19世紀、欧米列強の進出は東アジアの秩序を根底から揺さぶりました。清はイギリスとのアヘン戦争に敗れて不平等条約を結ばされ、太平天国の乱で国内も大きく動揺します。その後も第2次アヘン戦争(アロー戦争)、日清戦争と敗北が続き、改革の試みは挫折を繰り返しました。一方、日本はペリー来航を機に開国し、明治維新を経て急速な近代化を進めます。朝鮮もまた、日本や列強の圧力のもとで開国を迫られました。
この記事では、19世紀の東アジアで起きた激動の全体像を学びます。
18世紀の清は、ヨーロッパとの貿易を広州一港に限定していました。イギリスは茶の輸入で大量の銀が清に流出していたため、植民地インドで栽培したアヘンを清に密輸することで貿易赤字の解消を図りました。
アヘン密輸はいわゆる「三角貿易」として組織されました。インド産アヘンをインド→清へ運んだのは、東インド会社から許可を得た独立商人(カントリー・トレーダー)たちであり、かれらが得た銀はロンドンのシティに送金されました。また、この貿易にはイギリス人だけでなく華商(中国系商人)も仲介業者として参入し、アヘン流通の末端を担いました。ロンドンのシティ(金融街)はこの決済ネットワークの中心となり、イギリスの対清貿易赤字を解消するだけでなく、インド財政を安定させる役割も果たしました。アメリカ合衆国の商人も一定量のアヘン(主にトルコ産)を清に密輸しており、三角貿易は複数国の資本が絡む国際的な仕組みでもありました。
アヘンの流入は清の社会を蝕み、銀の国外流出や民衆の健康被害が深刻化しました。危機感を抱いた清朝は、林則徐を欽差大臣として広州に派遣します。林則徐は外国人商人の所有するアヘンを没収して廃棄しましたが、イギリスはこれを口実に、対等な外交関係の樹立と自由貿易の実現をはかり、1840年にアヘン戦争を引きおこしました。
イギリス軍は、すぐれた兵器と戦術によって陸海ともに清軍を圧倒し、長江と大運河が交差する要地をおさえて南京にせまりました。清の敗北の直接の原因は科学技術の格差にありました。イギリス軍は蒸気船を用いて機動力で勝り、射程と精度に優れた近代的な大砲によって清の木造帆船や旧式の要塞砲を圧倒しました。清は1842年に南京条約を締結しました。
翌年の追加条約で領事裁判権(治外法権)の承認や協定関税制(関税自主権の喪失)、片務的最恵国待遇の供与も定められました。これらは現代の視点からは清にとって不平等条約と位置づけられますが、当時の清朝側は条約による外交関係の枠組みそのものに不慣れであり、この条約がとりわけ不平等だとは明確には意識されていなかった面があります。「不平等条約」という認識は、のちの民族主義的な歴史観とともに強まっていきます。
アメリカは望厦条約(1844年)、フランスは黄埔条約(1844年)を清と結び、同様の特権を獲得しました。こうして清の伝統的な対外関係は崩れ、西洋列強が中国市場に進出する道が開かれたのです。
① 香港島の割譲、5港の開港、賠償金の支払い
② 追加条約で領事裁判権(治外法権)の承認、協定関税制(関税自主権の喪失)
③ 片務的最恵国待遇の供与(他国に与えた有利な条件が自動的に適用される)
④ アメリカの望厦条約、フランスの黄埔条約も同様の不平等条約
アヘン戦争の敗北は清朝の権威を失墜させ、社会不安が広がりました。重税、銀価の高騰、人口増加による土地不足に苦しむ民衆の不満は各地で高まっていきます。こうした民衆反乱の素地はアヘン戦争以前にもあり、1796〜1804年には白蓮教徒の乱(川楚教匪の乱)が湖北・四川・陝西などにまたがって起こっていました。宗教結社「白蓮教」を核とするこの反乱は清朝正規軍に鎮圧されるまで9年を要し、八旗・緑営の弱体化と地方の郷勇(義勇兵)への依存という構造をあらわにしました。この構造はのちの太平天国の乱の前史としても重要です。
こうした中、広東出身の洪秀全を指導者として、キリスト教の影響を受けて広西で成立した宗教結社(上帝会)が勢力を広げ、1851年に広西省の金田村で挙兵して太平天国を建てました。天王を称した洪秀全は、清朝打倒を掲げました。
太平天国軍は、各地の新開発地域や移民社会の不満を吸収しつつ急速に勢力を拡大し、1853年に南京を占領して首都としました(天京と改称)。太平天国は滅満興漢(清朝打倒)を唱え、天朝田畝制で女性も含めた耕地の均分化を理想として掲げるなど、社会改革を打ち出しました。太平天国は10年以上にわたって清と戦い、同時期の諸反乱を含めて数千万人の死者を出す大動乱となりました。
