戦争と主権国家体制の直接的な原因です。アウクスブルクの和議の限界がなぜ三十年戦争に至ったのかを前の記事で確認できます。
  • 11-4 オランダ・イギリス・フランスの台頭 ─ ウェストファリア体制のもとで、オランダの黄金時代、イギリスの市民革命、フランスのルイ14世による絶対王政の完成がどう展開するかを次の記事で学びます。
  • 9章 大航海時代 ─ スペインの「太陽の沈まぬ国」としての繁栄は、大航海時代の新大陸征服と銀の流入によって支えられていました。価格革命の影響も9章の文脈で理解できます。
  • 7章 中世ヨーロッパ ─ 封建制と教皇権の構造を中世ヨーロッパの記事で復習すると、なぜそれが主権国家体制に変化したのかがよりよく理解できます。
歴史総合とのつながり

ウェストファリア条約で確立された主権国家体制は、現在の国際社会の基本的な枠組みです。歴史総合で学ぶ「国際秩序の変化」や「国民国家の形成」を理解するうえで、その出発点であるウェストファリア体制の意義を押さえておくことが重要です。

8まとめ

  • 16〜17世紀のヨーロッパでは、教皇や皇帝の権威が弱まり、各国がならびたって競いあう主権国家体制が成立した。その典型例が絶対王政で、諸身分の特権を抑制し、常備軍・官僚が統治の柱となった。
  • スペインのフェリペ2世はカトリックの盟主を自任し「太陽の沈まぬ国」を築いたが、無敵艦隊(1588年)がイギリスに撃退され、国力はしだいにおとろえた。
  • ネーデルラントではカルヴァン派を中心にオランダ独立戦争が起こり、ユトレヒト同盟(1579年)を経てネーデルラント連邦共和国が成立した。
  • フランスではユグノー戦争が起こり、サン=バルテルミの虐殺(1572年)などの惨事を経て、アンリ4世がみずからカトリックに改宗しナントの王令(1598年)で内乱をおさめた。
  • 三十年戦争(1618〜48年)は宗教戦争から国際戦争に変質し、ウェストファリア条約で終結した。
  • ウェストファリア条約はカルヴァン派の公認、諸侯の領邦国家への独自の外交権の付与、オランダ・スイスの独立承認を定め、主権国家体制が法的な裏づけを得て確立された。
この記事を100字で要約すると

16〜17世紀、教皇・皇帝の権威が弱まるなか、各国がならびたち競いあう主権国家体制が成立した。スペインの覇権、オランダの独立、ユグノー戦争を経て、三十年戦争後のウェストファリア条約で主権国家体制が法的に確立された。

9穴埋め・一問一答

Q1. 16〜17世紀のヨーロッパで、国王が官僚制と常備軍を用いて中央集権的に統治する体制を何というか。

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絶対王政(絶対主義)。諸身分の特権を抑制し、常備軍と官僚を統治の柱として中央集権化を進めた体制です。

Q2. スペインのフェリペ2世が1588年にイギリスに派遣して撃退された艦隊を何というか。

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無敵艦隊(アルマダ)。イギリス海軍に撃退され、スペインの国力はしだいにおとろえていきました。

Q3. 1579年にネーデルラント北部7州がスペインに対抗するために結成した同盟を何というか。

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ユトレヒト同盟。1581年にスペイン国王の主権を否認し、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)が事実上成立しました。

Q4. 1598年にフランスのアンリ4世がユグノーに信仰の自由を与えた王令を何というか。

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ナントの王令。カトリックを事実上の国教として確認する一方、ユグノーに信仰の自由を与え、ユグノー戦争を終結させました。

Q5. 三十年戦争を終結させ、主権国家体制の出発点となった1648年の条約を何というか。

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ウェストファリア条約。カルヴァン派の公認、諸侯の領邦国家に独自の外交権、オランダ・スイスの独立承認などを定め、主権国家体制が法的に確立されました。

10アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。

A 基礎レベル

11-3-1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。

スペインの( ア )はカトリックの盟主として「太陽の沈まぬ国」を築き、1571年の( イ )でオスマン帝国の海軍を破った。しかし1588年にイギリスに艦隊( ウ )を派遣するも大敗した。一方、ネーデルラント北部では1579年に( エ )が結成され、スペインからの独立運動が本格化した。フランスでは約30年にわたる( オ )戦争が起こった。

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解答

ア:フェリペ2世 イ:レパントの海戦 ウ:アルマダ(無敵艦隊) エ:ユトレヒト同盟 オ:ユグノー

解説

16世紀後半のヨーロッパの基本事項を問う問題です。フェリペ2世はスペイン絶対王政の全盛期の君主で、レパントの海戦(1571年)とアルマダの海戦(1588年)はセットで覚えておく必要があります。ユトレヒト同盟はオランダ独立の出発点、ユグノー戦争はフランスの宗教内戦として頻出です。

B 標準レベル

11-3-2 B 標準 正誤

次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。

  • (1) 三十年戦争はフランスのベーメン地方で始まった宗教紛争である。
  • (2) カトリック国フランスは、ハプスブルク家の勢力を抑えるためにプロテスタント側を支援した。
  • (3) ウェストファリア条約によって、アウクスブルクの和議で認められていたカルヴァン派の信仰がさらに拡大された。
  • (4) アンリ4世はカトリック信徒としてブルボン朝を開いた。
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解答

(1) ×「フランスのベーメン地方」→「神聖ローマ帝国のベーメン(ボヘミア)」 (2) ○ (3) ×「拡大された」→「新たに公認された」(アウクスブルクの和議ではカルヴァン派は認められていなかった) (4) ×「カトリック信徒として」→「ユグノーからカトリックに改宗して」

解説

(1)について:ベーメン(ボヘミア)はフランスではなく神聖ローマ帝国内の王国(現在のチェコ)です。(3)について:アウクスブルクの和議(1555年)で認められたのはルター派のみで、カルヴァン派は含まれていませんでした。ウェストファリア条約で新たにカルヴァン派が公認されたことが重要なポイントです。(4)について:アンリ4世はもともとユグノーの指導者でしたが、みずからカトリックに改宗してブルボン朝を開きました。

C 発展レベル

11-3-3 C 発展 論述

ウェストファリア条約が「主権国家体制の出発点」とされる理由を、「ドイツ諸侯」「教皇」「主権」「カルヴァン派」の語句を用いて120字以内で説明せよ。

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解答例

ウェストファリア条約はカルヴァン派を新たに公認し、ドイツ諸侯の領邦国家に独自の外交権を認めた。国家主権の不可侵性が確認され、神聖ローマ帝国は有名無実化した。多数の国が調印する国際条約で主権国家体制が法的に確立された。(107字)

解説

この問題では、ウェストファリア条約の具体的な内容と、それがもつ歴史的意義の両方に触れる必要があります。具体的内容としてカルヴァン派の公認と諸侯への主権の付与を挙げ、歴史的意義として教皇・皇帝の権威の終焉と主権国家体制の確立に言及できれば高得点です。

採点ポイント
  • カルヴァン派の新たな公認に言及している
  • ドイツ諸侯の領邦国家への独自の外交権の承認に触れている
  • 国家主権の不可侵性の確認・神聖ローマ帝国の有名無実化を述べている
  • 主権国家体制が法的に確立されたという歴史的意義に結びつけている