4世紀後半のフン人の西進をきっかけにゲルマン人の大移動が始まり、西ローマ帝国は滅亡しました。
ゲルマン諸王国の大半が短命だったなか、フランク王国はアタナシウス派への改宗でローマ教会と結びつき、西ヨーロッパ世界の中核となりました。
この記事では、ゲルマン人の大移動からカール大帝の戴冠、フランク王国の分裂、ビザンツ帝国の繁栄と東西教会の分裂までを学びます。
ゲルマン人は、バルト海沿岸を原住地とする諸部族の総称です。もともとブリテン島や大陸西部にはケルト人が広く分布しており、ゲルマン人はケルト人を西に圧迫しながら力を拡大しました。ケルト人の言語と文化の伝統は現代のアイルランド・ウェールズ・スコットランドなどに受け継がれており、ヨーロッパ先住文化の一つとして今日も連続しています。紀元前後頃にはゲルマン人がローマ帝国と境を接するようになりました。紀元前後頃のゲルマン人の社会については、カエサルの『ガリア戦記』やタキトゥスの『ゲルマニア』が重要な史料です。
その頃のゲルマン人は数十の小部族にわかれていました。貴族・平民・奴隷の身分差がすでにありましたが、重要な決定は成年男性自由人の全体集会である民会がおこないました。また、王や有力者と従士が忠誠と奉仕で結ばれる従士制にもとづく戦士集団が族長のもとに力を蓄え、しだいに大部族へと成長しました。ローマ帝政後期になると、傭兵やコロヌスとして帝国内に平和的に移住する者も多くなりました。
中世西ヨーロッパの大部分は深い森に覆われていました。森は単なる荒野ではなく、薪・木材・炭の供給源であり、豚の放牧地・狩猟地としての経済的役割を担っていました。また「森の民」としてのゲルマン人の自然観はキリスト教文化とも融合し、森は中世の説話・騎士物語・民話に舞台として繰り返し登場します。中世の大開墾運動(11〜12世紀)で森が耕地へと転換されていく過程は、西ヨーロッパ農業社会の形成を理解するうえで重要な視点です。
4世紀後半、アジア系のフン人がドン川をこえて西に進み、ゲルマン人の一派である東ゴート人の大半を征服し、さらに西ゴート人を圧迫しました。そこで西ゴート人は375年に南下を始め、翌年にはドナウ川を渡ってローマ帝国領内に移住しました。これがゲルマン人の大移動の始まりです。
それをきっかけにほかのゲルマン諸部族も大規模な移動を開始しました。5世紀前半にはフン人のアッティラ王がパンノニア(現在のハンガリー)を中心に大帝国を建てましたが、カタラウヌムの戦いで西ローマ帝国とゲルマンの連合軍に敗れ、アッティラ王の死後に大帝国は崩壊しました。この混乱のなかで、476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国は滅ぼされました。
①カエサルの『ガリア戦記』とタキトゥスの『ゲルマニア』がゲルマン人社会の史料として重要
②ゲルマン社会の特徴:民会(自由人の全体集会)、従士制
③大移動の契機:375年、フン人の圧迫で西ゴート人がローマ帝国内に移動
④476年、オドアケルにより西ローマ帝国が滅亡
大移動の結果、旧西ローマ帝国の各地にゲルマン人の王国が建てられました。主な王国を確認しましょう。
西ゴート人はローマを略奪したのち、ガリア西南部とイベリア半島に移動して建国しました。また、ヴァンダル人は北アフリカに、ブルグンド人はガリア東南部に、フランク人はガリア北部においてそれぞれ建国しました。アングロ=サクソン人は大ブリテン島に渡り、のち9世紀までのあいだにアングロ=サクソン七王国(ヘプターキー)を建てました。
テオドリック大王率いる東ゴート人は、ビザンツ(東ローマ)皇帝の命令を受けてイタリア半島に移動し、オドアケルの王国を倒して東ゴート王国を建てました。568年には北イタリアにランゴバルド王国が建てられ、民族大移動の波は一応の終息をみました。
これらはいずれも、少数のゲルマン人が先住のケルト人やローマ人を支配した国家でした。ゲルマン諸王国の大半が短命だったのに対し、その後着実に領土を広げ、最有力国として西ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たしたのはフランク王国でした。
| 王国 | 建国地域 | 特徴 |
|---|---|---|
