1-5で学んだアケメネス朝の滅亡後、イラン高原にはパルティア、そしてササン朝が興り、ローマ帝国と対峙しながら独自のイラン文明を発展させました。ゾロアスター教の国教化やマニ教の誕生など、宗教面でも世界史に大きな影響を残しています。
この記事では、アケメネス朝からササン朝までのイランの国家を通史的に整理し、ローマとの関係やイラン文明がイスラーム世界に与えた影響を学びます。
1-5で学んだように、アケメネス朝ペルシアはイラン人(ペルシア人)が建てた最初の世界帝国です。キュロス2世がアケメネス朝をおこし、メディアやリディアを征服して、ダレイオス1世の時代にエーゲ海北岸からインダス川に至る大帝国を完成させました。
アケメネス朝の統治の特徴は、各州に知事(サトラップ)をおいて全国を統治し、「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を巡回させて中央集権化をはかったことにあります。また、「王の道」と呼ばれる国道をつくり、都スサを中心に駅伝制を整備しました。金貨・銀貨を発行し、海上ではフェニキア人の交易を保護して、財政の基礎を固めました。さらに、服属した異民族に対しては寛大な政治をおこない、その法・宗教・慣習を尊重しました。
しかし、前5世紀前半のペルシア戦争でギリシアに敗北して以降、帝国は次第に弱体化し、前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされました。アレクサンドロスの死後、大王が征服した西アジアの領土は、ギリシア系のセレウコス朝に受けつがれました。
ここからが本記事の中心です。セレウコス朝の支配が弱まるなかで、イラン系民族が再び独自の王朝を打ち立てていきます。
前3世紀半ば、遊牧イラン人の族長アルサケスがカスピ海東南部にパルティア(中国名は安息)を建国しました。パルティアは前2世紀半ばにメソポタミアを併合し、セレウコス朝をシリア方面に押し込みました。
パルティアは「絹の道」(「シルク=ロード」)による東西交易で大いに栄えました。都のクテシフォンはティグリス川東岸に位置し、東西の物資が行き交う交易都市として繁栄しました。
パルティアは西方で拡大するローマと国境を接し、たびたび衝突しました。とくに前53年のカルラエの戦いでは、パルティアの騎兵がローマ軍を撃破しています。パルティアの軍事力の柱は、重装騎兵と弓騎兵を組み合わせた機動力にありました。
初期のパルティアの文化は、ヘレニズム文化の影響が強く、王は「ギリシアを愛する者」を意味するフィルヘレネスの称号を用い、ギリシア語の文化を保護していました。しかし前1世紀頃から民族意識が強まり、イランの伝統文化が復活しはじめると、ギリシアとイランの神々がともに信仰されるようになり、アラム文字で表記したイラン系の言語を用いるようになりました。この変化はパルティアの民族意識の転換を示しており、後のササン朝によるイラン文化復興の前段階とみることができます。各地の有力貴族に大幅な自治を認める分権的な体制であったことも特徴で、この分権性が王権の不安定さにもつながりました。
後3世紀に入ると王家の求心力が低下し、224年、アルダシール1世がパルティアを倒してササン朝を建てます。
①遊牧イラン人の族長アルサケスが前3世紀半ばにカスピ海東南部に建国(中国名は安息)
②「絹の道」(シルク=ロード)による東西交易で繁栄。都はクテシフォン(ティグリス川東岸)
③前2世紀半ばにメソポタミアを併合
④ローマと西方で対立
パルティアを倒して建国したのが、農耕イラン人のササン朝です。建国の祖アルダシール1世(在位224〜241頃)は同じくクテシフォンに都をおき、ゾロアスター教を国教としました。
第2代皇帝シャープール1世(在位241頃〜272頃)はシリアに侵入してローマ軍を破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜としました。また、東方ではインダス川西岸に至る広大な地域を統合し、中央集権的な体制を確立しました。
6世紀のホスロー1世(在位531〜579年)のもとでササン朝は全盛期を迎えました。ホスロー1世は内政面では税制を改革し、官僚制度を整備して中央集権を強化しました。
ササン朝は5世紀後半、中央ユーラシアの遊牧民エフタルの侵入を受けましたが、ホスロー1世はトルコ系遊牧民の突厥と結んでエフタルを滅ぼしました。その結果、ササン朝の支配する交易路は中国に達し、海の交易路もインドから東南アジアにいたりました。また、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との戦いも優勢に進め、和平を結びました。
