16世紀、聖職者の奢侈や怠惰への批判と贖宥状の販売をきっかけに、西ヨーロッパのキリスト教世界は大きく揺れました。
ルターやカルヴァンによるプロテスタント諸派の誕生、イギリス国教会の成立、そしてカトリック側の改革運動は、ヨーロッパの政治・社会を根本から変えていきます。
この記事では、宗教改革の背景から各地の展開、対抗宗教改革までを学びます。
中世ヨーロッパでは、ローマ教皇は西ヨーロッパのキリスト教世界において絶大な権威を持っていました。しかし14世紀以降、アヴィニョン捕囚(1309〜77年)や教会大分裂(大シスマ、1378〜1417年)を経て、教皇権は大きく衰退していました。聖職者の奢侈や怠惰がめだつ一方で、疫病や戦争による社会不安から一般信徒の信仰心は高まり、教会の改革を求める声が続いていました。
16世紀初めにメディチ家出身の教皇レオ10世は、サン=ピエトロ大聖堂をルネサンス様式に改築する資金を得るために、贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符)を売り出しました。教会によれば、人は生まれながらに罪を負った存在だが、教会に属して儀式を受け、善行を積むことで神に救われて魂が救われるのであり、贖宥状の購入も善行の1つとされました。ローマ教皇は14〜15世紀に生じた改革の動きを異端として処断し、カトリック圏の一体性を保ちましたが、16世紀の運動は異端にとどめることができず、宗教改革が始まりました。
とくにドイツは「ローマの牝牛」と呼ばれるほど、ローマ教皇庁による収奪の対象となっていました。ドイツは神聖ローマ帝国の名目のもと、多数の諸侯・都市・騎士が分立しており、フランスやイングランドのような統一した国王権力が存在しませんでした。そのため、教皇庁は国王の干渉を受けにくいドイツを贖宥状の主要な販売市場とし、莫大な資金を吸い上げていました。この不満は聖職者だけでなく、諸侯・騎士・農民・商人など幅広い層に蓄積しており、ルターの批判がドイツで爆発的な支持を受けた背景のひとつです。
①教皇権の衰退:アヴィニョン捕囚(1309〜77年)・教会大分裂(1378〜1417年)
②聖職者の奢侈や怠惰がめだつ一方、一般信徒の信仰心が高まる
③メディチ家出身の教皇レオ10世がサン=ピエトロ大聖堂改築のため贖宥状(免罪符)を売り出す
④ルネサンス期の人文主義者による聖書原典の研究も改革の土壌を準備
贖宥状に対してドイツの修道士でヴィッテンベルク大学教授でもあったルターは、1517年に九十五カ条の論題で異議をとなえ、大きな反響を呼びました。つづいてルターは、人は信仰を通して神に救われるのであり(信仰義認)、真の信仰は教皇による導きではなく、信徒がみずから聖書を読むことで得られると主張しました。
また、修道院を否定したうえ、特別な人間とされてきた聖職者と一般信徒との区別を廃して(万人司祭主義)、聖職者は信徒によって選ばれるものとし、結婚も許されるとしました。ルターの主張はカトリック教会を根本的に否定するものだったため、彼は教皇によって破門されました。当時普及し始めていた活版印刷術によって、ルターの主張はドイツ全土に急速に広まりました。
当時のドイツでは聖職者への不満とローマ教皇への反感が高まっていたため、広範な社会層がルターを支持しました。カトリック教会の守護者を自認していた神聖ローマ皇帝カール5世は、東方からせまるオスマン帝国との戦いに力を注がねばならず、帝国内の反皇帝勢力に強い姿勢でのぞむことができませんでした。1521年、カール5世はヴォルムス帝国議会にルターを召喚し、主張の撤回を求めましたが、ルターはこれを拒否し、帝国追放処分を受けました。しかしルターはザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、『新約聖書』のドイツ語訳を完成させました。これにより彼の説は急速に広まりました。
ドイツの農民は、ルター派の説教師ミュンツァーを指導者に大規模な一揆をおこし、聖書に根拠が示されていないとして農奴制の廃止を掲げるまでに急進化しました(ドイツ農民戦争、1524〜25年)。しかしルターは、農民が現世の利益のみを求めているとして一揆に反対し、また諸侯は領主としての立場から一揆を鎮圧しました。この結果、ドイツの宗教改革は領邦君主である諸侯と結びついて展開していくことになりました。