| 西ゴート王国 | ガリア西南部・イベリア半島 | 711年、ウマイヤ朝に滅ぼされる |
| 東ゴート王国 | イタリア半島 | テオドリック大王が建国。ユスティニアヌス大帝に征服される |
| ヴァンダル王国 | 北アフリカ | ユスティニアヌス大帝に滅ぼされる |
| ブルグンド王国 | ガリア東南部 | フランク王国に滅ぼされる |
| ランゴバルド王国 | 北イタリア(568年〜) | 民族大移動最後の建国。フランク王国に征服される |
| フランク王国 | ガリア北部 | 最有力国として長期存続。正統派キリスト教と結合 |
①西ゴート王国(ガリア西南部・イベリア半島)→ ウマイヤ朝に滅ぼされる(711年)
②東ゴート王国(イタリア)→ テオドリック大王が建国、ユスティニアヌス大帝に征服
③ヴァンダル王国(北アフリカ)→ ユスティニアヌス大帝に滅ぼされる
④ランゴバルド王国(北イタリア、568年〜)→ 民族大移動最後の建国
⑤フランク王国のみ長期存続 → 正統派のアタナシウス派に改宗し、ローマ教会と結びついたことが要因
有力な一族であったメロヴィング家のクローヴィスは、481年にフランク王に即位し、小国に分立していたフランク人を統一して領土を拡大し、メロヴィング朝のフランク王国を築きました。
当時ほかのゲルマン人の多くが異端であるアリウス派キリスト教を信仰していたのに対し、クローヴィスは正統派のアタナシウス派に改宗しました。これはフランク王国がローマ人貴族を支配層に取り込んで西ヨーロッパの中心勢力になる一因となりました。
6世紀半ば、フランク王国はブルグンド王国などを滅ぼして全ガリアを統一しましたが、8世紀にはメロヴィング家の権力は衰え、王家の行政・財政の長官である宮宰(マヨル=ドムス)が実権を掌握するようになりました。
この頃、西ゴート王国を滅ぼしたイスラーム勢力が、さらにピレネー山脈をこえてガリアに侵攻しようとしました。メロヴィング朝の宮宰カール=マルテルは、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退し、西方キリスト教世界を守りました。
カール=マルテルの子ピピンは、751年にメロヴィング朝を廃して王位につき、カロリング朝を開きました。ピピンはイタリアのランゴバルド王国を攻め、奪ったラヴェンナを中心とする旧ビザンツ帝国領を教皇に寄進しました(「ピピンの寄進」)。これが教皇領の始まりです。
西ローマ帝国滅亡後、ローマ教会はビザンツ皇帝が支配するコンスタンティノープル教会から分離する傾向をみせ始めました。6世紀末の教皇グレゴリウス1世以来、ローマ教会はゲルマン人への布教を熱心におこないました。また、6世紀前半にベネディクトゥスがモンテ=カッシーノに修道院を建てて「祈りと労働」を重視する戒律を定め、各地に修道院が設立されるようになりました。修道院運動は学問・教育や農業技術の発展にも貢献しました。
726年にビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出すと、ゲルマン人への布教に聖像を必要としたローマ教会はこれに反発し、ビザンツ皇帝に対抗できる保護者としてフランク王国に接近しました。利害が合致したローマ教会とフランク王国は、さらに結びつきを強めていきました。
①クローヴィスが481年にメロヴィング朝を開き、正統派のアタナシウス派(カトリック)に改宗
②カール=マルテル:トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)でイスラーム軍を撃退
③ピピン:751年にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開く
④「ピピンの寄進」:ラヴェンナを中心とする旧ビザンツ帝国領を教皇に寄進 → 教皇領の始まり
ピピンの子カール大帝(シャルルマーニュ)は、ランゴバルド王国を征服するとともに、北東のザクセン人を服従させ、東ではアルタイ語系のアヴァール人を、南ではイスラーム勢力を撃退し、西ヨーロッパの主要部分を統一しました。こうしてフランク王国は、ビザンツ帝国に並ぶ大国となりました。カールは広大な領土を集権的に支配するため、全国を州にわけ、地方の有力者を各州の長官である伯に任命し、巡察使を派遣して伯を監督させました。