ローマ帝国が交易に金貨を用いたのに対して、ササン朝は銀貨を用いたので、西アジアを中心として広大な銀経済圏が成立しました。
①アルダシール1世(建国の祖、在位224〜241頃):パルティアを倒して建国。ゾロアスター教の国教化
②シャープール1世(在位241頃〜272頃):シリアに侵入しローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にした。東方ではインダス川西岸に至る地域を統合
③ホスロー1世(在位531〜579):突厥と結んでエフタルを滅ぼした。東ローマ帝国との戦いも優勢に進め和平を結んだ
ゾロアスター教については1-5で学びましたが、ここではササン朝との関係を整理します。ササン朝は建国当初からゾロアスター教(拝火教)を国教に定め、国家と宗教を強く結びつけました。教典『アヴェスター』が編集されたのもこのササン朝の時代です。
ゾロアスター教の聖職者は政治にも大きな影響力を持ち、国王の正統性を宗教的に裏付ける役割を果たしました。アケメネス朝がゾロアスター教を信仰しつつも多宗教を許容していたのに対し、ササン朝ではより国家と宗教の一体化が進んだ点に注意しましょう。ただし、ササン朝は公式にはゾロアスター教を国教としつつも、領内の仏教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒などの活動を許容しており、完全な排他的体制ではありませんでした。
3世紀の宗教家マニは、ゾロアスター教や仏教・キリスト教を融合して新しくマニ教をおこしました。
マニ教は一時シャープール1世に保護されましたが、ゾロアスター教の聖職者の反発を受けて弾圧され、その結果かえって北アフリカや中央ユーラシア、さらには唐代の中国にまで広まりました。キリスト教の教父アウグスティヌスも青年期にマニ教に傾倒していました。
ササン朝領内には、431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派キリスト教の信者も多く暮らしていました。ネストリウス派や単性論派はローマ帝国から逃れてササン朝のもとで教勢を強め、そこを拠点として中央アジア・インド・中国へと広がりました(中国では「景教」と呼ばれた)。これらの宗派はギリシア語の教父著作や古典文学をシリア語に翻訳し、後代に伝えるうえで大きな役割を果たしました。また、行政能力や医学知識を買われて、ササン朝やのちのイスラーム政権下で活躍する者たちもあらわれました。ササン朝がこれらの宗派を保護した背景には、東ローマ帝国(正統派キリスト教を国教とする)と対立するなかで、異端とされた宗派を取り込む政治的意図がありました。
ゾロアスター教・マニ教・ネストリウス派のように、宗教が国境を越えて広まる現象は、近現代のグローバリゼーションによる文化伝播にもつながるテーマです。交易路が宗教・文化の伝播ルートでもあった点をおさえましょう。
ササン朝時代には、建築・美術・工芸が大いに発達しました。精巧な銀器・ガラス器・毛織物・彩釉陶器の技術や様式は、イスラーム時代へと受け継がれるとともに、西方ではビザンツ帝国を経て地中海世界に、東方では中国を経て日本にまで伝えられ、天平文化に影響を与えました。また、イラン高原では山麓の井戸を利用した灌漑施設(カナート)が整備され、メソポタミアでも農地が再開発されて、それぞれ集約農業が発展し、ササン朝の繁栄を支えました。
また、ササン朝の宮廷文化は後のイスラーム文明に大きな影響を与えました。宮廷の儀式・行政制度・美術様式などが、アッバース朝をはじめとするイスラーム王朝に受け継がれました。イスラーム世界におけるイラン文化の影響は、政治・文学・芸術など多方面にわたっています。
ホスロー1世の没後はしだいに衰えましたが、7世紀に入ると一時東ローマ帝国のエジプトや小アジアを占領するなどの攻勢に出ました。しかし東ローマ帝国の反撃を受けて政情は混乱し、新たに台頭したアラブ・イスラーム勢力にも大敗して滅びました。ササン朝の滅亡は651年ですが、642年のニハーヴァンドの戦いでアラブ=ムスリム軍に敗れ、王朝は事実上崩壊しました。ササン朝の残存勢力は唐に救援を求め、唐の中央ユーラシア進出やイラン文化受容のきっかけとなりました。
①精巧な銀器・ガラス器・毛織物・彩釉陶器の技術や様式が東西に広がった(天平文化にも影響)
②宮廷の儀式・行政制度・美術様式がイスラーム文明(特にアッバース朝)に受け継がれた
