16世紀から17世紀のヨーロッパでは、中世まで王国をこえる権威をもっていた教皇と皇帝の力がしだいに弱くなり、各国がならびたち、競いあう国際関係が成立しました。それぞれの国家を統べる君主が国内において最高の権力(主権)をもつと主張する、新しい国際秩序が生まれます。
この記事では、スペインの繁栄とオランダの独立、フランスの宗教戦争、そして三十年戦争とウェストファリア条約に至るまでの流れを学びます。
中世のヨーロッパでは、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が王国をこえる権威をもち、各地の国王や諸侯はその権威のもとに位置づけられていました。しかし教皇と皇帝の力がしだいに弱くなり、各国がならびたち、競いあう国際関係が成立すると、新しい国家のかたちが現れます。
それが主権国家です。それぞれの国家を統べる君主は、国内において最高の権力(主権)をもつと主張し、対外的にも独立して平和交渉や戦争を行いました。こうした国家を主権国家、またそれが織りなす国際秩序を主権国家体制と呼び、これは16世紀半ばから17世紀半ばにかけて成立しました。
この動きのきっかけとなったのがイタリア戦争です。フランス国王が領土拡大をめざしてイタリアに侵入し、これに神聖ローマ皇帝が対立したことで始まりました。イタリアは両国の勢力争いの場となって荒廃し、激動の渦中にあったマキァヴェリは『君主論』を著して、政治においては人間の徳性に期待するのではなく、権力と利益を基本原理とすべきとして、政治学を刷新しました。
この時代の主権国家の典型例が、絶対王政(絶対主義)です。近世ヨーロッパ各国の王権は、貴族をはじめとする諸身分の特権を抑制しつつ、地方の独立性を認めて中央の統制下におき、さらに議会の活動を制限するなどして中央集権化を進めました。常備軍や、国王の任命により中央から地方へ派遣される官僚が、統治の新たな柱となりました。
①主権国家:国内で最高の権力(主権)をもち、対外的にも独立して行動する国家
②絶対王政:諸身分の特権を抑制し、常備軍・官僚で中央集権化を進めた体制
③主権国家体制:16世紀半ば〜17世紀半ばにかけて成立した国際秩序
④中世の教皇・皇帝の権威に代わり、各国がならびたつ新しい国際関係
スペインは、カール5世の長男フェリペ2世(在位1556〜1598年)の時代に最盛期を迎えました。フェリペはネーデルラント・南イタリアも継承し、加えて王朝が断絶したポルトガルの王位も兼ねて(1580年)、広大な植民地を含む「太陽の沈まぬ国」を手中にしました。
フェリペ2世はカトリックの盟主を自認して、イエズス会を支持しつつ、異端審問によってプロテスタントを弾圧しました。また対抗宗教改革の先頭に立って、ヨーロッパ各地の政治に干渉しました。
1571年、フェリペ2世はオスマン帝国の海軍をレパントの海戦で破り、西地中海へのイスラーム勢力の進出を阻止しました。
オランダ独立戦争を支援したイギリスとも対立しました。イギリス女王エリザベス1世は、ホーキンズやドレークら私掠船の船長に特許状を与えて、スペインの銀の輸送船や商館を攻撃させていました。
1588年、オランダでの戦況の打開をはかったフェリペ2世は、イギリス侵攻をめざして無敵艦隊(アルマダ)を派遣しましたが、イギリス海軍はこれを撃退しました(アルマダの海戦)。アメリカ大陸からもたらされた富はあいつぐ戦争や宮廷の建設費用などに費やされ、スペインの国力は17世紀になるとしだいにおとろえていきました。
①フェリペ2世(在位1556〜98年):カール5世の長男。スペイン最盛期
②「太陽の沈まぬ国」:ポルトガル王位も兼ね、広大な植民地を含む帝国
③レパントの海戦(1571年):オスマン帝国の海軍を破り、西地中海への進出を阻止
④無敵艦隊(アルマダ)(1588年):イギリスに撃退される → スペインの国力衰退へ
ネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー一帯)は、古くから毛織物業や商業が栄えていた地域です。イタリア戦争の講和によってフランスとのあいだの人の移動が自由になり、スペイン領ネーデルラントにカルヴァン派が広まると、彼らはフェリペのカトリック化政策に反発しました。さらにフェリペが都市に重税を課し、従来の自治特権を奪ったため、貴族の反抗が加わって反乱へと展開しました。
1568年頃から、オラニエ公ウィレムを中心にスペインへの抵抗運動が始まり、オランダ独立戦争(八十年戦争)が幕を開けます。
1579年、北部7州は軍事同盟であるユトレヒト同盟を結んでスペイン軍と対しました。これがネーデルラント連邦共和国(オランダ)の始まりです。