800年のクリスマスの日、教皇レオ3世はカールにローマ皇帝の帝冠を授けました。カールの戴冠は、西ヨーロッパ世界が政治的・文化的・宗教的に独立したという重要な歴史的意義をもちます。ローマ文化・キリスト教・ゲルマン人が融合した西ヨーロッパ中世世界が、ここに誕生しました。
また、カールは宮廷にアルクインらの学者を多数まねき、そこからラテン語による文芸復興がおこりました。これをカロリング=ルネサンスと呼びます。アルファベットの小文字が発明されたのもこの時期です。
カールの戴冠は、西ヨーロッパ世界が政治的・文化的・宗教的に独立したという重要な歴史的意義をもちます。ローマ教会はビザンツ皇帝への従属から独立し、のち1054年にキリスト教世界はローマ=カトリック教会とギリシア正教会に完全に分裂しました。
入試では「800年のカールの戴冠」が年号とともに頻出です。「教皇レオ3世」「ローマ皇帝の帝冠」をセットで覚えましょう。
カールの帝国は一見中央集権的でしたが、実態はカールと伯との個人的な結びつきのうえに成り立つものにすぎませんでした。そのため彼の死後に内紛がおこり、843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって、帝国は東・西フランクとイタリアの3つに分裂しました。
東フランク(ドイツ)では、10世紀初めにカロリング家の血筋がとだえ、各部族を支配する諸侯の選挙で王が選ばれるようになりました。ザクセン家の王オットー1世は、マジャール人やスラヴ人の侵入を退けるとともに、北イタリアを制圧して962年に教皇からローマ皇帝の位を与えられました。これが神聖ローマ帝国の始まりです。西フランク(フランス)でも、10世紀末にカロリング家の血筋が断絶し、パリ伯のユーグ=カペーが王位についてカペー朝を開きました。
①ヴェルダン条約(843年)とメルセン条約(870年)で帝国が東・西フランクとイタリアに分裂
②東フランクではオットー1世が962年に神聖ローマ帝国を開く
③西フランクではユーグ=カペーがカペー朝を開く
④カールの帝国はカールと伯との個人的な結びつきのうえに成り立つものだった
スカンディナヴィア半島やユトランド半島には、ゲルマン人の一派(北ゲルマン)に属するノルマン人が住んでいました。彼らの一部は8世紀後半から、商業や海賊行為を目的として、ヨーロッパ各地に本格的に海上遠征をおこなうようになりました。ヴァイキングとして恐れられた彼らは、河川をさかのぼって内陸深くに侵入しました。
10世紀初め、ロロが率いる一派は北フランスに上陸し、ノルマンディー公国を建てました。ここからさらにわかれた一派は、シチリア島をムスリムから奪い取り、12世紀前半にシチリア王国を建国しました。また、イングランドに成立していたアングロ=サクソン王国もノルマン人の侵入に悩まされ、1016年にはデーン人(デンマーク地方のノルマン人)の王クヌートに征服されました。その後アングロ=サクソン系の王家が復活しましたが、1066年にノルマンディー公ウィリアムが王位を主張してイングランドへ攻め込み(ノルマン=コンクェスト)、ウィリアム1世として即位してノルマン朝を開きました。
一方、リューリクを首長とするノルマン人の一派(ルーシ)はドニエプル川流域のスラヴ人地域に進出して、9世紀にノヴゴロド国を、ついでキエフ公国を建設し、これがロシアの起源となりました。別の一派はアイスランド・グリーンランドに移住し、遠く北米大陸まで到達したものもいました。
ノルマン人の原住地である北欧にもデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの諸王国が建てられました。彼らがキリスト教化されると、ようやくノルマン人の移動も終わり、北欧は西ヨーロッパ世界に組み込まれました。
①北フランス → ロロがノルマンディー公国を建設
②イングランド → 1016年クヌートに征服、1066年ノルマン=コンクェスト(ウィリアムがノルマン朝を開く)
③東方 → リューリクがノヴゴロド国・キエフ公国を建設(ロシアの起源)
④南イタリア・シチリア → シチリア王国