しかし、多発する反乱に対し、八旗・緑営といった清朝の正規軍だけでは対応できなかったため、漢人官僚の曽国藩が率いる湘軍や李鴻章の淮軍などの義勇軍が編制されました。また、アメリカ人ウォードやイギリス軍人ゴードンら外国人が指揮する常勝軍も太平天国の鎮圧に協力しました。こうした義勇軍の活躍と列強の支援により、1864年に南京が陥落して太平天国は滅亡しました。
① 指導者:洪秀全(天王)。キリスト教の影響を受けた宗教運動
② スローガン:滅満興漢。制度:天朝田畝制(土地均分の理想)
③ 1853年に南京を占領して天京とする
④ 曽国藩の湘軍・李鴻章の淮軍・常勝軍によって鎮圧(1864年)
南京条約の後もイギリスは満足せず、貿易拡大のための条約改正を清に求めていました。1856年、広州でアロー号という船の乗組員を清の官憲が逮捕した事件を口実に、イギリスが軍事行動を起こしました。フランスもフランス人宣教師の殺害事件を理由に加わり、第2次アヘン戦争(アロー戦争)が始まります。
英仏連合軍は広州をおさえ、さらに天津にせまって、1858年に清と天津条約を締結しました。翌年、批准書交換の使節の入京を清軍が武力で阻止したことを口実に、英仏連合軍は戦闘を再開し、1860年に北京を占領して円明園を破壊しました。清はやむなく北京条約を結びます。
同時期にシベリア進出を進めていたロシアは、第2次アヘン戦争に乗じて1858年にアイグン条約で黒竜江以北を、1860年に北京条約(露清間)で沿海州を獲得し、ウラジヴォストーク(「東方を支配せよ」の意)港を開いて太平洋進出の根拠地としました。また、1861年に清は北京に開設された各国公使館との対応窓口として総理各国事務衙門(総理衙門)を設けましたが、その組織は非公式で臨時性の高い状態にとどまりました。
ロシアは1858年のアイグン条約で、清から黒竜江(アムール川)以北の土地を獲得していました。続く北京条約(露清間、1860年)では沿海州を獲得し、ウラジヴォストーク港を開きました。この進出はロシアの太平洋進出の根拠地となり、のちの日露戦争にもつながる重要な動きです。
① 第2次アヘン戦争(アロー戦争)はイギリス・フランスの連合軍 vs 清
② 天津条約(1858年)→批准問題で紛争再燃→北京条約(1860年)
③ イギリスは九竜半島先端部を獲得
④ ロシアは第2次アヘン戦争に乗じて沿海州を獲得→ウラジヴォストーク港を開設
第2次アヘン戦争の結果、近代兵器の威力を認識した李鴻章ら漢人官僚たちは、富国強兵をはかりました。曽国藩・李鴻章・左宗棠らが中心となり、洋務運動が始まります。
洋務運動は「中体西用」(中国の伝統的な道徳倫理を根本として西洋技術を利用する)の傾向が強く、富国強兵をはかり、兵器工場の設立や西洋式教育の導入によって軍事力の近代化を進め、さらに海運会社・汽船会社の設立、鉱山開発、鉄道・電信の敷設などの近代化事業が推進されました。ただし、これらの事業は漢人官僚が反乱鎮圧の軍事費のために確保した流通税などの独自の財源を背景としていたため、中央集権ではなく分権的なかたちで進められました。
しかし、政治・社会体制の変革は進まず、この運動には限界がありました。1894年、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が発生すると、日清両国が出兵して日清戦争(1894〜1895年)となりました。清は日本軍に敗れました。
1895年の下関条約(馬関条約)で、清は以下を認めました。
ただし、遼東半島はロシア・ドイツ・フランスが三国干渉を行ったため、中国に返還されました。
日清戦争の敗北は、技術導入だけでは近代国家に対抗できないことを清の知識人に痛感させ、政治制度の改革を求める変法運動へとつながりました。
| 項目 | 南京条約(1842年) | 下関条約(1895年) | 辛丑和約(1901年) |
|---|---|---|---|
| 相手国 | イギリス | 日本 | 列強8か国 |
| 戦争 | アヘン戦争 | 日清戦争 | 義和団戦争 |
| 領土割譲 | 香港島 | 台湾・澎湖諸島・遼東半島 | なし |
| 賠償金 | あり | 2億両 | 4億5000万両 |
| その他 | 5港開港、治外法権 | 朝鮮の独立承認、工場設置権 | 北京〜天津方面の駐兵権 |