一方、カトリック勢力の強い南部10州(のちのベルギー)はフェリペとの協調路線に転じました。
北部のオランダはオラニエ公ウィレムの指導のもと、スペインに敵対する諸国の援助を受けて抵抗を続け、1581年に独立を宣言しました。スペインはこの地の独立を承認しなかったため戦争は長期化しましたが、1609年の休戦で事実上の独立を果たしました。最終的には1648年のウェストファリア条約で正式に独立が国際的に承認されました。
北部7州ではカルヴァン派の商工業者が多く、スペインのカトリック強制に強い反発がありました。また海運業で経済的に自立できたことも独立を可能にしました。一方、南部10州はカトリック信徒が多数を占め、スペインとの宗教的な対立が少なかったために、スペインの支配下にとどまりました。この南北の違いが、現在のオランダ(プロテスタント中心)とベルギー(カトリック中心)の起源となっています。
①カルヴァン派の反発と貴族の反抗 → 1568年頃からオランダ独立戦争開始
②1579年:北部7州がユトレヒト同盟を結成
③1581年:独立を宣言 → オラニエ公ウィレムを統領とするネーデルラント連邦共和国の成立
④1609年:スペインとの休戦で事実上の独立。1648年のウェストファリア条約で正式承認
16世紀後半のフランスでは、ユグノーと呼ばれたカルヴァン派の勢力拡大にともなって、国内各地でカトリックとの対立が深まりました。これに大貴族間の勢力争いがからんで、1562年からユグノー戦争と呼ばれる宗教内戦へと至りました。
この宗教戦争では、サン=バルテルミの虐殺のような惨事もおきました。1572年、パリにおいて、カトリック側がユグノー側のリーダーの暗殺を計画しましたが、民衆による無差別な虐殺がおこり、多数のユグノーが殺害されました。またスペインなど外国勢力の干渉も加わりました。
長期にわたったこの内戦のなか、ユグノーの指導者であったアンリ4世が即位してブルボン朝を開きました(在位1589〜1610年)。アンリ4世はみずからカトリックに改宗する一方、1598年にナントの王令を発してユグノーに信仰の自由を与えました。
こうして、国内では信仰よりも国家の統一が優先される方向に向かい、フランスの宗教内戦には一応の終止符が打たれました。ブルボン朝のもとで、フランスはやがてヨーロッパ最強の絶対王政国家へと発展していきます。
①ユグノー:フランスのカルヴァン派。勢力拡大にともなってカトリックと対立
②1572年:サン=バルテルミの虐殺 → 多数のユグノーが殺害される
③アンリ4世:ユグノーの指導者からカトリックに改宗して即位(ブルボン朝を開く)
④1598年:ナントの王令 → ユグノーに信仰の自由を与え、内乱をおさめた
ドイツでは、アウクスブルクの和議以降も宗派対立が続いていました。1618年、ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)のプロテスタント貴族が、ハプスブルク家のカトリック化政策に反旗をひるがえし、これを機に三十年戦争(1618〜1648年)がはじまりました。
この戦争では、ルター派のデンマーク王や、プロテスタント支援を名目にバルト海地域での覇権をめざしたスウェーデン(国王グスタフ=アドルフ)があいついでドイツに侵入し、さらにハプスブルク家の勢力を削ごうとしたカトリックのフランスも、反皇帝側で参戦しました。
カトリック国のフランスがプロテスタント側を支援したことは、この戦争が当初の宗教対立から国家間の争いへと拡大していたことを示しています。フランスの宰相リシュリューは、ハプスブルク家に対抗するために三十年戦争に介入したのです。
また、傭兵が主体の軍隊が略奪や暴行をくりかえし、戦場となったドイツは甚大な被害をこうむりました。
戦いに疲れた諸国は、1648年にウェストファリア条約を結んでようやく戦争を終結させました。
ウェストファリア条約によって確立された国際秩序は、「ウェストファリア体制」と呼ばれます。その核心は、国家主権の不可侵性が確認され、各国家が形式上は対等な立場で国際社会を形成するという原則です。多数の国が調印する国際条約というかたちで主権国家体制が保障されたことは、近代国際社会の基本原則の出発点となりました。
①発端:1618年のベーメン(ボヘミア)の反乱 → 宗教戦争から国際戦争に拡大
②カトリック国フランス(宰相リシュリュー)がハプスブルク家に対抗するため反皇帝側で参戦 → 宗教対立から国家間の争いへ
③ウェストファリア条約(1648年):カルヴァン派の公認、諸侯に独自の外交権、オランダ・スイスの独立承認
④歴史的意義:主権国家体制が法的な裏づけを得て確立、神聖ローマ帝国の有名無実化
| 戦争・事件 | 時期 | 対立構図 | 結果 |