その一方、ルター派の諸侯は、修道院の解散などの反カトリック政策を領邦内でとりつつ、シュマルカルデン同盟を結成して皇帝に対抗しました(これらの人々はプロテスタントと総称されるようになりました)。同盟と皇帝のあいだで宗教内戦がおこりましたが、1555年のアウクスブルクの和議で終結しました。和議では、諸侯は自身の領邦の宗教をカトリックかルター派のどちらかに定める権利を得て、さらにルター派となる場合は、領邦内の教会の首長となり、教皇から自立して教会を監督することになりました(領邦教会制)。ただし、領邦の臣民は君主の信仰に従うこととされ、個人の信仰の自由が認められたわけではありませんでした。また、カルヴァン派はこの和議では認められませんでした。宗教改革はこうして追認され、カトリック圏の一体性は崩れました。
グーテンベルクが実用化した活版印刷術がなければ、ルターの主張がドイツ全土に広まるまでにはるかに長い時間がかかったでしょう。印刷術により、ルターのパンフレットや聖書のドイツ語訳が大量に複製・配布され、識字率の向上とあいまって、宗教改革は短期間で大きな運動へと発展しました。宗教改革が「印刷革命」の最初の大きな成果だったと理解すると、メディアと社会変革の関係が見えてきます。
①九十五カ条の論題(1517年):贖宥状批判。信仰義認・万人司祭主義を主張。教皇から破門
②ヴォルムス帝国議会(1521年):カール5世がルターに撤回を求めるが拒否。帝国追放処分を受けるも、選帝侯フリードリヒに保護され『新約聖書』ドイツ語訳を完成
③ドイツ農民戦争(1524〜25年):ミュンツァーを指導者に農奴制廃止を要求。ルターは反対し、諸侯が鎮圧
④ルター派諸侯がシュマルカルデン同盟を結成して皇帝と争う
⑤アウクスブルクの和議(1555年):諸侯に領邦の宗教をルター派かカトリックかに定める権利を認める(領邦教会制)
16世紀にはドイツ以外でも宗教改革が試みられました。スイスではルターの影響を受けたツヴィングリがチューリヒで聖書にもとづいた信仰を説き、彼の教えはほかの都市にも広まりました。ツヴィングリはカトリック諸州軍との戦いで戦死しましたが、その後フランス出身の神学者カルヴァンがジュネーヴを拠点として改革をつづけました。
カルヴァンは聖書を重視して聖人への崇拝を廃し、さらに神に救われるかどうかは無力な人間の善行や信仰によるのではなく、あらかじめ神によって定められているとする予定説をとなえました。人は神の救いを信じて神の掟を守り、勤勉と禁欲に努めるべきであるとされ、職業上の成功を肯定したため、とくに商工業者に受け入れられました。
カルヴァンは信仰のあつい信徒を長老に選出して牧師と共同で教会を運営する教会制度を立てました。ジュネーヴでは市政と市民に戒律を厳格に守ることを求め、一種の神権政治をしきました。西ヨーロッパ各地の宗教改革運動は、カルヴァン派の判断を仰ぐことも多く、ジュネーヴはプロテスタントの中心地となりました。
こうしたカルヴァンの教会制度と教義は、商工業者や知識人の心をとらえ、フランスやネーデルラント、イギリスなどに伝わりました。フランスではユグノー、イギリスではピューリタン(清教徒)、ネーデルラントではゴイセン、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)と呼ばれました。またルター派は、ドイツ以外ではおもに北欧に広まりました。
| 国・地域 | カルヴァン派の呼称 |
|---|---|
| フランス | ユグノー |
| イギリス | ピューリタン(清教徒) |
| ネーデルラント | ゴイセン |
| スコットランド | プレスビテリアン(長老派) |
イギリスでは、国王ヘンリ8世が宗教改革を主導しました。王位継承問題で教皇と対立すると、1534年、議会の協賛を得て首長法(国王至上法)を定め、カトリック圏を離脱しました。これにより国王を首長とするイギリス国教会(アングリカン・チャーチ)が成立しました。ヘンリ8世はさらに国内の修道院を解散させ、その広大な土地を没収して国民に払い下げました。地主階級のジェントリはこの土地を手に入れて勢力をのばしました。ただし、信仰面ではカトリックを維持しました。