③642年のニハーヴァンドの戦いでアラブ=ムスリム軍に敗れ事実上崩壊(滅亡は651年)
| アケメネス朝 | パルティア(アルサケス朝) | ササン朝 | |
|---|---|---|---|
| 建国 | 前550年(キュロス2世) | 前3世紀半ば(アルサケス) | 224年(アルダシール1世) |
| 滅亡 | 前330年(アレクサンドロス大王) | 224年(ササン朝に滅ぼされる) | 651年(642年ニハーヴァンドの戦いで事実上崩壊) |
| 都 | ペルセポリス(儀礼)・スサ(政治) | クテシフォン | クテシフォン |
| 統治方式 | 知事(サトラップ)+「王の目」「王の耳」+寛大な政治 | 分権的(貴族に大幅な自治) | 強力な中央集権 |
| 宗教 | ゾロアスター教(信仰、多宗教を許容) | 多元的(ギリシア・イラン文化混在) | ゾロアスター教を国教化 |
| 西方の対立相手 | ギリシア諸ポリス | ローマ(共和政〜帝政) | ローマ帝国 → 東ローマ帝国 |
| 特筆事項 | 「王の目」「王の耳」、王の道 | 「絹の道」(シルク=ロード)の東西交易 | シャープール1世がローマ皇帝捕虜、ホスロー1世の全盛 |
イランの諸王朝は、アケメネス朝 → パルティア → ササン朝と約1000年にわたって西アジアの中心的な勢力であり続けました。ローマ帝国と常に対峙していたこと、そしてゾロアスター教をはじめとする宗教・文化がイスラーム世界に受け継がれたことは、世界史の大きな構造的テーマです。
アケメネス朝滅亡後、パルティアが「絹の道」の東西交易で栄えローマと対峙した。ササン朝はゾロアスター教を国教としローマ皇帝を捕虜にするなど強盛を誇ったが、642年にアラブ=ムスリム軍に敗れ事実上崩壊。その文化はイスラーム世界や天平文化に受け継がれた。
Q1. パルティア(アルサケス朝)の都で、ティグリス川東岸に位置する交易都市の名を答えよ。
Q2. 260年のエデッサの戦いでササン朝に捕虜にされたローマ皇帝は誰か。
Q3. ササン朝のホスロー1世が、エフタルを挟撃するために同盟を結んだ中央ユーラシアの遊牧国家は何か。
Q4. 642年、ササン朝がアラブ=ムスリム軍に敗れて事実上崩壊するきっかけとなった戦いの名を答えよ。
この記事で学んだ内容を、入試形式の問題で確認しましょう。
次の文中の空欄( ア )〜( エ )に入る適切な語句を答えよ。
前3世紀半ば、遊牧イラン人の族長アルサケスがカスピ海東南部に建てた( ア )は、「( イ )」(「シルク=ロード」)による東西交易で繁栄した。( ウ )がこれを倒してササン朝を建て、( エ )を国教に定めた。
ア:パルティア(中国名は安息) イ:絹の道 ウ:アルダシール1世 エ:ゾロアスター教
パルティアは「絹の道」(「シルク=ロード」)による東西交易で大いに栄えました。ササン朝はアケメネス朝の後継を自任し、ゾロアスター教を国家の柱としました。アルダシール1世の在位(224〜241頃)とゾロアスター教の国教化はセットで覚えましょう。
ササン朝ペルシアに関する次の文(1)〜(4)について、正しいものには○を、誤っているものには×を記し、×の場合は誤りの箇所を正しく訂正せよ。
(1) ○ (2) ×「エジプトに侵入して」→「シリアに侵入して」 (3) ○ (4) ×「国教として保護された」→「ゾロアスター教聖職者の反発で弾圧された」
(2)について:シャープール1世がローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にしたのは、シリアに侵入した際のことです。エジプトではありません。地域を正確に覚えましょう。(4)について:マニ教はゾロアスター教の善悪二元論に仏教・キリスト教を融合したもので、一時はシャープール1世の保護を受けましたが、ゾロアスター教聖職者の反発により弾圧されました。ササン朝の国教はあくまでゾロアスター教です。
パルティアとササン朝の統治方式の違いを、それぞれの特徴に触れながら80字以内で説明せよ。
パルティアは有力貴族に大幅な自治を認める分権的な体制であったのに対し、ササン朝はゾロアスター教を国教として王権と宗教を結びつけ、強力な中央集権を築いた。(76字)
パルティアは約470年間存続しましたが、その統治は各地の貴族に自治を認める分権的なもので、ギリシア文化とイラン文化が混在する多元的な社会でした。一方ササン朝はアケメネス朝の後継を自任し、ゾロアスター教の国教化によって王権に宗教的正統性を付与しました。この両者の統治方式の違いを対比的に書くことがポイントです。