|---|---|---|---|
| オランダ独立戦争 | 1568〜1648年 | カルヴァン派(北部)vs カトリック(スペイン) | ネーデルラント連邦共和国の独立 |
| ユグノー戦争 | 1562〜1598年 | ユグノー(カルヴァン派)vs カトリック | ナントの王令でユグノーに信仰の自由を与える |
| 三十年戦争 | 1618〜1648年 | プロテスタント諸侯 vs カトリック(ハプスブルク家) | ウェストファリア条約で主権国家体制が確立 |
| 国 | 代表的君主 | 特徴 |
|---|---|---|
| スペイン | フェリペ2世 | カトリックの盟主。新大陸の銀で繁栄するが、アルマダ敗北後に衰退 |
| フランス | アンリ4世(ブルボン朝) | みずからカトリックに改宗。ナントの王令で内乱をおさめた |
| イギリス | エリザベス1世 | イギリス国教会を確立。オランダ独立を支援し、スペインの無敵艦隊を撃退 |
ウェストファリア条約で確立された主権国家体制は、現在の国際社会の基本的な枠組みです。歴史総合で学ぶ「国際秩序の変化」や「国民国家の形成」を理解するうえで、その出発点であるウェストファリア体制の意義を押さえておくことが重要です。
16〜17世紀、教皇・皇帝の権威が弱まるなか、各国がならびたち競いあう主権国家体制が成立した。スペインの覇権、オランダの独立、ユグノー戦争を経て、三十年戦争後のウェストファリア条約で主権国家体制が法的に確立された。
Q1. 16〜17世紀のヨーロッパで、国王が官僚制と常備軍を用いて中央集権的に統治する体制を何というか。
Q2. スペインのフェリペ2世が1588年にイギリスに派遣して撃退された艦隊を何というか。
Q3. 1579年にネーデルラント北部7州がスペインに対抗するために結成した同盟を何というか。
Q4. 1598年にフランスのアンリ4世がユグノーに信仰の自由を与えた王令を何というか。
Q5. 三十年戦争を終結させ、主権国家体制の出発点となった1648年の条約を何というか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
スペインの( ア )はカトリックの盟主として「太陽の沈まぬ国」を築き、1571年の( イ )でオスマン帝国の海軍を破った。しかし1588年にイギリスに艦隊( ウ )を派遣するも大敗した。一方、ネーデルラント北部では1579年に( エ )が結成され、スペインからの独立運動が本格化した。フランスでは約30年にわたる( オ )戦争が起こった。
ア:フェリペ2世 イ:レパントの海戦 ウ:アルマダ(無敵艦隊) エ:ユトレヒト同盟 オ:ユグノー
16世紀後半のヨーロッパの基本事項を問う問題です。フェリペ2世はスペイン絶対王政の全盛期の君主で、レパントの海戦(1571年)とアルマダの海戦(1588年)はセットで覚えておく必要があります。ユトレヒト同盟はオランダ独立の出発点、ユグノー戦争はフランスの宗教内戦として頻出です。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ×「フランスのベーメン地方」→「神聖ローマ帝国のベーメン(ボヘミア)」 (2) ○ (3) ×「拡大された」→「新たに公認された」(アウクスブルクの和議ではカルヴァン派は認められていなかった) (4) ×「カトリック信徒として」→「ユグノーからカトリックに改宗して」
(1)について:ベーメン(ボヘミア)はフランスではなく神聖ローマ帝国内の王国(現在のチェコ)です。(3)について:アウクスブルクの和議(1555年)で認められたのはルター派のみで、カルヴァン派は含まれていませんでした。ウェストファリア条約で新たにカルヴァン派が公認されたことが重要なポイントです。(4)について:アンリ4世はもともとユグノーの指導者でしたが、みずからカトリックに改宗してブルボン朝を開きました。
ウェストファリア条約が「主権国家体制の出発点」とされる理由を、「ドイツ諸侯」「教皇」「主権」「カルヴァン派」の語句を用いて120字以内で説明せよ。
ウェストファリア条約はカルヴァン派を新たに公認し、ドイツ諸侯の領邦国家に独自の外交権を認めた。国家主権の不可侵性が確認され、神聖ローマ帝国は有名無実化した。多数の国が調印する国際条約で主権国家体制が法的に確立された。(107字)
この問題では、ウェストファリア条約の具体的な内容と、それがもつ歴史的意義の両方に触れる必要があります。具体的内容としてカルヴァン派の公認と諸侯への主権の付与を挙げ、歴史的意義として教皇・皇帝の権威の終焉と主権国家体制の確立に言及できれば高得点です。