その後、メアリ1世がスペインのフェリペ2世と結婚して短期間カトリックを復活させましたが、つぎのエリザベス1世が統一法(1559年)を制定してイギリス国教会を確立し、イギリスはプロテスタント国家となりました。ただし、イギリスの宗教改革では制度や儀式にカトリック的な要素を残したため、のちにピューリタンと呼ばれるグループが改革の徹底化を求めることとなりました。
大陸の宗教改革が教義上の批判から始まったのに対し、イギリスではヘンリ8世の王位継承問題という政治的な動機が改革の出発点でした。ヘンリ8世自身は信仰面ではカトリックを維持しており、イギリス国教会はプロテスタントの教義を採用しながらも、主教制などの教会組織やカトリック的な宗教儀式の要素を残しています。この「中間路線」がイギリス国教会の特徴であり、大陸のルター派やカルヴァン派とは異なる独自の宗派として発展しました。
①ヘンリ8世が王位継承問題を契機にローマ教皇と対立
②首長法(1534年):議会の協賛を得て国王をイギリス教会の首長とし、イギリス国教会が成立。修道院を解散し土地を没収 → ジェントリが土地を入手し勢力拡大
③信仰面ではカトリックを維持
④メアリ1世が短期間カトリックを復活
⑤エリザベス1世が統一法(1559年)で国教会を確立。制度・儀式にカトリック的要素を残したため、のちピューリタンが徹底化を要求
同じ頃、カトリック教会側でも独自の改革(カトリック改革)が始まっており、宗教改革への対応がその動きを強めました。この動きを対抗宗教改革ともいいます。
カトリック改革のうち、もっとも影響力をもったのが、イグナティウス=ロヨラらが1534年に設立したイエズス会です。イエズス会は、ほかの修道会とは異なり慈善活動よりも布教と教育に主眼をおき、厳格な規律と強い使命感のもとに各地で積極的に活動しました。その結果、南欧へのプロテスタントの浸透は阻止され、また南ドイツや東欧ではカトリックの復活もみられました。さらにイエズス会は、ヨーロッパの海外進出と連携して、中南米をはじめインドや中国、日本などアジア諸地域でも布教をおこないました。フランシスコ=ザビエルは1549年に日本を訪れ、キリスト教を伝えたことでも知られています。
1545年からはトリエント公会議(〜1563年)が開かれ、教皇の至上権やラテン語聖書の正統性のほか、善行や儀式の意義、聖人への崇拝などのカトリックの教義が再確認されました。他方で教会規律については、贖宥状の販売は禁じられ、また聖職者の腐敗や怠惰への対策がたてられました。ただし、教会は禁書目録を定め、宗教裁判を強化するなど、知の弾圧者となった側面もありました。
上長が黒を白と言えば、それを白と信じなければならない。
①イエズス会:ロヨラらが1534年に設立。布教と教育に主眼をおき、南欧のプロテスタント浸透を阻止
②トリエント公会議(1545〜63年):教皇の至上権とカトリックの教義を再確認。贖宥状の販売を禁止。禁書目録・宗教裁判も強化
③イエズス会は海外進出と連携し、中南米・インド・中国・日本でも布教
④ザビエルは1549年に日本に来航
宗教改革は、教皇権の衰退と教会の腐敗を背景に、ルターの贖宥状批判をきっかけとして始まりました。しかしその影響は宗教の領域にとどまらず、ヨーロッパの政治・社会を大きく変えました。神聖ローマ帝国ではルター派諸侯と皇帝の対立が続き、カルヴァン派はフランスやネーデルラントで政治的・軍事的な紛争の引き金となりました。イギリスでは国王主導で国教会が成立し、宗教と政治の結びつきが強まりました。一方、カトリック側もイエズス会の海外布教によって、アジアやラテンアメリカへとキリスト教の範囲を広げました。また、こうした社会的緊張の高まりのなかで、ドイツなどでは「魔女狩り」が盛んにおこなわれた地域もありました。宗教改革はヨーロッパのキリスト教世界を決定的に分裂させるとともに、近代ヨーロッパの国家体制や思想の形成に深い影響を与えたのです。
| 項目 | ルター派 | カルヴァン派 | イギリス国教会 |
|---|---|---|---|
