13世紀、モンゴル高原から一人の英雄が現れ、またたく間にユーラシア大陸の大半を支配する空前の大帝国を築きました。
チンギス=カンに始まるモンゴル帝国は、ユーラシア東西の統合を実現し、ヒト・モノ・情報の移動・流通が活発化した時代を生み出します。
この記事では、モンゴル帝国の成立から元の衰退・明の建国までの流れを学びます。
12世紀初め、中央ユーラシア東部でキタイ(契丹、遼)が滅亡し、その一族が西方の中央アジアに逃れてカラキタイ(西遼)を建国すると、モンゴル高原では諸勢力のあいだに再編の動きが強まりました。やがてモンゴル高原東北部で頭角を現したテムジンは、1206年のクリルタイでチンギス=カン(ハン)として即位し、モンゴル系・トルコ系の諸部族を統合して大モンゴル国を建てました。
チンギス=カンは、軍事・行政組織として、配下の遊牧民を1000戸単位に編制した千戸制をしき、みずからの親衛隊を含めて強力な騎馬軍団を整えました。
チンギス=カンは、この軍団を率いて東方の金を圧倒したのち、ムスリム商人らの協力を得て西方遠征に出発し、中央アジア・イラン方面のトルコ系国家ホラズム=シャー朝を滅ぼしました。
チンギス=カンは遠征帰還後に西夏を滅ぼすと、まもなく死去しました。しかし、彼の子や孫たちは相互に権力を争いながらも征服戦争を継続しました。
①1206年:クリルタイでチンギス=カンとして即位、大モンゴル国成立
②千戸制で遊牧民を1000戸単位に編制、親衛隊を含む騎馬軍団を編成
③ホラズム=シャー朝を滅ぼす(ムスリム商人の協力を得て西方遠征)
④西夏を滅ぼしたのち死去
モンゴル軍の最大の強みは、遊牧民ならではの騎馬戦術でした。幼少期から馬に乗り弓を射る訓練を受けたモンゴルの戦士たちは、一人で数頭の馬を連れて遠征し、馬を乗り換えながら驚異的な速度で移動しました。偽装退却で敵をおびき出してから包囲する戦術は、定住民の軍隊にとって対応が極めて困難でした。
モンゴル帝国全土をおおう駅伝制(モンゴル語でジャムチ)は、帝国の広大な領土を統治するための通信・交通網です。幹線道路に沿って駅を設け、周辺の住民から馬・食料などを提供させました。
モンゴルの王族や官庁から許可を得て牌子(パイザ、通行証)を受けた者は、各駅で宿泊・食事・馬の交換などの便宜を与えられました。この制度は、のちの元代にも継承され、東西交通の基盤となりました。
ジャムチは単なる郵便制度ではなく、帝国統治の要でした。ハンの勅令や各地の情報がこのネットワークを通じて集まり、帝国の中枢が各地の状況を把握できたのです。この仕組みがなければ、モンゴル高原から中国・中央アジア・イランにまたがる広大な帝国を一つの政権として維持することは不可能だったでしょう。
①千戸制:遊牧民を1000戸単位に編制する軍事・行政組織
②駅伝制(ジャムチ):幹線道路に沿って駅を設け、周辺住民から馬・食料を提供させた
③牌子(パイザ):王族や官庁の許可を得た者に与えられた通行証。各駅で便宜を受けられた
カアンを称したオゴデイは、1234年に金を滅ぼして華北を領有し、カラコルムに都を築きました。
一方、バトゥは西進してロシアや東ヨーロッパを制圧しました。モンゴル軍は1241年のワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破り、同時にハンガリーにも侵攻しましたが、オゴデイ死去の報告を受けて中央ユーラシアの草原地帯に引き揚げました。バトゥは中央ユーラシア西部にキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)を建てました。
キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)では、支配層のモンゴル人が、配下に組み込んだキプチャクなどトルコ系騎馬遊牧民と融合し、次第にトルコ語を使用しながらもモンゴル人としての意識を保つという独自のトルコ化が進みました。支配者はイスラーム化も受け入れ、中央アジア西部における独自の文化圏を形成しました。
