第4章 西アジアと地中海周辺の国家形成

イラン諸国家の興亡とイラン文明

1-5で学んだアケメネス朝の滅亡後、イラン高原にはパルティア、そしてササン朝が興り、ローマ帝国と対峙しながら独自のイラン文明を発展させました。ゾロアスター教の国教化やマニ教の誕生など、宗教面でも世界史に大きな影響を残しています。
この記事では、アケメネス朝からササン朝までのイランの国家を通史的に整理し、ローマとの関係やイラン文明がイスラーム世界に与えた影響を学びます。

この記事のポイント
  • アケメネス朝滅亡後、パルティア → ササン朝とイラン系王朝が続き、ローマと対峙した
  • ササン朝はゾロアスター教を国教とし、シャープール1世がローマ皇帝を捕虜にした
  • ホスロー1世の時代にトルコ系遊牧民の突厥と結んでエフタルを滅ぼした
  • マニはゾロアスター教や仏教・キリスト教を融合してマニ教をおこし、北アフリカや中央ユーラシアに広まった
  • ササン朝の文化(銀器・ガラス器・毛織物・彩釉陶器)はイスラーム世界や天平文化に影響を与えた

1アケメネス朝の復習と発展

1-5で学んだように、アケメネス朝ペルシアはイラン人(ペルシア人)が建てた最初の世界帝国です。キュロス2世がアケメネス朝をおこし、メディアやリディアを征服して、ダレイオス1世の時代にエーゲ海北岸からインダス川に至る大帝国を完成させました。

アケメネス朝の統治の特徴は、各州に知事(サトラップ)をおいて全国を統治し、「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を巡回させて中央集権化をはかったことにあります。また、「王の道」と呼ばれる国道をつくり、都スサを中心に駅伝制を整備しました。金貨・銀貨を発行し、海上ではフェニキア人の交易を保護して、財政の基礎を固めました。さらに、服属した異民族に対しては寛大な政治をおこない、その法・宗教・慣習を尊重しました。

しかし、前5世紀前半のペルシア戦争でギリシアに敗北して以降、帝国は次第に弱体化し、前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされました。アレクサンドロスの死後、大王が征服した西アジアの領土は、ギリシア系のセレウコス朝に受けつがれました。

ここからが本記事の中心です。セレウコス朝の支配が弱まるなかで、イラン系民族が再び独自の王朝を打ち立てていきます。

2パルティア(アルサケス朝) ─ ローマと対峙した騎馬帝国

パルティアの成立

前3世紀半ば、遊牧イラン人の族長アルサケスがカスピ海東南部にパルティア(中国名は安息)を建国しました。パルティアは前2世紀半ばにメソポタミアを併合し、セレウコス朝をシリア方面に押し込みました。

東西交易の中継地

パルティアは「絹の道」(「シルク=ロード」)による東西交易で大いに栄えました。都のクテシフォンはティグリス川東岸に位置し、東西の物資が行き交う交易都市として繁栄しました。

ローマとの対立

パルティアは西方で拡大するローマと国境を接し、たびたび衝突しました。とくに前53年のカルラエの戦いでは、パルティアの騎兵がローマ軍を撃破しています。パルティアの軍事力の柱は、重装騎兵と弓騎兵を組み合わせた機動力にありました。

パルティアの統治の特徴

初期のパルティアの文化は、ヘレニズム文化の影響が強く、王は「ギリシアを愛する者」を意味するフィルヘレネスの称号を用い、ギリシア語の文化を保護していました。しかし前1世紀頃から民族意識が強まり、イランの伝統文化が復活しはじめると、ギリシアとイランの神々がともに信仰されるようになり、アラム文字で表記したイラン系の言語を用いるようになりました。この変化はパルティアの民族意識の転換を示しており、後のササン朝によるイラン文化復興の前段階とみることができます。各地の有力貴族に大幅な自治を認める分権的な体制であったことも特徴で、この分権性が王権の不安定さにもつながりました。