| 中心人物 | ルター | カルヴァン | ヘンリ8世 |
| 拠点 | ドイツ(ヴィッテンベルク) | スイス(ジュネーヴ) | イギリス |
| 核心的主張 | 信仰義認・万人司祭主義 | 予定説・長老制 | 国王が教会の首長 |
| 改革の契機 | 贖宥状批判(教義上の理由) | 教義上の理由 | 王位継承問題(政治的理由) |
| 支持層 | ドイツの諸侯 | 商工業者 | イギリス国王・議会 |
宗教改革によるヨーロッパの宗教的分裂は、「歴史総合」で扱う「近代化と私たち」の前提となります。カルヴァン派の勤勉と禁欲の思想が近代の資本主義の精神に影響を与えたとする議論は、近代ヨーロッパ経済の特質を考えるうえで重要な視点です。また、宗教戦争から生まれた主権国家体制は、現在の国際秩序の出発点でもあります。
16世紀、教皇権の衰退と贖宥状販売を背景にルターが宗教改革を開始。カルヴァンは予定説と長老制でジュネーヴを拠点に改革を広げ、イギリスでは国王主導で国教会が成立。カトリック側もイエズス会とトリエント公会議で立て直しを図った。
Q1. 1517年、贖宥状を批判して九十五カ条の論題を発表したドイツの神学者は誰か。
Q2. 1555年に成立し、諸侯にルター派かカトリックかの選択権を認めた取り決めを何というか。
Q3. カルヴァンが唱えた、人間が救われるかどうかはあらかじめ神が定めているという教説を何というか。
Q4. 1534年にヘンリ8世が発布し、イギリス国王を国内の教会の唯一の首長と定めた法を何というか。
Q5. ロヨラやザビエルらが結成し、海外布教や教育活動で対抗宗教改革の中心となった修道会は何か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
1517年、ドイツの神学者( ア )は( イ )の販売を批判して九十五カ条の論題を発表した。1521年の( ウ )帝国議会でルターは撤回を拒否し、帝国追放となった。1555年の( エ )により、諸侯にルター派かカトリックかの選択権が認められた。一方、スイスでは( オ )が予定説を唱え、ジュネーヴで宗教改革を進めた。
ア:ルター イ:贖宥状(免罪符) ウ:ヴォルムス エ:アウクスブルクの和議 オ:カルヴァン
宗教改革の基本的な流れを時系列で整理する問題です。ルターの九十五カ条の論題(1517年)→ヴォルムス帝国議会(1521年)→アウクスブルクの和議(1555年)という流れと、カルヴァンの予定説は頻出事項です。ルターは修道士であり、信仰義認と万人司祭主義を主張したことも押さえておきましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
イギリスでは、国王( ア )が離婚問題を契機に1534年に( イ )を発布してイギリス国教会を成立させた。のちに( ウ )は統一法を制定し、国教会の立場を確立した。カトリック側では( エ )が1545年から開催され、教皇の至上権が再確認されるとともに聖職者の規律強化が行われた。
ア:ヘンリ8世 イ:首長法(国王至上法) ウ:エリザベス1世 エ:トリエント公会議
イギリスの宗教改革と対抗宗教改革の基本事項を問う問題です。イギリスの宗教改革は王位継承問題から始まり、議会の協賛を得て首長法が定められた点がポイントです。トリエント公会議は1545〜63年にわたる長期の公会議で、カトリック教義の再確認と贖宥状販売の禁止が行われました。
ルターとカルヴァンの宗教改革の共通点と相違点を、「信仰義認」「予定説」「諸侯」「商工業者」の語句を使って120字以内で説明せよ。
両者とも教皇権を否定し聖書を重視した点は共通する。ルターは信仰義認を唱えてドイツの諸侯に支持され、カルヴァンは予定説に基づき勤勉と禁欲を重視して職業上の成功を肯定したため商工業者に広く受け入れられた。(100字)
ルターとカルヴァンの比較は頻出テーマです。共通点として「教皇権の否定」「聖書重視」を挙げたうえで、教義の違い(信仰義認 vs 予定説)と支持層の違い(諸侯 vs 商工業者)を対比させることがポイントです。カルヴァン派が商工業者に支持された理由(勤勉・蓄財の肯定)も含めると、高い評価が得られます。