その後、中央アジアにはチャガタイ=ハン国(チャガタイ=ウルス)が成立し、西アジアではフレグがアッバース朝を滅ぼしてイル=ハン国(フレグ=ウルス)を建てました。こうして13世紀後半には、中央ユーラシアとその東西各地に、モンゴル人の政権が並び立ちました。各政権は高い自立性をもちながらもカアンのもとにゆるやかに連合したので、これら空前の規模のまとまりはモンゴル帝国と呼ばれます。
しかし、第4代モンケ=ハンが急死すると、その弟のフビライとアリクブケが大ハン位をめぐって争いました。戦いに勝ったフビライが大ハン位につきましたが、オゴデイ系のハイドゥがこれに反対して戦いを挑んだことをきっかけに、ジョチ=ウルス・チャガタイ=ウルス・イル=ハン国はそれぞれ元から離れ、帝国の統合はしだいにゆるやかなものとなりました。
| ハン国 | 建国者 | 領域 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス) | バトゥ | 中央ユーラシア西部 | ロシアや東ヨーロッパを制圧 |
| チャガタイ=ハン国(チャガタイ=ウルス) | チャガタイの子孫 | 中央アジア | 東西交易路の要衝を支配 |
| イル=ハン国(フレグ=ウルス) | フレグ | イラン・イラク | アッバース朝を滅ぼし建国(1258年) |
| 元(大元) | クビライ | 中国・モンゴル高原 | カアンを称し中国全土を支配 |
この帝国を構成していたのは民族・宗教ともに多様な人々であり、中央ユーラシアの西部では、モンゴル君主など支配層も含んだイスラーム化とトルコ化が進みました。
①オゴデイが1234年に金を滅ぼし、カラコルムに都を築く
②バトゥがロシア諸公国を征服。ワールシュタットの戦い(1241年)でポーランド・ドイツ連合軍に圧勝
③フレグがアッバース朝を滅ぼし(1258年)、イル=ハン国を建国
④モンケ=ハン急死後、フビライとアリクブケが大ハン位を争う
⑤ハイドゥの反乱をきっかけに諸ウルスが元から離れ、帝国の統合はゆるやかに
華北に拠点をおいたクビライは、カアンを称したのちに南宋を滅ぼし、中国全土を支配しました。クビライは元(大元)という中国風の国名を定め(1271年)、モンゴル高原と華北の境に新たな都を築いて大都と称しました。大都はモンゴル帝国全土をおおう駅伝制と連結され、運河により江南経済とも結ばれました。
元が南宋を滅ぼすと、海上交易で繁栄していた杭州・泉州・広州などが元の支配に入り、山東半島を経て大都に向かう海運と、杭州と大都を直接つなぐ新しい運河によって、豊かな江南もモンゴル帝国の商業圏に組み込まれました。
元の統治は中国的な官僚制度によってなされましたが、中枢はモンゴル人が握りました。色目人と総称される中央アジア・西アジア出身者は、経済面で力をふるいました。金の支配下にあった契丹人・女真人を含む華北の人々は漢人、南宋のもとにいた人々は南人と呼ばれました。
色目人とは「さまざまな目の色をもつ人々」の意で、トルコ人・ペルシア人・アラブ人をはじめ、ウイグル人・タングート人・アルメニア人なども含まれます。彼らは主に財務官僚・軍隊指揮官・貿易商人として活躍し、元の税収確保や交易ネットワークの維持に重要な役割を果たしました。モンゴル人が信頼できる人材として重用したため、漢人・南人より高い地位を与えられることが多くありました。
商業に力を入れた元は支配地域の社会や文化をさほど重視せず、儒学や科挙の役割は大きく後退しましたが、暦の改良や大都の水運整備に従事した郭守敬のように、実用的な能力のある者には登用の道が開かれていました。
クビライが樺太・日本やベトナム・チャンパー・ビルマ・ジャワなどに送った遠征軍は、各地域の政治や経済・文化に大きな影響を与え、商業圏の拡大にも寄与しました。
支配層のモンゴル人にはチベット仏教が重んじられ、都市の庶民のあいだでは『西廂記』『漢宮秋』などの戯曲が流行しました(元曲)。また民間の講談も盛んで、『水滸伝』『西遊記』『三国志演義』の原型がつくられました。