⑤北欧にデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの諸王国が成立
西ローマ帝国が滅びた頃、東ヨーロッパではビザンツ帝国(東ローマ帝国)がギリシア正教とギリシア古典文化を融合した独自の文化を築いていました。
ビザンツ帝国はゲルマン人の大移動によっても深刻な打撃は受けず、その商業と貨幣経済は繁栄を続けました。首都コンスタンティノープルは、ヨーロッパ世界に最大の貿易都市として中世を通じて繁栄しました。ビザンツ帝国が発行したソリドゥス金貨(ノミスマ)は高純度・高信頼性で知られ、ヨーロッパから西アジア・北アフリカにまたがる広域で流通し、中世の国際通貨として機能しました。政治面では、ローマ帝政末期以来の巨大な官僚制による皇帝専制支配が維持されていました。ビザンツ皇帝はコンスタンティノープル教会を中心に、地上におけるキリストの代理人としてギリシア正教会を支配する立場にあり、政治と宗教両面における最高の権力者でした。
ユスティニアヌス大帝は地中海帝国の復興をはかり、北アフリカのヴァンダル王国やイタリアの東ゴート王国を滅ぼして、一時的に地中海のほぼ全域における支配を復活させました。内政においては『ローマ法大全』の編纂や、ハギア=ソフィア聖堂の建立などの事業に力を注ぎ、また中国から養蚕技術を取り入れ、絹織物産業発展の基礎を築きました。
ユスティニアヌス大帝の死後、帝国は外圧を受けて縮小します。7世紀半ば以降、イスラーム勢力の進出に対応するため、ビザンツ帝国は帝国領をいくつかの軍管区(テマ)にわけ、各管区の長官(ストラテゴス)に軍事・行政の双方の権限を与えるテマ制(軍管区制)をしきました。テマ制のもとでは、農民に土地を与えるかわりに兵役義務を課す屯田兵制がおこなわれ、小土地所有の自作農民が増えて帝国を支える基盤となりました。この制度により帝国は7〜9世紀の危機を乗り越えることができました。
キリスト教徒は以前からキリスト・聖母・聖人の聖像を礼拝していました。これが偶像崇拝を禁じたキリスト教の初期の教理に反すると考えられたこと、また偶像をきびしく否定するイスラーム教からの批判にこたえる必要にせまられたことから、726年にビザンツ皇帝レオン3世は聖像禁止令を発布しました。ゲルマン人への布教に聖像を必要としたローマ教会はこれに反発し、東西の両教会は対立と分裂を強めることになりました。なお、聖像崇拝は9世紀半ばに復活しました。
のち1054年にキリスト教世界は、教皇を首長とするローマ=カトリック教会と、ビザンツ皇帝が支配するギリシア正教会の2つがたがいに正統性を主張して、完全に分裂しました。
このようにローマ帝国以来存続した地中海世界は、西ヨーロッパ世界・東ヨーロッパ世界、そしてイスラーム世界の3つにわかれ、以後それぞれ独自の歴史を歩むことになりました。
| 西ヨーロッパ(ローマ=カトリック) | ビザンツ帝国(ギリシア正教) | |
|---|---|---|
| 教会の首長 | ローマ教皇 | コンスタンティノープル教会(皇帝が支配) |
| 政教関係 | 教皇と皇帝が対立・並立 | 皇帝が政治と宗教両面の最高権力者 |
| 公用語 | ラテン語 | ギリシア語 |
| 聖像崇拝 | 容認 | 726年に聖像禁止令を発布(9世紀半ばに復活) |
| 文化圏 | ゲルマン+ローマ+カトリック | ギリシア文化+正教 |
| 影響を受けた地域 | 西欧諸国 | 東欧・ロシア |
①ユスティニアヌス大帝:『ローマ法大全』の編纂、ハギア=ソフィア聖堂の建立
②ビザンツ皇帝は政治と宗教両面における最高の権力者
③テマ制(軍管区制)と屯田兵制で7〜9世紀の危機を克服
④聖像禁止令(726年、レオン3世)→ ローマ教会が反発 → 東西教会の対立
⑤1054年:ローマ=カトリック教会とギリシア正教会が完全に分裂
ローマ帝国以来存続した地中海世界は、ローマ文化・キリスト教・ゲルマン人が融合した西ヨーロッパ世界、ギリシア正教とギリシア古典文化を基盤とするビザンツ帝国(東ヨーロッパ世界)、そしてイスラーム世界の3つにわかれ、以後それぞれ独自の歴史を歩むことになりました。