日清戦争の敗北は、清の知識人に大きな衝撃を与えました。康有為や梁啓超らは、日本やロシアにならった政治体制の改革をとなえ、清でも立憲君主制への改革を求めました。
1898年、光緒帝は康有為や梁啓超を登用し、立憲君主制への移行措置を中心に、科挙改革、学校教育の導入、行政制度改革などを実施しようとしました。これを変法運動(戊戌の変法)と呼びます。
しかし、既存の体制維持を求める勢力が依然強く、改革はわずか約100日で挫折しました。西太后は光緒帝を幽閉し、改革を終結させました(戊戌の政変)。改革派の多くは処刑・亡命に追い込まれました。
19世紀末、列強は日清戦争後の清から次々と租借地や鉄道の敷設権を獲得し、中国の分割が進みました。山東など華北ではキリスト教の布教が進み、反キリスト教の動きが広がる中、「扶清滅洋」(清を助け、西洋を滅ぼす)を唱える義和団(山東で結成された自衛組織に由来する)が、鉄道施設やキリスト教会を破壊し、宣教師や中国人信徒を殺傷しつつ勢力を拡大し、山東省から華北一帯に広がりました。
1900年、義和団は北京にせまり、各国の公使館地区を包囲しました。清は義和団の支持を決め、欧米諸国に宣戦布告しましたが、日本とロシアを中心とする8か国連合軍が天津から北京に進み、公使館地区を解放して義和団を鎮圧しました。
1901年、清は8か国を含む11か国と辛丑和約(北京議定書)を締結しました。4億5000万両の賠償金の支払いや、北京から天津方面にいたる地域の駐兵権などが定められ、清の半植民地化は決定的なものとなりました。
① 日清戦争の敗北→康有為・梁啓超が立憲君主制への改革を提唱
② 1898年:光緒帝が変法を実行→西太后が光緒帝を幽閉し改革を終結(戊戌の政変)
③ 1900年:義和団が「扶清滅洋」を掲げて蜂起→8か国連合軍が鎮圧
④ 1901年:辛丑和約(北京議定書)で4億5000万両の賠償金・駐兵権を承認
19世紀半ば、日本ではアメリカ合衆国のペリーの来航を機に、1854年に日米和親条約が結ばれました。さらに第2次アヘン戦争を背景として、1858年には不平等条約である日米修好通商条約が締結されました。この条約は領事裁判権の承認や関税自主権の欠如を含むものでした。
条約締結を契機とする政治・経済的動揺のなかで、1868年に天皇を中心とする新政府が成立しました(明治維新)。
明治政府は短期間で内乱を終結させ、内政改革により中央集権的な体制を整備しつつ、富国強兵をめざして軍事の近代化や殖産興業を急速に進めました。1889年の大日本帝国憲法の公布と翌年の議会設置により、立憲国家へと転換しました。こうした急速な近代化は、のちの日清戦争・日露戦争における日本の軍事力の基盤となります。
清の洋務運動が「中体西用」(技術のみの導入)にとどまったのに対し、日本の明治維新は政治制度・法制度・教育制度など社会全体を改革しました。これは、清が広大な領土と多民族を抱える帝国であったのに対し、日本は比較的小規模で均質な社会だったこと、また幕藩体制の崩壊によって旧秩序が一掃されたことが背景にあります。この違いを理解することは、東アジアの近代化を考えるうえで重要です。
① ペリーの来航→1854年日米和親条約で開国
② 1858年:日米修好通商条約(不平等条約)の締結
③ 1868年:明治維新→富国強兵・殖産興業で近代化
④ 1889年:大日本帝国憲法の公布と翌年の議会設置で立憲国家へ転換
欧米諸国は朝鮮に対しても開国をせまりましたが、国王高宗の摂政であった大院君はこれを拒否していました。
明治維新後の日本は、1875年に江華島事件を引きおこして朝鮮に開国をせまり、翌1876年には不平等条約である日朝修好条規(江華条約)を結び、釜山など3港を開港させました。
朝鮮では開港後、攘夷派と改革派の対立に加えて、改革派のなかでも清と日本のいずれに依拠するかをめぐる対立が続いていました。攘夷派の兵士による1882年の壬午軍乱が鎮圧されたのち、急進改革派による1884年の甲申政変は失敗し、清と日本の対立が深まりました。甲申政変後、清の朝鮮内政への関与は著しく強まり、これに対抗するために日本は軍備を強化しました。
清は朝鮮に対する関与を強化し、冊封にもとづく関係を実質的なものに変えようとしました。一方、日本は朝鮮の「独立」を主張することで清の影響力を排除し、自国の影響力を広げようとしました。壬午軍乱後、清を後ろ盾にして主導権を得た閔氏が優勢となり、甲申政変では日本の支持を背景とした開化派の反乱が清軍に鎮圧されました。この結果、朝鮮における清の影響力は強まりました。