『水滸伝』『西遊記』『三国志演義』という後世に読み継がれる三大古典小説は、その原型が元代の講談・戯曲(元曲)に求められます。科挙が後退して知識人の活躍の場が縮小するなか、大都などの都市で民間の演芸文化が隆盛し、英雄物語・冒険譚が口承・戯曲の形で発展しました。これらの物語は、明代に書物として完成・普及し、東アジア文化に広大な影響を与えました。
モンゴル帝国における陸と海の交易を担ったのはおもにムスリム商人で、ユーラシアで広くおこなわれていた銀経済(銀による決済)が中国にもおよびました。元は塩の専売を実施したほか、取引税などによって莫大な銀を集め、紙幣(交鈔)を発行して銀の流通量の不足をおぎないました。
①国号:元(大元、1271年〜)、都:大都(現・北京)。駅伝制・運河で帝国全土と連結
②中枢はモンゴル人、色目人(トルコ人・ペルシア人・アラブ人ら)は経済面で活躍、漢人・南人は儒学・科挙の役割が後退
③塩の専売・取引税で銀を集め、紙幣(交鈔)を発行
④樺太・日本・ベトナム・チャンパー・ビルマ・ジャワなどに遠征軍を派遣
モンゴル帝国の成立によってユーラシア東西の統合が実現すると、ヒトやモノ、情報の移動・流通が活発化しました。
中央ユーラシアでは、仏教徒のウイグル商人やムスリム商人が富裕なモンゴル王族と手を組み、奢侈品などの盛んな取引をおこなって利益を分け合う仕組みも生まれました。
当時十字軍をおこしていたヨーロッパ人は、東方の巨大な帝国に関心をいだいて、ローマ教皇はプラノ=カルピニを、フランス王ルイ9世はルブルックを派遣しました。イタリア商人マルコ=ポーロの見聞をまとめた『世界の記述』(『東方見聞録』)は、ヨーロッパで大きな反響を呼びました。また、13世紀末に教皇の命で大都に派遣された修道士モンテ=コルヴィノは、そこでカトリックの布教にあたりました。モロッコ出身の旅行家イブン=バットゥータは海路を利用して中国にまでいたったとされ、その旅行記(『大旅行記』)を残しました。
モンゴル帝国によるユーラシア東西の統合は、学術や技術、思想面の交流も促進しました。その成果は歴史記述から、地理学、地図作製、多言語からの翻訳、天文学、医薬、工芸、美術に至るまで広い分野におよびました。ラシード=アッディーンはイル=ハン国のガザン=ハン時代の宰相として各地の情報を収集して、モンゴル史をはじめとするユーラシア世界史『集史』をペルシア語で著しました。
一方、中国から西アジアに絵画の技法が伝えられ、イランで発達した写本絵画に大きな影響を与えました。また、元代では西方伝来の顔料を利用して白地に青色の模様を浮かべる陶磁器(染付)が生まれ、これは「海の道」を通して世界各地へ大量に輸出されました。
①ユーラシア東西の統合で、ヒト・モノ・情報の移動・流通が活発化
②プラノ=カルピニ・ルブルック(教皇・フランス王の使節)、マルコ=ポーロ(『世界の記述』)
③モンテ=コルヴィノ:大都でカトリック布教。イブン=バットゥータ:海路で中国に至り『大旅行記』を残す
④ラシード=アッディーンが『集史』を著述。染付が海上ルートで輸出
14世紀には、ユーラシア規模での疫病の流行や気候変動による天災が重なり、各地で反乱や内紛が頻発して、モンゴル諸政権の分裂・衰退が進みました。中国でも、元による塩の専売制度の強化が、黄河の決壊などによる饑饉とあいまって民衆を苦しめました。
14世紀半ばに紅巾の乱をはじめとする反乱が各地でおこり、元は1368年に明軍に大都を奪われて、モンゴル高原に退きました。
反乱のなかで頭角を現した貧農出身の朱元璋は、儒学の素養をもつ知識人の協力を得て勢力をのばし、1368年に南京で皇帝の座につき(洪武帝)、明朝を建てました。明軍に追われた元の皇室は、モンゴル高原で王朝を維持しました(北元)。
①14世紀:疫病の流行・気候変動でモンゴル諸政権が分裂・衰退
②紅巾の乱をはじめとする反乱が各地でおこる