後3世紀に入ると王家の求心力が低下し、224年アルダシール1世がパルティアを倒してササン朝を建てます。

ここが問われる: パルティアの特徴 内容・特徴

①遊牧イラン人の族長アルサケスが前3世紀半ばにカスピ海東南部に建国(中国名は安息
「絹の道」(シルク=ロード)による東西交易で繁栄。都はクテシフォン(ティグリス川東岸)
③前2世紀半ばにメソポタミアを併合
ローマと西方で対立

3ササン朝ペルシアの成立と発展

アルダシール1世の建国

パルティアを倒して建国したのが、農耕イラン人ササン朝です。建国の祖アルダシール1世(在位224〜241頃)は同じくクテシフォンに都をおき、ゾロアスター教を国教としました。

シャープール1世 ─ ローマ皇帝を捕虜にした王

第2代皇帝シャープール1世(在位241頃〜272頃)はシリアに侵入してローマ軍を破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜としました。また、東方ではインダス川西岸に至る広大な地域を統合し、中央集権的な体制を確立しました。

ササン朝がローマと繰り返し対立した理由
ササン朝はアケメネス朝の後継を自任し、かつてのアケメネス朝の旧領回復を志向
シリア・メソポタミアはローマとの国境地帯であり、交易路の支配権をめぐる利害が衝突
さらにアルメニアなど緩衝地帯の支配権をめぐって軍事衝突が繰り返された
ローマとササン朝の抗争は約400年にわたって続き、両国を疲弊させた

ホスロー1世 ─ ササン朝の全盛期

6世紀のホスロー1世(在位531〜579年)のもとでササン朝は全盛期を迎えました。ホスロー1世は内政面では税制を改革し、官僚制度を整備して中央集権を強化しました。

ササン朝は5世紀後半、中央ユーラシアの遊牧民エフタルの侵入を受けましたが、ホスロー1世はトルコ系遊牧民の突厥と結んでエフタルを滅ぼしました。その結果、ササン朝の支配する交易路は中国に達し、海の交易路もインドから東南アジアにいたりました。また、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との戦いも優勢に進め、和平を結びました。

ローマ帝国が交易に金貨を用いたのに対して、ササン朝は銀貨を用いたので、西アジアを中心として広大な銀経済圏が成立しました。

ここが問われる: ササン朝の主要な王とその業績 内容・特徴

アルダシール1世(建国の祖、在位224〜241頃):パルティアを倒して建国。ゾロアスター教の国教化
シャープール1世(在位241頃〜272頃):シリアに侵入しローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にした。東方ではインダス川西岸に至る地域を統合
ホスロー1世(在位531〜579):突厥と結んでエフタルを滅ぼした。東ローマ帝国との戦いも優勢に進め和平を結んだ

イラン諸国家の興亡

アケメネス朝
ヘレニズム
パルティア
ササン朝
前550前330前3世紀半ば224651 滅亡

4ゾロアスター教の国教化とマニ教

ゾロアスター教の国教化

ゾロアスター教については1-5で学びましたが、ここではササン朝との関係を整理します。ササン朝は建国当初からゾロアスター教拝火教を国教に定め、国家と宗教を強く結びつけました。教典『アヴェスター』が編集されたのもこのササン朝の時代です。

ゾロアスター教の聖職者は政治にも大きな影響力を持ち、国王の正統性を宗教的に裏付ける役割を果たしました。アケメネス朝がゾロアスター教を信仰しつつも多宗教を許容していたのに対し、ササン朝ではより国家と宗教の一体化が進んだ点に注意しましょう。ただし、ササン朝は公式にはゾロアスター教を国教としつつも、領内の仏教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒などの活動を許容しており、完全な排他的体制ではありませんでした。