① 1875年:江華島事件(日本の軍艦と朝鮮軍の交戦)
② 1876年:日朝修好条規(江華条約)→朝鮮にとって不平等条約
③ 条約で「朝鮮は自主の邦」と明記→清の宗主権を否定する意図
④ 朝鮮をめぐる日清の対立が日清戦争(1894年)の一因に
アヘン戦争から義和団戦争にいたる清の対外敗北の連鎖、そして日本の開国と明治維新は、「歴史総合」の「近代化と私たち」で重点的に扱われるテーマです。東アジアにおける近代化の道筋の違い(清の部分的改革 vs 日本の全面的改革)は、近代化の多様性を考えるうえでの重要な事例です。
アヘン戦争で不平等条約を結ばされた清は、太平天国の乱や第2次アヘン戦争でさらに動揺した。洋務運動で近代化を試みたが日清戦争に敗れ、変法運動も戊戌の政変で挫折した。義和団鎮圧後の辛丑和約で半植民地化が決定的となった。一方、日本はペリー来航後に明治維新で近代国家を建設し、朝鮮にも開国を迫った。(147字)
Q1. アヘン戦争を終結させた条約は( )条約で、この条約で清がイギリスに割譲した島は( )である。
Q2. 清朝がアヘンの取り締まりのために広州に派遣した人物は( )である。
Q3. 太平天国を建てた人物は( )で、スローガンは( )である。
Q4. アロー戦争の結果結ばれた条約のうち、1860年に締結されたのは( )条約である。
Q5. 洋務運動の基本方針を漢字4字で表すと( )である。
Q6. 日清戦争の講和条約は( )条約で、清は台湾・澎湖諸島および( )を日本に割譲した。
Q7. 1898年に光緒帝のもとで行われた改革を( )の変法といい、これを阻止したのは( )である。
Q8. 義和団のスローガンは( )で、事件後に結ばれた和約は( )和約である。
Q9. 1853年に日本に来航し開国を要求したアメリカの提督は( )である。
Q10. 1876年に日本と朝鮮の間で結ばれた条約は( )である。
次の空欄に適語を入れよ。
(1) アヘン戦争後の南京条約で、清はイギリスに( ア )を割譲し、広州など( イ )港を開港した。
(2) 太平天国を建てた( ウ )は、( エ )を唱えて清朝の打倒を目指した。
(3) 洋務運動の基本方針は「( オ )」であり、西洋の( カ )のみを取り入れようとした。
(4) 日清戦争の講和条約である( キ )条約で、清は朝鮮の( ク )を承認した。
ア:香港島 イ:5 ウ:洪秀全 エ:滅満興漢 オ:中体西用 カ:技術(軍事技術) キ:下関(馬関) ク:独立
(1)について:南京条約(1842年)で開港されたのは上海・寧波・福州・厦門・広州の5港です。(2)について:洪秀全はキリスト教の影響を受けた宗教結社(上帝会)を母体として太平天国を建て、「滅満興漢」を掲げて清朝打倒を目指しました。(3)について:「中体西用」とは中国の伝統的な道徳倫理を根本として西洋技術を利用するという考え方です。(4)について:下関条約で清は朝鮮に対する宗主権を放棄し、朝鮮の独立を承認しました。
次の文のうち、正しいものを1つ選べ。
(3)
(1)について:アヘン戦争(南京条約)で割譲されたのは香港島です。九竜半島先端部が割譲されたのは北京条約(1860年)です。(2)について:太平天国の乱を鎮圧したのは、曽国藩の湘軍や李鴻章の淮軍といった漢人官僚が組織した義勇軍(郷勇)が中心でした。清朝の正規軍はすでに弱体化していました。(4)について:「滅満興漢」は太平天国のスローガンです。義和団のスローガンは「扶清滅洋」(清を助け西洋を滅ぼす)です。混同しないように注意しましょう。
19世紀後半の清における近代化の試み(洋務運動・変法運動)が挫折した要因を、日本の明治維新と比較しながら150字以内で説明せよ。「中体西用」「戊戌の変法」の語句を必ず使用すること。
清の洋務運動は「中体西用」を掲げ、伝統的な政治制度を維持したまま西洋の軍事技術のみを導入したため、国家全体の近代化に至らず日清戦争で敗北した。その後の戊戌の変法は政治改革を目指したが西太后ら保守派に阻まれた。一方、日本は明治維新で政治・法・教育を含む全面的改革を行い、近代国家の建設に成功した。(149字)
この問題では、清の近代化の限界を「中体西用」という方針の問題点として説明し、戊戌の変法の挫折を保守派の抵抗と関連づけることが求められます。日本との比較では、明治維新が政治制度を含む全面的改革であった点を対照的に述べましょう。