③朱元璋(洪武帝)が明を建国(1368年、南京で即位)
④元は明軍に大都を奪われモンゴル高原に退く(北元)
モンゴル帝国は、遊牧民が築いた史上最大規模の帝国です。千戸制で騎馬軍団を編成し、駅伝制(ジャムチ)で帝国全土の交通・通信網を整備して広大な領土を統治しました。各政権は高い自立性をもちながらもカアンのもとにゆるやかに連合し、ユーラシア東西の統合が実現すると、ヒト・モノ・情報の移動・流通が活発化しました。一方、14世紀には疫病の流行や気候変動により諸政権の分裂・衰退が進みました。モンゴル帝国が生み出した東西の結びつきは、のちの大交易時代の基盤となったのです。
モンゴル帝国によるユーラシア東西の統合は、「歴史総合」で扱う「結びつく世界」のテーマに直結します。ヒト・モノ・情報の移動・流通が活発化した時代は、のちの大航海時代に先立つグローバルな交流の原型として理解できます。
チンギス=カンが大モンゴル国を建て、千戸制と駅伝制で帝国を組織した。各政権がゆるやかに連合してユーラシア東西の統合が実現し、ヒト・モノ・情報の交流が活発化した。元はクビライのもとで中国を支配したが、紅巾の乱を経て明に取って代わられた。
Q1. 1206年にモンゴル系・トルコ系の諸部族を統合して大モンゴル国を建てた人物は誰か。
Q2. モンゴル帝国全土に整備された交通・通信制度を何と呼ぶか。
Q3. 元の都で、現在の北京にあたる都市を何と呼ぶか。
Q4. クビライに仕えたとされるヴェネツィア出身の商人は誰か。また、彼の口述をまとめた書物の名称は何か。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
1206年、( ア )はモンゴル系・トルコ系の諸部族を統合して大モンゴル国を建てた。配下の遊牧民を1000戸単位に編制する( イ )をしき、強力な騎馬軍団を整えた。帝国全土には( ウ )と呼ばれる駅伝制が整備された。のちに( エ )はカアンを称して南宋を滅ぼし、国号を元と定めて都を( オ )に置いた。
ア:チンギス=カン イ:千戸制 ウ:ジャムチ エ:クビライ オ:大都
モンゴル帝国の基本事項を確認する問題です。チンギス=カンの千戸制と駅伝制(ジャムチ)は帝国統治の2本柱であり、クビライがカアンを称して国号を「元」と定め大都を都としたことは、モンゴル帝国の中心が中国に移ったことを示す重要な転換点です。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ×「フレグ」→「バトゥ」。ワールシュタットの戦いの指揮官はバトゥ。フレグはイル=ハン国を建国した人物。 (2) ○ (3) ○ (4) ×『大旅行記』→『世界の記述』(東方見聞録)。『大旅行記』はイブン=バットゥータの旅行記。
(1)について:バトゥとフレグはいずれもチンギス=カンの孫ですが、バトゥは西方遠征(ロシア・東欧方面)を、フレグは西アジア方面の遠征をそれぞれ指揮しました。この二人の活動範囲と建国したハン国を混同しないようにしましょう。(4)について:マルコ=ポーロの著書は『世界の記述』(東方見聞録)、イブン=バットゥータの著書は『大旅行記』です。旅行者と著書名の組み合わせは入試頻出です。
モンゴル帝国がユーラシアの東西交流に果たした役割について、「駅伝制」「ムスリム商人」「集史」「マルコ=ポーロ」の語句を使って120字以内で説明せよ。
モンゴル帝国は駅伝制により帝国全土の交通網を整備し、ユーラシア東西の統合を実現した。ムスリム商人がモンゴル王族と手を組んで交易を展開し、マルコ=ポーロら旅行者も大陸を横断した。ラシード=アッディーンの『集史』に代表される学術交流も広い分野に及んだ。(120字)
この問題のポイントは、モンゴル帝国の駅伝制が東西交流の基盤となったことを述べ、そのうえで交流の具体例として人(マルコ=ポーロ)、商業(ムスリム商人)、学術(『集史』)を挙げ、4つの指定語句をすべて使い切る必要があります。