マニ教の成立と弾圧

3世紀の宗教家マニは、ゾロアスター教や仏教・キリスト教を融合して新しくマニ教をおこしました。

マニ教は一時シャープール1世に保護されましたが、ゾロアスター教の聖職者の反発を受けて弾圧され、その結果かえって北アフリカ中央ユーラシア、さらには唐代の中国にまで広まりました。キリスト教の教父アウグスティヌスも青年期にマニ教に傾倒していました。

発展:ネストリウス派・単性論派のキリスト教とササン朝

ササン朝領内には、431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派キリスト教の信者も多く暮らしていました。ネストリウス派や単性論派はローマ帝国から逃れてササン朝のもとで教勢を強め、そこを拠点として中央アジア・インド・中国へと広がりました(中国では「景教」と呼ばれた)。これらの宗派はギリシア語の教父著作や古典文学をシリア語に翻訳し、後代に伝えるうえで大きな役割を果たしました。また、行政能力や医学知識を買われて、ササン朝やのちのイスラーム政権下で活躍する者たちもあらわれました。ササン朝がこれらの宗派を保護した背景には、東ローマ帝国(正統派キリスト教を国教とする)と対立するなかで、異端とされた宗派を取り込む政治的意図がありました。

歴史総合とのつながり

ゾロアスター教・マニ教・ネストリウス派のように、宗教が国境を越えて広まる現象は、近現代のグローバリゼーションによる文化伝播にもつながるテーマです。交易路が宗教・文化の伝播ルートでもあった点をおさえましょう。

5ササン朝の文化と滅亡

イラン文明の黄金期

ササン朝時代には、建築・美術・工芸が大いに発達しました。精巧な銀器ガラス器毛織物彩釉陶器の技術や様式は、イスラーム時代へと受け継がれるとともに、西方ではビザンツ帝国を経て地中海世界に、東方では中国を経て日本にまで伝えられ、天平文化に影響を与えました。また、イラン高原では山麓の井戸を利用した灌漑施設(カナート)が整備され、メソポタミアでも農地が再開発されて、それぞれ集約農業が発展し、ササン朝の繁栄を支えました。

また、ササン朝の宮廷文化は後のイスラーム文明に大きな影響を与えました。宮廷の儀式・行政制度・美術様式などが、アッバース朝をはじめとするイスラーム王朝に受け継がれました。イスラーム世界におけるイラン文化の影響は、政治・文学・芸術など多方面にわたっています。

ササン朝の滅亡

ホスロー1世の没後はしだいに衰えましたが、7世紀に入ると一時東ローマ帝国のエジプトや小アジアを占領するなどの攻勢に出ました。しかし東ローマ帝国の反撃を受けて政情は混乱し、新たに台頭したアラブ・イスラーム勢力にも大敗して滅びました。ササン朝の滅亡は651年ですが、642年ニハーヴァンドの戦いでアラブ=ムスリム軍に敗れ、王朝は事実上崩壊しました。ササン朝の残存勢力は唐に救援を求め、唐の中央ユーラシア進出やイラン文化受容のきっかけとなりました。

ここが問われる: ササン朝の文化的影響 結果・影響

①精巧な銀器・ガラス器・毛織物・彩釉陶器の技術や様式が東西に広がった(天平文化にも影響)
②宮廷の儀式・行政制度・美術様式がイスラーム文明(特にアッバース朝)に受け継がれた
642年のニハーヴァンドの戦いでアラブ=ムスリム軍に敗れ事実上崩壊(滅亡は651年)