フランク王国の分裂からフランス・ドイツ・イタリアの原型が生まれたことは、歴史総合で学ぶ「ヨーロッパの国民国家」の前史にあたります。ヴェルダン条約やメルセン条約による境界線は、19世紀のナショナリズムの時代に「歴史的な国境」として意識されるようになり、普仏戦争(1870〜71年)でのアルザス=ロレーヌ問題にもつながっていきます。
375年のゲルマン人の大移動で西ローマ帝国が滅亡し、フランク王国が正統派キリスト教と結んで西ヨーロッパ世界の中核となった。カール大帝が西ヨーロッパの主要部分を統一するが、死後に帝国は東・西フランクとイタリアに分裂した。1054年に東西教会が完全に分裂し、地中海世界は三つの世界にわかれた。
Q1. 375年、フン人の圧迫を受けてローマ帝国領内に移住し、ゲルマン人の大移動のきっかけとなった部族は何か。
Q2. フランク王国のクローヴィスは、他のゲルマン諸王国がアリウス派を信仰するなか、ローマ教会が正統とする何派に改宗したか。
Q3. ピピンがローマ教皇に土地を寄進したことは何と呼ばれ、何の起源となったか。
Q4. ビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝が編纂を命じた、ローマ法の集大成を何というか。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( オ )に入る適切な語句を答えよ。
4世紀後半、中央ユーラシアの遊牧民( ア )の圧迫を受けてゲルマン人の大移動が始まった。( イ )年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝を廃位し、西ローマ帝国は滅亡した。フランク王国の創設者( ウ )は( エ )派に改宗してローマ教会の支持を得た。カロリング朝のピピンは、ランゴバルド王国から奪った土地をローマ教皇に寄進し、これが( オ )の起源となった。
ア:フン人 イ:476 ウ:クローヴィス エ:アタナシウス オ:教皇領
ゲルマン人の大移動から西ローマ帝国の滅亡、そしてフランク王国の発展という一連の流れを確認する問題です。フン人の西進が引き金となり、西ゴート人をはじめとするゲルマン諸部族がローマ帝国領内に流入しました。476年の西ローマ帝国滅亡の後、フランク王国のクローヴィスが正統派のアタナシウス派に改宗したことで、ローマ教会との結びつきが強まりました。「ピピンの寄進」は教皇領の始まりであり、のちの教皇権の政治的基盤となりました。
次の各文の正誤を判定し、誤りの場合は正しく訂正せよ。
(1) ○ (2) ×「ハンムラビ法典」→「ローマ法大全」 (3) ×「メルセン条約」→「ヴェルダン条約」 (4) ○
(2)について:ユスティニアヌス大帝が編纂を命じたのは『ローマ法大全』です。『ハンムラビ法典』は古代メソポタミアのバビロン第1王朝のハンムラビ王が制定した法典であり、時代も地域もまったく異なります。(3)について:843年はヴェルダン条約です。メルセン条約は870年で、ヴェルダン条約で三分割された中部フランクの北部を東西で再分割した条約です。この二つの条約の年号と内容の区別は頻出です。
西ヨーロッパ世界の形成過程において、ローマ=カトリック教会が果たした役割について、「アタナシウス派」「ピピンの寄進」「カール大帝の戴冠」の語句を使って120字以内で説明せよ。
フランク王国は正統派のアタナシウス派に改宗してローマ教会の支持を得た。「ピピンの寄進」により教皇は領土を持つ政治的存在となり、800年のカール大帝の戴冠でローマ文化・キリスト教・ゲルマン人が融合した西ヨーロッパ中世世界が誕生した。(113字)
この問題は、西ヨーロッパ世界の形成をローマ=カトリック教会の役割という観点から整理するものです。ポイントは三つの段階を時系列に沿って述べることです。第一に、クローヴィスの正統派アタナシウス派への改宗によりフランク王国とローマ教会が結びついたこと。第二に、「ピピンの寄進」により教皇が政治的な基盤(領土)を持つようになったこと。第三に、カールの戴冠により、ローマ文化・キリスト教・ゲルマン人が融合した西ヨーロッパ中世世界が誕生したこと。この三段階を通じて、ゲルマン人の政治権力とローマ=カトリック教会が一体となった西ヨーロッパ世界が形成されていったのです。