アケメネス朝・パルティア・ササン朝の比較

アケメネス朝パルティア(アルサケス朝)ササン朝
建国前550年(キュロス2世)前3世紀半ば(アルサケス)224年(アルダシール1世)
滅亡前330年(アレクサンドロス大王)224年(ササン朝に滅ぼされる)651年(642年ニハーヴァンドの戦いで事実上崩壊)
ペルセポリス(儀礼)・スサ(政治)クテシフォンクテシフォン
統治方式知事(サトラップ)+「王の目」「王の耳」+寛大な政治分権的(貴族に大幅な自治)強力な中央集権
宗教ゾロアスター教(信仰、多宗教を許容)多元的(ギリシア・イラン文化混在)ゾロアスター教を国教化
西方の対立相手ギリシア諸ポリスローマ(共和政〜帝政)ローマ帝国 → 東ローマ帝国
特筆事項「王の目」「王の耳」、王の道「絹の道」(シルク=ロード)の東西交易シャープール1世がローマ皇帝捕虜、ホスロー1世の全盛

6俯瞰する ─ この記事のつながり

イランの諸王朝は、アケメネス朝 → パルティア → ササン朝と約1000年にわたって西アジアの中心的な勢力であり続けました。ローマ帝国と常に対峙していたこと、そしてゾロアスター教をはじめとする宗教・文化がイスラーム世界に受け継がれたことは、世界史の大きな構造的テーマです。

この記事と他の章のつながり

  • 1-5 オリエントの統一 ─ アケメネス朝ペルシアの建国・統治制度・ゾロアスター教の基本はこちらで学びました。本記事はその「続き」にあたります。
  • 2-1 中央ユーラシア ─ パルティアのシルクロード中継貿易、ホスロー1世と突厥の同盟・エフタル挟撃は、中央ユーラシアの遊牧民の動向と密接に関わります。
  • 4-4 ローマ帝国 ─ パルティア・ササン朝はローマの東方の最大の対抗勢力でした。両国の抗争は双方の軍事・財政に大きな負担を与えました。
  • 6-1 イスラームの成立 ─ ササン朝の滅亡とイスラーム勢力の台頭は直結しています。また、ササン朝の行政制度や文化がイスラーム文明の基盤の一つとなりました。
  • 6-3 イスラーム文化 ─ ササン朝のイラン文明(美術・行政・宮廷文化)がアッバース朝を中心にイスラーム世界に受け継がれた経緯を学びます。

7まとめ

  • アケメネス朝は前330年にアレクサンドロス大王に滅ぼされ、西アジアの領土はギリシア系のセレウコス朝に受けつがれた。
  • 前3世紀半ば、遊牧イラン人の族長アルサケスがパルティア(中国名は安息)を建国。「絹の道」(シルク=ロード)による東西交易で繁栄し、ローマと西方で対立した。
  • 224年、農耕イラン人のアルダシール1世がパルティアを倒してササン朝を建国。ゾロアスター教を国教に定めた。
  • シャープール1世はシリアに侵入してローマ軍を破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜にした。
  • ホスロー1世の時代にトルコ系遊牧民の突厥と結んでエフタルを滅ぼした。東ローマ帝国との戦いも優勢に進め、和平を結んだ。
  • ローマ帝国が金貨を用いたのに対し、ササン朝は銀貨を用いたので、西アジアを中心に広大な銀経済圏が成立した。
  • 3世紀の宗教家マニは、ゾロアスター教や仏教・キリスト教を融合してマニ教をおこした。北アフリカや中央ユーラシアに広まった。
  • ササン朝時代の精巧な銀器・ガラス器・毛織物・彩釉陶器の技術や様式は、イスラーム時代へと受け継がれ、東方では天平文化にも影響を与えた。
  • 642年ニハーヴァンドの戦いでアラブ=ムスリム軍に敗れ事実上崩壊し、651年にササン朝は滅亡した。
この記事を100字で要約すると

アケメネス朝滅亡後、パルティアが「絹の道」の東西交易で栄えローマと対峙した。ササン朝はゾロアスター教を国教としローマ皇帝を捕虜にするなど強盛を誇ったが、642年にアラブ=ムスリム軍に敗れ事実上崩壊。その文化はイスラーム世界や天平文化に受け継がれた。

8穴埋め・一問一答

Q1. パルティア(アルサケス朝)の都で、ティグリス川東岸に位置する交易都市の名を答えよ。

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クテシフォン。パルティアに続きササン朝も都として使用しました。「絹の道」(シルク=ロード)の要衝として栄えました。

Q2. 260年のエデッサの戦いでササン朝に捕虜にされたローマ皇帝は誰か。

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ウァレリアヌス。ササン朝のシャープール1世に捕えられました。ローマ史上、皇帝が戦場で捕虜となった唯一の事例です。

Q3. ササン朝のホスロー1世が、エフタルを挟撃するために同盟を結んだ中央ユーラシアの遊牧国家は何か。

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突厥(とっけつ)。トルコ系遊牧民の突厥と結んで、エフタルを滅ぼしました。

Q4. 642年、ササン朝がアラブ=ムスリム軍に敗れて事実上崩壊するきっかけとなった戦いの名を答えよ。

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ニハーヴァンドの戦い。この敗北によりササン朝は組織的な抵抗力を失い、イラン高原はイスラーム世界に組み込まれていきました。

9アウトプット演習

この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。

A 基礎レベル

問1 A 基礎 穴埋め

次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。

前3世紀半ば、遊牧イラン人の族長アルサケスがカスピ海東南部に建てた( ア )は、「( イ )」(「シルク=ロード」)による東西交易で繁栄した。( ウ )がこれを倒してササン朝を建て、( エ )を国教に定めた。

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解答

ア:パルティア(中国名は安息) イ:絹の道 ウ:アルダシール1世 エ:ゾロアスター教

解説

パルティアは「絹の道」(「シルク=ロード」)による東西交易で大いに栄えました。ササン朝はアケメネス朝の後継を自任し、ゾロアスター教を国家の柱としました。アルダシール1世の在位(224〜241頃)とゾロアスター教の国教化はセットで覚えましょう。

B 標準レベル

問2 B 標準 正誤

ササン朝ペルシアに関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。

  • (1) アルダシール1世はパルティアを倒してササン朝を建てた。
  • (2) シャープール1世はエジプトに侵入してローマ皇帝を捕虜にした。
  • (3) ホスロー1世はトルコ系遊牧民の突厥と結んでエフタルを滅ぼした。
  • (4) マニ教はゾロアスター教から派生し、ササン朝で国教として保護された。
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解答

(1) ○ (2) ×「エジプトに侵入して」→「シリアに侵入して」 (3) ○ (4) ×「国教として保護された」→「ゾロアスター教聖職者の反発で弾圧された」

解説

(2)について:シャープール1世がローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にしたのは、シリアに侵入した際のことです。エジプトではありません。地域を正確に覚えましょう。(4)について:マニ教はゾロアスター教の善悪二元論に仏教・キリスト教を融合したもので、一時はシャープール1世の保護を受けましたが、ゾロアスター教聖職者の反発により弾圧されました。ササン朝の国教はあくまでゾロアスター教です。

C 発展レベル

問3 C 発展 論述

パルティアとササン朝の統治方式の違いを、それぞれの特徴に触れながら80字以内で説明せよ。

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解答例

パルティアは有力貴族に大幅な自治を認める分権的な体制であったのに対し、ササン朝はゾロアスター教を国教として王権と宗教を結びつけ、強力な中央集権を築いた。(76字)

解説

パルティアは約470年間存続しましたが、その統治は各地の貴族に自治を認める分権的なもので、ギリシア文化とイラン文化が混在する多元的な社会でした。一方ササン朝はアケメネス朝の後継を自任し、ゾロアスター教の国教化によって王権に宗教的正統性を付与しました。この両者の統治方式の違いを対比的に書くことがポイントです。

採点ポイント
  • パルティアの分権的な体制(貴族の自治)に触れている
  • ササン朝の中央集権とゾロアスター教の国教化に触れている
  • 両者の対比構造が明確になっている